穢人 3

「やれやれ……あの老婆がもう少し文明人なら良かったのにねぇ。これも世紀末の弊害かな?」

 憎たらしい老婦人とのやり取りを思い出した秀一は、隠すことなく眉を顰めて見せたのだが、

「少し雪の勢いが強くなってきましたか?」

 英字の関心は過去ではなく現在だ。視線は時計塔を探して山の中を走っているが、針葉樹たちが意地悪でもしているのか、尖塔の欠片すら見えてこない。

「まぁ……一本道だとは言われたから大丈夫だとは思うけどね」

「ずいぶんと楽観的だな、おぼっちゃまよ」

 言いたいことがある。遼太郎の声音がそう告げたため、秀一たちは彼に視線を送った。

「見てみろよ。あちらさんに黒雲だ」

 遼太郎の顎がしゃくった先に見えるのは、これからを示すかのような仄暗い雲の軍勢が渦巻いている。

「むぅ……急がないと追い付かれそうだな」

 秀一は勢力を拡大している黒雲を憎々しげに一瞥すると、勢いを増し始めた雪から逃げるように車を走らせ――。

「あっ……止めて!!」

 後部座席からの急な指示に対し、秀一は反射的にブレーキを踏みつけ――パニックの彼

とは裏腹に、車の方は雪の中でピタリと沈黙してみせた。

「何なんだい……いきなり……」

 口から飛び出そうと猛る若い心臓を押さえながら、秀一は急ブレーキの指示を出した加奈をねめつけた。だが、当の加奈は秀一のことなど意に介さず車外へ飛び出した。

「ちょっと……雪山に途中下車するような場所はないって」

 何をしているんだ、と苛立たしげにシートベルトを外した夕子は、躊躇いのない加奈の背中を追いかけて車外に出た。

「先輩、もしかしたら時計塔を見つけたのかもしれませんよ?」

「そうだといいけどねぇ。英字も見て来てくれよ」

 その指示を受けて、英字も車外へ出た。雪の勢いは強くなってきているが、歩けないほどではないし、夕子たちの姿を奪うほどでもない。黒縁眼鏡を庇いながら、英字は二人の背中を追いかけた。

「お二人とも、何があったんですか? 野生動物ならもういいですけど……」

 顔に寄り添う雪を払いながら、英字は夕子の背中に駆け寄った。何か落ちていたのか、二人ともしゃがみ込んで何かを話し合っている。

「天音先輩?」

 何をしているんですか、と英字は二人の間を覗き込み――その少女を見た。

「えっ? あの……これはどういう状況ですか?」

 英字が困惑するのも無理はない。白に染め上げられた山の中で、見知らぬ少女が雪に埋もれていれば、誰でも困惑するだろう。そんな少女の出立ちは分厚いコート、口を開けている小柄なリュック、登山には相応しくない繊細そうなブーツだ。登山客とは思えないし、地元民とも思えない。

「加奈さんが……見つけたんですか?」

「どうやって見つけたんだか……。あんたが来る前はリュックの頭しか見えなかったんだから」

 英字は加奈を見るが、彼女はその視線を意に介さず首を左右に振っている。

「手を貸してよ。車まで運ぶから」

 わかりました、と英字は少女に手を伸ばすが、

「えっと……背負うのはセクハラじゃないですよね?」

「背負ったぐらいで騒ぐならアタシが潰すから良いよ」

「はい、許可を戴きました」

 英字は夕子に手伝ってもらいながら少女を背負った。着込んでいるコートは自分のものも含めて重たいが、幸運にも少女そのものの重さは控えめだった。これなら運べますよ、と英字は人助けに酔いながら車へ戻る。

