第五章 道化は運命に抗う

 早朝、狼に餌をあげていた。P‐ユニットで操作しているので、無感情で貪っている。食べさせているのは干し肉だ。自分の口でなければいいらしく、食べさせるのは出来る。

(こいつは散々殺して食べてきているだろうし)

 そう考えれば気持ちも楽だった。肉食獣なので、そういうものだろう。

『可哀想ではないですか?』

『名前を付けないことが? 意識を乗っ取ってることが?』

『両方です』

 ふと、フレイアの言葉を思い出す。

 ・人間を害さない。

 ・勝手に離れない。

 二つの制約を付けて狼に体を返す。

「ぐるるるる……」

 意識を取り戻した狼が、唸り声をあげて威嚇してくる。

 名前、付けてやるかと思考を巡らす。

「風太郎(ふうたろう)と風之介(かぜのすけ)どっちがいい?」

 意味が分かってない様子だ。動物はこれだから話にならない。

「名前、付けるんですか? だったら風太郎の方がいいと思います。ふーちゃんって呼ぶと可愛いんじゃないでしょうか」

 隣にいるフレイアからの推薦。即決する。

「じゃあそうしよう。風太郎で。おいお前、俺に負けたんだから服従しろよ」

 そっぽを向かれた。和解の道のりは遠そうだった。

「名前といえば、なのですが……」

 フレイアがおずおずと喋りかけてくる。

「ん、なに?」

「私のお腹に赤ちゃんがいると思うので、その子の名前も考えたいなって……」

「…………!? どういうこと……!?」

 心底驚いて顔を見る。

 至って真面目な様子だ。どうやら冗談ではないらしい。子作りの記憶はない。

「まさか、知らなかったんですか? 実は男女がキスをして一緒に寝ると、女性のお腹に二人の子供が宿るんですよ」

 お腹に手を当てて口元を緩めている。

 何言ってんのこの子、と思わずにはいられない。

(いやまて、ここは異世界、生殖行為の仕方が違うなんてことも……あるわけないだろ!)

 一時的にテンパる。これだけ構造が似通っているのに、子孫の残し方が異なるわけがない。

 この国の性教育はどうなっているのだろう。

「えーっと、フレイアさん? その情報はどこから?」

「昔読んで貰った絵本です。……その、急にさん付けされると不安になってしまいます……」

「あ、ああ。すまんフレイア」

 名前を言い直すとくすぐったそうに身を捩っていた。

 というかソース絵本かいと心の中で昭和の漫画ばりにズッコケて引っくり返る。

 そんな知識で異種交配の研究がどうのと語っていたらしい。イメージしていた光景が全く異なっていたであろう事に頭を痛める。

 しょうがない、ここはやむなく教鞭を執るほかないだろう。

 近くにちょうど良く落ちていた木の枝を手に取って手招きする。

 地面に絵を描きながら、雄しべと雌しべがどうたらこうたらと新たな生命誕生への道程を説いていく。外脳を使えば早いのだろうが、生々しい映像はショッキングだろう。

「な、なるほど……それで昨日、服を脱がそうと……」

 生命の理へと到達したフレイアは愕然と呟いた。キャベツ畑やコウノトリを信じていた類の少女は、辿り着いた真理に動揺している。

「だとすると、私のお腹に赤ちゃんはいないんですね」

 残念そうに言う。

「でも、子供を授かる行為をしてくれようとはしていたって事ですよね」

「まぁ……それはそう、だね」

 せっかく安らいでいる様子なのに、アレは純粋なものではなかったと言ってしまうのは無粋だと考える事にする。人を不幸に陥れる嘘は良くないが、全く嘘をつかない人も、それはそれで気を使えない嫌な奴だと牡丹も言っていた。相手の事を考えてなら多少はいいだろう。

「なら、いいです。同じ気持ちではなかったのかと思ってしまって、悲しくなりそうでした」

 いいらしい。昨夜、手を繋いで寝ただけのつもりだったが、どうやらフレイアは並々ならない決意で臨んでいたようだ。

 覚悟の違いに少し戸惑うが、そんな風に想ってくれていた嬉しさが勝った。

(俺達の間に子供を儲けられるかは不明だけど……)

 同じ生物に見えても、別の世界の住人なのだ。

(……そういうの、今は考えないようにしよう)

 不穏な気付きを頭の隅に追いやり、フレイアの表情を観察する。

 笑っているとまでは言えないものの、綻んでいた。瞳をまっすぐこっちに向けてきて、何かを待っているような佇まい。起床時からこんな調子で、傍から離れない。可愛い。

(ずっと俺に自分を差し出し続けてくれてる、みたいな……)

