第二章

 ピリリと鳴るレーダ音で、俺は眠りから覚めた。ただそれは意識が起きただけで、体は全く眠りから覚めていない。

 視線だけ動かし時計を見ると朝五時だった。とりあえず俺は不快なレーダ音を止めてもう一度布団を被る。すぐに意識がなくなった。

 また、ピリリとレーダ音が俺の耳にこだまする。時刻は五時十分。あれからまだ十分しか経っていない。慣れた手つきでアラームを止めて再度布団を被る。

 そんな起きているのか寝ているのか分からない狭間のまま、アラームを止めては布団を被ることを何度か分からないほど繰り返した後にふと気づいた。

 そういえば昨日の夜、俺はかっこよくなるための第一歩として早起きをしようと思い、朝五時から七時まで十分おきにアラームをつけていたんだ。今だけはそんなことをした昨日の自分を憎んでしまう。

 しかし徐々に、初日から早起きができなかったら今後もできないんじゃないかと思うようになっていく。そして、次に鳴ったアラームのタイミングで俺はようやく上半身をあげた。

 眠っている頭は、まだ寝ていていいんじゃないかと囁いているようでついついその誘惑に負けそうになる。

 なんとかその誘惑を押し殺して、ベットから立ち上がる。五畳ほどの俺の部屋は服やゴミが散乱していて、机の上にはテスト期間中に使ったプリント類とテキストが整頓されていない状態で置かれていた。

 あーどっかのタイミング掃除しないと。めんどくさいな。

 気づいたら俺の体は布団の中に戻っていた。少し残っていた布団の温もりはとても心地が良く、すぐに俺の意識は落ちていった。

「早く起きなさい。もう八時なるよ」

 俺はいつも通りギリギリの時間に母さんの声で目を覚ました。

 起きてすぐ自己嫌悪に苛まれると同時に俺はすぐに動き出す。とにかく早く準備しないと学校に間に合わない。

「ったく、この子はいつになったら自分で起きられるようになるのかしら」

 今年何度目が分からない母さんの台詞を聞いている時はすでに学校の制服に袖を通していた。

 あとは顔を洗って歯を磨くだけだ。

 あ、そういえば昨日、かっこよくなるために毎朝ちゃんと髪をセットしようと思っていたな。とりあえず今日は時間ないから無理だ。

 結局、今日もいつもと何ら変わらない慌ただしい朝のまま家を出ることになった。いつも通り小走りで最寄駅に向かい、いつも通りの電車でいつも通りの吊革を握りながらいつも通り特に興味もないニュースが流れるSNSを義務的に見る。

 昨日の夜、有名人の朝ルーティンを調べまくって、完璧にプランニングしていた朝とは全く違う。

 本当は朝五時に目を覚まして、コールドシャワーを浴びて、瞑想をして、朝散歩をして、朝ごはんでバナナとグラノラを食べて、家でゆったり読書でもしようと思っていたのに。

 何一つできなかった、というかそもそも朝早く起きられなかった。

 何で俺は朝早起きをすることもできないんだ。やっぱり俺は才能がないんだ。そもそも俺は夜行性だし、朝早く起きるなんて……。

『あなたには、自分の軸がないのよ』

 いつもみたいな言い訳思考に陥ろうとした時に、ふと二海さんの言葉がフラッシュバックする。

 いや、才能とか夜行性とか関係ない。俺が自分を律することができていないことがダメなんだ。

 また明日、やってみよう。明日早く起きて、今度こそあの有名人がやっていた完璧な朝ルーティンを達成するんだっ!

「もう八時よ。起きなさい」

 次の日の朝も覚醒した瞬間に感じた感情は、自己嫌悪だった。

 昨日と全く同じ流れで、朝五時から七時まで、起きてアラームを止める作業を続け、最終的に母さんに起こしてもらった。

 いつも通り慌ただしく準備を進め、ギリギリでいつもの電車に乗り込むことができた。

 今日も早起きはできなかった。やっぱり、俺には早起きは向いてないのだろうか。そもそも早く起きたところでかっこよくなれるのか? それって二海さんだけなんじゃ…………。

 またそんな言い訳じみた思考になる。

 俺はその思考を振り落とすように、ブルブルと大袈裟にかぶりを振る。

 いや、かっこよくなるためにまず朝早く起きることを決めたんだろ。

 まだ二回失敗しただけ。向いてるとか向いてないとか判断できるところにもきてないはずだ。

 自分にそう言い聞かせる。

 しかし、明日も同じことをすれば十中八九同じ結末になるのは分かっている。

 では何を変えればいいんだろう。

 もしかしてだけど、流石に五時は早すぎるのか?

 どの有名人も五時台には起きてたからそれが普通だと思っていたけど、いつも八時過ぎに起きている人間にとっていきなり五時に起きるのは難しいのかもしれない。

 だったら、何時がいいんだろう。七時とかか? いやでもそれだと朝散歩とかする時間もないし。俺の考える完璧な朝ルーティンは実行できない。

 六時であれば、ギリギリ実行できるのかな……。

 頭でスケジュールを立ててみる。

 六時に起きて、コールドシャワーを浴びて、朝散歩をして、朝ごはんを食べて、学校に行く。うん、読書する時間は無くなったけどこれならギリギリできそうだ。

 そして次の日。

 ビリリと鳴るアラームを止めて、ゆっくりと体を起こす。時間は六時半。

 六時から鳴った十分おきのアラーム音は四回目にしてようやく実ったようだ。

 いつもは体を起こすのもつらかったが、今日は何だか起きられそうな気がした。

 眠気まなこをこすりながらベットから出てそのまま洗面台に向かう。

 三回、顔を洗う。

 水のひんやりとした感覚が、徐々に体を目覚めさせていると感じる。少し気持ちがいい。

 洗面台のタオルで顔を拭く頃には完全に自分が覚醒していることがわかった。

 朝のニュース番組の音が聞こえるリビングに行くと、朝ごはんを食べる箸が止まるほど驚いている母親の姿と久しぶりに見るスーツ姿の父の姿があった。今日も仲良く二人で食卓を囲んでいる。

 父を家で見るのはかなり久しぶりな気がする。

 漫画雑誌の編集者をしている父は、漫画家との打ち合わせが夜遅くになることが多く平日は家にいることが少ない。

 そういえば、まともに父と話したのはいつになるだろう。なんとなく兄さんが実家を出てから話さなくなった。母さんとは普通に話せているから反抗期というわけではないと思うんだけど。

 そんな父も珍しく朝早く起きた俺の姿を見て、少し驚いているように見える。

「驚いた。あんたがこんな時間に起きるなんて」

「ん? あぁ、母さんおはよう」

 時計を見ると、朝六時半を少し過ぎたところだった。テレビでは朝のニュース番組で今年一番の寒波と銘打って、二十代半ばくらい女性の気象予報士が天気を伝えていた。しばらく見ないうちに気象予報士も変わったみたいだ。俺としては前のおじさん気象予報士の方が信頼できる気がする。あ、別にジェンダーとか男女とかではなく、経験豊富そうって意味だから。仮に経験豊富そうなおばんさん予報士と若い男の予報士の二択だったら、間違いなくおばさん予報士の方を信用するからね俺。

 しかしこんなに寒波を強調されると、確かに少し肌寒いような気がしてくる。

 寝巻のフードを被り体を丸めながら、テレビの正面のソファに腰をおろした。

 天気予報の終わると、テレビはスポーツニュースに切り替わった。なんでもプロ野球のポストシーズンが始まったとのこと。

 こういうニュースを見るのも久しぶりだなと思う。

「信二、朝ご飯食べる? すぐに準備できるけど」

「あーじゃあ、お願いします」

 ソファに体を預けたまま答える。あーこのまま寝てしまいたい。体が徐々に起きているとはいえ、やはり眠たいのは眠たいな……。

「ちょっとあんた、せっかく早く起きたのにそんなところで寝ないでよ。ほら、ごはん用意したからこっちで食べなさい」

 意識が飛びそうなところで母さんの言葉でハッと目が覚めた。

 危ない危ない。母さんの言う通り、せっかく早く起きられたのにこんなところで寝るわけにはいかない。

 フラフラとした足取りでダイニングテーブルに腰を下ろす。うちは四人家族であるため二対二で座れるダイニングテーブルを置いている。基本的に席は決められていて、母さんと俺、父と兄さんがそれぞれ横に並ぶ形が基本配置だ。

 そんな俺の席には、白ご飯、みそ汁、卵焼き、ウインナー、納豆とめちゃくちゃちゃんとした朝食が並んでいた。

「え、これ一瞬で作ったの? 母さんすごくね?」

「そんなわけないでしょ。私のお弁当用に作ったものをこっちに入れただけよ」

「あーなるほど。なんかすみません」

「別にまた作ればいいだけだからいいわよ。ほら早く食べちゃいなさい」

 母さんはコーヒーを啜りつつそう言う。俺の左斜め前に座っている父さんもタブレットでニュースを見ながらコーヒーを飲んでいた。

 なんだか、久しぶりに家族三人でご飯を食べる気がする。兄さんが留学に行く前はよく四人で食べてた気がするけど。俺が食卓に座るのが少なくなったからかな。

 そんなことを考えながら、白ご飯を口に含む。そのご飯が口の中に残った状態でウインナーも頬張った。やはり焼きたてのウインナーはご飯によく合う。昔から俺はこの食べ方が好きだった。

「それで、今日はなんでこんなに早く起きてきたのよ。何か気持ちの変化でも?」

「別にただの気まぐれだよ」

 自分と好きになるためとか、かっこよくなるためとかはさすがに親には言えなかった。

「ふーん、でも、早起きはいいわよ。ゆっくり朝過ごせるし。ね? お父さん」

 話を振られた父さんは少し戸惑った様子で俺を見てすぐにタブレットに視線を戻す。

「まぁ、そうだな」

「ふふっ、照れてる照れてる。久しぶりに信二とご飯を食べられて嬉しいのね」

「そんなんじゃないっ」

 そう言いつつ父の表情はほぐれていた。

 相変わらず仲のいい夫婦だ。もし自分が結婚できるならこんな夫婦になりたいと思う。いや自分が結婚できるなんていうありえない妄想はやめておこう。

「あ、お父さん! 今テレビ出てるのお父さんの雑誌で人気の漫画じゃない?」

 すると母さんがテレビを指す。

 テレビに目を向けると母さんの言う通り、漫画の特集ニュースがされていた。最近流行っている推理ものの漫画で俺もアニメを見たことがある作品だった。なんでも今秋から実写映画が始まるとのこと。

 あの作品実写化するんだと思いつつ、この作品が父の雑誌のものであることに少し驚く。

 あれ、確か父の担当は同じ系列の別雑誌だったような……。小さい時からずっと好きな漫画が連載されている漫画があるから覚えている。

「あんた今、お父さんが、別の雑誌の担当じゃなかったっけとか思ってるでしょ?」

 なんで見透かせるんだよ。エスパーか。

「信二は知らないだろうからな。去年から雑誌の担当が変わったんだ」

 タブレットから視線を外さずに父は短くそう言う。去年から……確かにちょうど父と話さなくなった時期だ。

「お父さん編集長よ! すごいでしょ」

「そんなことは言わなくていいっ」

 編集長か、確かにそれはすごい。小学生の時に父の職場を見学したことがあるが、その時の説明で編集長は雑誌の全てを担うすごい人という説明を受けたのを覚えている。実際に編集長も見たがかっこよくて余裕がある雰囲気ですごいと思った。

