第三章

 次の日の朝は目覚めが良かった気がする。

 心の中には、昨日二海さんが言ってくれた言葉が残っていて。その言葉に充実感と満足感を感じながら、俺はベットから出た。

 いつも通り母さんの朝ごはんを食べて家を出る。ふと時間を見るとまだ七時二十分だった。一週間前まで、八時ギリギリに起きていた人間とは思えない。

 早起きは三文の得というけれど、本当にその通りだと思う。ゆっくりする時間が取れるのはそうだけど心の余裕が全然違うし、朝早く起きられただけで少しだけ自分を褒めることができるんだから。周りの同級生のほとんどはまだ寝ていると思うと、少し胸を張って歩いてしまうくらいには、なんだか自分を誇ることができている気がする。

 駅までの道中は、今日も人が多かった。

 俺はそんな道をゆっくりと歩く。ちょうどトイレが新しくなっていた公園が見えた。

 その公園には一周三百メートル程度のランニングゾーンがあり、そこを歩いたり走ったりしている、ジャージを着たおじいさんおばあさんの姿が多く見えた。他にはラジオ体操をしている子供だったり、出勤前のサラリーマンがベンチでコーヒーを飲んでいたり、いつもは見えていなかった朝の光景が目に入る。

 俺の足が止まる。

 チュンチュンと聞こえる小鳥のさえずりと、風で木が揺れる音、枯れ葉が踏まれる音も聞こえてくる。ゆっくりと深呼吸をしてみると、なんだかすごく心地のいい時間を過ごしているような気がした。

 再度公園の中に目を移すと、一人公園の遊具で懸垂をしている人を見つけた。この人も六十を超えていそうな見た目のおじいちゃんだけど、かなりきつそうに歯を食いしばりなら筋トレをしていた。

 あの年になってもそこまで自分を追い込めるのすごいな。怪我しそうで逆に心配になるけど。

 そんなことを考えながらそのおじいちゃんを見ていると、ふと昨日二海さんから睡眠の質改善のために筋トレを勧められたことが頭をよぎった。

 昨日はあの後ネットで色々調べて、スクワットや腕立て伏せなど家でやる自重トレーニングが筋トレ初心者には良いという結論になったけど、案外公園でトレーニングするのも悪くないのかもしれないな。

 うん、一回行ってみようか。

 今日の夜から公園でトレーニングをすることに決め、俺は駅まで再度歩みを進めた。

 

 今日もいつも通り教室の中には、二海さんと小鳥さんがいた。

 小鳥さんは俺を見るや否や我慢できないとばかりに駆け寄ってくる。

「立山さん! おはようございます。昨日はありがとうございました!」

 深々と俺に対して頭を下げてくる。

「小鳥さん、おはよう。いやいや小鳥さんが頑張ったおかげだから」

 口ではそう言うが、自分自身できることはやったという自負はあった。だってあの人に褒められてしまったからね。

 二海さんを見てみると、相変わらず俺のことなんて興味もなさそうに本に向かっている。昨日は優しそうな雰囲気だったけど、またいつもの感じに戻ってしまったか。昨日は機嫌がよかったのかな。

「いやいや、立山さんが協力してくれたおかげです。そのおかげ演劇をすることができましたし、クラスの人からも色々褒められたりして……。とにかく本当にありがとうございます!」

 その表情には喜びと活気に満ちていて、改めて彼女に協力して良かったと思った。

「うん、それは良かったよ。でも、ここがゴールじゃないからね。前も行ったけど俺たちが目指す最終的なゴールは小鳥さんの気持ち悪い妄想をBL演劇として学校中の人に見せることだから」

 少し浮かれすぎているような気がしたから一応釘を刺しておく。

 すると小鳥さんもハッとした顔になった。

「そうでした。私のキモくて汚らわしくて見るだけでも吐き気を催すような、そんな妄想をみんなに見せて、みんなにゲロを吐かせることが立山さんの目標でしたね!」

「いや違う。そこまでやらなくていいし、てかなんで俺単体の目標なの」

「だって私は純粋に演劇を楽しんでもらえればいいです。というか私がみんなのイチャイチャを見て楽しくなれればそれでいいですから」

「あ、なるほどね」

 浮かれているなんてことはなかった。いつも通り平常運転の小鳥さんだ。

「あ、それで、今後の進め方について相談したいんですけど、いいですか?」

「うん。いいよ」

 今後の進め方か。確かに小鳥さんはうちのクラスの文化祭リーダーになっている。クラスメイトの役割分担や進捗の管理などリーダーはやることがたくさんあるだろう。

「あの後色々考えて、やっぱり異空間イチャイチャではなくサバンナイチャイチャもありかと思いまして」

「え?」

「いやだから、立山さんが言ってくれたサバンナイチャイチャも台本に取り入れたいなと思ってまして。発案者の立山さんにいかがなものか聞いておこうと」

 勿論台本はとても大事だけど、もっと他に考えることあるんじゃないの?

「え、うん、まぁどっちでもいいよ思うよ?」

「なぜそんなに投げやりなのですか! このイチャイチャゾーンで演劇の成功がかかっているというのに!」

 うちの演劇監督は熱心にそう語る。正直心底どうでもいい。

「え、じゃあサバンナでいいんじゃない?」

「いや、やっぱりサバンナだとどうしても脈絡がないからですね。そこで私思いついたんですよ、ピラミッドならギリ脈絡を保てるのかなって」

 いや全然保ててないと思うけど。

 そんな言葉は口に出さない。このゾーンに入った小鳥さんは何を言っても止まらないからだ。

 それに多分小鳥さんは俺たちと同じ意味で脈絡という単語を使ってない。だって異空間の時点で脈絡なんかないんだから。

「確かにその通りだね。じゃあそれでいいんじゃない」

「おぉ! やっぱり立山さんは分かってくれますか! じゃあ異空間ではなくピラミッドイチャイチャに書き換えておきます!」

 小鳥さんはそう言った後に、自分のノートを開き何かを必死でメモしていた。そのノートは前回見た三冊のノートではなく、また新しいノートだった。

 きっと一から作ってるんだろうな。こういうの好きそうだし。しかも本番の台本になるので、きっと時間をかけてやってるんだろうな。

 そう思ったら、一つすごく不安なことが出てくる。念のため、まさかそんなことはないと思っているけど、一応そのことについて聞いてみる。

「小鳥さん、ちなみにクラスの取りまとめとか管理とかってどうするつもり? 演者の役割を決めるのかとか、小道具は誰が作るのかとか」

 小鳥さんは走らせているペンを止めて、純粋な表情で俺を見る。

「え、その辺は立山さんが色々と協力してくれるのかと」

「え……」

「え?」

 二人の沈黙が続く。それは十秒間続いた。

「え、だって私そんなことできませんし、立山さんが色々とまとめていただけるのかと思ってました。ほら、みんなの前で話した台本を作ってくれたみたいに!」

 その顔にはなんの曇りもない純粋な瞳があった。

 勿論俺もこのまま何も手伝わずにいようと思っていたわけではないけど、そこまで入り込む気もなかった。前も言ったようにこの演劇は小鳥さんのものだから彼女の好きなようにやってもらって、俺は一クラスメイトとして文化祭を楽しもうと思っていた。

「……うん」

 まぁでも、こんな風に小鳥さんから頼られるのは悪い気分じゃないし、裏で小鳥さんのことを支えることも悪くないと思った。結局楽しく文化祭を楽しめればそれでいいのだから。

「分かった。でも俺は基本前に出ないからね。クラスの人も小鳥さんの熱意にあてられてやってみようと思った人が多いだろうから。そこで急に俺が前に出てきて仕切り始めたらなんか冷めるでしょ。表では小鳥さんが仕切る感じにして、裏で俺が色々考えるから」

「おー! それいいですね! 『裏勇者』みたいでかっこいい!」

 一瞬、ドキッとした。かっこいいなんて人に言われるのが久しぶりだったし、俺は今そこを目指しているから。なにより俺が一番好きな漫画の主人公に例えられたことが嬉しかった。

 いやでも、別に裏方の人間なんかかっこいいわけない。周りからみたら別に何もしていない人間なのだから。『裏勇者』だって裏で暗躍する主人公を見ているからかっこいいと思うのであって、現実世界だったらそんなところ他人は見ないし。かっこいいなんて思われない。

「あれ? なんか立山さん照れてますか?」

「そんなことないよ」

 恥ずかしくて小鳥さんから顔を背ける。

 心の中で小鳥さんの『かっこいい』を否定しながらも、どこか満たされているようで。なんだか不思議な感覚だった。


 〇

 

 その日の放課後、俺は下校中に駅近くの文房具屋でA4サイズのスケジュール帳を購入した。

 理由は勿論、文化祭のスケジュールを立てるためだ。

 意外にも文化祭は一か月後と時間がなく、早めに全体のスケジュールを把握しておく必要がある。物品の購入とか小道具の作成とか色々と時間がかかりそうなものが多いからな。

 そして作ったスケジュールを二海さんに見てもらうことは決めている。二海さんならきっと嫌々言いながら見てくれるし的確な指摘をしてくれるからだ。

 家のついてご飯を食べた後、俺はすぐに部屋の机の上に新品のスケジュール帳を広げた。

 さぁ、スケジュールを作成するぞ。まずは……。

 と考え始めたところで手が止まった。あれ、そもそもどうやってスケジュールを作ればいいか分からない。

 とりあえず、11月の下旬に文化祭があることは確定なんだけど、それ以外はどうやってスケジュールを立てるんだろう……。やらなければいけないことは、クラスメイトの役割分担を決めるとか、物品の購入とか、小道具の作成とか、沢山ある気がするけど、じゃあそれをいつまでにすればいいか分からない。

 例えば役割分担はいつまでにやれば文化祭に間に合うんだろう……。わからない。どう考えればいいのだろうか。

 ……うん、二海さんに相談しよう! こういう時の二海さんだ。明日、二海さんにアドバイスをもらうことを決めた。

「さて、それはそれとして、時間ができてしまったな……」

 今の時間は七時半いつも寝ている十二時までこのスケジュールを作る気でいたから、何か持て余したような感覚になった。

 そこで何か忘れているような感覚になる。あれ、なんだったっけ……。

「あ、筋トレ、しないと」

 そういえば今日の朝、公園で筋トレをしようと思っていたんだった。

 俺は部屋のクローゼットから、運動ができそうな服を漁る。すると中学時代の体操服がでてきた。

 懐かしいな。中一の時にあんたはきっと身長が伸びるからと言われてかなり大きめのサイズを買って結局中三までダボダボだった体操服だ。高校生になって身長が伸びたから、今だったらちょうどいいかも。