 試しに手を伸ばして頬に触れてみる。うっとりと目を細めて、何も言わずに頬擦りしてくる。髪が触れてくすぐったい。動物のようなコミュニケーションの取り方だった。

「……フレイア、前向きになれそう?」

 昨夜の会話を思い出し、訊いてみる。

「はい……」

 終わらない幸せな夢を見ているような顔をする。

「あなたを想う気持ちが、私の中を吹き抜けていって……全部洗い流してしまいました。もう昨日の私を思い出せないくらい。満たされて……浮いてしまいそうです」

 わだかまりのなくなった、どこまでも素直な言葉。一点の曇りもない好意。

 素顔で見せるフレイアの心は、澄みきった空よりも透明で、綺麗だった。

「よかった……」

 この愛らしい少女を操り人形にしようだなんて邪念は、跡形もなく消滅している。

 それから行軍が開始されるまでの時を、大切に過ごした。

 とりあえず、キスはした。

 もう何も、見失わない。


     ※


「敵襲ー!」

 行軍開始から二日目の深夜。

 設定時刻を異世界の時計に合わせたP‐ユニットによると、零時を回っている時間帯。

 何者かの襲撃を伝える兵士の叫びが拠点に響き、朝陽の眠っているテントにまで届いた。

 飛び起きて、傍らにある剣を手に取る。一般兵用のものだ。

 兵士達と外に出る。テントが密集していて見通しが悪く、襲撃者の姿は見えない。

 フレイアとは離れていた。フリーデンベルグに希望すれば、ずっと一緒にいる事は簡単に出来ただろう。でも、そうはしなかった。

 ちゃんとしなければならないと思ったからだ。

 これからこの世界で、フレイアと生きていく。その為には、しっかり地に足を付けた判断をしないといけない。責任を持った行動をしなければいけない。

「…………!」

 獣の獰猛な鳴き声が聞こえて、誰かの悲鳴が上がった。

(このパターンか……!)

 最悪の状況になってしまったかと、苦い思いで身を強張らせた。

 アデイルの軍事行動に対する賊の対応は三つに大別されると考えていた。逃亡、降伏、反撃だ。沈黙はないだろう。逃亡が最有力で、降伏を期待していたのだが、まさか夜襲による反撃とは。あっても篭城だろうと見込んでいたし、国家の軍に反攻する可能性は低いはずだと高を括っていた。どうやら、そう上手くはいかないらしい。運の悪さに辟易し、気分が滅入る。

 野生の獣と遭遇しただけかもしれないが気軽に構えるべきではない。最悪を想定して動かなければ命取りになる。予想を証明するように、所々で襲撃を知らせる声が上がった。そして――

 兵士達と幾つものテントを蹴散らして、異形の生物が現れた。

(あれが、異種交配の……!)

 月明かりに照らされた、双頭の黒い毛並みの大型狼。高さだけでも二メートル程もある。正面からでは全長を目算できないが、相当の巨体だろう。耳まで裂けそうな大きな口にずらりと並ぶ鋭利な牙が剥き出しになっており、噛み合わされている。まるで神話生物オルトロス。

 今日一日あれやこれやと面倒を見てくれたフリーデンベルグに聞いた話では、異種交配の研究で生み出された生物は魔法薬物で巨大化している可能性があるという事だった。このサイズのデカさは獣本来の姿ではなく、人為的な影響がありそうな気がした。

「…………ッ!」

 こちらに気付いた双頭の狼と視線が交錯する。猛獣が放つ殺意の籠った眼力に射竦められないように、手に持つ剣を握り締めて、対処する心構えと姿勢に移行する。

 これは、言ってしまえば既に見た光景だった。明日に備えて寝る前に、飽きるほど身も毛もよだつ想像をしておいた。それらと比べれば、まるで現実的の範囲内。この程度ならば、動揺と恐怖で立ち尽くすような事はありえない。弱気を打ち払いたくて、そんな風に粋がる。

「おい、こっちに来たぞ!」

 誰かが言った。こちらを目掛けて走り出した双頭の狼を凝視する。

 撃鉄を起こすように呪いの指輪へ意識を向けて戦う力を求める。通常の目で見るだけでは恐ろしい速度だった双頭の狼が、魔力を込めた視界の中で急速に鈍化する。

 フリーデンベルグから貰った軍靴の靴底から魔力を地面に染み込ませる。

 気根(きこん)。魔法による高速戦闘は、地面と足裏の摩擦がなくなるように工夫しなければ実現しない。魔力を通しやすいように設計された靴底から、魔力を地面に染み込ませて一時的に根を張った状態にする。急場凌ぎの熟練度だが、フリーデンベルグが一通り指南をしてくれた。魔力に粘性を持たせるだけでもいいのだが、こっちの方が戦闘技術としては理想らしい。気根は基礎にして奥義だと言っていた。