 父もそんな風に周りから見られているのだろうか。そう思うと父の姿が少し大きく見えた。

「そうなんだ。でもこんな人気作を出すのはすごいね。この漫画は俺も見たことあるけど面白かったよ」

 なんだか、直接すごいということができなくて、周りくどい言い方になってしまったが、父は全くそんなことを気にせずニカっと笑った。

「ああ、面白いだろ」

 久しぶりに父と目があった。その目は子供みたいに純粋で嬉しそうだった。

 何故かふと。父の職場見学した小学生の時のことを思い出す。

 あの時、強烈にかっこいいと思った記憶があった。でも何に対してそれを思ったのかは詳しく覚えていない。

 ただそんなこと覚えてなくても大体わかる。

 あの時俺は、本物の漫画家や小説家に会ってきっとその人たちが絵を描く、物語を作るということに対して熱弁していて、きっとその姿をかっこいいと思ったんだ。

 そこで話している作家さんたちはその後ヒット作を何度も出していて、世間からも認めらているすごい人達だった。

 だからその記憶がずっと頭にあって、俺は何度か漫画家や小説家を目指そうと思ったんだ。まぁ全く続かなかったんだけど。

「あ、そろそろ時間だ。じゃあ行ってくるよ」

 父はシルバーの腕時計を一瞥すると、茶色の皮素材でできたビジネストートバックを手に取って立ち上がった。

 まだ時間は七時前。いつもこんな時間から家を出ていたのかと思う。やはり、いつもより父の存在が大きく感じる。

「いってらっしゃい。さて、私も準備するかね。信二も早くそれ食べちゃいなさい」

 母さんも立ち上がって洗い物を始めた。俺も機械的にご飯を口に含む。

 テレビではすでに漫画の特集が終わっていて、占いコーナーに変わっていた。

「お父さん、信二と久々に話せて嬉しかったと思うわよ。いつもあの人帰り遅いからあんまり話せてなかったでしょ?」

 呟くようなそんな母さんの言葉。

 確かに久々に話した父はどこか少し嬉しそうだった気がする。

「そうだね」

 やはり父のことでは素直になれなくてそれだけしか出てこなかった。

 そういえば、俺はなぜ父さんと話さなくなったんだっけ。今では理由もわからないけれど、明日からはもう少し話せるような気がした。

 結局、朝ごはんを食べ終わったのはそれから三十分が経った七時半だった。

 起きてからまだ俺は朝ごはんしか食べていない。本当は朝散歩をしたり、コールドシャワーをしたりしようとしていたのだが。

 まぁでも今日のところはちゃんと起きれたことを褒めよう。いつもならこの時間でもまだ寝ていたのだから。

 といっても、いつも家をでる八時五分ごろまで何をすればいいのか分からない。

 今から朝散歩に行く時間はないし、コールドシャワーもなんだか気分が乗らない。かといってこのまま、興味のないニュースを見続けるのも何かもったいない気がする。

「そんな暇そうにしてるなら、少し早く学校に行ってみたら?」

 するとメイク中の母さんがしびれを切らしたかのようにそう言った。

 ダラダラとソファで横になってテレビを見ている俺を見て、流石に一言言いたくなったのだろう。

 しかしこの一言はありがたい。早く家を出るなんて全く考えていなかった。言われてみれば確かにその手があったなと思うのだが。

「そうだね。行ってみようかな」

 俺は体を起こして、テキストがほとんど入っていない軽いスクールバックを手に取る。

「いってきます」

「相変わらず急に行動するわね……。いってらっしゃい」

 母さんが引き気味な声を上げていたがそんなこと気にしない。

 家のドアを開けるといつもより肌寒かった。少し早く家を出たからかなと思ったけど、気象予報士が寒波をアピールをしていたことを思いだした。ただ今日が特別寒いだけだ。

 でも、そんな寒さも今は少し心地よかった。

 うちの家から最寄りの駅まで歩いて五分。走ったら二分で行くことができる。俺の最速記録だ。

 いつもは時間と戦いながら早歩きで進むこの道だが、今日はそんなことを気にせずゆっくりと歩くことができる。

 朝の空気の心地よさを感じながら、周りを見ているとふと、通り道の家の庭に新しいデッキができていた。それなりに大きいサイズのデッキなのでそれなりに工事期間があったと思うのだが今日まで全く気付かなかった。

 さらにその近くにある、昔遊び場として俺もよく行っていた公園ではトイレが新しく変わっていた。これも通り道から見える場所にあるトイレなのに、今日まで気づかなかった。もしかしたら今日から変わったのかとも思うが、他の通行者が特に気を留めていないので前から変わっていたのだろう。

 そんな街の変化に目を向けていると、気づけば最寄り駅に到着していた。この駅は住宅街の中にあるということもあり、二面二線の標準的な大きさの駅となっているが通勤通学ラッシュの朝夕の時間帯はそれなり混む。駅のホームはいつもより人が多く感じた。学生というよりは社会人の数が多い感じだ。

 駅構内の電光掲示板には、いつもと違う時間の電車案内があった。その電光掲示板の中に電車のアイコンのようなものが映っていた。前からこんなアイコンはなかったはずだ。きっと最近追加されたものだろう。

 なんだか、今日はいつも見えていないところがたくさん見えている気がする。少し早く起きて三十分早く家を出ただけなのにこんなにも感じるものが違う。いろんなものの変化がよく見える。

 父の仕事の役職も、町の公園も、近所の様子も、駅の電光掲示板も、俺が気づかないうちに変わっている。きっと俺がまだ気づいていないところで他の所も変わっているはずだ。

 俺は、何か変わっているのだろうか。一年前から、中学生の時から、何か変わっているのだろうか。

 その自問には何も答えが出てこなかった。受験をしたり、小説家や漫画家になろうとしてみたり、いろんなことを経験したはずだけど、結局どれもちゃんと向き合うことができずにすぐ諦めてしまったから俺は何も変わっていないと感じるんだ。

 鬱蒼とした気持ちのまま、改札をくぐりホームに向かう。いつもは見慣れた人も多い駅のホームだが、今日は知らない人しかいなかった。

「あ」

「あ」

 と、思っていたが、ある人物を見つける。その人物には見覚えがあった。それはそうだ、彼女は俺と同じ中学で今も同じ高校に通っている見知った人物なのだから。

 彼女、三島澄は金に染めたショートヘアをくるくる触りながら気まずそうに俺を見ていた。顔は少しピンク味があり化粧をしているのが分かる。その見た目は間違いなく可愛くて、現に今も数人のサラリーマンが彼女をチラチラとみている。

 しかし、こう見ると本当に印象が変わったと思う。

 こんなバリバリギャルで可愛い見た目の彼女だが、中学時代はどちらかというと目立たないタイプで、こんなことをいうのは失礼だが、当時の彼女はこれほどまで可愛くなかった。勿論その片鱗はあったのだろうが、眼鏡と長い前髪のせいでポテンシャルを十分に発揮できていなかったのだ。

 でもそんな彼女だったからこそ、隣の席になったことがきっかけで仲良くなれた。当時から彼女がこんな見た目だったら変に意識して仲良くなれてなかっただろう。

 ただ、今の三島さんの気まずそうな反応のように俺と彼女は少し訳アリの関係だ。いや訳アリというとなんだかすごい過去があったように思われてしまうか。ただ、中学三年生の時に俺が彼女の告白を断ったことがあるというだけだ。

 当時の俺は彼女をそういう対象としてみていなかったことが理由だったが、こんなに可愛くなるなら付き合っておけばよかったかと、少し思う。こんなに変わってしまった彼女はもう俺のことなんて眼中にないだろうから。

「……おはよう」

「え、あ、おはようございます」

 話しかけられると思っていなかったのでつい敬語になってしまった。このまま気づかないフリして前を通り過ぎようと思っていたのに。

「え、なんで敬語?」

 三島さんはおかしそうに俺を見る。やはり、本当に可愛くなった。

「あ、いや、別に」

 なんかちゃんと喋れない。彼女の見た目がこんなに変わってしまって目も見られなくなっている。この調子だったら、早いところこの場から離れた方がいいな。

「あれ以来じゃない? こうやって話すの」

 あれ、というのはきっと俺が告白振った時のことだろう。やっぱり一年以上経っても気にしているのだな。というか、こうやって次々に話しかけられるとこのまま通り過ぎることできないんですけど。なんで久しぶりに会った、ちょっと気まずい同中の知り合いにこうやって話しかけてくるの?

 金髪を揺らしながら少し顔を傾けた三島さんはのぞきこむように俺を見ている。

「確かにそうだね。じゃ」

 三島さんの首回りに視線を置いたまま、そう答えて歩き去ろうとするが。

「水瀬さんとは、うまくやってるの?」

 そんな三島さんの質問で俺の足は止まる。後ろから他の人も歩いてきていたため、結局三島さんと並ぶ形で電車を待つことになってしまった。

 水瀬さんとは、二週間前に別れた俺の元カノである水瀬雫のこと。

 いや、なんで付き合ってたこと知ってんの? 誰かから聞いたのか? 水瀬さんはそれなりに学年でも有名だったからそれで知っていたのかな。

「あーうん、いや、別れたよ」

 最初はうまくいっていると嘘をつこうとしたが、別にそんなことする必要ないと思って正直に別れたことを話した。

 すると三島さんは元々大きな瞳がさらに大きくなるほど目を見開いている。いやそんな驚く?

「え、あっ、そうなんだ……」

 呟くようにそう口にした後。

 「……そうなんだぁ」

 うんうんと頷きながら顔を落とした。その表情は読み取れないが、なんか納得されていそうなのが少し気になる。

 もしかして別れるだろうなって思ってた? まぁそう思われても仕方ないか。俺だし。

 そんな会話をしていると、駅のアナウンスが流れる。そろそろ電車が来るようだ。

 しかし、この状況はまずい。このままだと三島さんと二人で同じ車両に乗ることになってしまう。三十分の電車時間をきまずい気持ちで過ごすのは避けたい。

「あ、俺ちょっと電車の中でトイレ行きたいから、トイレある車両に行くわ」

 我ながら完璧な言い訳な気がする。これであれば三島さんも何も言えないはずだ。

「あ、うん……分かった」

 なぜか残念そうに俯く三島さん。え、なんで?

