穢人 4

「ずいぶんと立派なお屋敷ですけど、当主様は叢雲帝二むらくもていじ様だった……という認識でいいんですか?」

 キングの扉が閉められ、水瓶から響く水音以外に廊下で音を発するものは何も無くなった。それと同時に翔太は龍一に声をかけた。

「サロンであの様子なら……貴重品が山ほどあるんじゃないですか?」

「現当主様にとってこの叢雲邸は墓場です。皆様が皿や装飾品を壊したとしても……気にされないでしょうな」

 龍一の声音は素っ気ない。これほどの屋敷が墓場だというのなら、手入れなどせずに雪の重みに頼った方がいいじゃないか、そう思った翔太だが、三十万の誘惑があるため、それ以上貴重品の話はしなかった。

「そういえば……今の当主様はどちら様なんですか?」

「……大友財閥の会長であらせられる大友壬おおともじん様です」

「大友財閥?! えっ? 叢雲精巧社って……大友財閥と関係があったんですか?!」

「はい。大友壬様と叢雲帝二様は親しい関係でしたし、帝二様が亡くなられた後は……会社を買収しています」

「精巧社が傘下に……」

 翔太が口にした叢雲精巧社とは、日本を代表する精密機器の開発と製造を担う会社だ。江戸時代後期、西欧の進んだ技術にいち早く目を付けた叢雲によって創業され、今日まで日本の製造業を支えてきた立派な会社だ。今でも精密機器には叢雲精巧の名前が出ている。日本人なら知らない人はいないだろう。

「叢雲帝二様が亡くなられたのは……」

「去年です。病弱であった奥様は病死……一人娘であった叢雲詩むらくもうた様は事故で急死され……精神的にも肉体的にも疲労が重なった結果でしょう」

 相も変わらず声音は素っ気ない。だが、ほんの数秒前まで機械のような動きを披露していたはずの龍一が足を止めた。振り返りはしないが、その背中からでも悲しんでいることが翔太にも充分わかった。

「叢雲帝二様に会ったことがないので……勝手な想像しか出来ませんが、とても良いお方だったんですね」

「ええ……詩様も奥様も……本当に……」

 肩を震わせる龍一。泣いているのかどうかは翔太には見えないが、機械人形のような印象を与える人物とは思えない人間味が垣間見えた。もしかすると使用人として自分を律しているだけで、本当は人間味溢れる好々爺なのではないだろうか。そう思うと、翔太は不思議と龍一に親近感が湧いた。

「……そうでしたか。榊原さんは帝二様とは長く?」

「ええ。二十年……御仕えしていました」

「二十年も……」

「……つい昨日のことのようです」

 微かに曲がり始めた背中を律し、龍一は束の間の魔法を振り払った。

 ウェイト版タロットの皇帝が刻まれた両開きの扉を横目に、龍一と翔太は階段を下りた。その途中には、作者不明の油絵がいくつも飾られていたが、全体的に色使いが陰気で、言い知れぬ不安を与える後ろ向きな絵ばかりだった。龍一が語る叢雲家への印象からして、叢雲の誰かが描いていたものとはどうしても思えなかった翔太だが、背負っていた少女が微かに反応を見せたため、何も言わずに龍一の背中を追った。

「医務室はこちらです」

 一階の一文字廊下に下りた龍一は、右手にある二つの扉の中から手前を選んだ。その扉にはウェイト版タロットの審判が刻まれており、横に掲げられたプレートには医務室と書かれている。

「中にエアコンとベッドがあります。私は温かい飲み物や女性用の着替えを持って来ますので、それまで彼女と一緒にいてください」

「わかりました」

 龍一に頷き、翔太は医務室に足を踏み入れた。

 廊下やサロンの豪華絢爛さを見ていたため、医務室にも高価な装飾品や絵画が飾られている。そう思っていた翔太だったが、乳白色の照明が照らし上げたのは、ソファーセットと二台のベッド、二つの薬品収納棚、診察用の事務机というあまりにも簡素な医務室だ。

「まぁ……医務室を豪華にする必要はないか」

 言われた通りにエアコンを操作し、行きずり少女をベッドに横にした。栄養が偏っているのか、十代の少女としては異様に軽い気がしたものの、幽霊の類いではないことは確信している。おそらく異様なほど運が良かっただけだ。

「……ふむ。凍傷は避けられたみたいだな」

 触れれば折れてしまいそうな硝子細工の腕に触れ、鼻、頰といった露出されている部分を重点的に診察していく翔太。針で刺されたような猛烈な痛みが凍傷の始まりだ。気を失っているのなら何も感じないだろうが、助かった末に目が覚めたなら地獄が待っている。痛み、組織の凍結、痛みの消失、皮膚が乳白色、皮膚が紫に変色、この流れが凍傷の症状なのだが、幸いにも少女にその症状は見られない。つまりは無事だ。

「御待たせしました」

 色々と荷物を抱えて龍一が戻って来た。それでもしなやかな動きに変化がないことはさすがとしか言いようがない。

「カイロにポット、お茶に珈琲、エネルギー補給用のお菓子も持って来ました」

 テーブルにそれぞれを置いていく龍一。ポットには既に水が入れられ、すぐに湯沸かしに入る。珈琲の匂いでも漂わせれば目を覚ます、という作戦らしい。

「一人にしておくのは……不安ですか?」

「ええ、自分がいます。一応山登りなんかで覚えた心得がありますので」

「わかりました。私はサロンの皆様に一週間の過ごし方を説明してきますが……坂本様へは後からでもよろしいでしょうか?」

「ええ、構いません。もしも説明中に目を覚まして、動けそうなら彼女と一緒にサロンへ行きますよ」

 わかりました、と一礼した龍一は、医務室から出て行った。

「さて……君は一体何をしに来たのかな?」

 眠り姫のまま動こうとしない少女に問いかけながら、翔太はポケットに忍ばせていた嵐の山荘小説を開いた。

 奇しくも翔太たちを見つめるフランス窓の遥かでは、モノクロの落とし子たちが勝鬨を上げて進軍を始めたばかりだった。

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