 そんな俺の予想は見事的中し、ぴったり体操服を着ることができた。

「おー」

 なんだか、自分が明確に大きくなったことを感じて少し感動する。一応こんな俺でも色々変わっているんだなと思った。

 その体操服のまま公園に向かおうと、玄関に行くと風呂あがりの母さんから声をかけられた。

「え、あんた、何しようとしてんの」

「いや公園で筋トレでもしようかと」

「それはいいわね。で、なんでその服装?」

「動ける服がなかったから」

 そう言うと母は少しだけ黙って、何かおかしそうに声を出した。

「なんか、サイズ感合ってるね」

 なんだそれ。

 玄関を出るとちょうど父が帰宅するタイミングだった。八時前に父が帰ってくるのは珍しい。

「お」

 父は俺を気まずそうな顔で見る。しかし俺の服装を見ると、何故か笑みをこぼす。

「なんか、サイズ感合ってるな」

 父も母と同じ言葉を言った。だから何それ。

 両親からのサイズ感の指摘に戸惑いながら、俺は家を出て公園に向かう。

 あたりはすでに真っ暗になっていて、街灯の明かりが道を照らしているだけだった。

 この時間に帰宅しているサラリーマンや学生も多く、みな疲れ切った顔で帰路を歩いている。

 部活もバイトもしていない俺は、この時間に外にいることはあまりない。基本学校も直帰だ。あるとすれば、佐々木や牛島と遊んで帰ってきた時くらいで、そういえば最近はそういうこともなくなったなと思う。

 まだ、あの二人とはほとんど話せていない。向こうから話しかけてくることはないし、俺自身も話しかける気持ちの準備ができていないのだ。

 どうしても二人と話そうすると、あの時聞いてしまった二人の本音が顔を出す。

 別に二人が悪いわけじゃなくて、弱い自分と向き合う勇気が俺にないだけだ。

 でも今ならちょっと話せるのかなと思う。小鳥さんの一件があって、朝も早く起きられるようになってきた、今の自分なら彼らとも普通に話せる気がする。それに、そろそろまた三人でバカみたいなじゃんけんでもしたいな。うん、今度、二人に話しかけてみよう。

 そんなことを考えていると、公園についた。公園も街灯の明かりしかなかった。この時間だから人はほとんどいないと思っていたけど、ランニングをしている人やベンチに座っている人などが二、三人いた。

 公園の中に入って遊具スペースを目指す。

 この公園は中央に柵で囲まれた円形の運動エリアがあり、その外周にランニングコースがある。

 そしてそのランニングコースの外側に遊具やベンチ、砂場などが置かれている。

 夕方の帰宅時は、中央の運動エリアで小学生の子供たちがサッカーなどをしていて、その周りのランニングコースを仕事や学校終わりの社会人や学生がランニングをしている光景をよく目にする。

 さっき、『公園 筋トレ』で調べると一番いいと言われていたの懸垂だった。

 幸いなことにこの公園には、さも懸垂をしてくださいと言っているかのような平行棒が置かれている。

 その平行棒の近くに行って軽く準備運動をする。準備運動といっても、小学生時代にサッカークラブでやっていた屈伸やアキレス腱伸ばしがメインになってしまって、あんまり懸垂するための準備運動になっていないような気がするが一旦それは考えないようにする。

「さて、やってみるか。ふっ」

 ジャンプして、俺の身長よりも高い場所にある平行棒を掴む。フラフラと足が揺れる。この感覚も少し懐かしい。

 この状態で、肘を曲げて顎を鉄棒まで持っていけばいいんだよな。俺は事前に動画サイトで見ていた正しい懸垂の姿勢を脳内再生しながら力を入れる。

「くっ、ぐぬぬぬっ」

 動画であるようなスイスイできている懸垂をイメージしていたのだが、俺の懸垂は腕をプルプルと振るわせながらゆっくりと少しずつ上がっていって、なんとか顎を鉄棒付近まで持ってくることができた。

 そしてすぐに俺は鉄棒から手を放す。

「あ、うわっ!」

 腕の疲労が足にきたのか着地に失敗してしまって、お尻から落ちてしまった。別に痛みはそこまで大きくなかったが、夜の公園で情けない声を上げてしまったことは恥ずかしい。多分それなりの声量を出してしまっていたと思うし。

「はぁ、はぁ」

 それにしても、懸垂きつすぎないか? 一回でこんなにきついの? なんか一般男性の平均7回くらいって書いてたけど、それってめちゃくちゃ懸垂できる筋肉お兄さんたちの貯金で成り立ってるんじゃない? ほら、平均年収とかも一部の富裕層の金額が入っていて一般人の体感よりも高くなるみたいな。平均じゃなくて中央値で取ってほしいものだよ。まぁたとえ中央値でとっても俺が最底辺であることは何も変わらないんだけど。

 腕を見ると血管が浮き出てプルプルと震えていた。自分の体が悲鳴を上げているような気がした。

 懸垂すらまともにできない自分にショックを受け、体操座りのまましばらく動けなくなってしまう。すると。

「あの、大丈夫ですか?」

 背後から声をかけられた。女性の声だった。

 心配そうな声音だったので、きっと俺の情けない叫び声を聞いて駆け寄ってきてくれたのだろう。

 しかしこの声どこかで聞き覚えがある気がする。確かこの声は。

「すごい声が聞こえましたけど、大丈夫ですか? 強くお尻打っちゃっいましたか?」

 あ、この人は間違いなくあの人だ。完全に分かった。

「あ~、ていうか、そのジャージ、君○○中の子じゃない? 私OGだからわかるの。中学生がこんな時間に外出ちゃダメじゃない」

「…………」

 やばい。ほんと後ろ向きたくない。俺は体操座りのままじっと動かない、というか動けなかった。

「ったく、家で何かあったのかもしれけど、早く帰って…………え? 信二くん?」

「………あ、久しぶり。三島さん」

 彼女は高校デビューと同時に染めた金髪を揺らしながら、驚いた顔で俺を見ている。同じ中学で、昔俺が告白されたことのある三島さんだ。

 夜のこの時間であっても三島さんは可愛かった。全身黒のスポーティーなジャージ姿で新鮮さを感じるし、あと個人的にこういう女性のスポーティーな服装が好みなのでそう言った意味でも可愛さが増している。

「あ、えっと」

 彼女は驚きつつも、じーっと体操座りの俺の全身を見る。

「なんか、サイズ感ぴったりだね」

 そして、両親と全く同じことを言われた。だからなんでみんな最初にサイズ感のこと言うの? あれ、もしかしてそんなに変なのかな? 俺の体操服姿。

 俺が不思議そうに首を傾げていると、三島さんは俺の気持ちを汲み取ったようで、慌てて手を振る。

「あ、いや、なんか私はダボダボの体操服を着ている信二くんに見慣れてたから、なんか新鮮で」

「あ、なるほど」

 それであれば、父と母さんが同じセリフを言ったのは納得だ。あの二人も中学時代の俺の体操服姿は見ていたからな。

「あっ、そういえば信二くん! あの約束どうなってるの!」

 サイズ感を指摘する理由に納得感を感じていると、三島さんが頬を膨らませながら俺を睨む。

 約束? 約束、やくそく、YAKUSOKU。あれ、約束の英語ってなんだっけ? あ、promiseだ。プロミスとプロミネンスって似てるよな。プロミネンスって何の意味だっけ? うーん、分からないからもう考えるのやめよう。

 思考が迷子になるくらいには、三島さんの約束のことを覚えていなかった。

「ごめん。なんだっけ?」

「だから、朝の電車の時間だよ! 私がいつも乗ってる七時三十分台の電車で行くって言ってたじゃん」

「あ」

 思い出した。先週朝早く行って駅で三島さんと会った時のことだ。三島さんにまた明日も同じ時間の電車に乗るかと聞かれて、適当にうんと答えてしまったんだった。

 いやでも別に、俺としては約束したという認識はなかったな。ただ明日から同じ電車で行くかもと答えただけで。

「あれって約束だったの?」

「約束だよ! 私あれからずっと駅で信二君のこと探してたんだからね」

「え、マジで? それはごめん」

「ほんとだよ。あー困ったなー。何かお返ししてもらわないとなー」

 わざとらしく三島さんは声をあげる。チラチラとこちらに目線を向けながら。

「……」

 完全に彼女の策略なのだが、ここは乗るしかない。迷惑をかけてしまったことは事実だから。

「何か、俺にできることがあったら何でも言ってね」

「ほんとに⁉︎ ありがとう! 今度何か頼むね! あー何にしようかなー」

 三島さんは心底嬉しそうにニヤつきが止まらない顔を俺に向ける。悔しいけど、まぁ仕方ないだろう。

「あ、それより信二君、腰大丈夫なの?」

 ひと段落つくと彼女は、俺が体操座りのままであることに気づき、慌てた顔になる。

「腰は全然大丈夫。ただ、自分の老いを感じて心はすごくショックを受けてる」

 立ち上がり、ズボンについた地面の汚れを落としながらそう言うと、彼女の心配な顔はすぐに消え、目が細くなる。

「え、老い?」

「うん。俺、懸垂一回しかできなかったんだよね」

「ぷっ! 嘘でしょ!」

 俺のカミングアウトに三島さんは盛大に吹かす。すごく恥ずかしいし悔しいけど、今回ばかりは笑われても仕方ない。だって懸垂一回だもん。貧弱するでしょ俺。

「懸垂って普通十回くらいできるんじゃないの?」

「そう思うでしょ? でも案外難しいなんだよ。三島さんもやってみたら?」

「大丈夫でしょ。さすがに五回くらいはできると思うけどね」

 彼女は余裕そうな表情で平行棒を見る。

 彼女は百六十にも満たない身長なので、俺がやった平行棒よりも低い高さの平行棒を握った。

「うぅぅ」

 そして、ゆっくりと肘を曲げて顎を鉄棒に近づける。すごくゆっくりで彼女の腕はプルプルと震えている。もしかしたら、傍からみたら俺もこう見えていたのかもしれない。そう思うと少し恥ずかしくなる。

 三島さんはなんとか懸垂を一回して、勢いよくだらんと肘を伸ばす。まだ足はつけていない。その呼吸はすごく荒れていた。

「はぁ、はぁ、信二君、こんなところでやめたの? はぁはぁ、私、あと四回はいけそう」

「嘘つけ」

 真っ赤な顔のままそんな言葉を吐く彼女に思わずツッコんでしまう。見ている感じあと一回も難しそうだけど。

「じゃあ二回目。ふっ!」

 再び腕をプルプルと振るわせながら、さらに今回は耳まで真っ赤にしながら、なんとか顔を鉄棒に近づける。しかし先ほどよりも遅いスピードで上がっており、しまいには彼女の体は途中まで肘を曲げた状態で止まってしまった。見る感じ、もうこれ以上、上にあげることができないのだろう。

「ほらだから」

「ふっ!」

 やっぱりできないじゃん、と言いいかけたが、全く諦めずに歯を食いしばっている彼女を見て口が止まる。

「……」

 これだけ見ても、彼女が諦めの悪いことは分かる。中学生の時からそうだった。部活でも生徒会の仕事でも、周りが無理だと言ったことを彼女は諦めずに続ける。中学の時はその辺について特別何かを感じていなかったけど、今考えてみると本当にすごいと思うしかっこいいと思う。