「あっ、また明日もこの時間に来る?」

 その言葉の後、ザーという音と共に六両編成の電車が滑り込んできた。

「あーうん、多分」

 明日も朝早く起きられる保証はないけど、とりあえず別の車両に移動したかったため、適当にそう答えた。

「わかった! じゃあまた明日!」

 満面の笑みと辞書で調べたら今の彼女の表情を画像として載せていいんじゃないかと思うほどに、絵にかいたような笑みを浮かべる三島さん。これを狙ってとかではなく、素でやっているから彼女はモテるようになったのだろう。

「うん、また」

 手を振られたので、軽く手を振り返していつも乗っている五両目の車両に乗り込む。

 いつもの時間帯だったら空いているつり革のポジションはすでに埋まっていたため、出入り口付近の手すり棒を掴むことにした。そして、いつも通り義務的にSNSをチェックする。今日も興味の沸かないニュースが目まぐるしく画面上で流れていた。

 なんだかそれが疲れてしまって画面を閉じて顔を上げてみる。

 すると俺の隣に立っていた三十代くらいの眼鏡をかけたサラリーマンが小さく控えめなあくびをして、それにつられて俺もあくびをしてしまう。俺の方は、全く控えめではない大きく口を開けたあくびになってしまった。

 やはりまだ少し眠たい。俺は軽く目を閉じてボーっと過ごすことにした。

 いつの間にか、学校の最寄り駅の到着アナウンスが流れていた。立ったまま少し眠ってしまっていたようだ。

 電車がホームに到着するといつもはなだれ込むようにうちの生徒が下りていくのだが、今日は降りる人が少なかった。

 いつもの時間では人でごった返している駅から学校までの道もいつもより生徒が少なくて、こんなにストレスが少ない登校は初めてだった。

 そんなストレスフリーの状態で学校に入り教室へ向かう。

 朝の時間は学校の音が少なかった。朝早く来ている生徒の足音だけがまばらに聞こえる程度。

 心なしからいつもよりもゆっくりと歩き自分の教室のドアを開けると、いつもの喧騒はなく本のページをめくる音だけが聞こえた。予想通りというべきか、やはり二海さんはいつも通りの凛とした佇まいで本を読んでいた。

 横目で俺が入ってきたことを確認した時は少し瞳孔が開いているように見えたが、すぐにいつも通りの本に向いてしまった。まぁ俺のことなんか気にも留めないよな。

 そしてもう一人、この時間から教室にいる人物がいた。

「おはよう、小鳥さん」

 俺の後ろの席の小鳥さんだ。今日も相変わらずの長い前髪で前方が確認しにくそうだ。

 しかし、彼女はアニメ好きであるためギリギリで来ているものだと勝手に思っていた。俺もそうだが、アニメ好きは深夜までアニメを見るため必然的に朝が弱くなるのだ。

「あっ、おはようございます」

 俺を見るやいやな彼女は慌てた様子で机の上のノートを閉じて鞄に入れようとする。しかし、一冊だけ手から滑って俺の足元まで飛んできた。

 そんな焦らなくてもいいのに……。小鳥さんは緊張しやすいのか、こうやって少し話しただけでも慌ててしまう。

 俺は足元に落ちたノートを手に取る。

「あっ、見ちゃダメ!」

 ふとそのノートの中身が見えてしまった。

 『演劇!』と、ノートには書かれていた。

 そういえば文化祭の出し物を決めるときに、彼女が演劇をやりたいと言っていたことを思い出した。わ

 そんな一瞬の思考の間に俊敏な動きで小鳥さんからノートを奪われてしまう。

「見ました?」

「え?」

「だから、中身見ましたよね?」

 ほんのりと涙を浮かべている小鳥さんは俺のことを睨みつけている。これまで、こんな風に小鳥さんから見られたことはなかったため少し戸惑う。

「え、いや、まぁ」

「うわぁぁ! 終わったぁ!」

「え」

 そんな見てませんよ、と続けて俺が言う前に、急に頭を抱えて叫びだした小鳥さん。

「えー」

 顔をしかめることしかできない。真反対の窓側の席に座っていた二海さんもそんな小鳥さんのことを驚いたように見ている。

「え、あの」

「だって立山君全部見たんですよね! 私がアニメオタクで、BL大好きだってことも!」

 相変わらず俺のことを睨みつけながら吐き捨てるようにそう言う小鳥さん。

 いやそこまでは知らない。確かにアニメ好きなんだろうなとは思ってたけど。BL好きとかは言われないと分からないから。そこまでノートで見てないから。

「それで私がアニメキャラにガチ恋してて、毎日ずっとそのアニメキャラとイチャイチャすることを妄想してるのだって見たんですよね!」

 いやそれも見てない。全然知らない情報なんだけど。てか、あなたそんなことしてるんですか?

「音楽もボカロばっかり聞いてて、昼休みはボカロをずっと聞いていることも見たんですよね!」

 だから見てないって。しかも別にボカロはいやま大衆音楽だからそんな気にすることないと思うけど。

「あと、私が小説書いてることも見たんですよね! BLの気持ち悪い小説書いてるの! しかもその小説を自分のクラスメイトの男子をモチーフにしてることだって見たんですよね!」

 聞いてもないのにずっと自白してくるじゃん。混乱してわけわからなくなってない? あと、多分クラスメイトをモチーフにしていることはこの教室では言わない方がいい。今は俺と二海さんしか聞いてないから大丈夫だけど。

 てか二海さんもなんかすごい戸惑ってるな。なんか今なら俺と二海さんの考えていることが一緒な気がする。

「それで文化祭で、クラスメイトの男子がイチャイチャするBL演劇をしたら面白いんじゃないかなと思って一応演劇の台本を書いてることも知ってるんでしょ!」

 全然知らなかったけど、これでさっきの『演劇』の言葉がつながった。説明してくれてありがとう。ていうか、その演劇完全に小鳥さんのためだけの演劇じゃん。

 一通り言い終わったようで小鳥さんは肩で呼吸をしながら、相変わらず俺に鋭い視線を向けている。

 なんと言ったらいいのか。

「あ、えっと、別に、俺『演劇』の単語しか見えてないよ?」

 とりあえず、事実を述べておいた。

 すると小鳥さんは数秒無表情になった後、徐々に顔を赤くする。

 きっとさっき自分が話した内容を思い返して恥ずかしくなっているのだろう。

「え、え、じゃあ、私がアニメ好きでBLをこよなく愛していることは」

「さっき小鳥さんの口から初めて聞かされたね」

「え、じゃあアニメキャラにガチ恋してることは」

「初めて聞いたね」

「え、BLの気持ち悪い小説を書いていることは」

「それもさっき初めて」

「え、じゃ、じゃあ、私が中学生の時に、好きな男子に告白して玉砕した後に、その男子に向けて呪いをかけたことは」

「今初めて聞いたね。てかなんてことしてんの」

 どんどん新情報出てくる。もしかして小鳥さんはどこか頭がぶっ壊れているタイプの人間かもしれない。

 すると小鳥さんはうなだれた様子で自分の席に戻った。

「私、完全に混乱してますね。おばあちゃんに話したのか、立山さんに話したのか分からなくなってます」

「それどういう二択? 祖母か俺かで悩まないだろ。まぁでも、それだけおばあちゃんと毎日話してるんだね」

「いえ、おばあちゃんは佐賀にいるので二年に一回しか会いません」

「じゃあなんで分からなくなるんだよ。相当混乱してるな」

「全くです。立山さんにも迷惑をかけてしまい申し訳ないです」

「いや別にいいけど」

 小鳥さんはペコリと頭を下げて、「それで」と切り出し話を続けた。

「立山さんは、私を、どう社会的に殺すんですか?」

「殺すか」

 急に真面目な顔で何を言い出すんだこの人。社会的に殺すとか普通言わないしやらないから。

「え、私の弱みを強引に握ったというのに何もしないんですか?」

「強引に握ったというか、強引に握らされた感じだから。小鳥さんが勝手に言ってきただけだからね」

「だとしても、あなたが私を社会的に殺すことは可能なはずです。何するんです? 私の書いた気持ち悪い吐き気のするBL小説を学校中にばらまきますか? もしくはクラスメイトで妄想しているBLの内容を暴露しますか?」

 この人やっぱり頭のネジぶっ飛んでるな。約半年間同じクラスだったのに全く気付かなかったわ。いや、小鳥さんがうまく本性隠しすぎていたのか。

「別になんもしないよ。別に俺、小鳥さんに恨みがあるわけじゃないし。てか恨みあってもそんなことしないし。そもそも、そんな情報じゃ社会的に殺せないでしょ」

「え、じゃあもっとやばめの私の情報リークしましょうか?」

「いや社会的に殺されたいの?」

 これ以上小鳥さんのやばい情報なんか聞きたくない。本人が言うくらいだから本当にやばいんだろうし。

「とりあえず、別に俺は小鳥さんになにもしないから。そんなに気にしないで」

「……そうですか」

 訝しげな顔だが、なんとか納得してくれた様子の小鳥さん。

 よかった、無事ほとぼりが冷めてくれたようだ。なんかどっと疲れた気がする。せっかく早く来たのになんだか損した気分だ。

「あの、ここまでさらけ出してしまったので追加で相談したいのですが」

「……なに? 追加のやばい情報暴露とかやめてよ? 俺絶対小鳥さんのこと社会的に殺さないからね。あなたが殺されたくても」

「別にそういうんじゃないです。ただ、さっき話したBL演劇をどう思うか聞きたくて」

「あ、おー」

 意外にもちゃんとした相談だった。

 BL演劇を文化祭のクラスの出店として出すことについて意見を求められている。

 現状うちのクラスはまだ出店の内容が決まっていない。というのもクラスで意見が割れているのだ。主に、焼きそば派、綿菓子派、展示系派の三つに分かれている。

 クラスの中心的な女子グループがミスコンに出るとかなんとかで当日は自由に動きたいらしく、現状は展示派が優勢だ。

 その中で事前準備も当日も時間が必要な演劇となると、少し難しいかもしれない。

「まぁそうだな。クラスの半分くらいがあんまり文化祭に熱量がない状況で、みんなの協力が必要な演劇は難しいかも」

「……そう、ですよね」

「でも、俺は好きだよ。BL演劇。聞いたこともなくて面白そうだし」

 これは本音だ。本当にBL演劇は面白いと思ったし、もしやればそこそこ話題になるのは間違いない。しかし、いかんせん俺がBLの知識がないので演劇として面白くなるか分からないことが少々気になるが。

「そう立山さんに言ってもらえてちょっと報われた気がします。ありがとうございます」

 その言葉は演劇をすることを諦めたことを暗に示していた。

「ちなみに、なんでそんなにその演劇やりたいの?」

「クラスの男子のイチャイチャが見たいからです。特に佐々木くんとか」

 食い気味に言われた。

 まぁ聞く前から大体答えはわかってたけどやっぱりそうだよな。

「っていうのが九割です。あとの一割は、その、なんか恥ずかしいんですけど、思い出に残ることをしたいなと思って。今年が、私の人生最後の文化祭になるかもしれないから」

 その言う小鳥さんの瞳には、間違いなく情熱がこもっていた。九割がBLのためなのは本当なのだろうけど、この優しい目を見ると残り一割についても本当の気持ちであることはよく分かった。そして俺は、その一割の理由ではっとさせられた。

 確かに来年は大学受験が入ってこんな風に文化祭を楽しむことはできないかもしれない。

 大学に進学する人は学祭があるかもしれないけど、就職する人や専門学校に行く人の場合そういうイベントは少ないだろう。

「まぁ、こんなことは私が思ってるだけで、みんなはそんなに深く考えていないんでしょうけど」

 小鳥さんは、ハハッとわざとらしく笑い声をあげる。

「いや、小鳥さんの言っていることは俺もそう思うよ」

 今年が最後の文化祭。

 そう考えると、なにか思い出に残るようなことをやりたいと思った。別に、焼きそばでも綿菓子でも適当な展示でも、どんなことをしてもある程度は思い出に残るだろう。でも、もっと強烈に、むこう五十年は忘れないような、そんな思い出にしたいと思った。

「やろうよ。BL演劇。俺も協力するから」

 そういう俺に眉をひそめる小鳥さん。

「え、でもさっきは難しいって」

「うん難しいとは思うんだけど、でも最後の文化祭って言われるとなにかありきたりじゃない、面白いことをしたいと思って」

「……なるほどです。でもやっぱり、どうしたらクラスの人たちを説得させることができるのか分かりません」

 それは俺も分かっていない。演劇という熱量が必要な出店をやろうとする場合、どうやってクラスメイトを巻き込めばいいのだろうか。少し考えてみたが、あまりいいアイデアが思いつかない。

