第肆幕 騒擾

 時刻は二十一時。

 場所は二階の中央サロン。

 テーブルには飛鳥、加奈、英字、翔太の姿があり、バーのカウンターには遼太郎、バルコニーへ通じるフランス窓の手前には秀一が立っている。絵を描いている加奈を除いた誰もが互いの顔色を窺い、気まずい沈黙の中で探り合いをしていたのだが、

「……自分が夕子を殺したという者は挙手してくれるかな」

 一心に外の暗闇を見つめていた秀一が声をあげた。いつものようにねちゃりとした声音だが、飛鳥はそこに憤りのような影を見た。

「……呪いの言葉のつもりか? 挙手するなら最初から殺しなんざしねぇよ」

「そうだね。だけどさ……」

 不意に言葉を切った秀一は、乱暴に振り返るとテーブルに近付き、

「この中にいるんだよ! 夕子のことを殺した殺人鬼がさぁ!!」

 飛鳥たちのテーブルに拳を叩き付けながら秀一は怒鳴った。端正な顔が醜く歪み、剥き出しにされた歯は今にも折れてしまいそうだ。

「誰にだって出来るわけだろう?! 人形を吊るしたワイヤーにスピリタスを染み込ませて……食後の煙草を待っていたわけだ!」

 秀一が言うように、外国人を医務室に、夕子を部屋に運んだ後、秀一と英字と加奈を除いた全員で現場検証が行われた。不運な事故を求めていた飛鳥たちだったが、天井に残された僅かなワイヤーはただの紐であり、テーブルとイスの力を借りた飛鳥の鼻が感じた匂いはスピリタスのものだった。

「……秀一、落ち着け! 誰かの仕業であることは確かだが……わからないことばかりだろう?」

 怒った遼太郎のことを茶化していた秀一の姿はすでに無く、その態度を見た遼太郎は振り返らずに鼻を鳴らした。

「いざとなれば人は慌てるんだよ、おぼっちゃま。自分はいつでも冷静沈着になれると思ってたのかい?」

「遼太郎……お前ぇ!!」

 その嫌味に対して秀一は、今までの彼とは思えないほど過剰に反応し、背中を向けたままの遼太郎に掴み掛かった。

「なにしやがる!!」

 秀一の手を振り払おうと立ち上がった遼太郎の頰に拳の一撃が入り、

「……上等だ! 病院送りにしてやらぁ!!」

 口から血を吐き捨てた遼太郎は秀一の腹に蹴りの一撃を与え、怯んだ彼の頰を狙って拳を繰り出すが、それを躱した秀一は遼太郎の腹に飛びかかった。カウンターのイスとともに床へ倒れた遼太郎。そのまま馬乗りになった秀一は、そのイスを掴み――。

「二人ともやめろ!! そんなことしてる場合か!」

 遼太郎へ振り下ろされそうになっていたイスを掴んだ翔太はそれを取り上げ、

「お前ら、この状況でさらに死体を増やすつもりか!!」

 屈強な体躯と力で秀一を引き離した翔太は、顔を真っ赤にしたまま遼太郎を叩き起こした。怒りに任せたその力は凄まじく、引き離された秀一の身体はカウンターに叩き付けられた。

「喧嘩しても意味がないだろうが! 天音の冥福すら祈れていないんだぞ!」

 舌打ちする遼太郎、かぶりをふる秀一、その双方に睨みを飛ばした翔太は、二人を席に座らせた。互いに睨み合いはあるものの、二人はそれ以上言い合うことを止めた。

「……そうだね、夕子のことを祈ってもいないし……」

 力無く囁いた秀一を一瞥した遼太郎は、ようやく落ち着いてくれた二人に感謝しつつ、自身もイスに腰を下ろした。

「……パニックを起こしたくなる気持ちはわかる。俺だって死を間近にすれば慌てる。だけど……そんな状況だからこそ落ち着く必要があるだろう」

 声音は秀一たちに向けたものだが、それは自分自身に言い聞かせているものでもあり、翔太は小声でもう一度言い聞かせた。

「そっ……そうですよ、こんな状況だからこそ、喧嘩なんてされたら事態は悪化しますって……」

 翔太の言を肯定した英字は秀一の横へ向かった。

「……悪かったよ。遼太郎にもね」

 慰めに来てくれた英字の肩を叩いた秀一は、不機嫌なまま煙草を吸い始めた遼太郎にも声をかけた。それに対し、遼太郎も眉を顰めることなく片手をあげた。その光景に安堵した飛鳥は、ビリヤード台の横に置かれたグランドピアノを見た。