 今だって三島さんはすごくかっこいい。激しい息切れだし、髪は荒れてる。腕も震えているけど、すごくかっこいい。

 俺は、二回目の懸垂の挑戦すらせずにもう無理だと諦めてしまっていた。いやこの懸垂だけじゃない、人生の何事も楽な方にばかり選んで、なにも挑戦していない。受験だって、サッカーだって、人生の大きな選択の時は常に安全策で挑戦していない。

 そして、きっと今の俺にはまだ人生をかけるような挑戦はできない。でも、こういう懸垂とか小さなことなら少しずつ挑戦できるはずだ。

 そうやって小さなことから諦めずに挑戦すれば、今俺が彼女に感じたような、かっこいいという感情を、他人が俺に向けてくれるのだろうか。そうなれば、俺はもっと自分をかっこいいと思える気がした。

「はぁー! もう無理! きつすぎる!」

 言いながら三島さんはギブアップとばかりに鉄棒から手を離し、勢いよく地面に着地する。

「いやー信二君笑ってごめんね。私完全に懸垂を舐めてたよ。これきつすぎるね」

 グリグリと腕をもみながら彼女は俺を見る。それは、俺のように老いを感じているよう鬱蒼としたものではなくて、すごく晴れやかな表情だった。やっぱり、かっこいいな。

「……ちょっと、俺ももう一回してみようかな」

「うそ? すごいね。私もう無理だよ」

 なんだか急に心が奮い立ったような感覚で、このまま終わるのはもったいないと思って再度懸垂に挑戦してみる。今度こそ二回までやるんだ。

 そう意気込んでみたが。

「あ、あがらない……」

「はははっ! 一回もできてないじゃん」

 三島さんに大笑いされて終わってしまった。やっぱり慣れないことはやるものじゃない。

「そういえばさ、信二君はこんな時間になんでこの公園にいるの?」

 恥ずかしさと情けなさで落ち込んでいると三島さんからそんなことを聞かれる。

「あーまぁ、ちょっと筋トレ始めてみようかと思って」

「おー! でもすごい心変わりだね。中学の時、俺は絶対筋トレをしない、とか言ってたのに」

「そんなこと言ってたっけ?」

 とぼけてみたが、中学時代にそう考えていたことは覚えている。

 確か兄がサッカーでインターハイに出場した時期で、兄のことをすごいと思ったのと同時に運動系では絶対この人に勝てないと思って、運動系で何か挑戦することはやめようと思っていたんだ。

 そんな過去の自分が笑えてくる。そういえば当時の俺はなにかにつけて兄と対抗していて、どこかで兄に勝てるところがないか考えていた。今となってはそんな気も起きない。おこがましいにもほどがある。

「言ってたような気がするけどなー、まぁいいけど。ちなみになんで筋トレしてるの? 水瀬さんと別れたから?」

 三島さんは、すごく嬉しそうにニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んでくる。先週会った時もそうだけど、なんか俺が別れたことが嬉しそうなんだよな。あれか、他人の不幸はなんとやらというやつか?

「別に水瀬さんは関係ないよ」

「ふーんそうなんだ。ちなみに、信二君が振ったの?」

「いや振られた」

「え」

 少し彼女の顔が強張る。

「ちなみに、念のため聞いておくけど、信二君が今も水瀬さんのことを好きっていう可能性は……」

 おずおずと顔を赤らめながら聞いてくる。

「うーん」

 水瀬さんのことが今も好きかどうか、か。

 どうだろう。確かに水瀬さんと別れて空虚感を感じていて、それは今もたまに感じている。ということは今も好きなのか? いやそもそもこんなことを考えている時点で答えは出ているか。

「別にもう好きじゃないよ」

 言うと、三島さんは顔を明るくさせる。

「だよね! いつまでも元カノに未練たらたらの男なんてきついし!」

 腕を組んでうんうんと何度も頷いている。その表情はやはり嬉しそうだ。やっぱり俺が別れたことについて嬉しそうすぎるな、この人。

「あっ、で、それ関連でどうしても信二くんに聞きたかったことがあるんだけど、なんで水瀬さんと付き合ったの?」

 また答えにくいやつ。というか俺が答えを持っていないやつだ。

 俺はなんで水瀬さんと付き合ったんだろうな。好きな気持ちは絶対にあったはずなんだけど、それを自信満々に言えないってことはそんなに好きじゃなかったのかもしれない。そもそも、『信二くんって、本当に私のこと好きなの?』なんて言われてる時点で駄目だ。

「あの奥ゆかしい感じが良くてね。地味っぽいけど優しくて、一緒に委員とかしてもすごく気が利くんだよ、水瀬さん」

 とりあえず、取り繕うような言葉を並べた。

「ふーん」

 三島さんは納得いかないようで不満そうに俺を見た後、勢いよく後ろを向いてブツブツと何かを話す。

「あれー? じゃあなんで私の告白断ったんですかー? 中学校の時の私水瀬さんと同じ感じだったよね? 地味だったけど優しいみたいな。生徒会でもずっと一緒にいて私結構信二君に気を使ってたんですけど? 振られちゃって、信二君の好みがもっと派手な人かと思ってこんなにイメチェンしたのに全然意味ないじゃん。なにそれ」

 声が小さいのと高速過ぎてよく聞こえなかったが三島さんの背中から怒りのオーラが醸し出されていることは感じ取れた。

 なにがキーになったのかは分からないがとりあえず話を変えておこう、このままだと怖すぎる。

「ていうか、三島さんの方こそなんでこの公園にいるの? しかも一人で」

「……話そらすんだ」

 まるで彼氏の浮気を問い詰める彼女のような視線を向けてくる。さすがに話変えられなかったか……?

「まぁいいんだけどさ」

 よしっ、無事話変えられました。

 三島さんは再度俺の方に体を向ける。

「で、私が公園に来てる理由だよね。信二君と同じで運動のためだよ。実は私、文化祭のミスコンに出ようかと思ってて」

「へーいいね」

「一応書類選考は通ったから、あとは本番なんだよね」

「え、すごい」

 うちの文化祭のミスコンはここらだとちょっと有名だ。というのも、ここ数年このミスコンを取った人がテレビやSNSで美人インフルエンサーとして人気になっているからだ。確か去年ミスコン取った人は女子野球部所属で、美人すぎる野球少女として話題を集め動画配信サイトで二十万人の登録者を抱えるほどになった。一昨年の人も確か今は大学生モデルとして活動していると聞いたことがあるし。

 そんなわけでとにかくうちのミスコンは学校外からも注目を集めるイベントで当然応募する人も多い。そのため、最初に書類選考があるのだが、この選考で全体の十パーセントが落ちると言われている。

 つまりこの書類選考を通ったというだけで、学校の上位十パーセントの女子であることが証明されているのだ。いやエントリーしている人はそもそも可愛い人が多いからその中の十パーセントだと、全体で見たら上位五パーセントには入るかもしれない。流石は三島さんだ。まぁこんなに可愛くなったんだから何も不思議ではないけど。

「それで、ミスコンを完璧な状態で迎えるために今週からここで運動してるの。基本はジョギングだけなんだけど」

「なるほどね。なんか、すごいね」

 そう声が漏れてしまう。小学生みたいな感想だけど、目標に向かって努力している姿を見て単純にすごいと思う。

「全然そんなことないよ。あ、そうだ! 信二君も筋トレするなら毎日この時間に公園に集まろうよ。一回しか懸垂できないのなんかちょっと悔しいし。信二君も記録がゼロ回なのは悔しいでしょ!」

 目を輝かせながら彼女は俺に顔を近づける。ほんのりと三島さんのいい匂いが鼻孔をくすぐる。いや近い……。

「わ、分かったから、一旦離れ」

「あっ、今分かったって言ったね? じゃあ約束だよ。電車の時みたいに来ない、なんてことやめてね!」

 俺の言葉を無視してグイグイ近づいてくる。圧が、圧がすごすぎる。

「分かったよ。明日からもこの時間で来るから、一旦離れて」

 そう口に出すと、満足げな顔で三島さんは俺から離れる。

 その表情はとても嬉しそうで笑みを隠すことができていなかった。

「じゃあ、明日からここに二十時集合ね!」

 こうして、三島さんとの筋トレの約束結んでしまったのだった。

 その後俺たちは他愛のない話をしながら軽く体を動かし、時間も時間だったため三島さんを家まで送ってから帰路についた。

 一人で何も考えずトボトボと歩いていると後ろから声をかけられる。

「あの、君ちょっと止まってもらっていい?」

「え?」

 そこには、三十代後半の年齢に見える、髭をたくわえた警官が立っていた。

「えっ!」

 生まれてこの方、警察官の人と話したこともなかった俺は息が止まるくらい驚いたし、実際息は止まっていたと思う。

 そんな中でも色んな思考が頭を回る。

 俺何かしたっけ? あれか、今日駅のホームのエスカレータで上に立っていた女子高生のパンツがちょっと見えてしまったとか。いやでもあれはあんなに短くスカートをはいているあっちが悪いのであって俺は別に見たくなかったし!

 もしくは何か殺人事件がこの辺りで起きてその容疑者に俺が……。

「君、ダメでしょ、中学生がこんな時間に外に出ちゃ」

「あ」

 なるほど。そういえば自分が中学の体操服を着ていたことを思い出す。

「あ、いや、僕、高校生です」

 その言葉と一緒にスマホに保存されていた自分の学生証を見せる。一年生の時に佐々木と牛島とのじゃんけんで負けて、SNSのアイコンを自分の学生証にするという罰ゲームがこんな形で生きると思わなかった。

 その警官はスマホの学生証と俺の顔を見比べたあと、じっくりと俺の体全体を見る。そして。

「なんか、サイズ感ぴったりだね」

 今日四度目の言葉を吐かれた。

 だからなんでみんなサイズ感のこと話してくるの?