「それは後で俺が考えるよ。とりあえず小鳥さんは演劇の台本とか作ってみてよ。その内容が面白ければクラスメイトを納得させる材料になるかもしれないから」

「それはもうあります」

 そう言って小鳥さんは、三冊のノートを机に出した。それぞれ表紙面に、演劇①、演劇②、演劇③と書かれている。

「朝の時間にコツコツと作っていて、今三パターン分作ってます」

「え、すごいね」

 俺は演劇の台本を作ったことがないけど、台詞回しだけで情景や風景を表現する必要があるため、小説を書くよりも難しくて大変であることは容易に想像できた。それをすでに三パターンも作っているなんて。

「もしかして、元々こういうことやってた?」

「まぁ、小説は書いていたので、それと同じ要領ですよ」

 いやきっと同じ要領じゃないと思うけど。絶対演劇の台本作る方が難しいでしょ。

 しかし、すでに台本があるのは大きい。この台本をクラスメイトに見てもらって、それを面白いと思ってもらえたら演劇をやろうと思う人も増えるかもしれない。

「これ、俺読んでみていい?」

「はい。立山さんにはもう色々握られてしまっているので今更恥ずかしがる必要はないです」

「いやだからなんで小鳥さんが握られた側なの。俺が握らされた側で、小鳥さんが握らせた側だよ」

 机の上の三冊のノートを手に取る。

 さっき、恥ずかしがる必要はないと言っていた小鳥さんだが、俺がノートを開ける瞬間は少しモジモジしていた。

 わかる、自分の妄想を詰め込んだもの見られるの恥ずかしいよね。俺も自分で作った小説を掃除中の母親に見られたことがあるけど、これまで感じたことないくらいの羞恥心を感じたから。

 俺がそんな小鳥さんの妄想の結晶を見ようとした瞬間、ガラーっと教室のドアが開きそれと同時に「やばさがやばいね」「うんうん、やばさのやばさがまじやばい」というIQ3くらいの会話が教室に響く。うちのクラスで最も目立つ女子グループが教室に入ってきたようだ。

 時間は始業の十五分前。まぁ妥当な時間だ。というかこの時間でまだ全く教室に人が来ていないんだな。うちのクラスは案外ギリギリで来る人が多いらしい。

「あ、立山さん、絶対それ他の人に見せないでくださいね!」

 小鳥さんはひそひそ声でそう言った。

「勿論今は見せないけど、でも演劇をするならいつかクラスメイトに見せないといけないんじゃない?」

「それは立山さんの名前でやってください。私の名前で出すなんて恥ずか死にます」

「えー、まぁ一旦分かった」

 俺もBL演劇の台本をクラスに出すのは少し恥ずかしさを感じたが、小鳥さんの今にも火を噴きそうな赤面を見るとそうも言ってられなかった。俺が勝手に協力すると言っているんだし。

「あと、それ見るのも周りに人がいないときにしてくださいねっ!」

「わかったわかった。家で一人の時に見るよ」

 色々注文が多いが、とりあえず俺は彼女からもらった台本を鞄に入れた。

 その後、続々とクラスメイトがやってきて教室はいつも通りの喧騒に包まれて、いつもの朝の教室の風景に徐々に変わっていく。初めて教室が変化していく様子を感じたような気がした。

 今日は色んな事があったな。家族との久しぶりの朝食とか、三島さんとの気まずい会話とか、小鳥さんの演劇を協力することとか。

 って、なんかもう一日が終わりそうな振り返りをしていたけど、まだ学校も始まってないんだよな。

 でもそれくらい充実感のある朝を過ごしたということだろう。

 もしかしたら、早起きはすごいのかもしれない。

 早起きがきっかけで、色んな町の変化や父の仕事の変化に気づけたし、三島さんとも話すことになった。そして、小鳥さんの演劇を協力することになったし。

 確かにいつもよりも疲れていて、少し眠気を感じるけど別に不快ではない。むしろ心地の良い充実感を感じている。

 そういえば、朝起きてやろうと思っていたことは何一つできていない。しいてできたことを挙げるとしたらゆっくり朝ごはんを食べられたことくらいだ。コールドシャワーも朝散歩も瞑想も、何もできていない。

 でも、それらをしていなくても朝早く起きるだけでこんなに充実感を感じることができるなら、明日からも早起きしてみようとそう思えた。


 〇


「かぁあ、やばねむ」

 昼休み。睡魔という早起きの代償が俺の体を襲っていた。

 しかし、この昼休みでやることがある。

 俺は目的の人物が席から離れていることを確認して教室を出た。彼女は昼休みにたまにある場所に行くと言っていた。きっと今日もそこに行っているはずだ。

 最近はもう歩きなれた図書館への道を時折あくびをしながら歩く。昼休みであっても図書館の近くは静かだった。この雰囲気が最近は好きになっている。

 俺は図書館の隣にある小教室のドアを開けた。ガラっという音とともに俺の視線に映ったのはいつも通り聡明で美しい二海さんの姿だった。

 彼女は迷惑そうに顔をゆがませて俺のことを見ている。

「学校で唯一ストレスなく過ごせる場所なのだから、そんなに来てもらっては困るのだけど」

「別にこの教室は二海さんのものじゃないでしょ? じゃあ別に俺が入っても何も悪くない」

「悪いわよ。だってこの教室は図書委員でないと入ってはいけないのだから」

「あ、それはそうか」

 自信満々に言い返してみたが見事にカウンターパンチを食らってしまった。

「てことで、早く去りなさい」

 二海さんは虫を振りほどくような仕草で手首を振っている。

 とりあえず俺は二海さんの正面にパイプ椅子を持ってきて腰を下ろした。

「そうなんだよ。実は相談があって」

「あなた話聞いてた? 出て行けって言ったのよ? 相談しろなんて一言も言っていないのだけど」

「え? そうなの?」

「なぜそんなに純粋無垢な反応ができるか理解に苦しむわね。ここはあなたが入っていい場所じゃないから早く出て行ってもらっていいかしら」

 二海さんの声音は、怒りよりも呆れの色が強かった。

 とぼけてみたら何とかなるかと思ったが、二海さんには通じなかった。じゃあ今度は正面から相談を持ち掛けてみよう。

「いや実は相談があってさ、話聞いてくれる?」

 うつむきがちに呟くようにそう言う。しかし。

「私はあなたの相談を受ける義務なんて全くないのだけど」

 二海さんは相変わらずの塩対応だ。いや塩というよりは氷対応かな。冷たすぎるし。俺の心もどんどんと冷やしてくれているし。でもここで諦めてはいけない。

「いや前は相談に乗ってくれたのに」

「あの時はあなたにちょっとした申し訳なさがあったから相談に乗っただけよ。それはもうあの時に清算されているから、これ以上あなたに相談されても私は何もしないわよ」

 視線を手元の本に落としたまま彼女は語気強めにそう話す。

 やっぱり、こうやって拒絶されるよな。だったら仕方ない。うまく行くか分からないけどあのやり方でやってみるか。

「じゃあ、相談に乗らなくてもいいから。独り言で話すから気にしないで」

「やめてよ。読書の邪魔になるじゃない」

「二海さんも朝聞こえてたと思うんだけどさ、俺、小鳥さんのBL演劇に協力しようと思ってて」

「黙りなさい」

「でも、今のクラスの状況だとみんなを説得して演劇するの難しいなって考えていて。理由としては、演劇やるほどの熱量を持っている人がクラスに少ないってことが大きいね」

「……」

 ついには何も話さずイヤホンをつけ始めてしまった二海さん。それでも一縷の望みを持って俺は話続ける。

「今のクラスの状況としては、文化祭を最高に楽しみたくてそれができそうな焼きそばをしたい派とそれなりに文化祭を楽しみたい綿菓子派と別に出店とから楽しまなくていいからそこそこで済ませたい展示派で分かれている感じだよね。これは二海さんも知ってるかな?」

「……」

「で、焼きそば派は男子が多めで、綿菓子派は男女半々くらい、展示派は女子が多めっていう比率だよね。もし演劇するなら焼きそば派の男子を巻き込む必要があると思うんだけど、BLとかってやっぱり男子はそれなりに偏見があるからノリノリで巻き込むのも難しくて。でもだからといって展示派の女子たちを巻き込もうとしても当日の対応とかがめんどくさいって言われそうだから、どうすればいいか分からなくて。ちなみに綿菓子派はどっちでもいいと思うから今はあんまり考えてない」

「……」

「とりあえずは、今日小鳥さんからもらった台本を見てみて、これでどこまでBLを面白がってくれる男子たちを巻き込めるか考えてみる予定だけど、多数決で勝てるくらいの人数を巻き込むのは現実的じゃないし。しかもこの出店が決まるのって来週月曜日のホームルームの時で今日が木曜日でしょ? 結構時間がないんだよね。あとは、多数決で演劇に決まったとしても一定数非協力的なグループは出てくるからそこをどうすればいいかも課題で。うーんどうしたらいいんだろう」

 話を終えて二海さんの方を見るが、相変わらず俺を全く気にしないようで本を読み続けている。

 やっぱり、ダメか……。

 今話したことが俺の悩みであることで間違いない。何をどうしていいのか全く分からなくて、他に相談できる人もいないから少しの望みをかけて二海さんに助言を貰おうと思っていた。

 でも普通に相談しても拒絶されるだろうから無理やりにでも相談内容を聞かせて当事者としてに巻き込むことで、二海さんの優しさからついついアドバイスをしてしまった、みたいな状況を狙っていたのだが、こんな風にイヤホンをつけられるとそれも難しい。

 まぁそもそもこんな二海さんの優しさに付け込もうとしている作戦自体が駄目で、もっと自分で考えるべきなのだろう。

 さて、教室戻ってどうするか考えよう。

 俺は立ち上がって、パイプ椅子を元の場所に戻す。そして出入り口の扉に手をかけた時。

「もっと、それぞれのニーズを考えたらいいわ」

 そんな言葉が聞こえた。目をやると彼女はなぜか悔しそうな顔で俺を見ていた。

「それぞれの派閥が考えている奥底のニーズを掘り出して、理解すれば少しはうまくいくんじゃないかしら」

 すぐに視線を外し、再び読書を始めた二海さん。

 それぞれの派閥のニーズ……。

「ありがとう」

 俺は頭を下げて教室を出た。

 やっぱり二海さんは優しい。俺のこんな雑な質問にも必ず何か答え、というか指針をくれる。

 ニーズなんて考えもしなかったし、頭にもなかった。

 いままではただどの派閥を巻き込めて、どこまで巻き込めれば多数決で勝てるかしか考えられていなかった。でも二海さんの言う通り、それぞれの派閥のニーズを理解してそのニーズが満たされる形で演劇をアピールすれば全部の派閥を巻き込んで演劇をすることができる。そうすれば、演劇に決まった後もクラス中を巻き込んでいくことができる。

 そうと決まれば、それぞれのニーズ分析だ。ただ教室でクラスメイトの分析をするのは少々憚られる。

 俺は小教室の隣の図書館に目を向ける。うん、ここしかないな。

 昼休みだが、今日も今日とて図書館にはしんと静まった空間が広がっていた。

「こんにちは」

「こんにちはー」

 恒例となった受付の図書委員との挨拶を済ませる。いつも思うけど、なんで図書委員の生徒はみんなこんな柔和な人が多いんだろうか。毎日担当の生徒は変わるけど雰囲気は一緒なんだよな。あれか、そこに座ると否が応でも柔和で余裕ができてしまうのか。それであればぜひ俺も座ってみたい。というか牛島あたりにも座らせたい。

 そんなことを考えていると、ふと自分が手ぶらであることに気づく。分析をするのであれば必ずメモが必要だ。自分の思考を頭の中だけで整理できるほど俺の頭は良くできていない。