「あの、天音さんの冥福を祈るなら……バッハ――G線上のアリアを弾けますが」

「驚いた、海堂さん、楽譜無しでかい?」

「はい、ピアノには……それなりの心得がありますので」

「そうか……なら、天音のために頼むよ」

 飛鳥は頷き、手入れされていることを告げる綺麗なグランドピアノに向き合った。脳内の引き出しから、暗記したアリアの楽譜を見つけ出すと、自動的に指が鍵盤の正しい位置に置かれた。第二の殺人が防がれたことで安堵した気持ちが口走ったことだったが、どうにか弾けそうだ。心の中で大いに安堵し、翔太に向かって頷いてみせた。

 それを確認した翔太は、やおら天井を仰ぐと静かに息を吐いた。

「それじゃあ……天音夕子に対して黙祷を」

 その言葉に秀一たちは目を閉じた。

 吸っていた煙草を消して目を閉じる遼太郎。震える両手を合わせて目を閉じる英字。スケッチブックを抱いたまま目を閉じている加奈。肩を落とし、目を強く閉じている秀一。俯いたまま動かない翔太。

 一抹の不安を抱きつつ、脳内の楽譜を辿り、間違えないように最大限の気を遣いながら指を動かす。脳内の楽譜を辿る為に目を閉じたかったが、この状況で目を閉じると、どうしても夕子の死に様が脳裏をよぎるため、控えざるをえなかった。

 そうして演奏に不安を抱きながらも、飛鳥は五分間の演奏を終えた。

「ありがとう、海堂さん。みんな……少し落ち着けただろう?」

「ああ、悪いね……みっともなかったよ」

 秀一は眉間を押さえながら、かぶりをふった。その言葉と態度にねちゃりとした不快さはなく、そのままでいれば多少はマシに見えるのに、と飛鳥は思った。

「今なすべきことは……喧嘩なんかよりも夕子を殺す――いや、偶々あの席に座ったのが夕子であって、僕や遼太郎、飛鳥ちゃんや英字が死ぬ可能性はあったわけだ。工作を施した犯人以外はね」

「ああ、そうだな。さっき遼太郎と確認してみたが、スピリタスは厨房のストックに無かった。ということは、俺たちの中の誰かが遼太郎のスピリタスを盗んで紐に染み込ませていたというわけだな」

「いつ盗んだんだよ。スピリタスが減ったことに気付いたのは夕食の時だし、それまでスキットルは鍵を閉めた部屋の中だぞ」

 夕食の楽しみとしてスキットルをとっておいたらしく、手に持った時に軽いことに気付かなかったのかと指摘されたが、内心興奮していた所為で気付きもしなかったという。

「でも……犯人が飯島先輩なら簡単ですよね」

 下を向いたままの英字が、責めるような口調で言った。まだ酔いとショックが抜けていないのか、垣間見える表情は青い。

「バカ言うな。スピリタスの時点で俺に疑いが向くのは必然だろうが。殺害予告を出して殺すなら、容疑を向けられる可能性は排除するだろ」

 遼太郎の言うことは尤もだ。彼に監視が付くようなことになれば、もう誰も殺せないのだから。

「だが……お前の言うことが確かなら、誰も部屋には入れない」

「入れる奴がいるだろうが……マスターキーを自由自在に扱える年寄りが、さ」

 秀一たちの脳裏に浮かぶのは、マスターキーを操る榊原龍一の姿だ。だが、その姿が現実になるには足りないものばかりだ。

「でも……榊原さんが僕らを狙う理由は何なんですか? 初対面ですし……外国映画みたいに誘い込んだ若者をミンチにしてるってわけじゃ……」

「まぁ……外国は広いからそういうヤバい連中もいるだろうが、さすがにアルバイト募集で獲物を選びはしないだろうさ。それに……榊原さんが犯人だとして、遼太郎のスキットルがスピリタスだということはいつ知ったんだ? 公に飲んではいたが、中身の話はしていないんだろう?」