 〇


「はぁ、二階さんって懸垂何回できる?」

「前、この教室は私が学校で唯一ストレスなく過ごせる場所なのだから、気安く来ないでと言わなかったかしら。分かったら早く出ていきなさい」

「いやー実は昨日から筋トレを始めたんだけど、懸垂一回しかできなくてさ」

「話を聞いているのかしら。早く出ていけと言ったのだけど」

 翌日の昼休み。俺は二海さんに会うために図書館近くの小教室に訪れていた。今日も今日とて彼女は一人で本を読んでいる。昨日懸垂をした俺の腕は筋肉痛で悲鳴を上げており、今日の午前中の授業では文字を書くのですら少し苦労した。

「まぁまぁ、そう言わずに」

「……あなた最近、私に対して遠慮がなくなってきたわね」

 二海さんは眉を曲げながらそう言う。その瞳はいい加減にしろと言っているかのように鋭かった。

 その視線にピクリと体が反応してしまう。あれ、もしかしてやりすぎたか? 二海さんは優しいからこれくらいの距離間でも大丈夫だと思ったのに。

「あ、えっと……」

「まぁ別にいいのだけど」

 冷や汗をかきながら何か言葉を考えていると、彼女は特段気にしていない様子でまた本に目を移した。

 あ、よかった。危ない危ない。今のところ二海さんに相談できなくなることが俺にとって一番の致命傷だ。

「それで、何か相談があるのでしょう?」

 いつも通り本から目を話さないまま、彼女はぶっきらぼうにそう聞いてくる。

 なんかもう俺に呆れている気がする。こいつはもう何言っても出ていかないから、とりあえず話を聞いて早く終わらせようみたいな。

 でもそう思わせている時点で俺の勝ちだ。これで俺は、二海さんに相談し放題だ。もちろん二海さんに嫌われるまでの間だけ、だけど。

「そうなんだよ。実は懸垂が一回しかできなくてさ、どうしたらいいかと思って」

「え、それが相談事項なの?」

「嘘です。ちゃんと他の相談あります」

 ふざけて懸垂の話をしたが、正気を疑われるような顔をされてすぐに訂正した。

「そうよね。懸垂なんて、ずっと続けてたらいずれできるようになるわよ。まぁあなたが続けられるかはさておき」

「分かりました」

 一応俺の訳の分からない懸垂の相談にも答えてくれる二海さん。相変わらず優しさの塊だなこの人。

「で、本当の相談は?」

「クラスの演劇の話で。スケジュールを組みたいんだけどどうやって組めばいいのか分からなくて」

「なるほどね。あなた小鳥さんのブレーンとして裏で色々動くのでしょ?」

「あれ、それ話したっけ?」

「あなたたちの朝の会話が丸聞こえなのよ」

 そうだった。二海さんは唯一朝の俺と小鳥さんの会話を聞いている人物だった。

「あ、ごめん。迷惑だった?」

 そう言うと、彼女はこぼれてしまったように笑みを浮かべる。

「そんなことないわよ。実は私、あなたと小鳥さんの会話嫌いじゃないの。なんだか漫才を聞いてるみたいな感じがして。毎日楽しませてもらっているわ」

 彼女は、自分の笑みを隠すように口を塞ぐ。その仕草はとても綺麗だけど、何故か今はいつもよりも綺麗に感じた。

「まぁそれは置いておいて、演劇のスケジュールよね? まずは自分たちでは動かせない期限を抑えるべきね」

「自分たちでは動かせない期限?」

「そう。今回でいうと文化祭の当日とか、学校内での出店申し込み期限とかそういう学校側で決めている期限のことね」

「なるほど」

「で、今回の演劇はどういう期限感なの?」

 そう聞かれて答えにつまる。

「あ、えっと、とりあえず文化祭が十一月二十日にある」

「そんなこと知ってるわよ」

 鋭くツッコまれてしまった。

「他の期限は? 例えばさっき言ったような学校に申請する書類とか」

「存じ上げてません……」

 頭を下げながらそう言うしかない。本当に知らないし、そもそも二海さんに言われるまで全く意識していなかった。

 俺の言葉を聞いた彼女はため息をつきながら頭を抱える。

「良かったわね。今の段階で話していて。とりあえず椎葉先生に学校のルールを聞いておきなさい」

「了解です」

「それで、その色々な期限が分かったら、次にやるのはそれをクリアするために必要なタスクを洗い出すことね。これがすごく重要ね」

 必要なタスク。急に仕事っぽくなって困ってしまう。ていうか今思ったけど、なんで二海さんこういうこと知ってるんだろう。なんか事業でもやっているのかな。

「文化祭で演劇をするためには何が必要だと思ってる?」

「えっと、台本と演者の役割分担、小道具の作成とその役割分担、当日の出店の動き方を考えること、くらいかな」

 とりあえず思いついたものを淡々とあげていく。

「なるほどね。じゃあ、あなたに挙げてもらった台本と演者の役割分担をすれば具体的になにができるようになるの?」

「えっとー、小道具はないけど人と台本があるから一応演劇をすることができる、かな」

 二階さんの質問の意図が分からないため首を傾げながらそう答える。

「本当にできるのかしら?」

 二海さんはキラリと目を光らせた。やはりまだその意図が分からない。

「え? いやできるんじゃない? 台本とその演者さえいれば」

「じゃあ、あなたは練習をせずに演劇をするの?」

「え……あっ」

 確かに今俺が挙げた内容では練習のことは入っていなかった。全く頭にもなかった。確かに言われてみれば練習をしないと演劇をすることができない。なんでこんなことも思いつかなかったんだろう。

「そういうことよ。スケジュールを作るときは、いかにタスクを具体的に漏れなく細分化できるか、が重要なの。例えばあなたの場合、練習をするというタスクが漏れていたけれど、仮にそのタスクが漏れたままだったら、全く練習していない初心者の演劇になって悲惨なものになったと思うわ。まぁ練習するというタスクだったら、他の人が気づくでしょうから漏れることはないのでしょうけど」

 ……なるほど。漏れなく細分化する、か。あれ、すごく難しくない?

「えっとー」

 困ったように言い淀んでいると俺の気持ちを読み取った二海さんが大きく頷く。

「と、口で言うのは簡単なのだけどやってみるのはかなり難しいのよね。私も完璧にできないし。とりあえず、あなたなりに考えたタスクの細分化をやってみてはどうかしら? やり方としてはまず演劇をするという目標に対してタスクを分類する。どうしたら演劇ができるようになるかを考えるの。例えば、演技面、道具面、当日の動き、学校との調整事とかね」

「なるほどなるほど」

「そしてそこで分類したタスクに対して、さらに細分化していく。さっき言った演技面だったら、台本を作る、役割分担をする、練習をする、みたいな。その作業をずっとやっていくことで必要なタスクが洗い出されていくわ」

「うんうん」

 確かにその作業であればどんどんとタスクが具体化していくな。なんかこう聞くと自分でもできるような気がしてくる。とりあえず家で頑張ってみよう。

「ちなみに、これは次の段階なのだけど、そうやってタスクの洗い出しができればスケジュールを組む必要があるわ。そのためには、それぞれのタスクがどのくらい時間がかかるのかと、どのタスクがつながっているかを考える」

「……なるほど?」

 タスクの繋がりというのがあんまりピントこない。

「例えば、演劇の練習をするというタスクの前には演劇の役割を決めておく必要があるでしょ? 本番前にリハーサルをするというタスクの前には、演技の練習と小道具の準備が終わっていなければいけないでしょ? そういう、このタスクをする前に終わらせなきゃいけないタスクを考えるの」

 なるほどな。すごく当たり前のことだけどこうやって論理的に考えたことはなかったから、なんか新鮮だ。

「そうやってそれぞれのタスクの期間と繋がりが分かれば、あとは本番に間に合うようにスケジュールに落とすだけね。分かった?」

「うんうん。よく分かりました」

 やっぱり二海さんはすごいな。高校生にしてこんなことを考えているなんて……。すごく勉強になる。

 腕を組んで頷いている俺を見て二海さんはなぜか目を細めた。

「え、何かありましたか?」

「あなた、メモ取らなくていいの? 私、今結構重要なことを言っている気がするのだけど」

「え、あぁ。大丈夫だよ。言われたこと覚えているから」

「じゃあ、あなたがスケジュールを決めるにあたってすることは何?」

「え、あぁ、タスクを分類して、それを細分化するってこと。そしてその細分化したタスクの期間と繋がりを考えるってことでしょ?」

 ほら、ちゃんと覚えている。

「最初に話した、椎葉先生に学校のルールを聞く話はどこに言ったのかしら」

「あ」

 すでに頭から抜けていた。やっぱり俺ポンコツすぎるな。こんなことも覚えていられないなんて。なんか気分が落ち込む。

「ごめんなさい。完全にポンコツだった。椎葉先生に出店のことを聞くこととタスクの分類とその細分化、期間と繋がりの確認、だね」

 言うと二海さんはさらに目を細める。

「別にポンコツとかじゃないわ。私が言いたいことは、人ってすぐに忘れちゃう生き物なの。だからちゃんとメモを取りなさい。それだけでこういうことは防げるのだから。それに、教えている方にも失礼だと思わない?」

 確かに、今俺は二海さんの貴重な時間を使ってもらって、二海さんの優しさを利用して半ば強引に色々とアドバイスを貰っている。それなのに俺はメモすら取らずにただただ自分で聞いた気になって、理解したつもりになっていた。自分を過信していたんだ。

 ただ今俺の手元にはメモ帳もペンもない。あ、いや胸ポケットとかに入れて……なかったか。

「……はい。これでも使ったら?」

 すると、二海さんが胸ポケットから黒のボールペンと手のひらサイズのメモ帳を取り出す。そしてそのメモ帳を一枚切り離して、ボールペンと一緒に俺に向けてくれた。

「え、いいの?」

「いいわよ。どうせあなたはメモ帳なんて持ち歩いていないと思っていたから。というか高校生で持ち歩いている私の方が珍しいのだけど」

「……ありがとう」

 俺はボールペンを握って、さっきの話を急いでメモする。数十秒足らずでメモし終えて二海さんにペンを返した。

「ありがとう。助かった」

「別に、二回も言わなくていいわよ」

 彼女は少し照れ臭そうにそう言って、メモ帳とペンを胸ポケットに戻した。

「さて、じゃあ今日の相談事項は以上で良いかしら? だったら早く出て行ってもらっていい? ゆっくり本を読みたいから」

「……あ、はい」

 また本を読み始めた二海さん。

 やっぱりとても同い年には思えない。今日も本当にいいことばかりを教えてもらった。だからこの言葉は二回じゃ足りない。

「ありがとうございました」

 教室を出る前に再度感謝を伝えた。彼女はおかしそうに笑うだけでこっちを見ない。それでもいい、きっと彼女は俺のこの気持ちを受け止めてくれているはずだから。

 その日の夜。十八時に家へついた俺は、ご飯も食べずに自分の部屋に籠っていた。

 さて、まずは二海さんと話したとおり、演劇をする上でのタスクの細分化をしてみよう。

 俺は帰りの電車の中でぼーっと考えていた細分化する内容をノートに落とし込んでみる。

 演劇をするためには、台本、演者、舞台、道具が必要だ。あ、あとお客さんも必要だな。とりあえずこの五個でいいのかな。

「うーん、あ」

 学校との調整もいるな。出店をするってだけでもそれなりに申請書類を作る必要があるだろうし。じゃあ一旦分類分けはこの六個でいいか。

 さて、次はそれぞれについての細分化だ。

 まず台本については基本小鳥さんが主体で作ってもらうだけだ。いやでも一応他の人が校正することも必要か。あとは……うん、一旦これ以上は思いつかないから次に行こう。

 そんな感じで、残りの分類についてもタスクの細分化を行うこと二時間。

「できたっ」

 見た目は汚いけど、それぞれの分類に対して細分化したタスクをまとめることができた。

 こういうことをしたのは初めてだったけど意外にやってみると楽しかったし、今は達成感と充実感で満ちている。俺は案外こういうことが好きなのかもしれない。

「うー疲れたなー」

 体を伸ばしながらふと時計を見るとちょうど二十時を過ぎる頃だった。二十時……。

「あっ!」

 そういえば今日から三島さんと公園筋トレをする約束をしていたんだった。

 俺は大慌てで準備をする。その時にふと机の上のメモ用紙とペンが目に入った。

「一応、持って行っておくか」

 ノートとペンを鞄に入れて俺は家を飛び出した。

 走ること二分弱。公園の入り口付近に置いてある時計の針は二十時五分を指していた。ま、まぁこれくらいの遅れは許容範囲で……。

「遅くない? 私五分も待たされたんですけど」

 昨日と同じ平行棒の近くで待っていた三島さんは不満げな表情していた。昨日と同じようなスポーティな格好だが、昨日の全身黒とは違いピンクと白基調の可愛らしい印象の受ける服だった。