「あの、鉛筆といらない紙とかありますか? メモ取りたくて」

「はいありますよ。ちょっとお待ちくださいね」

 受付の図書委員の方に尋ねると、温和な笑みを浮かべて裏の方へ歩いて行った。

「はい、どうぞ。鉛筆は図書館の備品になりので、帰り際に返してくださいね。私がいなければ受付に置いてもらっていれば大丈夫なので」

「ありがとうございます」

 ピンと尖ったHBの鉛筆とコピー用紙と思われるA4の用紙を三枚もらった。こんなにちゃんと準備してもらえるなんて本当にありがたい。

 俺はそれらを手に持って、いつも座っている席に腰を下ろす。

 昼休みの図書館は人が少なかった。おそらく十人ちょっとだと思う。個人的な感覚だが、放課後の図書館利用者よりも少ないと思う。

 その人たちは全員が本を読んでいるわけではなく、勉強をしている人も多かった。

 そんな雰囲気だからか、いつもは適当な本を取って席に座る俺も紙と鉛筆だけで席に座ることができた。

「さて、やるか」

 自分にしか聞こえないような声で呟き、鉛筆を握った。


 

 次の日の朝、相変わらず睡魔に襲われながらもなんとか二度寝をすることなく六時に目を覚ますことができた。今日はいつもより目覚めがスッキリとしている。

「あ、今日も早く起きてる。ご飯食べる?」

 洗面台で顔を洗っていると、寝起きで気だるげな母さんと会った。

「いや今日は大丈夫。早く学校に行きたいから」

「え?」

 一瞬で母さんの眠気が、飛んだのが分かった。目を見開いて俺のことを凝視している。そんなに俺が早く学校に行くことが驚くかね。まぁ驚くか。

「どうしちゃったのあんた。彼女でもできた?」

「できてねーよ。ていうか最近別れたよ」

 ったく、最近そのこと忘れてたのになんで掘り返すかね。

 でもその話題が出ても心の空虚感は感じなかった。それよりも今日は朝にやることがたくさんあるからそのことで頭がいっぱいだ。

「え、あんた彼女いたの? お母さん初耳なんだけど。なんで言ってないの? お母さんには何でも話すって三歳の時に約束したよね?」

「いつの話のこと言ってんだよ」

 なぜかヒステリックになりそうな母さんを尻目に俺は自分の部屋に行って支度をする。

 机の上には、昨日小鳥さんからもらった三冊のノートと図書館で受け取ったA4の用紙、鉛筆があった。

 A4用紙には三枚とも両面びっしりと書かれており、あんなに鋭利だった鉛筆の芯は丸くなっていた。そういえばこの鉛筆は図書館に返却しなければならなかった。完全に忘れていた。

 今日何度目か分からないあくびが出る。

 昨日学校で分析が終わった後、家で遅くまで小鳥さんの演劇の台本を読んでいたため今日はあまり眠れていないのだ。

 でも、どうしようもない睡魔を感じているわけではない。やっぱり朝早く起きると心がポジティブになっている気がする。

 机の上の必要なものをスクールバックに詰めて、部屋を出る。途中リビングを見ると、昨日と同じように父がタブレットでニュースを見ていた。

 おはようと言おうか迷ったがやめた。やっぱりまだ父には素直になれない何かある。今の俺では言語できない、なにかだ。

 家をでると、いつもより少しだけ薄暗いような気がした。時間は六時十分を過ぎたあたりだ。

 ただ意外にも歩いている人の数はいつもとそこまで変わっていなくて、しいて違いをあげるのであれば、いつもの人よりも歩くスピードが早くなっている事くらいだ。

 そんないつもより少し早い町の流れを感じながら駅に到着する。駅の中も明確にいつもより少ないと感じることはなかった。

 じきに電車がホームに滑り込んでくる。そのまま電車に乗り、学校にたどり着いた。

 流石にこの時間の学校は人が誰もいなかった。早すぎて門や入口が閉まっていないか気になっていたが、警備員の方に話したら開けてもらうことができた。

 きっと今日一番最初に学校へ来たのは俺だろう。

 誰もいない、音の感じない校舎をちょっとした高揚感を感じながら歩く。

 教室に入るとそこは薄暗かった。一応、まだ二海さんが来ていないことに安堵する。あの人だったらこの時間に来てもおかしくないからな。

 当然ながら、教室に一番最初に来るのは初めてで、明かりをつけるスイッチの場所すら分からなかった。三分ほどかけてようやく見つけスイッチを入れると、灰色だった教室が照らされる。一瞬眩しさに目がくらんだがすぐに慣れた。

 俺は黒板近くにある教卓まで歩き、教卓の中にある書類を漁る。

「お、やっぱりあった」

 見つけたのはクラスの名簿一覧の写し。これが欲しかったんだ。

 自分の席に腰を下ろしてスクールバックから、小鳥さんのノート三つと昨日分析した紙、そして新しい真っ白なルーズリーフとさっき見つけたクラス名簿を机の上に用意する。

 今の時間は六時四十五分。きっと小鳥さんが来るまでは一時間程度の時間があるはずだ。それまでに昨日考えた内容をまとめよう。

 俺は自分のシャープペンを握って紙と向かい合う。昨日あんなに悩んでいたのが嘘だったかのようにつらつらとペンが走っている。

 なんだか、かなり集中できている気がする。思考も整理できていて、今自分の書くべきことが自動的に湧き上がってくるような感覚。

 気づけば、わずか二十分程度で内容をまとめることができた。

 本当は一時間以上かかると思っていたが、まさかこんなに巻くことができるなんて。それだけ集中できていたということか。やっぱり朝はすごいのかもしれない。

 また、朝の力の偉大さに驚かされた。

 グーっと体を伸ばしてみる。まだ時間は七時を過ぎたあたりで他の生徒が来る様子はない。

 時間を持て余した俺は、昨日一度読んだ小鳥さんの台本を手に取る。

 ******

A:なぁ、いいだろ?(Bに歩み寄りながら。絶対に俺様感を出してほしい!)

B:くっ、やめてくれ(Aに反抗するような仕草を見せるが力が入っていない。実は欲しがってるみたいな表情だと尚萌える!)

A:いいだろ? 俺の熱さでお前を焦がしてやるよ?(Bの頭を舐めまわすようにゆっくりとなでる。ここでの俺様感も大事!)

B:なぁぁー!!(撫でられて恍惚とした表情で叫ぶ。よだれとか出てたらすごく萌える)

A:そんなに体は反応しているじゃないかっ!(よだれ出してほしい)

B:そういうあなたはどうなんですかっ!(カウンター気味にAの頭をなでる)

A:なぁぁー!!(恍惚とした表情になる。気持ちよさで狂う感じを表現したら尚よし)

 ******

 何度読んでもよく理解ができない。

 男二人が頭を撫で合っているこのシーンのどこが良いのか全く分からない。

 なんで撫でられたら気持ちよくなるんだよ。しかも「なぁぁー!!」っていう喘ぎ声なに? 普通「あぁー」とかじゃないの?

 あと、ほとんどの台詞で入っている小鳥さんの一言コメントみたいなのも意味が分からない。萌えるとか俺様感とかわからないって。完全に小鳥さんの趣味全開じゃん。

 台本にはこんなよく分からない会話が永遠と続いていて、少し頭痛を感じた俺はパタリとノートを閉じる。

 そしてまたグーっと体を伸ばした。

 BLに全く精通していない俺にとっては本当に意味の分からない台本なんだけど、そういう界隈の人がみたら面白いのかな。ほとんどの男は今の俺と同じような反応になりそうだけど。

 三冊とも内容は同じようなもので正直俺からするとどう違うのかもよく分からなかった。ただ、これを本気で演劇としてやったら間違いなく面白いと思った。怖いものみたさでみんな見に来るだろうし、この内容であれば話題になるのも間違いない。

 それにこれを見るだけでもどれだけ小鳥さんに情熱があるのかがよく分かる。

 きっとこれを見れば、文化祭に熱意のある男たちは面白がって乗っかてくれるに違いない。俺はそう確信していた。

「はぁあ」

 そんなことを考えていると、また欠伸がでた。連日の早起きで疲れが溜まっているみたいだな。ちょっとだけ目をつぶるか……。

 机に突っ伏すような体制で目を閉じる。すぐに俺の俺の意識はなくなってしまった。

「立山さん、なんでこんなところで寝てるんですか?」

 そんな声で俺は目を覚ました。声の主を見ると、怪訝そうな顔で俺を見る小鳥さんの姿があった。

 時間は八時過ぎ。五十分程度寝てしまっていたようだ。

 教室を見渡すと、他に二海さんの姿もあった。彼女はこっちの様子など気にも留めず相変わらず本を読んでいる。

「あ、ごめんごめん。起こしてくれてありがとう」

「え、立山さん今日学校に泊まったんですか?」

「そんなわけないでしょ」

 そうツッコんでみるが、確かにこの状況を見たらそう思われても仕方ないなと思う。

「え、じゃあ深夜の学校にしか出てこないと言われているマジカルモンスター武の討伐をしていたとか」

「違う。てか、え、マジカルモンスター武?」

「よくある退魔もののアニメで出てくるモンスターのことです。ほら、虚とか呪霊とか言ってるじゃないですか。私の小説ではそのいうモンスターのことをマジカルモンスター武と呼ぶようにしています」

「えっと……なんで武?」

「語呂です」

「あ、そう」

 寝起きの小鳥さんは少しばかりきついな。訳が分からない。ツッコむのも疲れるわ。

「冗談はさておいて、なんでこんな時間にいるんですか?」

 あ、冗談だったんだ。小鳥さんのことだから本気で話しているかと思ったよ。

「いつもよりちょっと早く来たんだけど、早く起きすぎて寝てしまったみたい」

「なんですかそれ。だったら家で長く寝れば良かったのに」

 ほんと小鳥さんの言う通りだと思う。結局早く起きたとしてもずっと眠い状態でこうやって寝てしまっていたら意味がない。でも早く起きるということはどうしても睡眠時間が短くなるということだから、こうやって眠くなるのは仕方ないはずだ。

 ……あ、だから睡眠の質とか大事なのか?

 これまで睡眠について深く考えてこなかったが、今明確に睡眠の質を上げることの重要性を感じた。どうやったら睡眠の質が上がるのかは分からないんだけど。

「あ、私のノート読んでくれたんですね」

 俺の机の上にある三冊のノートを見て彼女は顔を赤らめながらそう言った。

「あ、うん」

「で、その……どうでした?」

 聞きたくないような、俺の反応を楽しみにしているような、そんな表情だった。

「俺、BLのこととかよく分からないから、正直よく分からなかった」

「あっ……」

 あからさまに彼女の顔が暗くなる。

「でもなんていうか、面白うだなって思った。これを本気で演劇としてやったらかなり話題になると思ったし。まぁ結局俺が言いたいのは、この演劇をこのクラスでやってみたいってこと」

 その瞬間、彼女の顔はパァァと明るくなり前髪で隠れていた彼女の瞳が見えた。初めて彼女の目を見た気がするが、透き通った綺麗な目をしていた。

「ありがとうございます! そう言ってもらえて本当に嬉しいです!」

 首が取れしまうんじゃないかと思うほど何度も頭を下げる小鳥さん。

「でもね、やっぱり課題になるのは、どうやって演劇にクラスメイトを巻き込むかなんだ」

 そう言うと、小鳥さんの動きが止まった。そしてゆっくりと自分の席に座る。

「……やっぱりそこですよね。私も昨日考えていたんですが良い案が思いつかなくて」

「難しいよね、これ。でも俺は一個だけ思いついてるよ。これを見てほしい」

 俺は今日の朝まとめたルーズリーフの紙を小鳥さんに見せる。

「これは、今の文化祭の出店に関するクラスの状況とその分析をまとめたものなんだ。一つ一つ話すね」

「あ、はい」

 小鳥さんは興味深そうに内容を見ている。

「まず今のクラスの状況は、焼きそば派、綿菓子派、展示派の三つに分かれている。これは小鳥さんも分かってるよね」

「はい」

「それでその派閥ごとにどういう傾向と考え方があるのかと考えてみた。ざっくりとこんな感じ」

 言いながらクラス名簿を取り出す。そこには、クラスメイト一人ひとりに対して派閥を追記されている。見やすいように派閥ごとで色分けもしておいた。

「え、これ立山さんが作ったんですか?」

「勿論」

「おー」

 特にすごいと思ってなさそうな声音のおーをいただいた。ありがたく頂いておこう。

「これ見てもらうと分かるように、焼きそば派はアクティブな男子が多めで、綿菓子派はあんまり部活動もやってなくてバイトをしている人が多くて、展示派は部活をやっている女子とかミスコンの準備をしている人が多いんだ。こうやってまとめてみると結構それぞれで特徴があるよね」

「確かに」

「じゃあなんでこんな傾向になっているかを考えてみた。いわゆるそれぞれの層がどういうニーズを持っているか、だね」

 言いながらチラッと二海さんの方に目を向ける。すると彼女もタイミングよく俺の方を見ていた。その顔はやはり何故か悔しそうだった。なんでそんな顔してるの?