 遼太郎の頷きを見、翔太は龍一の関与を否定する。

「榊原さんの関与は疑わしいな。二つの玄関も厨房の裏口も調べたが……濡れた痕跡は無いし、エントランスにボートを隠すことは不可能だ。老人が極寒の湖を泳いで……なんてことも無理だろう」

「でもドクター……その説に異論ってわけじゃないが、どうして彼は今日姿を見せなかったと思う?」

「そうですよね……仕事一筋って感じの人だし、飯島先輩と約束したのなら、絶対来るはずですよ」

「それなんだが……遼太郎」

「……さっき言っただろうが。あの場所に行くなら全員だ。俺が行ってもいいが……それはお前らも嫌なんだろう?」

「そりゃあ……というか、言い出したのは飯島先輩ですよ? 疑心暗鬼になるから誰も榊原さんの所へ行けませんよ……」

「……仕方ない。件の外人と海堂さんには残ってもらって、全員で行こう」

「だからよ……外人はともかく海堂も容疑者の一人だ」

「おいおい……行きずりの少女が殺人事件を起こすか?」

「……女帝の部屋を選んだ天音が死んで、女帝人形も消えたんだ。見立てのつもりか何か知らないが、犯人は間違いなく異常者だ。常識で判断していたら好き放題にされちまう」

 遼太郎の視線が刺さるも、飛鳥はそれを正面から受け止めた。今朝もしたやり取りだし、飛鳥に全員を殺す動機も無ければ何もしていない。

「私は何もしていません……そう言っても信じてくれませんよね?」

「わかってるじゃねぇか」

 満足げに笑った遼太郎は、新しい煙草を取り出した。

「よく吸えますね……」

「吸わなきゃやってられねぇよ」

 当ても無く彷徨う煙を睨んだ英字は、天井を見上げている秀一を見た。

「……先輩、これからどうしますか? 三十万のアルバイト、なんて浮かれていられなくなっちゃいましたよ……」

「……わからない。電話は直らないし、外は歩けない吹雪だし……僕らの中か外に殺人鬼がいる最高の状況だ」

「そうだな……人生最高の状況だ」

 笑えない冗談に対して反応した翔太は、頷いた秀一と顔を見合せて笑い声をあげた。どことなく箍が外れた狂笑で、それに釣られて英字も笑い始めた。

「あの……クスリなら他所でやってもらえませんか?」

 その狂笑に眉を顰めた飛鳥は、三人の年上たちにそう告げた。

「ふふ、クスリ……ね。あれば楽になれるかな?」

「しっかりしてくださいよ……! スティレットの予告が現実なら、皆さん平等に狙われているんですよ!?」

「……そうだよな。秀一、笑えない冗談はよしてくれ……」

 かぶりをふり、己の頰を両手で叩いた翔太は、

「……とにかく、榊原さんを除いた外部との連絡は不可能、夕子殺しの犯人は榊原さんや海堂さんも含めて全員平等、手口は見立てとして考えて良いということだな……?」

「あの外人さんにはどう説明しますか……?」

 顔を引きつらせたままの英字が言った。それには全員の視線が追従し、一心に翔太へ向けられた。

「ありのまま説明するしかあるまい。俺たちの中に犯人がいようといまいと……目撃者は殲滅だろうからな」

「それなら屋敷を燃やせばいい。だのに……犯人は殺害予告かつ屋敷の物に工作までして殺しにきたんだ……。ミステリの女王に倣って一人一人殺していくつもりなら……僕らに相当の怨みがあるのか、或は殺人遊戯でもしているつもりなのか……」

 吸っていた煙草を苛立たしげに潰す秀一。そんな彼を見、英字は声を荒げた。

「そんなぁ……僕は怨まれるようなことしてませんよ……!」

「英字、大層な理由があればいいってもんじゃないけど……苛々したからって人を殺すようなクズは山ほどいるよ。殺す理由も殺される理由もある意味で単純になった時代だからね」

