鏑矢 4

 時刻は十九時三十分。

 吹雪は相変わらずで、初日と同様二日目の夜も外の様子はわからない。英字が持って来ていたラジオも役に立たず、秀一たちは文字通り世間との繋がりを断たれてしまっていた。とはいえ、スティレットの不吉を除いて危機感を抱かせるようなことは起きておらず、屋敷の管理にも異常は出ていない。それにもかかわらず、

「遼太郎、榊原さんは昼頃にこっちへ来ると言っていたんだね?」

 加奈が手作りしてくれたカレーを口に詰め込みながら、秀一は遼太郎に声をかけた。

「そう言っただろうが……」

 場所は大食堂。昨夜とは違い、もうキャンドルを頼りにした照明ではないため、あからさまに不機嫌を主張する遼太郎の顔もはっきりと見える状態だ。

「ふむ、あの人の感じからすると約束の放棄は似つかわしくないね」

 夕食の話題は、龍一が屋敷に顔を見せに来なかったことだ。遼太郎はエントランスに加え、西館と東館の一階客室前廊下の最果てに位置する正面玄関を往復しながら到着を待っていたのだが、夕食を求めて各々が集まり始めたこの時間まで龍一が姿を現すことはなかった。

「単純にボートが故障したんじゃないか? 電話が不通になったから連絡の取りようがないし、歩くにもこの雪だ……年齢もあるしなぁ」

 相変わらずの楽観論だな、と翔太のやや赤い顔をねめつける遼太郎。

「僕もボートの故障に賛成したいけど、整備は自分の仕事だって榊原氏は言っていたしなぁ……年齢もあるから最悪の結果を想像してしまうよ」

 秀一の言葉に、飛鳥の脳裏には龍一という知らない老使用人が倒れている姿が思い浮かぶ。

「確か……温度の変化が激しいと交感神経……が刺激されて心臓に負担がかかるようなことを聞いた気がします」

「……だそうだ。でもそれで心臓にダメージを受けて倒れるのは心臓病持ちだろう? もしも榊原氏がそうなら、そもそも雪山での仕事を辞めてるだろうさ」

 確かめに行こう、とは誰も言い出さない。屋敷内にボートは無く、玄関から外に出ても、猛吹雪によって要塞と化した宵霧湖を半周するなんて誰も出来ないからだろう。

「まぁ……何か起きていたとしても確かめられないし、榊原氏が死にかけていても助けなんて呼べないよ。残酷だけど、そうやって割り切るしかないね」

 秀一の言う通りだ、として英字は熱心に頷く。

「でも吹雪が弱まった可能性を考慮して、遼太郎は支度しておきなよ。いつでも榊原氏の所へ行けるようにね」

「言われなくてもわかってる」

 ふん、と顔を背けた遼太郎は、カレーのおかわりを求めて席を立った。

「奴さん、気が小さいね」

 厨房に消えた遼太郎の背中を見ながら、秀一は楽しそうに英字へ耳打ちした。

「聞かれたら怒られちゃいますよ〜?」

 英字の方もケラケラと笑う。その気持ちは飛鳥にもわかる。周囲を威嚇するような、或は自分を強く見せようとする輩こそいざという時は脆い。確かに遼太郎が怯える姿は想像するとおかしい。

「どう足掻いても屋敷からは出られないんだ。ドン、と構えているしかないだろう」

 ワインを嗜んでいるからか、翔太の顔はご機嫌だ。遼太郎へのちょっかいを咎めようとしないどころか、あまり食が進まない夕子のグラスにワインを注ぐ始末だ。

「坂本さんって酒飲みなんですか?」

 横でニコニコしている加奈に訊いてみた。ちなみに彼女の手前にはワインではなく、ブランデーがある。

「そうだよ〜アルコールでご機嫌な人になるの〜」

 加奈は満面の笑みを連れてブランデーを嗜む。

 未成年の飛鳥、食が進んでいない夕子を除いて今夜は誰もがアルコールによって浮かんでいる。英字ですら顔が赤く、笑みのまま秀一や翔太にアルコールを振る舞っている。戻って来た遼太郎にすらご機嫌だ。

「飲んでます〜? アルコールは知恵の実を得た人類が発明した偉大な命なんですから〜」

 アルコールの量が進み、英字の顔と輪郭がますますと緩んでいく。サークルの飲み会で一気コールを受けたら急性アルコール中毒を起こす典型的なタイプだろう。幸いにも、秀一も翔太も遼太郎も一気コールというバカげた行為はしていない。酔っても人間性を失ってはいないようだ。未成年の飛鳥はそう思う。