「まず、焼きそば派にアクティブな男子が多い理由だけど、これは純粋に文化祭を準備から当日まで万遍なく楽しみたいからだと思う。焼きそばだと、事前に買い出しへ行ったりとか、作る練習したりとか、機材準備したりとか色々大変でしょ。だからそういう大変なこともイベントとして楽しみたいっていうことだと思うんだよ」

「うんうん」

「次に、綿菓子派なんだけど、そんなに本気でやりたくないけど、文化祭で何もしないのはもったいないと思っている層が集まってると思うんだよね。綿菓子は事前準備がそんなにかからないけど多分当日は忙しいでしょ? だからそんなに時間をかけたくないけど、とりあえず文化祭気分は味わいたいっていうニーズがあると思うんだ」

「確かにそうですね。私もその三つだったら綿菓子派ですし」

「で、最後の展示派だけど、これは当日フリーな時間を使いたいっていう層が集まってるんだよね。多分部活の出し物とかミスコンで当日働けないからだと思う。それにこの層は、焼きそばとか綿菓子とかで当日働けないと、なんだか仕事をしていないみたいで後ろめたさを感じると思うんだよね。事前準備に参加しようにも焼きそばと綿菓子だと当日いない人が関われる仕事ってそんなに多くないし。そういった意味だと展示だったらクラス全体の準備も少なくて当日時間を取られないからかなりいいんだ」

「なるほどです」

 小鳥さんはうんうんと頷きながら俺の書いた紙を見ている。

「まとめると、焼きそば派は忙しくてもいいから文化祭を楽しみたい、綿菓子派は少ないカロリーで文化祭気分を味わいたい、展示派は当日動きたくないけどクラスで働いていないという後ろめたさを感じたくない、っていうニーズがあると思うんだ」

「確かに、そういうニーズかもしれないですね」

「で、ここからそれぞれにアプローチしようと思うんだけど、案外このBL演劇がそれぞれのニーズにマッチしていてね。まず焼きそば派は、こういう楽しそうな演劇とか喜んでやると思うからこの層の人が基本的に演者をやってもらうと思う。小鳥さんの訳の分からない台本を見たらきっとみんな面白がってやりたくなると。それに、今回はBL演劇で、演者は男だけだから、なおさら男の多い焼きそば派の層にマッチしてる」

「……うーん、まぁそうですかね」

 どこか引っかかったように首をひねる小鳥さんだったが、そのあとすぐに頷いた。

 別に何もおかしくはないはずだ。文化祭を完璧に楽しみたいのであれば演劇くらいやりたいと思うはずだ。確かにBLということで二の足を踏む可能性はあるが、あの小鳥さんの台本を見ればやる気になってくれるはずだと信じている。

「で、綿菓子派については当日のお客さん案内とか、大道具の移動とか裏方的な役割をやってもらえれば文化祭気分を味わえるからオッケー」

「うん、それはそうかもしれないですね」

「で、最後に展示派は、事前の大道具とか小道具とかの作成をしてもらう。そうすれば、本人たちは後ろめたさも感じなくて当日は好きな時間を過ごすことができる。どう? 完璧じゃない?」

 言い終わって小鳥さんの顔を見る。どこか浮かない表情をしている。

「う~ん、本当にうまくいきますかね」

「大丈夫だって。絶対うまくいくよ」

「……そんなに立山さんが言うなら、大丈夫、なんですかね」

「うんうん。きっと大丈夫だよ」

 なぜか不安気な小鳥さんだが、俺は大丈夫な気しかしていない。

 二海さんが言ったようにそれぞれのニーズを完璧に満たしているのだから。

「で、ここからは俺からのお願いなんだけど、このことを小鳥さんの口から話してほしい」

「えっ! いやいや絶対無理です。私なんかそんな……。立山さんが話してくださいよ」

「いや俺じゃ無理なんだよ。もし仮に文化祭の出店がこのBL演劇に決まったとき、言い出した俺が取りまとめて監督的な立ち位置でみんなを動かさなきゃならない。でもそれだと本当に小鳥さんがやりたい演劇になるか分からないんだ」

「……」

「結局、これってBL演劇をするって決まることがゴールじゃなくて、小鳥さんの趣味全開の気持ち悪いBL演劇を学校中に見せつけるってことがゴールだと思ってるんだよ」

 なんだそのゴールとツッコみたくなるけど、少なくとも俺はそう思っている。小鳥さんの情熱にほだされた側の人間だから、彼女が考えている通りの演劇を見せたいと思う。

 だから、それを叶えるためには彼女自身がみんなの前で提案しないと意味がないと思った。

「俺がもしこの演劇の監督だったら、小鳥さんの台本に書いてたような俺様感とか萌えるとか、そういう細かいところが絶対表現できない。だから、小鳥さんに勇気をもって言ってほしい。そのための手助けはいくらでもするから」

 まっすぐ彼女のことを見る。最初は自信なさげにモジモジと体を曲げていたが、俺の言葉を聞いて彼女の背筋がピンと伸びたのが分かった。

「分かりました。私、やります」

 そう言う小鳥さんの瞳には強い情熱を感じて、それは協力すると決めた時に彼女から感じたものと同じ類のものだった。

「でも、ちゃんと台本作ってくださいね。私、アドリブで話すとか無理なので」

「おっけーおっけー。任せてよ」

 演劇の台本は作れるのにこういうのは作れないんだなと思うと少し面白かった。全く種類が違うから仕方ないのだろうけど。

「じゃあ来週の月曜日のホームルームで言おう。今日中に台本は作るから土日で練習してきてね」

「はい!」

 強い返事を聞いて俺は頷く。やる気がありそうでなによりだ。さて、次は原稿を準備しないとな。

「あ、ちなみに台本は、あの三本だったらどれが一番良かったですか?」

「あー別にどれでもいいんじゃない。正直違いがよく分からなかった」

 適当にそう答える。しかし小鳥さんの目がキラリと光ったのを見てそれが悪手であったことに気づいた。

「何を言ってるんですか? 全然違いますよ。一つ目は冴えない男が超イケメンハイパーマジシャンにいざなられて異空間に飛んでイチャイチャする話。二つ目は冴えない男が超ハイスペック細長男と一緒に急によく分からない異空間に飛ばされてイチャイチャする話。三つ目は冴えない田舎の男が都会の超マックスウルトライケメンと心が入れ替わってなんやかんやありながら異空間でイチャイチャする話。全然違うじゃないですか!」

「いや三つとも冴えない男とイケメンが何故か異空間でイチャイチャする話でしょ」

「いや分かってないですねー立山さん。異空間イチャイチャの良さを分かってないですよ!」

 やばい、完全にスイッチが入ってしまった。

「あ、ごめんごめん。俺が全くわかってなかったからとりあえず話を止め」

「いいですか? 異空間とはですね、BL界隈ではとてもとても尊くて」

 なんとか止めようとしたが時すでに遅し。

 何故か小鳥さんは異空間の説明から始めてしまった。

 それから本当に意味が分からないことを他のクラスメイトが来るまで永遠と聞かされ続けた。途中から全く頭に入っていなかったが一つだけ言わせてほしい。

 異空間イチャイチャってどういうジャンル?

 

 〇

 

 あっという間に土日は過ぎ、月曜日となった。

 俺は今日も六時台に目を覚ますことができた。この土日も朝早起きだけは徹底しており、毎日六時台に起きることができている。

 ただ、一つ悩みなのが睡眠の質が低いこと。

 俺はいつも十二時過ぎに寝ていて起きるのが六時であるため睡眠時間は六時間ちょっと。普通の人間だったらこのくらいの睡眠時間で大丈夫なはずなのだが、俺は日中帯に絶対眠くなってしまうのだ。この土日だって絶対に昼寝をしてしまっていた。

 日中帯に眠くなるということは、睡眠の質が悪いということ。

 だから睡眠の質改善のために色々と調べているのだが、いまいちピンと来ていない。アロマを焚くとか言われても普通の高校生には無理だし。ちょっと二海さんに相談してみようかな。いやもうさすがに構ってくれないかな。

 まぁ、そんな俺の悩みはさておいて、今日は小鳥さんがクラスメイトに演劇を提案する日だ。

 ちゃんと小鳥さんは練習できているのだろうか。俺が作った原稿は金曜日に彼女へ渡すことができているがそれでも心配だ。この土日も心配すぎてそれのことをよく考えてしまった。

 こんなことだったら小鳥さんの連絡先を貰っておけばよかったと反省する。

 ただ、逆にいえば小鳥さんがちゃんと練習しておけば、問題なくクラスメイトを納得させられる自信がある。 

「おはよう」

「おはよう。今日はご飯いる?」

「うん、もらおうかな」

「はーい」

 俺が朝早くおきてきたことで驚かなくなった母さんは慣れた手つきで料理を始めた。

 今日はいつもより三十分くらい早く家を出ればいいからそれなりに家でゆっくりできる。

 俺はリビングのソファに腰を下ろして朝のニュースを見る。そこにはカピパラの可愛い映像が流れていた。少しほんわかとする。昔はこんな映像を朝に流して、何になるんだと思っていたが案外心が安らぐんだな。

 そういえば最近は、心の空虚感を感じることが少なくなった気がする。朝早起きをすると決めてからまだ一週間しか経っていないけど少しは心が落ち着いてきたのかな。

『あなた、自分のこと好き?』

 二海さんの言葉が頭をよぎる。

 全然好きじゃない。だってまだ少しだけ朝早く起きられるようになっただけで、誰から見てもかっこよくなってないし。朝早く起きてもなにもしていない。有名人みたいにコールドシャワー浴びたり、朝散歩したり、そういうかっこいい習慣が身についてきたら少しは好きになれるのかもしれないけど。