 猛然と突っ込んできた双頭の狼を、横に飛び退いて避ける。足の接地面が離れるタイミングで気根を解除しての回避だった。

 ここは兵站部隊であり、戦力は乏しい。逃げ遅れた兵士達を吹き飛ばしながら勢い良く通り過ぎていった双頭の狼は、後方に居た別の兵士達に剥き出しの殺意を向けたようだった。

「…………っ」

 この場において敵の戦力を削っていいものか、朝陽は悩んでいた。逃げに徹したかった。

(こいつらを生み出したのは人間の身勝手……!)

 被害者達への慈悲というよりは、迷いだ。賊の研究材料になっている獣達か、共存できそうな異世界の人間か、どちらの味方であるかを決めかねていた。どちらも遠い世界の住人で、等価。朝陽の魂は、未だに地球に住んでいた。

(でも、この人達はフレイアの……!)

 この国の人達は、あの子が守って来た人達で、守りたい人達だ。

(そうだ、フレイアは……)

 無事なのだろうか。どこにいるのか、おおよそしかわからない。会いに行って抱きしめたいと思うのは守りたいからか、安心したいからか、その両方か。

 後ろから獣の咆哮と断末魔のような絶叫が響き、不自然に途切れた。

 振り返り、見る。魔獣が兵士の上半身を噛み千切り、そのまま貪り食っていた。襲わせる為に、空腹にされているのかもしれない。

(っ……なんでこんな世界なんだよ……! ここは……!)

 不条理に悪態をついて、歯痒さに拳を握る。どれほどの苦渋であっても、この世界の現実を望むままに修正する力はない。少し気を抜けば、たちまち命を落とすだろう。

 この世界は、常に残酷な選択を突き付ける。どれが大事かと、優先度を定めろと。

(くそっ……! 俺は、どうすれば……!)

 奇襲を受けて、そこかしこで純然たる生存競争が始まる。影に気付いて上を見れば、翼で飛行している類人猿の姿が横切った。冷気で地面を凍てつかせる、変わった尻尾が複数生えた狐。念力で岩をぶつける、蝙蝠の羽を持つ猪。いつのまにか戦場となったこの場には、人間と鳥獣飛禽が入り乱れている。日常のように、命が消し飛んでいく。

 強がって誤魔化していたが、足元から這い上がる震えは正常な思考能力を奪っていく。

 ――そこに。


 轟! と、獣達の進撃を阻むように炎の壁がせり上がった。


「ここ一帯の戦線はフレイアが維持する! 全員、撤退して本陣に合流、態勢を立て直せ!」

 身長ほどもある巨大な剣を携えた少女――フレイアの声が戦場に凛と響いた。

 突発的な乱戦。阿鼻叫喚に陥りかけていた兵士達は、その掛け声に、一様に安堵の色を表情に滲ませたように見受けられた。

 炎の壁は下手に燃え広がることはなく、触れた物だけを灰に変えていく。

 燃え盛る炎の如き苛烈さで、発光現象を伴うフレイアが炎の壁に照らされた戦場を駆ける。異形の獣達を切り伏せ、追い払っていく。

 フレイアの檄と勇姿、その名に活力を与えられた兵士達が戦場から離脱して行く。迫害している割には、歴戦の英雄に鼓舞されたかのような立ち直り方だった。九死に一生を得られたのだと、追撃を警戒しながら我先にと後方へ逃れて行く。

 フレイアは何故こんな事ができるのか。朝陽は恐怖で声も出ないほど怯えているのに、まるで自分だけを標的にしろと主張するようにフレイアは堂々と己の存在を誇示し、あえて注目されようとしている。死の気配が絡みつく戦場で、その身に敵意の矛先を集め続ける。

 どんな景色を見て、どれほどの経験を積み重ねればこれほど強靭な精神へ至れるのか。

 走り回る、毅然と背筋の伸びた姿を目で追う。

 小さくて、華奢で、頼りなさそうな少女だ。

 なのに、ここにいる人達の荷を背負い切れてしまえそうな程、大きく見えた。

(だけど――)

 本来ここにいる人達が負うべき負担を纏めて肩代わりするなんて、個人に、年端もいかない少女に耐えられる地獄とは思えない。

 これは、ひどくおかしい事のように感じた。一人の少女を盾にして逃げる。それが、いい歳をした男達が雁首を揃えてやる事だろうか。フレイアの戦闘力が群を抜いているにせよ、こんな馬鹿げた状態を容認している環境が気持ち悪くて仕方がなかった。