「ごめん。ちょっと他のことをやってて……」

 やばい。もしかして結構怒ってる? あの電車の件もあったからそれ込みで怒っているのかな。

「って冗談冗談。別に良いよ五分くらい。そんな不安そうな顔しないで」

 三島さんは途端に顔を弛緩させて俺に笑いかけてくる。

「あ、そっか。良かった、三島さんの演技がうますぎてびっくりしちゃったよ」

「私はどちらかというと演技派だからね」

 演技派と何を比べているのか分からないけど、三島さんの中では自分は演技派の部類らしい。

「というか信二君、今日は体操服じゃないんだね。昨日は似合ってたのに」

 ニヤニヤと笑いながら彼女は俺を見る。

「いやー実は昨日、あの体操服のせいで補導されちゃって」

「えっ? 何それ」

「なんでもサイズ感が合いすぎてるから中学生だと思ったって」

「ははっ、面白すぎるんだけど! そんなことあるの? 確かに昨日の信二君は中学生だと思うくらい体操服がジャストフィットしてたけどさ」

「ほんとびっくりしたよ。警察官の人も俺が高校生って分かって、なんか微妙な顔してたからね」

 いやしかし本当にあれはびっくりした。

「相変わらず面白いなー信二君は」

「いやいや面白くないって。俺が恥ずかしいだけで」

「安心して。信二君が恥ずかしいことが面白いから」

「あ、そういうこと」

 人の辱めを受けていることろが面白いと……。なんか貴族みたいな考え方だな。ってことは、俺は奴隷か? 三島さんの奴隷なら……まぁ悪くはないか。

 うんうんと頷いている俺を見て、三島さんは再度噴き出したように笑いをこぼす。

 え、今のところも何か面白かったの? もう三島さんの笑いのツボがよく分からないよ。

「よしっ、一笑いしたところで、とりあえず昨日と同じ感じで懸垂してみようっか。信二君からやっていいよ」

 彼女は切り替えるようにパンと手をたたいてそう促す。

 俺は昨日と同じように自分の身長よりも少し高い平行棒を掴んだ。そして懸垂を始めようとしたが。

「……」

 三島さんの面白がるような視線が体に刺さる。全く集中できない。

 一旦平行棒から手を離して地面に降りる。

「あれどうしたの?」

「いや、別々でするのもなんか恥ずかしいし一緒にしない? せっかく何個か平行棒があるんだから」

「えー、せっかく信二君の必死で悶える姿を見ようと思ったのにー」

「逆に俺が三島さんの悶える姿を見ることになってもいいの?」

「それはダメだ。てか昨日それ見られてるじゃん! 恥ずかしい!」

 今更そのことに気づいたのか……。

 三島さんは赤らめた顔を手で覆う。そしてその指の隙間からチラッと俺を見た。

「あの、ちなみに昨日は、変じゃなかった?」

「いや全然変じゃなかったよ。むしろかっこいいと思ったけど」

「そうなんだ。とりあえずネガティブなイメージじゃなくて良かった」

 彼女は胸をなで下ろすように息を吐く。

「そういうことなら、じゃあ今日は二人で一緒にしようか。一回でも多く懸垂できた方の勝ちね!」

 そうして二人で懸垂をしてみる。

 結果、昨日と同様二人とも一回しか懸垂ができなかった。真っ赤な顔のままぜぇぜぇと息を切らしている高校生二人を他の公園利用者も物珍しそうに見ていた。

 ただ俺の中では少し達成感がある。昨日は一回目が終わった後にすぐ二回目を諦めていたけど、今日はちゃんと二回目にトライした上での失敗だった。結果は何も変わらないけど少し自分が成長できているような気がした。

「くっー、やっぱり無理かー!」

 三島さんは悔しそうに顔を上げる。相変わらず彼女は諦めが悪く昨日と同じようにギリギリまで歯を食いしばって二回目の懸垂に挑戦していた。高さも残り五センチくらい顔を上げればいいというところまで来ていて、自分に甘い俺だったら実質二回できたと思ってしまうレベルだった。

「でも惜しかったじゃん。あと少しで二回できるよ」

「そうだね。昨日よりは惜しかったし、明日にはできるようになってるかも」

 三島さんはうんうんと頷いて自分を慰め、俺を見る。

「そんな信二君も今日は良い感じだったんじゃない? 諦めずに頑張ってるみたいで」

「ああ、ありがとう。俺もなんとか今週中に二回できるよう頑張るよ」

 少し照れ臭くて三島さんから目を背ける。なんかすごく嬉しい、何事も人より頑張る彼女に頑張ってると言われるのは、他の人から言われるそれとは少し違った。なんだろう、演劇の件で二海さんに褒められた時と同じような感覚だ。やっぱり、他人から認められると何かが満たされる気がする。

「頑張ろうねー。じゃあちょっと休憩しようか。もう腕がパンパン」

「そうだね」

 俺たちは二人で平行棒の近くにあるベンチで腰を下ろす。二人用のベンチとして銘うたれているこのベンチだが実際はかなり小さく、懸垂をしてくたくたの人間二人を座らせるには少々狭かった。そのせいか俺の右腕に、三島さんの左腕が少し触れる。

「……っ」

 声にならない声が漏れる。別になんてことはないことなのだが、童貞である俺はそのことをめちゃくちゃ意識してしまっている。一方、隣の彼女はそんなこと気にした素振りも見せずに「あーきつい」なんて小言を話していた。

 極力彼女と触れている右腕を意識しないように、公園の風景に視線を向けた。

 今日も、公園の中には昨日と同様ポツポツと人影があった。ランニングをしている二十代の爽やかな男性やベンチでスマホを触っている五十代くらいの男性など、いろんな人がいる。その中で昨日には無かった人影に目が留まる。

「あ、ダンスしてる人がいる」

「ほんとだ」

 髪を金に染めてラフな格好をしている大学生らしき二人組がダンスをしていた。ただ全身を使ったダンスというよりはSNSでよく見る上半身だけで踊る手軽なのダンスだった。

「こんな時間に撮影してるのかな。暗くて映らなくない?」

「きっと練習してるだけだと思うよ。ああいう簡単なダンスだったら、私もたまに友達と公園とかで練習するし、夜の公園って人目を気にしなくていいから楽なんだよね」

「へーそういうもんなんだ。三島さんもああいうことするんだね」

「一応私、昔からダンスをしてたからね。自分からやろうって言い出すことはほとんどないけど、ああいう簡単なダンスなら全然やるよ」

 言われて思い出す。そういえばそうだ。三島さんは昔からダンスをしているんだった。確か中学時代、どちらかというと地味めだった彼女が体育の授業で見せたダンスのキレにクラスの全員が驚いていたな。

 勿論俺も驚いたし、あのダンスは本当にすごかった。同じ人間とは思えないほど一つ一つの動きが滑らかで、メリハリとキレがあった。なによりその時の彼女の表情が心の底からダンスを楽しんでいるように見えて、ダンスが楽しくて人を魅了するものだと気付かされた。それまで世の歌手が何故ダンスをするのか、何故歌うだけではないのか、と疑問を持っていた俺だったがその時に考え方が変わった。

 そんなことを思い返していると、ふと彼女のダンスを見てみたくなった。

「そうなんだ。今まで三島さんが投稿したやつ見てみたいな。調べてみよ」

「ダメダメ!」

 スマホを取りだしてSNSでダンスしている映像を探そうとすると大慌てで俺を制止する三島さん。その時彼女の手が触れてドキッとしてしまう。すごく滑らかな感覚だ。

「目の前で見られるとか恥ずかしいから絶対ダメ! 家に帰って見て!」

 三島さんは顔を赤らめながら俺に顔を向ける。

「あ、わ、わかったから、ちょっと近い、です……」

 さっきは腕が触れ合う程度だったが、今はしっかりと俺の手を握られており、さらに彼女の可愛い顔が真正面に二十センチもないくらい近い場所にある。

 流石に近すぎるし、恥ずかしすぎる。

「いや、ここで動画を見ないって言ってくれないと離れないよ!」

 彼女も俺と同じように顔を紅潮させているが、頑なに俺から離れようとしなかった。

「分かった分かった。これから絶対に見ないから、とりあえず離れて」

「……ん」

 三島さんは納得しているのか不満があるのかわからない、口をつぐんだ表情で俺から体を離す。

「……」

 沸騰した俺たちの顔を冷ますような無言が訪れる。耳に入るのは、かすかな葉の揺れる音だけだった。

 どのくらい時間が経ったか分からないが徐々に体が冷めてきたのが分かる。

 それは彼女も同じようで横目で俺を見てきた。

「……その、別に、私の前じゃなかったからSNSの動画見てもいいから。というか見てほしい。それで感想とかもらえると、嬉しいです」

 消えてしまいそうな声で彼女はそう言った。

 あ、そうなんだ。恥ずかしがるポイントがよくわからないな。でも、三島さんのダンスが見られるのは嬉しい。

「分かった。家に帰ってから見てみるよ」

「うん! ありがとう!」

 彼女ははじけるような笑顔を俺に向けた。やっぱり三島さんは可愛くなったなとしみじみ思った。

「よしっ! じゃあ休憩終わりだね。少しランニングしよー!」

 元気を取り戻した彼女ははつらつとそう言って走り出そうとするが、急にスマホを確認する。

 そしてすぐに困ったような顔になった。

「どうしよう……」

「どうしたの? 何かあった?」

「今私と同じミスコンに出る子から連絡来たんだけど、なんか今年のミスコンから新しく候補者一人ひとりのアピールする時間ができるみたい。例年は一言挨拶みたいな感じで終わるんだけど……」

 アピールの場……いまいちピンとこないな。

「なんかすごくざっくりとしてるけど、一人ひとり壇上で何か披露するってこと?」

「多分そんな感じだと思うんだけど、う~んどうしよう……」

 三島さんは困ったように眉を顰める。

 何かアピールと言ってもなぁ。一人ひとりやるってことは、一人当たりの時間はそんな取れるわけでもないと思うし確かに結構難しい。もし俺が同じ立場だったら本当にやること思いつかない。ジョーカーサイズの牛丼に挑戦するとかそんな感じのことならできるかもしれないけど。いやダメか。壇上で吐いて終わる未来しか見えない。