「信二、ご飯できたわよ」

 母さんのその言葉で俺はダイニングテーブルに向かう。今日もバランスの取れた良い朝食だった。

 父はご飯を食べ終わったようで、会社に行く準備を始めていた。

「いただきます」

 いつも通りご飯とウインナーを一緒に頬張る。うん、やはりこれが至高だ。

 そんな俺の顔を見た父は、どこか満足そうな顔で頷いていた。なんかすごく恥ずかしい。

「じゃあいって、おっと!」

 父がきびつを返して玄関に向かおうとした瞬間、大きく体をよろけて膝から床につく。

「ちょっ、お父さん大丈夫!?」

「大丈夫大丈夫。気にするな。ちょっとよろけただけだ」

 心配そうに見つめる母さんを制して、父はゆっくりと立ち上がる。

 体を捻ったり膝を曲げ伸ばししているため、そこまで重症ではなさそうだ。

「じゃあ、行ってくるから」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 母さんはなお心配そうだった。俺は特段心配していない。だって、最近の父の背中は大きく感じて頼もしく見えていたから。

「大丈夫かしら、あの人」

 父が出ても母さんはそんなことを言っている。

「大丈夫だよ。昔から大きな怪我とかないんでしょ?」

「そうだけど、もうお父さんも五十近いからね。不安になるわよ」

「大丈夫だって。だって最近父さん、かっこいいもん。編集長でしょ?」

「……」

「え、なに?」

 母さんはじっと俺を見て固まっている。

「馬鹿ねあんた。お父さんは、ずっとかっこいいでしょ」

 その声音はどこか寂しそうでもあり、嬉しそうにも聞こえた。

「うん、そうだったかな」

 何と答えるのが正解なのか分からず、あいまいにそう返答することしかできなかった。

 その後、ご飯を食べていつものギリギリの時間よりも四十分ほど早く家を出た。

 学校に着くとすでに小鳥さんと二海さんがいた。

 小鳥さんはブツブツ呟きながら机に突っ伏している。

「小鳥さんおはよう。ちゃんと練習できた?」

 そう聞くと小鳥さんは、バサッと顔を上げて俺を見る。これまで見たことがないくらいに顔が白くなっていた。

「吐きそうです」

「やばいことはよく分かった」

 すごく不安になってきた。この段階で緊張してたら持たないでしょ。大丈夫かな。

「ほら、小鳥さん肩の力抜いて、リラックスしよう。ほら深呼吸」

「すーはー、すーはー、あ吐きそうです」

「やめてやめて」

 深呼吸で吐き気を催してしまった。最悪だ。

 なんとか吐き気が止まってくれた小鳥さんは最初の通り机に突っ伏してしまった。まずいな、このままだと絶対に失敗する。なんとかこの緊張をほぐして、いつもの小鳥さんに戻してあげたいけど……。あ、そうだ。

「小鳥さん、一つ提案なんだけどね。あの演劇の台本についてなんだけど、俺、異空間イチャイチャじゃなくて、サバンナイチャイチャの方がいいと思うんだよ」

 異空間に変わるイチャイチャスポットとして俺が選んだのはサバンナ。理由はただ小鳥さんが好きそうなところを選んだだけだ。

 そうすればきっと彼女は乗ってくる。

「は?」

 狙い通り、小鳥さんは首だけ動かして俺を睨んできた。

「あんなに熱弁したというのにまだ異空間のすばらしさを分かっていないようですね。というかそもそもサバンナってなんですか? 脈絡なさすぎでしょストーリーとして」

 異空間も十分ないと思うよ、脈絡。

「金曜日にも言いましたが、異空間というのはですね」

 そこからまた彼女の異空間講義が始まった。やっぱり内容は意味が分からなかったけれど、その表情を見ると少し緊張がほぐれてくれたように思う。

 そして、運命のホームルームがやってきた。

「よーし、じゃあ今日こそ文化祭の出し物の最終決定をするぞー」

 担任の椎葉先生はそう言って黒板に、『焼きそば』『綿菓子』『展示』を書いた。

「ふーふー」

 後ろの席から荒い鼻息が聞こえる。理由は明白で流石にここまで来て緊張しないなんて無理だと思う。でもきっとカチンコチンに固まっているわけではなくて、少しは朝の会話でほぐれていると思いたい。

「確かこの三つが候補だったよな? もう今日はこの中から多数決で決めちゃおうと思ってる。あんまりこういうやり方はしたくなかったけど。一応聞くけど他にやりたいことある人いる? 今だったらまだ大丈夫だよ」

 椎葉先生は教室を見渡す。小鳥さんは俺の後ろの席だから、彼女が手をあげることができているかは確認できない。

 でも、椎葉先生の視線で間接的にそのことを確認することができた。

 椎葉先生の視線は俺の少し後ろで止まって、その表情は少し驚いたようだったけどどこか嬉しそうでもあった。

「お、珍しいな。じゃあ小鳥、何をやりたいんだ?」

「は、はいっ」

 その返事は震えていて、緊張しているのが声だけで分かる。ここまできたら俺は目を閉じて、彼女がうまく話すことができることを祈るだけだ。

「あ、わ、私は演劇をしたいと思っています! それも普通の演劇ではなくBL演劇です。その理由としてはこの文化祭が人生で最後のちゃんとできる文化祭かもしれないので、それだったらみんなの思い出に残るようなことをしたいと思ったからです。台本はもう作っていて役割とかも大体決めてます。こちらを見てみてください」

 小鳥さんは印刷してきた自分の台本の一部をクラスメイト全員に配る。それを見たクラスメイトは噴き出すように笑っていたり、「なにこれ」と面白がっている。

 このあたりは予想通りだ。今配った箇所は台本の一部で、俺が心底意味が分からないと思っていた頭を撫で合うシーン。これを見てしまったら、この演劇に興味を持たざる負えないはずだ。

「台本は見てもらっている通りです。で、焼きそばをやりたいって思ってる人は男子が多くて演劇とか好きだと思うので演者さんとしてやってもらいたくて、綿菓子をやりたいって思っている人は当日の受付とか舞台の準備とかをやってもらって、展示がいいなと思ってる人は事前の小道具に準備とかだけやって当日は時間をとれるようにしたいと思ってます。さっきも言ったように最後の文化祭でなにか面白いことをしたいと思っています。よろしくお願いします!」

 俺は心の中でガッツポーズを決める。多少言葉違えど、ほぼほぼ俺の台本通りに話すことができている。うん、これなら納得できるだろう。

「あ、あと、BLは私の個人的な趣味ですごくすごくこの演劇を見たいと思ってます! よろしくお願いします!」

 最後にすごいアドリブを持ってきた。小鳥さんやるね。この一言で小鳥さんの熱量も伝わったはずだ。

「へーBL演劇、やばさがやばいね」

「やばいこえてやばやばになるくらいやばい。まじやばい」

 最初に口を開いたのはクラスの中心の女子グループだった。相変わらずやばいという語彙しかないが、表情から察するにポジティブな印象であることは間違いなさそうだ。

「うん、確かに面白いかも」

「BL演劇なんて聞いたことないしね」

「男でなんか色々するんでしょ。なんかウケる」

 その後、口々にそんな言葉が伝播していく。想定通り、展示派を中心に綿菓子派まではこの演劇を前向きにとらえているようだった。チラリと小鳥さんを見るとうれしそうに笑みをこぼしていた。

 ただ、一つだけ気になることがある。一番巻き込みたかった、というか一番巻き込まなければならないと思っていた層の人たちがどこか不満げなのだ。

「あの、ちょっといいっすか?」

 そしてクラスの中心グループの一人で焼きそば派の筆頭であった神宮寺が怒気を含んだ声を出す。一瞬で教室が静まり返る。

「えっと、BL演劇? クソでしょ。何故か勝手に俺らが演者やることになってるし。BLなんていうオタクのもんをなんで俺たちがやらなきゃいけないわけ?」

 言いながら神宮寺は小鳥さんの配ったプリントを宙に捨てる。

「そうだよ。俺たちは焼きそばがしたいんだよ」

「なんだよBLって。絶対やらねーからな」

 神宮寺の言葉から口々に焼きそば派だった男たちが文句を言いいだした。クラスの雰囲気が混沌としているのが分かる。

 まずい、まずいな。

 これは俺のせいだ。小鳥さんは期待通りに、いや期待以上のプレゼンをしてくれた。あとは俺の見立てが甘すぎたんだ。小鳥さんの台本を見れば男はみんな興味が沸くと思っていたけど、それはオタク耐性のある俺だからであって、オタクではない彼らにとってはそれほど興味をそそられるものじゃなかったんだ。

「あ、えっとー」

 小鳥さんはぶるぶると手を震わせながら、助けを求めるように俺を見る。

「はぁ、はぁ」

 息が切れる。俺もどうしていいか分からない。彼らをどうやって納得させればいいか分からない。

「ねぇ、小鳥さん。俺たちにBLしろっていうの? そりゃないよ!」

「え、いや、その」

 小鳥さんの声は震えていて、瞳から雫が零れ落ちそうになっていた。

「いや、お、俺は良いと思うけどな、BL演劇」

 気づけばそんな言葉を吐いていた。クラス中の視線が俺に集まる。当然神宮寺からも鋭い視線を向けられる。

「ほら、面白そうじゃんBLなんて。特に神宮寺みたいなかっこいいやつがやったら絶対人気になると思うけど」

 何の装備も持たないまま震える声なんとか静寂を埋める。でもこんなことで事態が好転するわけないことは、俺が一番分かっていた。

「立山何言ってんの? 全然面白くないから。痛々しいだけだから。あ~そういやお前もちょっとオタク入ってたな」

 吐き捨てるように、そして見下すように神宮寺は俺を一瞥する。

「あ、ま、そうだね……」

 何も言い返せない。

 まただ。また俺は失敗した。自分で勝手に盛り上がって、小鳥さんまで巻き込んで、自分の身の丈合ってないことして、自分の意見ばっか尊重して周りが見えてなくて、結局最後はうまくかなくて。

 まぁそうだよ。所詮俺なんてこんなもんだ。やるって決めたことを全くできずにずっと諦めてきた人生なんだ。慣れてるだろこんなこと。

「ごめん、小鳥さん」

 小さな声で呟いた。小鳥さんの顔は見ることができなかったから、彼女に届いているかは分からない。

 自分の情けなさに顔をふさぎたくなる。なんだか、急に自分が惨めに思えて心がどんどんと広がって、また空虚な何かが俺の胸に鎮座してしまった。

 やっぱり、俺は……。

「私もいいと思います。BL演劇」

 どんよりした教室の空気を変えたのは、一人の女子生徒だった。

 彼女、二海千夏はいつも通りピンと伸びた姿勢で、いつも通り美しかった。

「立山君が言ったみたいに面白そうだと思ったので。確かに、神宮寺君みたいにかっこいい男子のBL演劇あったら見たいと思う女性は多いと思いますよ」

 表情を変えずに淡々とそう述べた。

 二海さんの意外な助け舟に、俺も小鳥さんも口を開けて驚くことしかできない。

 そしてそれはクラスメイトも一緒にみな一様に驚いている様子だった。

 その中でこの言葉に一番反応したのは、かっこいいと言及された神宮寺。あからさまに嬉しそうな顔になった彼はさっきまでの怒りの感情はなくどこか気分が良さそうに見える。

 あの二海さんからかっこいいと言われたら誰だって嬉しいに決まっている。

「まぁ二海さんがそういうなら、な?」

「やぶさかでもないとか、思ったり」

「俺はもともと面白いと思ってたけどね?」

 演劇反対派だった男たちが口々にそんなことを話始める。

 空気が少し変わった。

 さっきまでのピリピリした様子はなく、『二海さんが言うなら別にBL演劇をやってもいいか』という雰囲気に変わっていったのだ。

 その雰囲気を察知した焼きそば派の男子が空気を引き戻そうと声を出す。

「ちょ、なんか演劇する流れだけど、BLなんて俺は嫌だよ! なぁ神宮寺!」

 彼は頼みの神宮寺にボールを投げてみるが。

「ん? あーもう別にいいんじゃね? 面白そうだし」

「え?」

 神宮寺はもう二海さんの手の中だった。

 結局、その男子の抵抗もそこそこに多数決を取ることになり、ほぼ満票でBL演劇が採用された。

「おー先生も演劇なんて初めてだな。なんだか面白そうだ」

 椎葉先生も思い深げにそう言う。

「じゃあ、リーダーは小鳥に任せていいよな?」

「え、あぁ」

 何が起きたのかうまく飲み込めていない小鳥さんは戸惑ったように俺を見るが正直俺も頭の整理ができていない。

 とりあえず「別にいいんじゃないか」とだけ言っておいた。

「はい。大丈夫です。みなさん、よろしくお願いします」

 小鳥さんはそうやって深々とクラスメイトに対して深々と頭を下げた。

「こちらこそよろしくね!」

「面白い演劇にしような!」

 クラスメイトからそんな言葉を浴びせられている小鳥さんはとても嬉しそうだった。

 とりあえず、結果的にうまくいったからそれでいいのかな? ほとんど二海さんのおかげな気がするけど。

 二海さんを見ると目が合った。彼女はまた悔しそうな顔で俺を睨んでいる。

 え、なんで怒ってるの? 俺たちのこと助けてくれたんじゃないの?