 皆を守ろうと、こんなにも一途にその身を擲つフレイアの心配を誰もしないなんて、していたとしても、はっきりとわかる形で行動を起こさないなんて、そんなのはどうかしている。

 こんな光景がこれまで幾度となく繰り返されてきただなんて、絶対に、間違っている。

 フレイアは戦う事に納得しているのではない。諦めているだけだ。力がなければ、求められなければ、たぶん戦いになんて身を投じなかったのだから。

「…………っ」

 だが、賢い者ならわかるだろう。ちっぽけな正義感を勝算も無いまま押し通すのは傍迷惑な勘違い野郎だと。弱者が残っても、足を引っ張る。人間は身の丈に合う行動をとるべきで、物事には引き際がある。それを自覚してなお正しい選択を行えないのは愚か者だろう。

(そんな理屈で――!)

 そして――ここに居るのは勘違い野郎で、愚か者だった。

(逃げられるわけ、ないだろ!)

 激情が噴き出す。同情でも、愛情でもなかった。ただ納得できなかった。こんなのが当たり前だなんて、意地でも認めたくなかった。

 殺したくないと言いながらも無我夢中で剣を振るうフレイアが、声もなく、涙も流さず泣いているように見えた。

 何ができるかわからない。でもせめて、あの子と肩を並べられるようになりたい。

「「ガルルル……」」

 目の前に、双頭の狼が立っていた。

 覚悟を決める。自分だけ手を汚さない。そんな綺麗で利口な生き方は、もう出来ない。

「【昏い棺桶(ディアブロ)】……!」

 呟くと、呪いの指輪に象眼された血色の宝石が輝く。

 ルインハイドの指輪には、能力が二つある。

 指輪の材料となった青い毛並みの鹿は、指輪と同じ能力を持っていた。アデイルの建国時代に乱獲されて今は絶滅しているが、王都の西側に聳える山岳地帯を住処にしていて、気性の荒さと強力な戦闘力で辺り一帯を支配していたという。

 その強さの所以が【寿命を魔力に変換する】能力と【自分より大きな相手を角で突き殺す】能力。識別しやすく、また共有しやすくなるように、朝陽はこれらの能力に名称を付けた。

 前者が【割に合わない取引(ノワール)】で、後者が【昏い棺桶(ディアブロ)】だ。

 能力を使用する時、声に出す必要はなかった。呪文とは、複数の意識体が共同で魔法を行使する際に使う合図で、厳密には必須ではない。日本の絵巻物にある、あらゆる物に宿る付喪神のように、この世界の万物には精霊が宿っている。それらに語りかけて許可を求める、詳細を伝える、呼吸を合わせるといった場合に用いられる旋律が呪文だ。言葉でなくもいい。

 これらの知識や発想は全てフリーデンベルグに教えて貰い、アドバイスして貰った。

 個人で起こせる現象に予備動作は不要。

 それでも声に出したのは、宣言であり、自身に対する命令だった。

 これから戦うのだと、殺せと、言い含める為の発声。

 何処からともなく現れた黒い球体が、双頭の狼を包む。すっぽりと収めても、まだ余裕のある大きさ。中は空洞。

 剣を構える。

 叫んだ。黒い球体に駆け寄る。剣の刀身を差し込む。真っ黒で何も見えないが、球体の内側から幾つもの剣先が現れて伸び、双頭の狼を四方八方から滅多刺しにしたのが知覚できる。命を奪った手応え。ルインハイドという鹿が、巨大生物を角で刺殺する力。

 実戦での力量差の見極めなんて出来ない。だから、最初から全力で殺しにいった。

 能力を解除する。数秒前まで生きていた、殺した獣が地に伏した。血溜まりに沈む、肉が見える惨い死体。弱肉強食という言葉が頭に浮かんで、言い訳するなと𠮟りつけた。

「ごめん……!」

 無益な殺生ではないとはいえ、謝らずにはいられなかった。だが、これは謝罪ではない。所詮、疲弊した精神の慰撫を渇望した感傷に他ならない。言わば自己憐憫だった。

 取り返しのつかない大罪を犯したようで、吐き気がする。時を遡行してなかった事にしたくなる。フレイアは何度こんな血を吐くような気分を味わってきたのか。

 幸福だけを享受できない乾いた世界。属せば、清廉潔白ではいられない。

(フレイアは――)