「加奈ちゃんが発掘したのは女の子か。こんな場所で……ねぇ」

 雪を払いながら助手席に戻って来た夕子に対しての一言。それに対して夕子は、

「アタシも驚いたけど息はしてる。見捨てるわけにはいかないでしょ」

「へぇ、生きてるのかい?」

「そりゃあね。それと……もう一つの目印だって言ってた流れ灯籠? それっぽい灯りが見えたよ」

「それは吉報だね。彼女にとっても」

 そんなやり取りをしている夕子と秀一を尻目に、英字は後部座席のドアを叩いた。

「ああ? 何だよ、その女」

「とにかく下りてくださいよ。彼女を乗せないといけないんですから」

 英字は翔太と遼太郎を後部座席から追い出すと、辛うじて息はしている少女を横にした。ほぼ全身が雪に埋もれていた所為で、秀一自慢の革座席は雪化粧を施されてしまった。

「やぁやぁ、雪化粧はありがたいねぇ」

 飛んで来た嫌味に対し、翔太がすかさず、

「おい、雪山で死にかけていた女性に対しての台詞か?」

「冗談だよ。彼女が僕のマイ・スゥイート・ハニーに対してしでかす最悪のことは……ゲロを吐くぐらいだろう。死臭じゃなければ甘んじて受け入れてあげるよ」

「良い心がけだぞ、秀一」

 視線を少女に向けた翔太は、死人のように動かない彼女の身体に触れた。幼少期の栄養を心配させるほどに華奢な少女だ。屈強な翔太が触れば折れてしまいそうだが、彼は気にせず手や顔色を確認していく。

「うん? 見た目に反して頑丈なのか?」

 寒い、と外から苦情を入れる遼太郎を無視したまま、翔太は自分が使っていた二つのカイロを少女の胸元に入れた。

「躊躇いないねぇ? 後でセクハラ問題になりそうだ」

「凍死するより良いだろうさ、とにかく、軽度な凍傷の兆しはあっても重傷じゃない。実に幸運な女の子だ」

 雪山で埋もれていたか細い少女が無事。その運の強さに秀一は首を傾げたが、それ以上は何も言わずに翔太の診察が終わるのを待った。

「とにかく、目的地に着いたら温かくして目が覚めるのを待とうか」

「了解だよ、ドクター」

「ドクターじゃない。登山する者ならそれなりに心得はある」

 翔太の屈強な体躯を維持しているのは、偏に登山のおかげだ。雪山にも登頂したことがあるため、怪我などにも多少の心得があるのだ。

「さて……七人がどうやって同じ車に乗り込むかな」

 開かれたままの後部座席には横にした少女以外に大量の雪が入り込んでおり、外で待つ遼太郎と英字、翔太らには満足に座れる場所が無い。

「加奈、あんたはアタシの膝においで。野郎共は英字が膝ね」

「うぇ?! 僕が膝ですかぁ?!」

「よし、英字は俺の膝に来い。余裕はあるぞ」

 車内に戻った翔太は、ポンポン、と己の膝を叩く。それに対して横にいた遼太郎はさっさと膝に乗れと怒る。

「……わかりましたよ。如何わしいことは勘弁ですよ?」

「おう。努力するさ」

 翔太が言うと冗談に聞こえない。遼太郎の嫌味と一緒に英字は翔太の膝に乗った。

「ふん。保護者姿はお似合いだな」

「そいつは光栄だ」

 遼太郎の嫌味をあしらい、翔太はカラカラと笑った。

「皆様、お揃いでしょうか? 出発しますよ、プップゥ〜」

 出発進行、と秀一の宣言で車は動きだした。そして、夕子が言っていたように、秀一にも流れ灯籠の灯りが見えた。

 道路の左右に並ぶのは、蒼い照明を吐き出す灯籠だ。雪に破壊されないよう傾斜が作られた独特な灯籠で、ガラスで囲まれた窪みの中に蒼い電球が見える。等間隔に並ぶ灯籠たちは山の頂に向かって伸び、文字通り来訪者たちを導いているように見える。

「秀一、これは件の屋敷まで続いているというやつか?」

「そうだろうね。何にせよ、日暮れと猛吹雪の前に辿り着けるはずだ」

 時計塔は見えなかったが、もう一つの目印である流れ灯籠に導かれるまま宵霧山を進み――。

「おや? 急に開けたね……」

 宵霧山の頂が近いのか、背比べをしていた周囲の山々が敗北を告げ始め、流れ灯籠とともに車を見送る木々たちの姿も穏やかになり始めたそんな中、秀一は木々の隙間から見える広大な空間に気付いた。