 そんな疑問が胸の中に渦巻つつ、結果的に小鳥さんと俺は無事、文化祭の出店で演劇をするという目標を叶えることができた。

「よしっ、じゃあ今年の文化祭は演劇をするということで。小鳥を中心にみんなで協力して頑張ること。じゃあ今週のホームルームは終了だ」

 椎葉先生のその言葉で一気にクラスに喧騒が広がる。

 話している内容のほとんどが文化祭の演劇の話で、みな一様に面白そうだと話していた。

「ふー」

 安堵からなのか長い息が出た。すると後ろからチョンチョンと肩を触られる。

「ありがとうございます。本当に立山さんのおかげです」

 小鳥さんはそんなこと言ってくれる。

 いや別に俺のおかげじゃない。結局俺は失敗していて、それを全部二海さんがカバーしてくれたんだ。

 「そんなことないよ」と言おうとしたが、その時にはもう小鳥さんは女子グループに囲まれていた。

「ねぇねぇ、小鳥さん、この台本めっちゃいいね」

「すごい面白かった!」

 これまで、こんなに人に囲まれることがなかった小鳥さんは慌てていたが、その表情は晴れやかだった。

 いや、別に俺が失敗したとか、二海さんがカバーしたとかそういうのじゃないな。

 結局小鳥さんの誠実さと情熱がみんなに伝わったからこそ、この結果は生まれたんだ。小鳥さんが頑張ったからできたことなんだ。

「よかったね。小鳥さん」

 小さくそう言って俺は前を向く。

 目的は達成したというのに俺の心はそれを素直に喜べずにいた。なんだろ、この感覚。

 すると自分の机の上にあった先が丸くなってしまったHBの鉛筆が目に入る。

 あ、これ図書館に返さないと。

 


 昼休み。俺は鉛筆返すために図書館に訪れていた。

 あのホームルームが終わってから何か鬱蒼とした気持ちが心に溜まっている。

 図書館に入ると今日もいつも通り静かな雰囲気が流れていた。

「こんにち……は」

 いつもどおり受付の図書委員に挨拶をしようとしたら、思わず声が止まった。

「どうも、こんにちは」

 その人はいつものような温和な雰囲気が漂う図書委員ではなくて、むしろ苛立ちをビンビンに俺に向けていた。

「あ、二海さんも受付とかするんだね」

「私、図書委員なので」

「そうでしたね」

 二海さんの語尾に所々圧を感じる。あのホームルームの時からずっと俺に対してこうなんだよな。なんでだろう。

「あ、あのこれ、先週ここで借りた鉛筆です返すの忘れていて」

「あ、そう。それ戻すの隣の小教室になるから一緒に来てくれるかしら」

 いや絶対そんなことないでしょ。

 だってこれ取ってきたとき小教室とか行ってなかったもん。きっと図書館内では話せないから小教室の中で俺のことボコボコに言うんだろうな。うわ、なんて言われるんだろう。

「わかりました」

 恐怖を感じながら二海さんと二人で小教室に向かう。いつも通りそこには古びた本が並んでいるだけだった。

 ていうかここに来るのもこれで三回目だな。しかもこの一週間くらいで。もうヘビーユーザといってもいいのではないだろうか。

「あの鉛筆はどこに……」

「あーその辺に適当に置いておいて」

 めっちゃ雑。一応この鉛筆を返す事がここに来た建付けなんじゃないの?

「で、本題なのだけど」

 本題って言っちゃったよ。そういうんだったら普通に誘ってくれたらよかったのに。それはそれで二海さん的には嫌だったのかな。

 そんなことを考えながら、ゴクリと唾液を飲み込み、次に続く二海さんの言葉を待っていた。

「あなた、うまく私を使ってくれたわね」

 二海さんは悔しそうな顔だった。教室で何度か見たこの表情。

 うまく、使う?

「えっと、なんのこと?」

「とぼけないでよ。あの一連の教室でのやり取り、あれ最後に私に発言させることで上手く全体収めて且つクラスの士気を上げようっていう魂胆でしょ。全くよくやるわ。私としては立山君に操られたみたいで非常に不愉快なのだけど」

「え、いや」

「そもそもここで相談を無理やり聞かされた時点でダメだったわね。あれで完全に巻き込まれたしアドバイスまでしちゃったから。で、そのアドバイスを実直に実行したあなたが追い詰められてたらそれは助けてしまうわよね。はぁー、完全に立山君の手のひらの上だったわ、あなたを認めざる負えないかもしれないわ」

 なんかすごく曲解して、しまいには俺のことを認めようとしている。

「え、いや別に全然狙ってないよ?」

「……え?」

 俺の言葉に、そんなわけないでしょと言わんばかりの目を向けてきた。

 が、俺の真っすぐな目を見てその目は戸惑いの色に変わる。

「え、いや、あなたの狙いは最後に私に発言させることで、ほとんどのクラスメイトが納得した上で演劇をやるという状況を作りだすことでしょ? そのために前ここで相談といって話を持ち掛けたり、朝の教室でも私に聞こえる声で色々アピールしていたのでしょう?」

「いや全然違うけど。ここで相談したのは普通に迷っていただけで、朝の教室は別にそこまで意識してなかったけど」

「え、じゃああの神宮寺君の時はどうしようとしてたのよ。あの戸惑いも私の良心をくすぐるための演技だったんじゃないの?」

「あいや、普通に詰んだと思った。失敗したなって」

「えぇ?」

 その言葉を聞いて二海さんはさらに顔をしかめた後。

「あーなるほど」

 何故か納得したように頷いた。

 今彼女が何を考えているかは分からないけど、どうしても俺は伝えておかなければならない言葉がある。

「別に、俺はそこまで頭が回るわけじゃないよ。ほんとに視野がせまくて一度決めたら周りが見えなくなっちゃうような、そんな人間だよ。でもそんな人間のできもしないような計画を二海さんが手助けしてくれて実現してくれた。あの時二海さんが発言してくれなかったら絶対にうまくいってなかったし、俺もまた一層自分のことを嫌いになってた。だから、ありがとうございました、って伝えたい」

 そう言うと二海さんは口角を上げた。

「まず、あなたの手のひらの上で踊らされてなかったことに心の底からの安心を感じているわ」

 いや俺が二海さんを操るとか、そんなことできるわけないから。

「それと、私の行動であなた、いやあなたと小鳥さんを助けることができたのなら良かったと思うわ。でも私の力なんて微々たるもので小鳥さんが頑張ったこともすごくこの結果に響いていると思うわ」

 その通りだ。結局小鳥さんが良い人だったからクラスの人も彼女を応援したいと思ったのだと思う。

 二海さんはジッと俺を見る。

「それらを踏まえた上で私は、この結果に一番貢献したのは、あなたの行動だと思うわ」

 ふっと心の何かが軽くなったような気がした。

「いやいや別にそんなことは」

「別に謙遜する必要はないわ。だってそうでしょ? 決定打となった私の発言もあなたが行動していないと出てこなかった。小鳥さんがああやって発言したのもあなたの言葉がなければなかった。クラスメイトのほぼ全員が演劇に納得できたのもあなたがそれぞれのクラスメイトに対して細かく分析がしていたから、違う?」

 違う、わけではないと思う。確かに今二海さん言ったことはすべて俺がやってきたことだ。

 でも、結局は失敗している。俺の計画のままだったら、二海さんの手助けがなかったら破綻している。

「きっとあなたはこの成功が運によるものだと思っていると思うの。きっと私のおかげだからとか思っているのでしょう?」

「……うん、だから胸がモヤモヤするんだと思う」

 俺の言葉にはぁーとお大きくため息をつく二海さん。

「ったく、あなたは完璧主義すぎるのよ。何でもかんでも自分の思い通りに行くわけないでしょ?」

「……」

「勿論、何かを目指す過程では完璧を目指すための努力をするべきだと思うわよ。でもその努力をしたのであれば、それに対する結果は完璧を目指す必要はないと思うの。そこはもっと楽観的に、うまくいったら喜んでいいところだと思うのよ」

 そう、なのか? 俺はこの結果で喜んでいいのか?

「あなたは、結果を出すために今あなたのできることを頑張った。そして結果もついてきた、今はそれだけいいんじゃないかしら」

「……ふっ」

 思わず笑みがこぼれる。と同時に鬱蒼としていた心が軽くなっていくのを感じる。

 と同時に自分のことを少しかっこよく思えた。もしかしたら、自分のことをかっこよく思うためには他人から承認されることが一番いいのかもしれない。

 よく人は一人では生きていないというが、まさしくその通りなのかもしれない。人は他人に承認されることで自分を好きになるのだろう。

 そんなことを考えている俺の様子を見て、二海さんも微笑を浮かべている。

「嬉しそうね」

「そりゃまぁ、あの二海さんに褒められましたから」

「そう。それでどう? この一週間で少しは自分のことかっこいいと思えるようになった? 自分のこと好きになれた?」

 なんだろう。やけに今日の二海さんは優しい気がする。今俺を見る瞳も、まるで成長するペットを見ている飼い主のようで。え、てことは俺二海さんに飼われてるってこと? ……悪くはないな。

「うーん、どうだろ。でもちょっとだけかもしれないけど一週間前よりはかっこよくなれたんじゃないかなって思ってるよ」

「そう。それは良かったわ」

「二海さんの言ってくれた早起きのおかげだよ」

「どういたしまして」

 彼女は満更でもなさそうに笑みを浮かべた。

 やっぱり二海さんはすごい。同い年とはとても思えないほど大人ですべて達観しているように見える。

 そんな美しい横顔を見ていると、ふとあることを思い出す。

 早起きと言えば、最近俺はあることに悩んでいたんだ。

「あのさ、実は一つ相談したいことがあって、最近睡眠の質について悩んでてて、どうしたら睡眠の質って改善すると思う?」

「あなた、私のことを検索エンジンか何かだと思ってる? あと別に私はあなたの相談に乗る義理がないのだけど」

 嫌そうに顔を背けるが俺はもう知っている。彼女が本当のお人よしで優しさを持っていることを。

 そして俺は今日の一件でその優しさに、存分に甘えることを決めた。

「……まぁ一つ言えるとしたら、ちゃんと運動した方が睡眠の質はいいと言われているわね。例えば寝る前に筋トレするとか」

「ありがとうございます!」

 明日からは、筋トレを始めてみよう。

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