 いつまでも気落ちしているわけにもいかず、首を巡らせてフレイアを探す。炎を纏っているので、すぐに見つけられた。だが――

「な……!」

 とんでもない速さで飛来した何かにフレイアが蹴り飛ばされ、吹っ飛んで行くのを視認した。

 翼の男だった。牡丹の行方を知るかもしれない存在で、魔物から救ってくれた恩人だ。

 だとしても、フレイアの味方である今の朝陽にとっては限りなく敵に近かった。

 翼の男が追撃を加える気配を見せる。それに先んじるように行動を開始。【割に合わない取引】で魔量を得て、吹き飛ばされたフレイアを弾け飛ぶような勢いで追う。

 両者の間に割って入る事に成功する。殴りかかろうとしていた翼の男の手首を掴む。魔力を地面に染み込ませて身体を固定し、踏み止まって停止させる。足と腕が折れそうな衝撃だった。

「…………!?」

 翼の男が唖然とする。

「あんたは何で戦って――」

 言葉は通じるはずだ。戦う理由を問い質して、平和的に解決しようと語りかけ――

 闇討ちする為に回り込んだのであろうフレイアが、翼の男の横合いから背後を通り過ぎる形で大剣を振るう。砲弾のような速度で空中を滑るように跳躍しながら、翼の男の首筋を刃で正確に切り付ける。そのまま薙ぎ払って首を切り落とす――かと思いきや。

 ギィンッ!! と。金属同士がぶつかり合うような、硬質で鈍い音が響いた。

「なにっ――!?」

 予想外だったのか、乾坤一擲とも言える一撃を弾かれたフレイアが驚愕しながら崩れた姿勢を立て直して着地する。

(なんだ――あれ?)

 翼の男の首筋に、さっきまではなかったはずの首輪が現れ、それは砕けて壊れているように見えた。

(不可視の、首輪……?)

 ぶわり、と。

「…………!?」

 翼の男が膨張したように錯覚する。邪悪な魔力が溢れ出して噴きつける。物理的に殴られるような強大な波動に、魔力の操作を失念して後方によろめき、尻餅をつく。

 さっきまでとは、まるで別人。生物の格が違う次元へ至ったと肌で感じる。フレイアの生殺与奪すらも翼の男の手中にあると理屈抜きにわかった。恭順せねばと、本能が警鐘を鳴らす。我を忘れて食い入る。可視化された濃密な漆黒の魔力は、美しい禍々しさを秘めて立ち上っている。

 翼の男は、ぼうっと虚空を仰いでいる。

 しばし時間が流れ、自我を取り戻したように未だへたり込むこちらを見下ろした。

 ぬるりと、翼の男の影が盛り上がる。それは朝陽に迫ると、目の前に牡丹を吐き出した。

「あ、朝陽くん! ここどこ……?」

 意識はあるようできょろきょろと辺りを見渡す。獣の死体を見つけて「ひっ」と身を引いた。

「返す」

 それだけ言い残して飛び上がると、翼の男は満天の夜空に舞い上がる。

「みんな! 私は首輪の束縛から解き放たれた! もう何にも縛られる事はない! あんな奴らに、従う必要はない! 私はもう首輪ではなくなった! 行こう!」

 翼の男の纏う闇が辺りに広がった。異形の獣達とその亡骸を飲み込み、何処かへ消し去る。

 そして、去っていった。

「牡丹!」

 死んだはずの幼馴染の名を呼ぶ。喜びに胸が詰まり、触れようとする。

「…………?」

 しかし、他人を見るような目で見られた。

 待ち望んだはずの、数日ぶりの再会。けれども牡丹は身体を小さく丸めると、怯えて震える。

(これは…………)

 歩み寄り、目の前で膝を折る。そっと頭を撫でて、訊く。

「俺のことは、わかるんだよね?」

 その問いかけに、牡丹はこくんと頷くものの怯え続ける。

「……朝陽くんが友達だっていうのはわかる。でも、ここ最近以外の記憶が……」

 牡丹が魔物に吹き飛ばされた後、山の中を逃げ回った。即死だとしたら、その間に死んだ脳細胞に刻まれた記憶は、遺伝子的な設計図で肉体を修復しても戻らなかったのだろう。残っている記憶は、おそらく外脳に記録されていたものだ。想定外の事態だが、許容範囲内だ。地球に帰りさえすればどうとでもなるだろうし、生きているだけで今はいい。あるいは、地球に帰らずとも排出された牡丹のP‐ユニットで記憶を復元できるかもしれない。

「大丈夫、怖くないよ。おいで」

 ゆっくりしていられる場合ではない。小さな子供のように怖がっている牡丹を、最初にそうしていたように再び抱き上げる。魔物にやられた傷がまだあるか心配だが、痛がらないので杞憂らしい。