「流れ灯籠は広場の手前で途切れている……ということは」

 面接時に言われた通りの一本道なら、この広場はゴールということになる。ファンファーレもレースクイーンもいないことに肩をすくめながら、秀一は車を止めた。

「さて、ゴールならお屋敷が見えるはずなんだけどなぁ」

 秀一は煙草を吸いながら外に出、英字も遼太郎もそれに続いた。水場が近くにあるのか、粘り付くような淡い霧と寒さが三人の眉を顰めさせた。

「おい、秀一おぼっちゃんよ……ちゃんと話はつけてきたんだろうな? 今更だが……お前の妄想じゃねぇのか?」

「まさか。あの老人が亡霊なら、僕らは今頃死んでるさ。沼にでも飛び込まされてね」

「嫌なこと言わないでくださいよ。不吉な言霊って付きまとうんですから」

 道を探すんでしょう? と英字は浮き島のような霧の中へ足を踏み入れた。広場は既に雪の支配に下っており、歩くたびに足下はボスボスと音をたてる。

「東北でもないのにこんな雪……お金持ちってみんなこうなんですか?」

「僕は南国に家を建てたいな。ワイハとかね」

「お前はハワイが好きかもしれないが、ハワイはお前のことが嫌いだろうな」

「おやおや……酷いなぁ」

「やあ、あっち側は段差になっているみたいですよ。行ってみましょう」

 大げさに嘆いている秀一の横を抜け、英字は石垣のように連なる段差へ向かう。その足取りは軽く、濡れるズボンやブーツは二の次のようだ。

「英字、楽しそうだねぇ? もうすぐ雪を嫌悪するようになると思うけど……」

「東京じゃここまで雪なんて降りませんから……正直、雪を踏み歩くなんて初体験なんですよ」

 憎々しげに雪を振り払う秀一と遼太郎を尻目に、英字は雪を踏み抜きながら石段らしき段差へ近付いて行く。

「雪の恐怖を知らないねぇ……雪は人間の精神を破滅へ導く悪魔だというのに」

 英字の無邪気さは、遭難という危機から脱したかもしれない、という楽観から出ているものだと遠回しに非難した秀一だが、

「それはお前も同じだと思うぜ。灯籠は無くなったが、目に見える範囲に屋敷とやらは見当たらない。それだのにお前は余裕ぶってるからな」

 それは遼太郎からの指摘。

「これでも今の状況を危惧しているよ? とりあえず……無邪気な彼に従ってみようじゃないか」

 英字の背中に親指を差した秀一は、遼太郎を連れて段差に向かい――。

「皆様、御待ちしておりました」

 いの一番に辿り着いた英字が段差へ手を伸ばしたその時、秀一たちよりも遥かな石の上から声がかかった。あまりにも不意な声かけに対し、英字はその場から飛び退き、秀一も遼太郎も思わず身構えたが、

「やぁ、龍一りゅういちさんでしたか、これは失礼」

 石の上に立つ老人の姿を見、秀一は片手をあげた。

「屋敷はこちらにあります。申し訳ありませんが、こちらまで登って来ていただけますかな」

 秀一の片手に対して小さく会釈した龍一なる老人は、それだけを告げると三人の視界から消えた。

「ずいぶんと愛想のない爺だな」

「こら、彼は雇い主なんだよ」

「面接した時の人とは違うんですね」

「そうか、君たちは別の人と面接をしたんだったね」

 これは失礼、と二人にも一礼した秀一は、車で待機している夕子たちに向かって声をあげた。

 その呼び声に応え、夕子たちも雪から逃げるようにして秀一たちの許へ来た。件の少女は翔太が背負っている。

「屋敷はこの上らしい。翔太、おチビちゃんを頼むよ」

 秀一は翔太の返事を待たずに段差へ足をかけた。良く見ると、人が登れるよう階段状に削られているうえに、雪の深さが広場よりも格段に浅い。さっきまで龍一が雪掻きをしていてくれたのかもしれない。

「さて、龍一氏は彼女のことを何て言うかな」

 翔太の背中で眠っている行きずりの少女を肩越しに見、秀一は一人呟いた。引き返すという選択肢は無かった。遼太郎が指摘した黒雲の件と三十万の魅力には抗えず、連れて来てしまったが、目を覚ました時に彼女は何て言うだろうか。

