宵霧山の麓
「今日も結局……山には登れず、か」
民宿の主から借りた双眼鏡で宵霧山を見据えながら、水羽は唇を噛んだ。外には出られても、山登りをすることは出来ない。かえってそれが焦燥感を煽り、苛々を募らせているようで、水羽は既に口内炎が三つだ。
「落ち着こうよ。どうやっても登ることは出来ないんだから、ね」
年期を放つ窓を全開にしたまま山を睨む水羽に対し、八雲は湯呑みを片手に落ち着いている。だが、その足下は揺れており、内心では止まぬ吹雪に苛立っているようだ。
「それにしても……叢雲帝二って人はどうしてこんな山奥に屋敷を? こうなった時は困るでしょうに……」
「なんでも、屋敷の建設を求めたのは帝二様のお父様だと聞いたなぁ」
「お金持ちの道楽かぁ……」
「さて、どうかな。俗世を嫌って隠居しようとしていたのかもしれないよ?」
「俗世ですか……社会の一員として生きている以上……逃れられないんですけどね」
「それはどういう?」
「俗世との関わりを断つことは出来ないってことですよ。無人島に逃げ込んだって、結局は社会に生きている人たちが作った服を着て、食物を食べ、電気を使って、加工された建築素材で家を建てているんですよ? 本気で俗世断ちを望むなら、道具も家も食物も服も自分で用意しないと」
「ははぁ、そういうことか。確かに、俗世から逃げても俗世の物を使っているね。屋敷の中には調度品やタロットカードの絵画や仕掛けばかりだったよ」
「ほら、結局そうなるんですから」
人付き合いに疲れた都会人が辺鄙な田舎へ逃げても、近所付き合いを重視する田舎ではやっていけないだろう。何しろお醤油借りてきて、の文化が残っている場所もあるのだから。
「それに加えて……宵霧山は不吉な場所なんですよね? そんな山に注目した物好きが……叢雲精巧社ですか」
「会社の始まりは明治時代と聞いた。その当時から進んでいた西洋の技術を取り入れて躍進してきた企業で、大東亜戦争では大友財閥とともに歩み、今では帝二様の死で買収されてしまった
「私でも知ってますし、叢雲精巧も相当の巨大会社でしたよね?」
「そうだね。日本の自慢出来る会社だった。でも……帝二様は病死して、一人娘の詩も……事故死だ。もう叢雲家は終わったよ……」
飲んでいた緑茶を乱暴に飲み干した八雲。露骨に眉を顰めているところを見るに、
「……八雲さん、叢雲家とは親しいんですか?」
「……俺が十五の時からお世話になっていた大切な家でしたよ」
顰めていた眉が幾分和らぎ、八雲は遠くを見るように目を細めた。
「……カメラのコンテストで俺の写真を見初めてくれたのが始まりでした。叢雲精巧が主宰だったので、審査員の中に帝二様がいたんです。そこから付き合いが始まり……詩にも会わせてくれました。病弱であまり外には出られない子でしたけど……絵を描くのが好きな良い子でしたよ」
叢雲詩は油絵を得意としていて、腕前はあったものの、自らの境遇に悲観していた所為か不気味かつ暗い絵が多かったのだが、それらの絵は八雲との交流で次第に明るくなっていった。帝二もその変化を良い兆候だとして喜び、八雲と詩は親しくなっていった。
「それだのに……彼女は死んでしまった。今でもハッキリとおぼえてる……一九九七年の十二月二十四日のクリスマスに詩は死んだ。目撃者によると、酔っぱらいのように揺れる車が信号を無視して飛び込んで来たと……」
飲酒運転。その危険さは警察官である父から何度も聞かされていたため、その脅威は充分に知っている。横断歩道でなくとも、歩行者には車の方から突っ込んで来るというふざけた殺人行為だ。
「飲酒運転のクズか……クズは逮捕されたんですか?」
「犯人は不明……今でも警察は見つけられていない。犯罪者でもない詩がどうして……不当に命を奪われなければいけないのか……」
「そうですね……奪われたほうだけが苦しめられて……奪った方は好き勝手に生きてるなんて……世の中ってやつは本当に……」
被害者はハイエナたちに個人情報を漁られ、好き放題報道されては飽きられる。加害者は人権を盾に徹底的に守られるうえに更生という幻想で手厚い衣食住を約束される。それに対して被害者たちは何も守られないうえにさらし者だ。水羽の父はそのことでよく憤りを露にしているのだ。
「だけど……その苦しみはもう清算された。罪人は等しく罰を受けたんだ……だから、これから叢雲邸で行われるのは新たな旅立ちだ。龍一さんも俺のことを待っていてくれているし……ね」
「……えっと、その龍一さんが叢雲邸にいるんですね?」
「そうだよ。今頃は……屋敷にいて、俺のことを待っていると思うよ。この吹雪だから遅れることは承知してくれているだろう。君の友達が屋敷に辿り着いたのなら、きっと看護してくれているはずだ」
「はい、そう信じたいです」
八雲の言う龍一の人柄を信じつつ、水羽は宵霧山を見据えた。
穢れが残る山に取り残された飛鳥は、今頃何をしているだろうか。生きているのか、死んでいるのかすらわからない今はどうすることも出来ないのだ。
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