「そういえば飯島先輩〜スキットルに何を入れてるんですか〜?」

「ああ? 酔ってんのかよ、お前……」

 多少の酔いは見えても、遼太郎はいつでもアルコールを摂取している。そのため、英字

のようにデロデロにはならないが、悪い目付きがさらに悪くなっている。

「お前みたいに耐性がない奴は飲めねぇもんだ。何てったってアルコール度数96だからな」

 アルコールの度数とは何だろう。飛鳥は静かに首を傾げたが、誰も気付いてはいない。

「ほほう? スキットルの中身はスピリタスだったのか」

「知ってるのか。さすがだな、アル中なだけあるぜ」

「そいつは直飲みじゃなくて割るものじゃないのか?」

「俺みたいな通は直飲みするんだよ」

 通であることを自負する遼太郎はスキットルを開け――中身を見ると眉を顰めた。

「……誰か飲んだか?」

 眉を顰めたまま、遼太郎は中身をグラスに注いだ。その量は雀の涙で、グラスの底を少々満たした程度だ。

「自分で飲んだんじゃないのかい? 忘れるのはよくあることだろう?」

「一週間の滞在を見越して計画的に飲んでいたんだ。半分以上あったはずなのによ……」

 遼太郎はそう言いながら秀一を睨みつけた。この中で他者のものをくすねるのは彼ぐらいだという意味なのだろうが、秀一の方は涼しい顔のままかぶりをふった。

「スピリタスに興味はないよ。それに、人が飲んでいるものを盗むほどお金に困ってはいないさ」

「うわっ……嫌味ったらしいですね〜」

 怒る遼太郎を無視して英字は秀一に噛み付いた。アルコールの所為かずいぶんとテンションが高くなっている。その光景を舌打ちで迎え撃った遼太郎は、スピリタスを一気に飲み干した。

「スピリタスは確か火に過剰反応するんだったよね? もう煙草を吸ってもいいかな、遼太郎?」

 好きにしな、とジェスチャーされた秀一は、胸ポケットから取り出した煙草をくわえた。それを欲しがった英字と翔太にも渡し、男三人は食後の煙草を楽しみ始めた。

「……私にも頂戴」

 黙ってカレーを食べていた夕子は、秀一に手を伸ばした。その下にはまだ半分以上残されたカレーが置かれており、英字が注いだワインにも手を出していない。昨夜の服に加えてスティレット以降、夕子が塞ぎ込んでいることは飛鳥にもわかっていた。

 そういえば……入って来る時に足下がふらついてたけど、どうしたのかな。

「夕子、塞ぎ込むのは肌に良くないよ」

「……うっさい。さっさと煙草」

 不機嫌なまま煙草を一本抜き取った夕子は、乱暴な手付きでそれに火をつけた。

「……もう、何でこんなことに」

 愚痴る夕子に対し、席を立った秀一は彼女の肩に手を置いた。彼は気取ったスーツを連れて、夕子に顔を近付ける。

「夕子は色々と気にし過ぎなんだよ。もう少し物事を楽観的に受け取らないと、綺麗な顔に皺が出来ちゃうよ」

 秀一の手を払い、夕子は煙草の煙をくゆらせた――。

 その瞬間、人形を吊るしていたワイヤーが火を纏い――人形は構えていた剣の重さに耐えられず台座から飛び出し――その剣は怒号を連れて夕子の胸を貫いた。

「えっ?」

 飛鳥は何が起きたのかわからないまま、夕子の胸から吐き出された血と肉片をその身に浴びた。

 あまりにも突然の光景に誰もが理解を遅らせ、

「うっ……うわぁあぁぁぁああああー!!!」

 いの一番に悲鳴をあげた英字はそのままイスを連れて倒れ込み、

「消火しろ!! 遼太郎、厨房の消火器を!!」

 イスを蹴飛ばした翔太は、ワイヤーから絨毯へ飛び降りた炎に向かって飛びかかり、脱いだ上着を必死に叩き付ける。

「夕子……? 夕子……!!」

 剣を手放した人形に押し倒されていた秀一は、切っ先からテーブルを伝って滴り落ちる夕子の血を見――人形を押しのけて彼女の身体に飛びついた。口と胸から押し出される血で汚れる服のことなど意に介さず、剣を胸から引き抜こうとするが、その手を遼太郎が阻む。