 そんなことを考えながら、秀一は段差を先頭で上がりきり、自分たちを待っていた龍一と――彼の遥か背後にそびえ立つ黒い巨影と水鏡のように透き通る湖を見た。

「へぇ……これはまたずいぶんと……」

 秀一の視界が捉えた巨影は、所々が霧の所為で虫食い状態だが、それでも大正時代の建築を彷彿とさせる黒いレンガ、至る所で覗くフランス窓、装飾された柱に支えられるバルコニーの堂々たる姿は見えた。文字通りの巨大な屋敷であることは遠目からでもはっきりとわかる。その屋敷の一階には湖に沈む巨大なガラスの壁が光り、奥にはエントランスと思われる巨大な階段も見えた。

 さらに一行の目を引いたのは、屋敷を覆うようにして背後にそびえ立つ時計塔だ。こちらもレンガ作りのようだが、如何せん屋敷よりも禍々しい雰囲気を纏っている。レンガは黒だけではなく赤もあり、互いの色が波紋のように広がっているだけではなく、風化も手伝って幽霊屋敷のようだ。その頂にある文字盤の針は何故か十二時からピクリとも動いていない。

「あれが水鏡邸と件の時計塔か……水鏡の邸宅とは良く言ったもんだな」

 水面に浮かび上がる逆さの水鏡邸を見ながら、翔太はボソリと感想を告げた。

 行きずり少女を背負っているうえに、自分のモノトーンボストンバックを持った状態にも関わらず、息を切らしていない彼のクマのような体力に秀一は内心感心した。翔太と比較すると、他のメンバーは鉛筆のようなものだ。眼力だけで半端な連中を撃退する男は骨格からして違うのだろう。

「夕子、感想は?」

「あんたの家が陳腐に見えるわね。成り上がりの作品でも……月日を経れば金持ちの風格を得るってとこかしら」

 白い息を吐き出しながら、毒も吐き出す夕子。相手が誰であっても歯に衣着せぬところが、良くも悪くも彼女の魅力だ。

「ちょっと……家の人の前でそんな発言しちゃいますか?」

「構いませんよ。誰にでも初めてがあるように……今の上流たちも元を辿れば成り上がりです」

 両腕を背中に交差させたまま、龍一なる老人は言った。その声音は見た目通り嗄れており、渋さよりも冷たさの主張が激しい。

「みんな、紹介するよ。彼は榊原龍一さかきばらりゅういちさんだ。僕らの雇い主であり、僕の面接官でもあった老紳士だ」

 秀一が龍一を一目見て抱いた評価は紳士だ。皺一つ見当たらないグレーのタキシードを纏い、人形のような直立の背筋、綺麗な白髪と白髭を連れた風貌は如何にも有能な執事であることを漂わせている。

「初めまして、皆さん。私はこのお屋敷の管理を担っております、榊原龍一という者です」

 洗練された一礼を披露した龍一は、自己紹介していく夕子たちに視線を回し――。

「おや? そちらの背負われている少女は……」

「ああ、失礼。彼女に関しては僕から説明します」

 龍一の前に躍り出た秀一は、ここに至るまでの珍道中を面白可笑しく話した。その珍道中に関して龍一から特別な反応はなかったが、見るからに華奢な少女が雪の中で生きていたことに関しては反応を見せた。