「懸垂、しかないかな……」

「いやいやダメでしょ」

 真面目な顔でそんなことをつぶやくので、すかさずツッコんでおく。

 確かにミスコンで懸垂してたら面白いけど。絶対優勝からは遠のくでしょ。ただの面白い女枠になっちゃうって。

「ダメかー。じゃあ本当に思いつかないなー」

 文字通りお手上げとばかりに両手を宙に上げて、力なく揺らしている。

 実は、俺には一つ案が思いついていた。

「三島さん、ダンスとか、どうなの?」

 そう。ちょうどさっき話していた通り彼女はダンスが大の得意。アピールすることとしてこれ以上適切なものはないだろう。

 何より俺が、あの見ている人を魅了するようなかっこいいダンスをもう一度見たいのだ。

 彼女は少し考えるそぶりをして口を開く。

「ダンスって、さっき話したよくSNSとかで話題になっている簡単なダンスってこと? それだったら、確かにやってもいいかもしれないね」

「いやいや、三島さんだったらガチダンスの方がいいんじゃない? ほら、中学の時に体育の授業で見せてくれたみたいな。あれ、俺めちゃくちゃ好きだったからさ」

 そう言うと、一瞬三島さん顔を明るくさせたが、その後顔を曇らせた。

「うーん、確かにあの時はダンスをやってたけど、高校生になってからほとんどやらなくなっちゃんだよね。ほら、うちの高校ダンス部ないじゃん? だから、その、あまり自信がないと言いますか……」

 体をモジモジさせながら徐々に声が小さくなる三島さん。

「大丈夫だって! 三島さんならいける!」

 とりあえず圧をかけて説得を試みる。

「い、いや~その……あっ、ほら、時間的にもあと一カ月でダンス仕上げるのって難しいし」

 彼女は視線を落として自信なさげに呟く。

 俺は全くダンスに精通していないから分からないが、ダンスって仕上げるのがそんなに難しいだな。簡単にやっているように見えるからすぐできるものだと思っていたけど。

 でも、基本なんでも挑戦したがる三島さんがこんなにやりたがらないのは珍しい。本当にダンスをしたくないのだろうか? もしかして、ダンスを嫌いになったとか……。確かに中学生の時から二年もやっていないのであれはそういう理由があるのかもしれない。

「え、そうなんだ。まぁそこまで三島さんが言うなら仕方ないけど……」

 思わずかぶりを落としてしまう。

 ちょっとだけ残念だ。あの時の三島さんのダンスが好きだったから、もう一度見てみたかったんだけどな。でも、彼女自身がここまでやりたがらないのであれば無理にさせる必要はないだろう。

「……んー」

 そんな落ち込んだ俺を見た三島さんは物言いたげに口をつぐんでいる。あ、変に気を使わせてしまっているかもしれない。

「いや別にダンスじゃなくてもいいと思うよ。ただ俺が三島さんのダンスを見たかったなって思ってただけだから。ほんと、そんな気にしないで」

「……気にしますけど、一番。というかそのせいでやりたくないって思ってるんですけど」

 吐き捨てるようにそう言う。一番気にする? 俺のせいでやらない? いや、俺なんかよりもっと他の理由でダンスをしたくないんじゃ。

「え? ダンスをしたくないのって、三島さんがダンスが嫌いになったとかではなくて……?」

「そんなことないよ。今でもダンスは大好き」

 頭の中にクエスチョンマークが沢山沸いてくる。あれ、じゃあどういうことだ?

「あ、人前でやるのが苦手とか……」

「別に今までも人前でやってたから今更そんなに気にしないよ」

「あ、そうなんだ」

 いよいよ分からない。じゃあ普通にやればいいじゃないかと思うけど。

 俺が思案しているとしびれを切らしたように三島さんが声を上げる。

「あぁもうっ! だから、こんなに信二君から期待されてるのが一番のプレッシャーなの! ほら、中学時代の私のダンスと比べられるでしょ? あの時は人生で一番キレがあった時で、今やってもあそこまでのダンスはできないから、なんか不安で……」

「……あー」

 それはちょっとは分かるかもしれない。前までできていたことができなくなると、自分自身でショックを受けるが、それと同じくらい周りの人を落胆させてしまう。俺も、過去に周りの大人を落胆させた経験がある。だから彼女の気持ちはよく分かるけど、俺なんかの期待でそう思わせているのがとても申し訳ないと思う。

「大丈夫だよ。どんなことがあっても俺は絶対に落胆しないよ。ていうか俺は三島さんのファンだからさ。三島さんのダンスがどれだけ変わってても、それを見られるだけで嬉しいから」

 言うと、三島さんの瞳が少し揺れた。

「……その、言質取ったからね? 私がおばあちゃんみたいなよぼよぼのダンスしても絶対にショック受けないでね」

「大丈夫! 任せてよ!」

 反射でそんな言葉を出したが、流石にヨボヨボダンスを見たら微妙な感情になるかもしれないと思った。いや逆に面白そうだし大丈夫か。

「……そこまで言ってくれるなら、やってみようかな。久しぶりにダンスをしたいって思ってたから」

 そういう彼女の顔は少し嬉しそうに口角を上げていた。やっぱりダンスが好きで、ダンスをしたかったんだろうな。

「うん。出来る限り俺もサポートするから」

 俺が背中を押したし、何より俺は彼女のダンスのファンなのだから、何か雑用があれば協力させてもらう。

 それを聞いた三島さんはさらに顔をほころばせた。と思ったら、急に浮かない表情になる。

「あ、でもどうしよう。どうやってダンスの練習をすればいいか分からない……」

 そしてそんなことを口にした。え、ダンスの練習方法が分からない?

「あれ、三島さんって今までダンスやってたんじゃないの?」

「そうなんだけど、その時はダンス教室で、先生が振付もスケジュールを全部決めてくれてたから、私は何も考えず言われるがまま練習してたらよかったんだよね。でも、こうやって一人でやるときはどうすればいいか分からない。何から始めたらいいんだろう」

 ダンスを全くかじっていない俺は正直よく分からないがそういうものなのだろうか。

 とりあえず一つの解決策を提示してみる。

「えっと、普通にダンス教室に通うのはダメなの? そうすれば教室の先生にやんと教えてもらえるからいいかと思ったけど」

「んー高校生になるとダンス教室のレッスン代が高くなるんだよね。高校生になってやらなくなったのもそれが理由だし」

「なるほどね」

 確かにそれは厳しい。であれば、どうすればいいんだろうか。頭を整理しよう。

 三島さんは今ミスコンに向けてダンスを練習したい。けど、彼女はこれまで一人でダンスの練習をしたことがないからどういう風に進めていくべきかわからない状況。

 うーん、これだとまだ課題が抽象的で何に手を打てばいいのかが分からない。もっと詳細に分析した方がいいな。考え方としては、演劇の時に考えたそれぞれのニーズ分析に似てる。

「ちなみに聞きたいんだけど、ダンスって具体的にどんな流れで進めるの?」

「流れ……そうだね。最初にどのダンスをするか決めて、その後先生のダンスを見ながら振付を覚えて、最後に覚えた振付の細かいところを修正していって良くしていく感じかな」

「なるほど。ダンスを決める、振付を覚える、ダンスを完成させる、の大きく三段階があるって感じだね。それで、一人でやるとしたらどこが一番難しいの?」

 尋ねると彼女は「う~ん」と腕を組む。

「正直、全部難しいね。ダンスを決めるのも私優柔不断で基本先生に決めてもらってたし、振付を覚えるのも先生が目の前で踊っている姿を見てやってたし、ダンスを完成させるのも先生の指摘がないと一人じゃできないし」

 なるほど、これは案外課題が多いかもしれない。どうしたらこの課題を潰せるか。

 そんなことを考えている時にふと自分がノートとペンを持ってきていることに気づく。

「え、なんでノート持ってきてるの?」

 俺が鞄からノートを取り出すと不思議そうな顔を向けられる。そう言われると俺も明確な答えはないけど。

「うーん、なんでだろ。家出るとき目に入って一応持ってきたけど。今回は正解だったね」

 言いながらさっき三島さんが言っていた、ダンスをするための三つの段階とそれぞれの課題をノートにまとめる。夜の時間帯だったがちょうど俺のいるところが暖色系の明かりに照らされていたので問題なくペンを走らせることができた。

「よし。じゃあまず、ダンスを決めることに関してだけど、ここは俺も協力するから二人で決めよう。その方がすぐに決まるよね?」

「あ、ああ、うん、そうだね。確かに信二君が好きなダンスとかだったら、嬉しい、かも」

 彼女は少し困惑した様子を見せながらもそう答える。俺が選んでいいなら話は早いな。

「じゃあ俺が明日までにダンス動画見てみて何個か提案するね。最近流行っている曲とか、みんなが知ってる曲のダンスとかがいいよね?」

「う、うん。それがいいと思う。ありがとう」

 これで一個目の課題については解決だ。さぁ次は二つ目。

「で、二つ目だけど、これは動画を見てもらいながら振付を覚えてもらうしかないと思うだけど、大丈夫?」

 ダンスをしたことのない俺は生で見ながら振付を覚えるのと、動画越しで振付を覚えるのでどれくらい難易度が変わるのかわからない。動画越しだと難しそうではあるけど。

「まぁそうだね。いつも振付を覚えるよりは時間がかかっちゃうかもしれないけど、今できるのはそれしかないからそれでやってみようかな」

「わかった。ダンス選びの時にちゃんと動画サイトでダンスが見られるものを選ぶからそこは安心しておいてね。ちなみに、三島さんってダンスの振り付けを覚えるのってどのくらいかかる?」

 この後スケジュールを決める時に参考にしておきたい情報だ。

「三分くらいのダンスだったら、二回のレッスンで覚えてるね。時間だったら三時間くらいかな」

「はやっ!」

 相場は分からないけど相当早い部類に入るんじゃないか?