「行こう、フレイア」

「……ええ。かなりまずいかもしれません」


     ※


 軍の拠点に辿り着く。兵士達は負傷者の救護や手当てにと慌しく動き回っている。

 腕の中で縮こまって怯えている牡丹をどうしようかと考えて、フレイアを頼るしかないというありきたりな結論に至る。ここの人達を信用出来ないとまでは思わないが、精神面が子供同然の、身体だけが成熟している女の子を知らない男の集団に預けるのには抵抗があった。

「フレイア、牡丹の世話が出来る人を手配して貰いたい。可能なら女の人で」

「わかりました。世話係に頼みましょう」

 フレイアの陣まで行って、呼ばれて来た女の人達に牡丹を預ける。名残惜しくて心配だったが、緊急事態だ。四六時中くっ付いている訳にもいかない。手放すのが早いか遅いかの違いだ。

「状況はどうなってるんだろ?」

 訊くと、表情を曇らせた。

「思わしくなさそうです。賊は捕らえられていないようですし、あの生物達は群れとなって行方をくらませました。魔力の形跡は追えるので完全に見失う事はないとは思いますが……今は騎士達が集まって今後の方針を決める為に会談を行っている最中のようです」

「それ、フレイアは参加しなくていいの?」

「私は基本的に話し合いには加わりません。免除されているというよりは、決定された作戦の実行を専任しています」

「要は指示待ち中なんだね」

「そうなります。待機命令を受けている状態であって、自由行動時間ではないです」

 フレイアはそう言って、戦場で振るっていた深紅の大剣を自身の馬車に立てかけた。

 なら自分はどうしようかと考える。とりあえず救護か手当ての手伝いだろうか。人手はいくらあっても足りないだろう。

 そんな事を思案していると、フレイアが口を開いた。

「さっきは助けてくれてありがとうございました。その……結果的にまずい事になってしまいましたが、嬉しかったです」

 まずい事、というのは翼の男に装着されていた不可視の首輪を破壊してしまった事だろう。

「いいよ、お礼なんて……言ったよね、守るって」

「はい……!」

 そうこうしている時だった。兵士が駆け寄って来て、フレイアの前で止まると敬礼した。

「報告します。ヴァーゼン卿を現場に残し、他の騎士は全員転移術にて転移の間を経由、謁見の間まで招来せよと王命が下されました。早急に応じられたしとの事です」

 兵士の報告に、フレイアは訝しげに眉根を寄せる。

「王命、ですか。了解しました。すぐに召喚に応じると伝えて下さい」

「はっ」

 兵士が去っていくのを見送ると、こっちに向き直る。

「ごめんなさい。そういうわけなので、私はこれで失礼致します。また後ほど――」

 言いながら朝陽の背後に気を取られたように視線を送り、険しい表情をしたかと思うと瞼を大きく持ち上げた。何事かと後ろを振り返ると――

「避け――――!」

 叫ぶフレイアの声を尻目に、それ(、、)を受け止めようとして片腕を上段に構えた。


 それ(、、)とは――フリーデンベルグが真下に振り下ろした、抜き身の剣での斬撃だった。


 思いがけない攻撃に、まともな防御など叶わなかった。しかし【填めたら外せない】呪いの指輪は、ひとりでに能力を発動すると、朝陽の肉体を魔力の障壁で覆う。ルインハイドの指輪は、指や腕の切断による切り離しも認めないのだろう。

 魔力に守られて刃が肌に食い込む事こそなかったが、凄まじい膂力に後ろに居たフレイア諸共弾き飛ばされる。靴底が地面に長い跡を付けるが、支えて貰えたおかげで転倒は免れる。

 周囲に人の目はなく、騒ぎになるような事はなかった。

 乱心したとしか思えない騎士の唐突な蛮行に、混乱しながら疑惑の目を向ける。

「ふむ、これで少しは削れたか。自動防御、やはりその指輪は優秀だな。丁度いい性能だ」

 凶行に及んだ騎士は、それでも穏やかにそう言った。

「取り込み中のところすまないが、少々私の話に付き合って貰えないかな?」

 普段と変わらない様子に、恐る恐る訊く。

「……いきなり、なにするんですか……?」

「なに、簡単な話だよ。私は君の味方ではなかった。そういう事さ」

「どういう、ことですか? 説明は、して貰えるんでしょうね……?」

 すかした口調にじわりと頭に血が上り、敬語を崩そうか悩みながらそう訊いた。

「ああ、始めからそのつもりさ。話に付き合って欲しい、そう言っただろう。……しかし、何から話そうか。もう時間がない、手短に纏めさせて貰う。まず言っておくべきなのは、君の出生と正体からかな、フレイア・ラズヴェルナ」