「宵霧山の気性は荒いです。特に昨夜は吹雪でしたから……無事だったということが少々……」

「怪しいですか? でも……こんな場所で何を待ち伏せするんです?」

 秀一は夕子が持つ小振りなリュックを指差し、

「一応中身は確かめてもらいましたが……怪しいものは見つかりませんでしたよ。それに……」

 気を失っている所為で何も話せないこと、黒雲の所為で麓には戻れないことを続けて説明した。

「わかりました。給金の方は現当主様と相談ということにして、彼女の滞在も許可しましょう。屋敷には医務室もありますので、診断はそちらの方でしましょうか」

「どうも。それにしても……」

 秀一は龍一の顔をまじまじと見つめ、

「眼鏡を変えたんですね。あの眼鏡……やっぱり視力と合わなかったんでしょう?」

「ええ、あの後すぐに新調しました。申し訳ありません……あの時はずいぶんと失礼なことを……」

「先輩、何の話ですか?」

「ああ、僕の面接の時にね……榊原氏に睨まれてしまったんだよ。それを問い詰めたら……眼鏡と視力の相性が悪かったんだよ」

「ああ……だから睨まれたと」

「そういうことさ」

 秀一は笑っているが、龍一の皺と髭の顔から覗く双眸は鋭い。老獪という言葉が相応しいかどうかはわからないが、英字が秀一の立場であったなら、まさに蛇に睨まれた蛙という笑えない状況に陥っていただろう。

「では……皆様を屋敷へ御連れします。こちらへ」

 龍一はそう言うと、一行に背中を向けた。垂直な背中を連れた彼が向かう先には、コンクリートと木材で作られた小さなボート置き場がある。その横には、

「榊原さん、この建物は?」

 秀一が平屋の横で足を止めた。屋敷ばかりに視線が集中していた所為で、誰もその平屋に視線を送らなかった。

「ボート置き場の管理小屋です。お客様をボートで送り迎えするための役割を担う使用人の生活スペースや外部との連絡場所でもあります」

 その言葉に全員の視線が平屋に向けられた。外見はどう見てもボロ小屋にしか見えないが、そんな視線が送られることもわかりきっていたのだろう。龍一は続ける。

「外見は頼りないですが、コンクリートで補強されているので、この雪でも崩れることはありません。これから一週間は私の住居です」

「一週間の暇ですか。屋敷の管理は僕たちに任せてください。当主様も納得されているんでしょう?」

「はい。私たち使用人も歳です。いずれ屋敷は解体しますが、冬の間を放置しておくわけにはいきませんから。では……皆様をお屋敷まで導かせていただきます」

 龍一はそう言うと、沈黙のボートに向かって足を進めた。

「あれ? 榊原さん、駐車場は無いんですか?」

「……面接時に説明したと思いますが」

 聞いていませんでしたか、と龍一は目を細めて秀一を見据えた。

「申し訳ありませんが、当屋敷に整備された駐車場はありません。……まさか高級車でいらっしゃるとは」

 呆れを隠さない龍一。それに対して英字と遼太郎は同意を示した。

「素直に送迎してもらえば良かったですね」

「お前にとって高級車はお小遣いだろう? アイスバーンにしてここまでの労をねぎなってやれよ」

「……ちょっとお待ちを」

 二人からの嫌味を無視して車に駆け戻った秀一は、車を大きな木の下へ移動させた。

「雪が積もるのを少しでもって魂胆か……単純だな」

「単純ですよ。昔から」

 必死に車を案ずる秀一を見ての英字と遼太郎の台詞。遼太郎は煙草をくわえたまま秀一の醜態を笑った。

「それでは皆様、ボートへ御乗りください」

 車を満足の場所に停車させた秀一がようやく合流し、肩をすくめた龍一はボートに足を踏み入れた。その衝撃で水面は揺れ、ボートは肌荒れした船体を刹那に晒した。

「おいおい……手入れはされてるんだろうな?」

 その刹那を見逃さなかった遼太郎が声をあげた。船体の肌荒れはいざ知らず、頼りなく揺れるボートへの不安は全員が感じたことだろう。

「面白そうだね〜ボートで向かった先は見知らぬ世界でしたってね〜」

 はしゃいでいる加奈を除いて。

「ご安心を。ボートの整備は私の仕事でもありましたから」

「それじゃあ……遠慮なく」

 秀一は長い脚をヒョイと動かし、ボートに足を踏み入れた。ほら、と夕子の手を取り、その後に英字が続いた。

「いいねぇ、僕の家でもボート送迎が欲しいなぁ」

「散財だと言われるだけでしょうな」

「わぁ! 榊原さんもそう思いますよね?」

「おやおや……ドラ息子扱いは辛いよ」

 笑う英字たちを尻目に、秀一は遼太郎たちに乗船を促した。遼太郎や加奈たちはいざ知らず、大木のような翔太の乗船は不安でしかなかったが、手入れされたボートは八人の体重に耐えてみせた。