「そうだね。でも今回は動画で一つ一つの振り付けを確認しながらしなきゃいけないから、一日一時間したとして、多分二週間くらいはかかるかな」

「なるほどね」

 やっぱり動画だとだいぶ時間がかかるようだな。俺はその情報をメモしておく。

「で、最後に三つ目だけど、これはどうしよう。俺がダンスの指摘とかできるわけないし……。三島さんの知り合いとかでダンスを指摘してくれる人とかいる?」

 正直ここだけ全く案が思いついていない。俺が力になれることが少ないからだ。もし三島さんの近くにダンスの指摘をしてくれる人がいたらいいのだが。

「あーそうだね。昔ダンスしてた仲の良い先輩がいるんだけど、その人なら色々アドバイスくれるかも」

「お、それはいいね。そうしようよ。その人に直接見てもらってアドバイスもらおう」

「でもその先輩、大学で関西の方に行ったからすごく遠いんだよね……」

 関西か。それはちょっと遠いな、わざわざ関西行くのも、関東の方まで来てもらうのも気が引ける。

 あ、いや、ていうか、別に直接見てもらう必要はないな。

「だったら、動画を送ってみてもらったらいいんじゃない?」

「あっ確かに」

 彼女はその手があったとばかりに俺に指を指す。

「でも、その動画は誰が撮るの?」

「そんなの俺が撮るよ。それくらいさせて」

「あ、じゃあ、任せて……あ、いや動画撮影されたら完成途中のキレの悪いダンスを信二君に見られる可能性があるからあまりしたくないな」

 そんなことを言いながら、三島さんは考え込んでしまう。確かに俺にショックを受けてほしくに見たいなこと言ってたけど。

「大丈夫だよ。さっきも言ったように俺どんなダンスでも好きだから」

「いやっ! せめてできるところまではやりたいし、できればダンスが完成した本番まで、信二君に私のダンスを見てほしくない!」

 その意志はとても強く、こうなったら彼女を止められないことは知っていた。

「えーじゃあ、誰が撮影するの?」

「ん……」

 沈黙が流れる。十数経った後、こくりと三島さんが頷く。

「他に頼める人いないし。やっぱり信二君に頼もうかな。ただ目隠しありで!」

「え?」

 目隠しあり? どういうプレイなの。

「それちゃんと撮れてるか分からなくない? ブレたりしちゃうかもしれないし」

「そこは信二君の撮影技術を信じてる!」

 はじける笑顔を向けてくる。いや俺これまで撮影なんかしたことないから。技術もくそもないんだけど。

 まぁでもこうするしかないのなら手伝うしかない。俺が彼女を焚きつけたんだし。それに彼女のダンスが本番の楽しみになったのも少し胸を高鳴らせていた。

 また一つ文化祭の楽しみができた。

「わかったよ。目隠しで撮影するね」

「ありがとう! やっぱり信二君はやさしいね!」

 彼女は相変わらずの可愛い笑顔のまま、ワクワクしている様子で体を動かしている。

「じゃあ、一旦課題はクリアできそうだね。あとはスケジュールだけど……」

 今までメモしたノートに目を落とす。

 文化祭までは約一か月。それまでにダンスを決める、振付を覚える、ダンスの完成させるの三段階をこなす必要がある。

 さっき三島さんが話したように、二段階目の振付を覚えるのには二週間かかる。三段階目のダンスを完成させるのも、先輩の指摘時間とその指摘の修正時間を考えると二週間くらい時間がかかると思っていていいだろう。

 となると一段階目のダンスを決めるのは、今週中にはやっておきたいな。

 俺は、今考えた内容をノートに書き連ねる。うん、我ながら完璧なスケジュールだと思う。

「よしっ、大体スケジュールが見えてきたね。とりあえず、今週中にどのダンスをするかを決めよう。明日のこの時間までに、ダンスの案は何パターンか用意しておくから、それから決めていこう」

 そこまで言ってノートを閉じる。三島さんを見る呆けたような顔で俺を見ていた。

「あれ? 話聞こえてなかった?」

「あ、い、いや別にそんなことなくて、今週中にダンスを決めるのはいいんだけど。なんだか、信二君がすごいなーと思って」

「え? そう?」

 突然の褒め言葉にドキッとしてしまう。

「そうだよ。普通、そんなにちゃんと考えて分析したり、スケジュール決めたりできないと思うよ。それにメモも取ってるし。なんか、すごいね」

 全部二海さんから教えてもらったことだ。分析することも、スケジュールを決めることもメモを取ることも。やっぱり、二海さんはすごいと思うと同時に、三島さんからこんな風に言われることもとても嬉しかった。ちょっとは二海さんに近づくことができたのかな。

「ありがとう。最近ある人に色々教えてもらっててさ。そのおかげかな」

 彼女の名前は出さなかった。いまそこはあまり関係ないと思ったからだ。

「そうなんだ。でもやっぱり、すごいね。中学生の時もそうだったど、今の方がその……かっこいい、ね」

 また心が高鳴る。じわーっと染みわたるように胸が満ちていく。三島さんのその言葉がとても嬉しかった。

 すると彼女は自分の言った言葉が恥ずかしくなったのか顔を紅潮させる。

「あぁ私何言ってんだろ。恥ずかしい。ちょっとトイレ行ってくるね」

 そして、顔を赤くしたままトイレまで走って行ってしまった。

「……」

 一人になってしまった。公園の枯れ葉が風に乗って踊るように揺れている。真上を見てみると珍しく星が見えた。田舎でもないこの町から星が見えるのは中々レアだ。それくらい空気が澄んでいるということなのだろう。

 それにしても、三島さんは本当に良い人だ。こんな俺を肯定してくれて俺が俺でいいと思わせてくれる。

 今は、心の空虚感を全く感じなくて、なにかに満ち足りたようなそんな感覚があった。

 やっぱり、俺の仮説は正しいのかもしれない。人の心は他人に承認されることでしか満たすことはできない。だから、他人から承認されるために頑張ることが大事なんだ。

「ちょっとは、変われたのかな、俺」

 ここ一、二週間の自分を振り返ってみる。

 自分が打ちのめされるようなことがあって、自分を好きになるために、まず自分をかっこいいと思えるようになろうと決めた。手始めに二海さんがかっこいいと言った朝の早起きをはじめて、小鳥さんと話すようになり、小鳥さんの演劇に手伝うようになった。次に、いい睡眠のために夜の筋トレを始めて、三島さんと話すようになり、なりゆきで三島さんのミスコンにも協力することになった。

 こう考えてみると、一、二週間に思えないほど濃密な時間だったと思うし、これからもきっと濃密な時間になるのだろうと思った。

 そして、自分のことを案外かっこいいなとも思った。

 こんなに色々動いている人は他のクラスメイトと比べてもあまりいないだろうし、他人と比べて頑張れている気がする。そんな自分が、ちょっとカッコよく思えた。

「よーし、頑張るぞー」

 立ち上がって大きく伸びをする。

 公園の時計の針は、二十時四十五分を指していた。そろそろ帰らないと母さんが心配する時間だ。

 明日は、演劇のスケジュールを再確認して小鳥さんに話さないといけないし、三島さんのダンスのことも考えないといけない。やることは多い。

 でもやっぱり心は満たされていて。明日を楽しみに思いながら、俺は三島さんが戻ってくるのを待った。



 あれから一週間が過ぎ、文化祭まで残り一か月を切った。

 今のところ、全てが順調に進んでいる。

 まず文化祭の演劇だが、俺の作ったタスクとスケジュールの通りに進めてることができている。最初は案外きつい難しいスケジュールかと思ったが、思いのほかクラスメイトが協力的であり、すぐにそれぞれの役割を決め、各部隊で準備を進めることができている。ちなみに俺は目立たないために道具係になった。当日は時間ができるが、当日までは諸々の準備で結構忙しい仕事だ。

 小鳥さんはというと、これまでのおとなしいキャラから完全に脱皮して、頭のおかしいBLオタクとしてクラスで認知されるようになった。作り上げてきた台本の訳の分からなさも一つの理由だが、もっとクラスメイトを震撼させたのが演者の役割決めの時。

 一人ひとりのキャラの役割が決まっていくたび、「あぁ伊藤君と清水君があのシチュエーションを! 萌える!」とか、「神宮寺君がこのキャラだったらこういう十八禁のイチャイチャの方がいいのかなぁ」とか、今まで俺にしか出してなかったような本音が露わになっていってしまったのだ。勿論最初は本人も隠そうとしていたらしいのだが、頭で想像していたら自動で口から出てしまったとのこと。

 数人の男子は小鳥さんに対して恐怖を覚えていたようだが、ここまで振り切ると逆に清々しいのか、意外にもほとんどのクラスメイトが小鳥さんに対してポジティブな印象を抱いたようだ。最初はあんなにBLを否定していた神宮寺も、こんなに気持ち悪いなら逆にやってやりたくなるよね、と口に出していた。

 そんな感じでクラスが一体となりつつある演劇は、スケジュール管理面で俺が小鳥さんをサポートしながら大きな問題なく進めることができている。

 自分がクラスの演劇に貢献できていることにすごく達成感を感じているし、他の人よりも頑張れている自分を褒めたくなる。

 次に三島さんのミスコンの件についても、今のところは問題なく進んでいる。本気のダンスと言ってもジャンルは多く、どんなダンスが良いのか、流行りのものがいいのか、昔三島さんが躍ったことのあるものがいいのかなどを二人で考え、結局三島さんの好きな音楽に合わせて踊ることになった。

 壇上でアピールできる時間は一分間と短く、思いのほか振付も難しくなかったこともあり、当初予定していたスケジュールよりもかなり早く進めることができている。この調子であれば、そろそろ俺が目隠しをして三島さんのダンスを撮影するフェーズになるだろう。傍からみたいら完全に変態なのであまりやりたくないのだが。

 どうやら三島さんは最近夜の公園だけでなく、放課後の学校でもダンスの練習をしているようなのだが、その様子を見た生徒から噂が広がり、学校で少し話題になっている。やはり彼女のダンスは俺だけじゃなくて他の人も魅了できる何かがあるんだ。まぁそのダンスをやろうと言い出したのは俺なんだけどね。そう思うと少しだけ鼻が高くなる。

 ちなみに、懸垂については二人とも無事二回することができ、なんなら俺は三回までできるようになった。今は四回目に挑戦中で、ゆくゆくは懸垂のギネス世界記録を目指そうと思っている。ちなみにギネス世界記録は六百五十一回だそうで、仮に今の一週間二回ずつ記録を更新できるペースでできたとしても五年以上かかる。……うん、流石にこのギネス記録は無理だな。

「おーい、立山。飯行こうぜ」

 そんなことを考えていると、そんな声をかけられる。そこには友人である佐々木と牛島の姿があった。

 つい今週からだが、佐々木や牛島とも普通に話せるようにあった。最初は話しかけることにも緊張したが、一度話しかけてみると二人とも待っていたとばかりに笑いかけてくれて、今では元の関係に戻ることができている。

 まだ二人のあの言葉は頭によぎるけど、ここ最近の行動で今までより少しだけ自分に自信を持てるようになったから、こうやって二人と話せるようになったのだと思う。

「久々に食堂じゃんけんでもするか? じゃんけん欲高まってるだろ?」

 牛島は相変わらずのだらしない体を揺らしニヤニヤした顔で俺を見る。

「確かに、久々にそのスリルを味わってみたいと思うけど、ごめん。昼休みは行きたいところがあるんだ」

「お、そうか。残念だな」

「明日は絶対じゃんけんするぞ」

 二人はそう言って俺から離れる。この俺が昼休みに友達の誘いを断ってまで行く場所と言ったらあそこしかない。

 俺は教室を出て、一週間ぶりに図書館への道を歩いた。

「あら、久しぶりね。もう来ないと思ったけれど」

 図書館の隣の小教室は今日も古本の匂いが充満していた。最初はどこかそわそわしていたこの教室の空気も今となっては懐かしいようなそんな感覚がある。

 そんな教室の中央には、いつもと同じ女子生徒が座っていたが、その見た目はいつもと少し違っていた。

 相変わらずの綺麗な顔つきとセンター分けの黒髪ロングだが、今は薄い黒縁眼鏡をかけており、彼女の目の前には一台のノートパソコンが置かれていた。

 とても新鮮なその姿だったけど、彼女がいつも通り美しいという事実は変わらない。きっとこの眼鏡姿を教室で見せたらまた男子が盛り上がるんだろうなと、ぼんやり思った。

 彼女、二海さんは俺に目を向けず、パソコンの画面をずっと見ている。

「あれ、学校にパソコン持ち込むの禁止じゃなかったっけ」

「別に大丈夫でしょ。変なことをしているわけではないのだから」

 意地の悪い質問をして少しでも焦る彼女を見てみたいと思ったが、彼女は特に気にした様子ではなかった。ただ真面目ってだけじゃなくてこういう図太さもあるんだよな、二海さん。まぁこのことが悪いか悪くないかは置いておいて。