「馬鹿野郎! 抜くな!」

「どうして!」

「抜いたら出血多量で死ぬぞ!」

「だけど……このままでも夕子は死ぬ!!」

 遼太郎の制止を振り切り、秀一は剣に触れた――が、その直後に夕子は口から大量の血を吐き出し、数回の痙攣の後、やがて動かなくなった。

「……夕子? おい、冗談はやめてくれよ……夕子ってば……!」

 心臓から吐き出される血もやがては止まり、秀一は動かなくなった夕子の身体に縋るが、消火を遼太郎に任せた翔太はその行為を止めさせた。

「……秀一、酷だが……彼女はもう駄目だ」

 駄々をこねる子供のようにかぶりをふる秀一を夕子から引き離し、翔太は慎重に彼女の身体に触れた。

 剣に深々と胸を貫かれた夕子の身体は力無くテーブルに突っ伏しており、テーブルクロスも床の絨毯にも血と肉片が溜まっている。それを見て英字は床に夕食をぶちまけているが、翔太は酔いと嘔吐感を振り払いながら夕子の遺体を調べていく。

「……火は消したぞ。即死か?」

 消火器を連れて遼太郎は翔太の顔を覗き込んだ。

「……そうだろうな。痛みを感じるよりも脳が現状を理解しなかっただろうな」

「……それは幸運だな。羨ましい死に方だぜ」

 かぶりをふった遼太郎を一瞥した翔太は、もう何も見えない夕子の双眸を閉じてやった。

「どうするよ、このままにしておくってわけにはいかないだろ」

「……事故ならそうしたかもしれないが、ここは殺人現場だ……」

 見上げた視線の先にあるのは、黒焦げたワイヤーの残骸だ。

 テーブルに置いていた綺麗なタオルを夕子の顔に被せた翔太は、唸るような長い息を吐き出すと、やがて力無くイスに座り込んだ。その衝撃でイスが倒れかけたが、翔太は気にすることなく深呼吸を繰り返し、

「ここから出よう」

 と、翔太は天井を見上げた。

「俺が代表になって榊原さんの所へ行って来る」

 顔に付いた血を拭っている飛鳥を一瞥し、翔太は外の様子を確認した。

「おい、よろしく御願いします、で行かせると思ってるのかよ」

「……どういう意味だ」

 消火器を部屋の隅に置き、遼太郎は翔太の視線を正面から受け止めながらイスに腰を下ろした。腕と足を組み、挑戦するような瞳で翔太を睨む。

「簡単だよ。てめぇで言っただろうが、ここは殺人現場だってな。お前が天音殺害の工作をしたなら、ここの電話線だけじゃなく、榊原の小屋にも工作を施すだろうからな」

「なんだと……?」

 翔太は引きつっていた顔をさらに蒼白させ、全身を震わせながら遼太郎を睨みつけた。

「どうして俺が天音を殺す!? プライベートで彼女のことなんて何も知らないんだぞ?!」

「可能性なんざいくらでも探せるからな。本命を殺すための目くらましって可能性もあるし、お前だって夕子のことを気にしてただろう? おぼっちゃんと破局したなら、俺の女になれって言い寄ったんじゃないのか? それを断られて逆上し――」

「貴様……!!」

 猪のように遼太郎へ掴み掛かる翔太。今にも彼を殴り倒してしまいそうな翔太を見、飛鳥は止めようと席を立ち――。

 ……ン! ド……! 

「……物音?」

 飛鳥は動きを止め、耳をすませた。

 ド……ドン! ドン……ン!

 どこからか聞こえてくる物音に気付いた飛鳥は、

「あのっ……静かに……!」

 一触即発の二人を叱り、飛鳥は叩くような乱暴な音を探して室内を彷徨い――。

 ドン! ドンドン! ドンドン!!

「窓からか……?」

 飛鳥に叱られ口を閉じていた遼太郎が声をあげた。遼太郎を突き放した翔太は、窓へ近付く飛鳥を制止し、彼女に代わって恐る恐る窓へ近付いた。

 分厚いカーテンの所為で、外の様子はわからない。野生のクマが獲物を求めて暴れている可能性も、山に巣くう兇悪な人間が暴れている可能性も考えられるのだ。

 カーテンににじり寄った翔太は飛鳥へ頷くと、勢いよくカーテンを捲り上げ――。

「なっ……何だ!?」

 捲り上げた先に現れたのは、必死の形相で窓を叩く男性――蒼い瞳を持つ外国人だ。

「……開けてあげないと!」

 飛鳥は反射的に駆け出し、翔太を尻目にフランス窓の鍵を開けた――と同時に外国人は魚のように室内へ飛び込んで来た。それを追いかけるようにして雪も続々と室内に入り込んで来たため、飛鳥は慌てて窓を叩き閉めた。

「外人がこんな場所で何してやがんだ……」

 倒れ込んだ外国人は荒い息遣いのまま動かず、やがて言葉にならないうめき声を吐き出し始めた。そんな光景を呆然と見ていた翔太だが、外国人がびしょ濡れの手袋を外したのを見、