 やがてボートは龍一の穏やかなハンドル捌きに促されるまま動き始めた。屋敷にひれ伏すようにして広がる湖に音はなく、霧や雪が無ければ一行から山紫水明だと感想が飛び出してもおかしくない場所なのだが、今は取り立てて話題にすることがない状況だ。

 そんな沈黙の中、ボートの縁に追いやられた英字は揺れる水面を一人手遊びしながら口を開いた。

「雪山の水は冷たいですね。ここまで冷たいと凍りついてもおかしくないと思いますが……凍ったことはないんですか?」

「不思議と宵霧湖が凍りついたことはありません。何故か、と訊かれれば困ってしまいますが……意外にも深いことが理由かもしれませんね」

「深いんですか?」

「ええ。昔はこの湖に兇悪な大蛇が住み着いていて、若い女性の生贄を捧げていた場所だそうです」

 それを聞いて英字は飛び上がるようにして水面を拒絶した。

「……そんな怖い湖なんですか?!」

「ええ。男女の心中もあったようですし、今でも入水自殺をしに来る物好きな方もいますよ」

 自殺も他人事。龍一の発言の恐ろしさに、英字はさりげなく彼から離れた。それを横から見ていた秀一は、

「英字、物好きな自殺者はともかく、昔のやつはただの言い伝えだよ。大蛇なんて存在を本気にしているわけじゃないんだろう?」

「でも先輩……人身御供は現実にありましたよ? 言い伝えだからってバカに出来ないこともあるじゃないですか」

 英字が知っている中でも、氷海山と影追山の不吉な言い伝えは洒落には出来なかった。宵霧山を忌み嫌う老婆の件も、内心では不安だらけだったのだ。何しろ穢れが残る山だと地元民が嫌がるのだから。

「山岳信仰が盛んな日本において……山を忌み嫌うなんて、それだけで異端ですよ」

「まぁ……民族学的なことはいいさ。畢竟、科学が無能ではなくなってきたこの時代において、妖怪だ祟りだなんて前時代的なものは淘汰されていくよ」

「そうでしょうか……」

「そうだよ。人間は科学の力を用いて逢魔が時の闇を打ち払い、山に巣くうモノノケや秘境に住まうUMAも人工衛星などを用いて探せるほどの力を得た。知恵の実によって得た知恵は決して無能じゃない。科学で解明出来ないことは全て眉唾ものにされるよ。世紀末を迎えた今は……特にね」

「世紀末……予言は結局なんだったんでしょうね?」

「空から恐怖の大王だっけ? ふん。堕落的な平和を享受する日本が騒ぐには相応しい内容だ。他国からの明確な悪意や核ミサイルの先端を向けられているのに、恐怖するのは日本語訳も解釈も怪しい予言か。やれやれだね」

 現実の脅威を見ない日本国民に対する苛立ちから、秀一は煙草をくわえた。こんな時でも煙草かと英字がかぶりをふった時、

「予言の日にどうなるのか楽しみだね、と言っていたのはお前だろうが」

 少女を背負ったままの翔太の横にいた遼太郎が言った。

「毎日女を漁っては、世紀末に万歳って酒を飲んでただろうが」

「女の子を口説くイベントとして使っていただけさ。誰も予言なんざ信じていないしね」

「どうかな。実現してほしかったんじゃないのか? 世界の終わりが」

「僕はアナーキストでもないし、終末論者でもないさ」

 ふん、と煙草を投げ捨てた遼太郎は、まだ着かないのかと龍一に愚痴る。

「申し訳ありません。操作を誤って沈没でもしようものなら危険ですから」

「なら陸路でも……」

「皆様はお客様でもありますので」

「しきたりってもんは……そんなに大事なもんかねぇ」

「必要なのでしょう。今と昔では価値観も生活も違う故……飯島様のように剥落の名残とも思われる方もいるでしょうが、命と同様受け継がれて来たものですから」

「受け継がれて来たものねぇ……」

「ですが、そのバトンも終わります。この屋敷とともに……ね。さぁ、皆様、水鏡邸に到着しました」

 亡霊のように屋敷と宵霧湖にまとわりつく霧たちに見下ろされる中、秀一たちを乗せたボートはバルコニーを支える柱たちの狭間を抜け、水面と接したガラスの壁に臨んだ。

「おや? 榊原さん、上陸するんじゃないんですか?」

 秀一たちから見た屋敷の形状はコの字状で、その外側に沿うようにしてささやかな陸路が見える。宵霧湖の揺れた水面が波打ち際のように揺れ、少しでも水位が上がれば屋敷の一階は水没してしまいそうだ。