「色んな女性を漁ってる先輩ならともかく……何で僕まで狙われなくちゃいけないんですかぁ……!」

 そう言って頭を抱えた英字は、小さな声でブツブツと恨言を続ける。そんな彼とは裏腹に、冷静を取り戻した秀一は言う。

「さて……これからどうしようか。互いを見張る意味も込めてこのサロンで生活するかい? ミステリなら集団行動をしないと殺されてしまうからね」

「先輩、その集団行動中に犯人は天音先輩を殺したんですよ? もし小説みたいに僕らの殲滅を狙っているなら……犯人はあらゆる手を用いて僕らを殺すつもりです。見張りを立てて順番に眠っても……それを躱して殺す方法を考えていたはずですよ……!」

 集団行動なんて無意味だと英字は主張する。風呂やトイレは必ず一人になるし、二人行動をしても、相手が信用出来ない今は集団行動も出来ない、というわけだ。

「だが……部屋に立て篭っても意味はあるまい。部屋でトイレを済ませるつもりなら可能かもしれないがな」

「なら部屋にバリケードです! もう三十万も弁償も知りません……人が殺されているのに、家の管理なんて出来ませんよ……!」

 英字は声を荒げたままテーブルを叩いた。その光景に驚く翔太たちだが、内心誰よりも驚いたのは秀一だ。幼なじみゆえに色んな顔を見てきたが、こうして苛立ちを露にしている英字など滅多に見たことがないのだ。

「……犯人を利する気がするけどね」

「それは俺も同感だ……このまま集団行動で犯人を牽制した方が良いと俺は思う」

 腕を組んで頭を捻る翔太を一瞥した英字は、唇を噛んだまま立ち上がると、

「坂本先輩……ずいぶんと先輩や僕のことを信用してくれてるみたいですね。こう言っちゃなんですけど……僕らはただ同じ大学へ通う他人同士だ。こんな状況になった今でも……背中を見せることが出来るなんてある意味驚嘆ですよ」

 かぶりをふりながら辛辣を口にした英字は、何も言い返さない翔太たちに背中を向けてサロンから出て行った。

「ふん。ずいぶんなことを言われたな、ドクター」

 足を組みながら煙草を吸っていた遼太郎はそう言うと、席を立った。

「おい、お前も一人になるつもりか?」

「そのつもりだ。信用に関してはあいつが言ったことに分があるぞ。俺たちは別に仲良しグループじゃないからな」

「殺害予告だと最初に口にしたのはお前だろう? 一人になった奴はミステリでは必ず死ぬ」

「そうだな。だが、俺は一人にならせてもらうぜ。自分の身は自分で守るさ」

 肩をすくめた遼太郎は、バーからいくつかの酒瓶を連れてサロンから出て行った。

「ふぅ……見事に離散だな」

 静かに閉められた扉を見、翔太は溜め息を連れて言った。その声音には疲れがはっきりと感じられる。

「信用……か。ドクターは僕を信用してくれるかい?」

 その問いに対し、翔太は少々の間を開けて口を開く。

「……どうかな。お前のことを幼少期から知っているなら信用出来ると思うけどな」

「……そうか。まぁいいさ。こうして離散してしまったんだし……今夜のところは解散しようじゃないか。件の外人さんについても明日にしよう」

 もう疲れたよ、と秀一は付け加えた。その言葉を受けて、飛鳥も小さく目を擦った。慣れぬ環境と見知らぬ恩人たちに加え、行きずりの外国人と殺人事件だ。冷静かつ疲労を見せない人がどうかしているような状況だ。

「……今夜は仕方ないか。海堂さん、あの外人さんの情報は?」

「あっ……えっと、とりあえず今は安静にしてもらってます。部屋へ帰る前に医務室に寄って、家のことと明日のことを話そうと思ってます」

「そうか、任せてもいいかな? 明日の九時頃にでもここで自己紹介してもらおう」

「伝えておきます」

 頷いた飛鳥を見、翔太は戸締まりを厳重にするよう皆に念を押した。それに関しては誰からも異論はなく、二十二時四十三分にその場は解散になった。

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