「いかん……! 凍傷だったら危険だ!」

「これ〜使う〜?」

 いつの間にかたくさんのタオルを持って来た加奈。差し出されたタオルの山を掴んだ翔太は外国人にタオルを渡し、

「海堂さん、カイロは使ってますか?!」

 そう訊きながら、翔太は自らが使っているカイロを服の中から取り出した。飛鳥もそれに倣い、使っているカイロを彼に手渡した。

「ありがとう。ほら、使ってくれ」

 外国人にカイロを渡し、

「加奈、厨房からお茶を頼む! 海堂さんは俺と一緒に彼を煖炉の側へ運んでくれ」

「わかりました」

 震えの所為で満足に動けない外国人に手を貸し、彼を煖炉の手前へ運ぼうとした飛鳥だが、凍傷の患部を急に温めるのは危険だとして翔太は僅かに離れた場所で彼を下ろすと、防寒の役目を終えた服を脱がし始めた。

「あの……凍傷を警戒しての措置ですから、安心してください」

 飛鳥は翔太の意図を英語で説明した。それで心から安堵出来たのか、外国人は英語で感謝を繰り返した。そんな外国人を見、翔太は飛鳥にそっと耳打ちした。

「……天音のことに気付かないうちに医務室へ連れて行ってくれないか?」

「あの……天音さんの遺体は……」

「こっちで何とかするが……もうこの部屋は使えないな」

 翔太へ頷き、飛鳥は血を拭っていたことに安堵しつつ、震える外国人を連れて医務室へ向かった。

「はぁ……何なんだよ、一体……」

 飛鳥と外国人の背中を見送った翔太は、絶えず続く緊張と不安にかぶりを振りながら遼太郎を呼んだ。

「天音を部屋に運ぶ……」

「警察なんか来やしねぇからな。保存なんて無駄だな」

「それもあるが……正直、これ以上この光景に耐えられそうにない」

 剣を抜き、夕子の遺体を部屋へ運ぶことを秀一に告げ、翔太は遼太郎とともに彼女の身体に触れ――。

「……お前がやれよ」

 言い出しっぺだろ、と遼太郎の視線が刺さり、

「……わかったよ。頼むからちゃんと固定していてくれよな」

 頷いた遼太郎を信じ、実戦用だと思われる剣の柄を握り締める――が、ヌメリとした感触と骨が砕ける脆い音に襲われた翔太は、腹の中で決壊した夕食をその場で吐き出してしまった。

「おい……やると決めたなら覚悟してくれよ……!」

「すまん……医者や救急隊員に頭が下がるよ」

「しっかりしてくれよ、ドクター」

「わかってる……もう、大丈夫だ」

 嘔吐物で汚れた口と手を加奈から渡されたタオルで拭い、翔太はもう一度柄を握り締め――骨と肉の断末魔を連れて剣を引き抜いた。吐き出された黒い血が床と翔太を染め、その光景を見ていた英字は再び嘔吐してしまった。

「……加奈、悪いが英字を心配してやってくれるか?」

「わかった〜」

 子供のように頷いた加奈は、テトテトと英字の側へ向かい、タオルや言葉で彼の面倒を見始めた。

「動じてない、か……女性って生き物は強いな」

 テーブルクロスで夕子の遺体を包み、

「……あいつと海堂が異常なだけだ。並の女なら放心だろうよ」

 動かなくなった秀一の背中を一瞥した遼太郎は、翔太とともに夕子の遺体を抱えて大食堂を後にした。彼女が揺れるたびに、その綺麗だった身体からは血が滴り落ち、テーブルクロスが染まっていく。

「部屋の鍵は?」

「……天音の身体に訊いてみろ」

 両開きの扉を開けるために夕子の身体を床に下ろした遼太郎の言葉を受けて、翔太はもう恥じらうことも怒ることもない夕子の身体を弄った。

「ポケットに無い……胸か?」

 心の中で夕子に詫びながら弄った胸ポケットに女帝の鍵はあった。幸運にも剣の直撃を躱していた女帝の鍵を取り出し、彼女の身体を運ぶ。

「弁償どころの話じゃないな」

「警察沙汰さ……榊原さんは怒るだろうな」

 渡された鍵で女帝の部屋を開けた遼太郎は、机上に置かれていたランタンの全てを灯し、翔太とともに夕子の遺体をベッドへ運んだ。抉られた胸を出来るだけ見ないようにしながら、翔太は彼女の手を胸の上で組ませ、乱れた衣服と髪を整え終えるとタオルを静かに被せた。

「……戻ろう。英字や秀一を気にしてやらないとな」

 夕子に背中を向けている遼太郎の肩を叩いた翔太は部屋から出ようとし、

「無くなってるぞ……」

「うん? どうした?」

 動こうとしない遼太郎の視線は、各部屋に飾られていると言われていた人形ケース――の中身が無くなっていた。

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