「このままガラスの壁を越えます」

 龍一はボートの勢いを弱めることなく進み――。

「やぁ……これは凄いな」

 いの一番に声をあげた秀一の言う通り、巨大なガラスの壁は自らの中心を割り、水を揺らす音以外は無音のまま退いた。驚く一行に対して龍一は何も言わないまま、ボートをガラス先のエントランスへ向けた。

「ガラスの壁が割れて船を屋敷内に通す……そんな場所があるなんて」

「面白いね〜」

 はしゃぐ加奈を横目に、秀一は煙草を携帯灰皿に潰しながらエントランスを眺めた。

 頭上には豪勢なシャンデリアが三つも並ぶ吹き抜け、宵霧湖の水を受け止める大理石の床、白い壁には松明のように揺れる蒼い照明が掲げられ、堂々たる風格を携えながら中心にそびえ立つ絨毯敷きの階段、その両脇には水瓶から永久の水をエントランスに捧げる女神のブロンズ像が立っている。ブロンズ像から始まり、照明、壁、水の流れに至るまで全てがシンメトリーになった壮麗なエントランスだ。

「屋敷内にも水を垂れ流してるのか……腐るぞ」

「水は常に循環させております。池などとは違いますので心配はありません」

 遼太郎の不安を一蹴した龍一は、一行の通過を認めて自動的に閉まり始めたガラスの壁を尻目にボートを中央階段へ寄せた。

「到着しました」

 その言葉を受けて一行はボートから下りた。濡れた靴の所為で絨毯に染みが出来てしまい、眉を顰めた夕子だが、

「お気になさらず、館内では靴のまま御過ごしください」

「おや、良いんですか? 絨毯の方もなかなかに高価そうですが……」

「現当主様は気にされておりませんが、客室の方にはスリッパが用意されております」

「ああ、それなら安心ですよ」

 よいせ、と少女を背負い直した翔太は、満足げな笑みを龍一に向けた。

「見た目は西洋風でも中身は日本風の方が良い。靴のまま家に上がり込むなんて乱暴だよ」

「生活スタイルの違いなんざ山ほどあるだろ。日本ですら県によって生活習慣の違いがあるんだからよ」

 濡れたタクティカルブーツを絨毯に押し付けながら、遼太郎はスキットルを口に運んだ。

 そんなやり取りの後ろでは、ボートのエンジンを止めた龍一が加奈をエスコートしながら階段へ渡った。フワフワした御礼を伝える加奈に一礼した龍一は、老齢とは思えないしなやかな動きで広い踊り場まで移動した。

「では、改めまして……皆さん、水鏡邸こと〝叢雲邸むらくもてい〟へよくお越し下さいました」

 深々とした一礼を披露する龍一。そんな彼の背後には、天井にまで達するほどの額縁に収められた絵画が見える。それはウェイト版のタロットカードの月であり、三日月に向かって吠える犬と狼、這い上がるザリガニ、奥に見える大きな門などが見事な陰影を駆使して立体的に見えるよう描かれている。

 その巨大な月の右には途端に小さくなった死神。左には節制の絵画がある。

「一週間の説明を……といきたいところですが、まずはそちらの女性を医務室へ運ぶことが優先ですね。では坂本様は私にご同行ください。他の皆様は……二階のサロンで御待ちください」

 龍一の背中に従い、一行は踊り場から左右へ続く階段の右手側を上がった。その先にはL字状の廊下が広がっており、階段横の壁には両開きの扉があり、

「へぇ? タロットの次はトランプのキングが施された扉か。お金持ちの趣味を前面に出していますね?」

「前当主のお父様が道楽で作られた別荘だと聞いています。おそらくタロットカードもトランプも趣味だったのではないでしょうか」

 龍一はそう言うと、ガチャリと把手を下げた。重厚であることを告げる重い音を連れた扉が露にしたのは、深紅の絨毯が敷き詰められ、翳りを追い払うシャンデリアと煖炉が煌々と輝く巨大な部屋だ。