 いきなり話の矛先を向けられたフレイアが困惑する気配が伝わってくる。

「先代勇者とその仲間であったシンシア・ラーズヴェーラとの間に生まれた現在の勇者……それが貴殿だ、ラズヴェルナ卿」

 息を呑むような衝撃は受けなかった。荒唐無稽に思える話の推移に、感情が追い付かない。

「……で、それがどうしてこの行動に繋がるんですか?」

「手短に、とは言ったがこちらにも必要な段取りがあってね。まずはこれを受け取りたまえ」

 騎士はフレイアの馬車に歩み寄り、そこに立てかけられている深紅の大剣を持ち上げる。それから剣の周囲の空間を、自分が持っている剣で、まるで切り刻むように切り付けた。

「…………?」

 意味不明な行動に内心で首を傾げるが、自失したように黙りこくっていたフレイアがその行為には大きく反応した。

「逃――――くっ!」

 遠くない距離から、ブンッ! という鈍く鋭い音と共に小さな挙動で投擲された深紅の大剣を、前に躍り出たフレイアが白羽取りの要領で掴み取る。フレイアの機転で難を逃れたと安堵して気を抜くと、次の瞬間、呪いの指輪が勝手に魔力を生成して身体を覆ったのを知覚した。全身の至る所に斬撃を加えられた感覚が肌を舐める。フレイアの軍服にも切れ目が入った。

「…………ぁぐ!」

 痛みは、軽い。それでもなくはない。

 また寿命を削られた事で、騎士が完全に敵だというのを今更ながらに悟る。

「フレイア、無事か……!?」

「はい。それより、気をつけて下さい。フリーデンベルグ卿がどういうつもりかは知りませんが、この方の持つ宝剣――残撃剣には【支点を決めて斬撃を記録し、任意で再現する】能力が付加されています! 動く要塞、不可侵聖域……迂闊に近づけば自身を支点とする残撃に切り刻まれる可能性があります……!」

 その忠告に、温厚など捨てて殴りかかってやろうかと考えていた朝陽は気勢を削がれた。

「……ふ、手の内が露見している身内とやりあうのは厄介なものだね」

「何故ですかフリーデンベルグ卿! 王の忠臣であるあなたが何故こんな事を……!」

「王の忠臣か……」

 自虐的な、あるいは認識の誤りを嘲笑うかのように、皮肉げに笑った。

「私こそが、ソイル山脈で行われている非道の糸を引いている、と言ってもそう思うか?」

「な――!?」

「順を追って説明しよう。まずは君が勇者であると証明する為に、その剣に触れてこう言ってみてくれないか? ――聖剣よ、偽りの姿を解き、勇者の前に真の姿を現したまえ」

 従わず、フレイアは無言で騎士を睨みつけていた。

「……まぁいい、本題に入ろう。ノーラ教の先代姫巫女が行った予言に、世界の終焉を予見したものがある。人心を惑わす危険性があると民衆には秘匿されている情報だが、女の勇者が振るう聖剣から放たれた炎によって、世界は一夜にして焼き尽くされると定められているのだ」

 予言。謎の少年が言っていた『本気にしている人』は、この騎士の事だと気付く。

 狂信的な宗教家に何を言ったところで耳に入れるとも思えず、どう口を開こうか迷う。信憑性の有無など度外視で話を進めた方が良さそうだ。明らかな妄言を言っていたらフレイアが割り込んでくれるだろう。心理的に言い出せない可能性も考えて時々顔色を窺う事にする。

「知っているだろうが、歴代の勇者に女は居ない。貴殿が初めてだ。予言が捏造されたものでもない限り、いずれ世界を焼き尽くす猛火の種。だからそうなる前に、この世から除かねばならない。その目的を実現する戦力を求めて、異種交配の研究という禁忌の領域に踏み入った」

 この世界の常識に疎く、話についていきにくい。だがそれ以上に、解せない事があった。

「ちょっと待って下さい。勇者には【不死の加護】がある。聖剣を装備すれば【勝利の約束】に変換される。そんな勇者を除くって、どうやって……?」

「いい質問だ。確かに、必勝の勇者を力で滅ぼすのは不可能に思える。だが、そもそも【勝利の約束】とは如何なる能力なのか。そこを突き詰め、熟慮すれば自ずと解答は導き出される」

 絶対勝利能力の攻略法。そんなものあるのだろうか。

「【勝利の約束】は、勇者が思い描く勝利の形を現実にする。故に既存の運命操作能力と食い違わない限り、勇者が思う通りに現実の方がなぞられる。そうであるならば、思い描く勝利の形をこちらで操作してやればいい。――即ち、自身の死こそが勝利なのだと思わせるのだ」