「あ、そう。ところで何をしてるの?」

「あんたに言う必要がある?」

「別にないけど」

「じゃあ言わないわ」

「あ、そう」

 結構二海さんが何をしているのか気になっていたけどここまで拒絶されてしまったらこれ以上は踏み込めない。あとで覗き見でもしてみようかな。いやバレたら普通に殺されそうだからやめておこう。

「で、あなたは何しにきたの? 教室で見る限りだと、なんだか最近楽しそうじゃない」

 チラッとこっちを見て、二海さんは少し笑う。

 教室の中でも案外俺のことを見てくれているんだなと思うと、何か胸にこみあがるものがある。

「そうだね。早起きも筋トレも演劇の方も、結構上手くいってるよ。今日はその報告を兼ねて訪ねてみた」

「心底どうでもいい報告をありがとう。別に私はあなたのことなんて興味ないから、次回以降の報告は不要よ」

 そう言いつつ、彼女の口角は上がっていた。

「いやいや、上司への報告・連絡・相談は社会人の基本なので。今後も報連相させてもらいます」

「いつから私があなたの上司になったのか分からないのだけど。あなたと私はただのクラスメイトよ。つまりこれ以上の報連相は不要なの。分かった?」

「はい。今後もよろしくお願いします」

「……やっぱり、あなたは話を聞かないわね」

 これまで何度見たか分からない彼女が頭の抱えるシーン。しかし、まだ完全に拒絶されている感じではないので、あと少しは二海さんに甘えることができそうだ。

「話したいことはそれだけ? だったらもういいかしら。私も暇じゃないのよ」

「うん。ごめんね作業の邪魔して」

 そう言ってきびつを返す。ちょうどドアに手をかけた時に後ろから声が聞こえた。

「そうだ。ちなみになのだけど」

「……?」

 後ろを向くと、頬肘をついて俺を見ながら微笑みを浮かべている二海さんの姿があった。

 その風景は絵のように美しくて、思わず息のむ。

「あなた、自分のことかっこいいと思う?」

 そして言われた言葉。それはつい三週間前に言われた。あの時に比べたら確かに俺は成長できていると思う。

 だってこの三週間、他の人よりも頑張れているし、二海さんや小鳥さんや三島さんに褒められたし、あの時とは明確に自分に対する思いが変わっていた。

「そうだね。色んな人から褒められるようになってきたし、他の人よりいろんなことを頑張れているし。うん、他の人から見たら、ちょっとはかっこいいって思われてるんじゃないかな」

 その言葉を聞いた二海さんは、少し考えるような素振りを見せた。

「……そう。それなら良かったわ。そのまま頑張ってね」

 その微妙な間合いが気になったが、最後の激励の言葉に高揚してしまって疑念の感情はすぐに消えた。

「ありがとう! 頑張るよ俺! また報告するね」

「いやだから報告はもういらないの」

 彼女の言葉を聞き終える前に教室のドアを閉じた。また何か上司らしからぬことを言っていたがそれには耳をふさがせてもらう。

「ふーまだ昼休み時間あるよな。飯食べるか」

 軽く息を吐く。周りを見ると辺りはいつものように静かで、廊下の窓から、燦燦と輝く日の光が差し込んでいた。

 さて、まだ昼休みが始まって十五分くらいしか経っていないはずだ。佐々木や牛島に合流しよう。

 そう思いスマホを取り出した時、図書館から物珍しい人物たちが出てきたのが見えた。

「結構、こういう本置いてんだな」

「やっぱ借りる時恥ずかしかったわ」

「でも小鳥さんの演劇を成功させるためにはやっとかないとだろ」

 それは、うちのクラスの一軍男子の三人組、神宮寺、清水、伊藤の三人だ。中央に立っていた神宮寺の手には先ほど図書館で借りたであろう文庫本サイズの本が握られており、その表紙には上裸のイケメン男二人が今にもキスをしようとしている様子が描かれていた。

 あのような本は、俺も何度か書店で見たことがあるから分かる。間違いなくあれはBL小説だ。

 まさかあんなにBLを反対していた三人がBL小説を借りるようになるとは……。改めて小鳥さんの情熱はすごいなと思う。

 すると、その三人も俺に気づいたようで一瞬動きが固まる。すぐに神宮寺はその本を隠すように自分の後ろに回す。その表情は何か見られたくないものを見られたようなそんな微妙な顔だった。そんな顔をされるとこっちも気まずくなる。

「……こんにちわ」

 とりあえず無言は良くないのでそれだけ言っておいた。

「……おっす。立山はこんなところで何してんだよ」

 三人を代表して神宮寺が口を開く。正直俺はこの三人と親しいわけではない。クラスのグループが違うし。かといって仲が悪いわけでもなくて授業で同じ班になれば普通に話す。まぁ一言でいえば普通のクラスメイトだということだ。

「俺もちょうど図書館に行こうとしてただけ。そういう三人はなにやら香ばしい香りのする本を借りているようだね」

 きっとこの三人はこの話題を出してほしくないだろうが、流石にここまで見てしまって出さないわけにはいかない。

「ちっ、やっぱ見られたか」

 観念するように神宮寺はBL小説を俺に見せる。

「それも演劇のためでしょ? 意外に熱心だね」

「まぁな。せっかくやるからにはとことんやりたいからな」

「いいねいいね。三人の演技楽しみにしておくよ」

 そう言って去ろうとしたが、神宮寺の声で足が止まった。

「なんか、立山少し変わったか?」

 言われてちょっと考える。

「いや別になんもないならいいんだけど、なんか自信があるように見えるというか。いい感じに変わってるんじゃないか」

 親指を立ててグッドポーズをとる神宮寺はなにか俺を激励してくれているように見えた。

 あんまり関わりのない神宮寺でもそう思ってくれるってことは、やっぱり俺、少しずつ変われているのかな。それはとても嬉しいことだ。しかし両脇の清水と伊藤が微妙な顔をしているのが気になる。何か気に食わないことでもあったのだろうか。

 少しその二人が気になりつつも俺は口を開く。

「ありがとう。うーんそうだね。最近色々頑張ってるからかな」

「へーどんなことやってるの?」

 神宮寺は興味深そうに目を開く。両脇の二人も口をつぐみながらも耳を傾けているようだった。

 ここで小鳥さんのことを出すとこの三人の演劇への熱が下がってしまうかもしれないし、三島さんに協力している事もあまり大っぴらに言うべきではないだろう。

「朝の早起きとか筋トレとかもやってるけど。あとはなんていうか、サポート的なことなんだけど、文化祭で何か頑張ろうってしてる子たちを裏で支えてあげてる感じかな」

 言うと三人とも感心したように頷いた。そして。

「なんか、意識高いな」

 両脇にいた一人清水がそう言った。

 殴打されたようなそんな衝撃が俺の頭に響く。

 その言葉の裏には俺のことを馬鹿にするような意図が込められていることは彼の表情を見ればよく分かった。

「確かに。それになんかサポートってのも、なんか微妙だよな。勿論立山がサポートしている人はすごいんだろうけど、結局立山自身はなにも変わってなくてすごくないってことだろ?」

 続けるようにもう一人の伊藤が半笑いで話す。その言葉にも俺を刺すような棘があった。

「他のクラスの連中も言ってたよ。なんか最近立山が意識高くてきもいって。お前自己啓発の本とか読んでただろ?」

「そのやって色々頑張っても、結局お前は何も変わってないんだろ? じゃあ、立山は無駄なことしてるんじゃね?」

「確かに」

 二人は盛り上がった後に、笑いながら、かわいそうな人を見るような目で俺を見た。その瞳には明確に俺を攻撃しようとしている意志が見える。

「……」

 その瞳と言葉が俺の胸に突き刺さる。ぐわんぐわんと頭が揺れる感覚だ。なんだろう耳にも何も音が感じない。

「馬鹿。なにお前らいじめてんだよ。立山はがんば……って立山どこいくんだよ」

「ごめん。ちょっと一人になりたくて」

 頭が揺れている。真っすぐ歩けているかも分からない。

「はぁ、はぁ」

 息も切れている。あの二人の言葉が頭に響き続ける。

『意識高いな』

『結局お前は何も変わってないんだろ?』

 俺は、ここ最近自分が変われたと思っていた。二海さんや三島さん、神宮寺にも褒められて俺は何か変われているんだとそう思っていた。

 でも他の人にとっては、俺は何も変わっていなくて、ただの意識高くて無駄なことをしている人間なんだ。

 今まで積み上げてきたことがなんだか意味のないものに思えてきてしまった。というか、俺は何も積み上げることができていないような気がしてきた。そしてそう思った時に、自分が何も持っていない、どうしようもない人間であることを痛感する。心の穴が、心の空虚感が、また俺を覆う。

 確かにそうだ。少し前の自分と比べて、俺は何が明確に変わったのか。周りの人かかっこいいと思えるようなことはできているのか。いやできていない。朝の早起きだって別にみんなが見ているものじゃないし、筋トレだってそうだ。

 小鳥さんや三島さんのサポートだって、俺が隠しているから周りの人は知りようがない。そもそも知ったところで、さっきみたいに別にお前がすごいわけじゃないって言われて終わりだ。

 他人よりも頑張れているから自分をかっこいいと思えるようになってたけど、頑張っただけじゃダメなんだ。他人よりもすごい結果を残してが、他人からかっこいいって思われないと意味がないんだ。そうしないと俺自身が俺をかっこいいと思えないし、自分を好きになることはできない。

 結局、自分を好きだと思う、かっこいいと思うためには、他人から承認されるしかないのだから。

「はぁ、はぁ」

 気づけば、見覚えのない階段の踊り場でうずくまっていた。

 周りには静寂が広がっており、床に汚れが多くてあまり掃除が行き届いていないことから、ここは人の利用が多い場所ではないことが読み取れた。

 他人がかっこいいと思う結果を残すためにどうすればいいだろうか。

 同じようなことを高校一年生の時に考えていたことを思い出す。

 かっこいいといえば、兄だったり、父の職場見学の時に見たものだった。

 だから、小説家になろうとしたり、漫画家になろうとしたり、勉強を頑張ってみようとしたり、いろんなことをやった。結果何も上手くいかなくて、自分はかっこよくないと思うようになった。

「……あぁ、俺は、どうすればかっこよくなれるんだろう」

 呟きながら外の様子に目を移す。さっきまでの快晴が嘘のように曇り始めていた。重たい雲が空を覆い始めていた。

 そんな時だった。

 俺のスマホがけたたましく鳴る。母からの電話だった。

 なんでこんなときに……。

「はい。どうした」

「信二、急いで病院に行って!」

 いつも余裕のある母の声に思わず背筋が伸びる。

「え、ちょっとどういう」

「お父さんが、階段から落ちて救急車で運ばれたって!」

「えっ!?」

 ポツポツと雨音が聞こえ始めていた。

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