「こちらはサロンです。管理小屋からでもこの部屋の照明は見えていたでしょう? 坂本様以外の方々はこちらで御待ちください」

 どうぞ、と入室を促された秀一たちは、高い天井にすら届くほど巨大なフランス窓と調度品の数々に圧倒されてしまい、言葉を失ってしまった。

「では坂本様はこちらへ」

 龍一は坂本を連れ、サロンの扉を閉めた。

 言葉を失ったままの秀一たちは、パチパチと猛る煖炉の前へ向かい、手袋に守られていた両手を翳した。数分間の沈黙がサロン内を包み、両手以外にも足や身体を暖めようと皆が服を脱ぎ出した時、

「凄いですね……こんなお屋敷の管理なんて……素人に出来るんでしょうか」

 自らを見下ろすシャンデリアにひれ伏しながら、英字がいの一番に声をあげた。それは自分たちを出迎えた屋敷の豪華さへの不安だ。

 予想以上の金持ちであるうえに、煖炉の頭上を彩る飾り棚には、秀一の家でも飾られていない高価な壺や花瓶が並び、その後ろでは作者不明ながらも見事な油絵で描かれたウェイト版タロットカードの正義が煖炉を守っている。さらに、

「見てごらんよ。サロンの広さは約六十畳……その中心には十人以上が座れるテーブルと小さなバーまであるよ」

 秀一の視線の先には、映画でしか見たことのない一文字のテーブルとイスが並び、その背中にはカウンター付きのバーまである。バーにはグラスがぶら下がり、カクテルやワイン、日本酒はもちろんビールも収納した特注と思われる透明な巨大冷蔵庫までもがお客のことを待っている。

「バーまであるのか……たまらねぇな」

 両手をダメージジーンズに突っ込んだまま、遼太郎はガニ股でバーへ向かった。さっそくと言わんばかりに冷蔵庫のアルコールたちを物色し始めた。

「そこまでくるとアル中だね」

 収められていたアルコールの名称を口に出しながら歓喜する遼太郎を一瞥した秀一は、部屋の反対側に位置する煖炉へ向かった。こちらの煖炉には運命が描かれている。二つの大きな煖炉のおかげか、約六十畳のサロンは暖かい。娯楽室としての機能も持ち合わせているようで、部屋の左手にはビリヤード大やチェス、ちょっとした本棚やソファーセットまである。

「あんたの家とは育ちが違うみたいね。成り上がりの一代目じゃ高価な装飾品の目利きなんて無理かしら」

 ストールに腰掛け、濡鴉を梳きながら夕子は言った。言葉の選び方に棘はあるものの、それが嫌味ではないことを秀一は知っている。

「そうだねぇ……僕にも目利きは無理だよ」

 女性を口説くためにはブランド品が有効なのは分かっているが、秀一が声をかけてきた女性たちに生粋の金持ちはいなかった。つまり愛と悦楽は金で買えることを地でいっているわけだ。

「それにしても……ここまで金持ちだとはね」

 サロン内にいる客を見下ろす正義と運命の油絵を見ながら、秀一は大切に守っていた煙草を取り出した。禁煙とは言われていないため、いつの間にか夕子も吸っていた。

「ビリヤード台が家にあるなんて初めて見ますよ。後で遊びませんか?」

「ルールは知ってるのかい?」

「教えてください」

「ならドクターに手解きを頼みなよ。彼はああ見えてゲームが大好きみたいだ」

「へぇ? アウトドアに凝っていることは知ってましたけど……そうなんですか?」

「そうだよ。奴さん、ああ見えて……ね」

 意味ありげな笑みを浮かべたまま秀一は口を閉じ、英字の視線から逃げるようにフランス窓へ向かった。

「まぁ……とりあえずお屋敷には辿り着けて良かったですよね? ね?」

 秀一を怒らせるようなことを口にしてしまったのかと、英字は夕子たちに会話を求めたが、誰も何も言わなかった。

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