 勝利という言葉の解釈。観念の改変。騎士はそこに活路を見出した。

「つまり勇者を殺す方法とは、自死こそが唯一の救いなのだと勇者に信じ込ませることだ」

「……あなたの話を要約すると、勇者を殺せるのは世界にただ一人、勇者だけ。勇者を精神的に追い詰めて自殺へと導く事が、救世の手段とあなたは考えているんですね」

「いかにも」

 騎士の瞳は揺るがない。

「その為に、異種交配の研究に着手した。彼女の母親であるシア殿は、前回の魔王を討滅した功労者であり、実力者であり、英雄だ。その実力は計り知れない。殺してラズヴェルナ卿を絶望させるには、戦力がいくらあっても足りないと計算するに越した事はない。毒殺という手もあるが……初手で失敗すれば警戒され、下手を打てばこちらの身元がばれる危険がある。そうなれば、私など一捻りといったところだろう」

 冷静で慎重な計画。自惚れもない。

「それを抜きにしても、絶対勝利能力を保持する勇者と敵対するのだ。手勢は幾らあっても十全にはならない。だから貪欲に戦力を求めた。本来ならば叶わぬ大望を遂げる為に、ね」

 世界を救う為に、無辜の少女を自殺に追い込もうとする。残忍な発想だった。

「じゃあ、あなたが俺にフレイアの力になってくれって言ったのも……」

 不敵な目で、騎士は笑う。

「そうだ。君にも一役買って貰う。私の目的は勇者の抹殺。その為の戦力増強。そして、増強した戦力によって本人にではなくその周囲に危害を加える事。関わった相手が不幸になると実感させて良心の呵責を誘発する。家族、恋人、友人はもちろん、果ては知人や一会の相手でさえも拷問の末に殺し、それが耳に入るように情報を操作して――全て講じて心に圧迫をかける予定だった」

「…………ッ」

 フレイアの呼吸が戦慄く。

「しかし、彼女は交友関係が非常に乏しい。まぁ、そうなるように私が裏から手を回していた部分もあるがね。彼女に負担を強いる軍になるよう働きかけ、悪名が絶えぬように誹謗中傷を流して孤立させ、特定少数への依存度を上げようと試みていたのだが……いささか加減を間違えてしまったのかな。人の心は難しい」

 底知れない悪意に晒され、フレイアは小さな体を縮込ませる。

「人々から好まれる善性を有しているはずが、予定外に他者との交流が皆無になってしまったのには悩まされていた。私自身が懇意になろうと努めてみた事はあるが、反応は希薄で心を開く様子は欠片も見せなかったな。……そんな時なのだ、君が現れたのは」

 視線が絡む。気分が悪い。

「奇妙だったよ。他者を拒絶している彼女が、隣に居る事を許容して言葉を交わしているのは。今でも不思議だ。けれど、そんな事はどうでも良かった。理由がなんにせよ、好都合だった。君は彼女の大切な存在に成り得るように思えた。どうやら首尾よく恋仲に発展して、かけがえのない存在になってくれたようだね。ありがとう。そして、おめでとう」

 嬉しそうに祝われる。密偵にでも観察されていたのだろう。関係を察知されていた。

「数少ない大事な人を、特に恋人が奪われる悲しみは、少女を死に追いやるには格好の材料だろう。君の出現は、私の計画に欠いていた要素をいくらか満たしてくれた。彼女を守ってくれと頼んだのは、それ故だ」

 不意打ちで攻撃してきたのは、その一環だったという事だ。

 わざと殺さずに襲撃を繰り返す。【割に合わない取引】を発動しなければ打開できない状況にして、徐々に寿命を削る。そうすればフレイアは「自分のせいだ」と罪悪感を募らせる。死期が近づいて心に余裕がなくなれば、不和や怖れから辛辣な事を言ってしまうかもしれない。

「少年。これは嘘偽りない賛辞だが、君はとても気立ての良い人間だと見受けられる。きっと彼女の抱える過去と現状に同情と共感を示し、些細な口約束も遵守するのだろう。そう確信させてくれる程に、君の瞳はまっすぐだ。たぶん、これらの真実を知ってなお……いや、むしろより一層、どう守り抜いて見せるか思慮を巡らせている。君の眼は雄弁だからね」

 こちらへの好意を感じるほど、柔和な笑みを浮かべる。慇懃無礼。便利な奴だと侮られているのだろう。

 騎士が、フレイアを見る。

「けれど残念だ。この少年の人生は無惨にも切り裂かれる。別の出会い方をしていれば、よき隣人となれていたはずだ。平穏とはいかないかもしれないが、ごく平均的な生涯を送れただろう。惜しむらくは、彼が勇者と浅からぬ接点を持ってしまったこと。そのせいで、彼の未来は闇に閉ざされてしまうのだ。――そう、君のせいで」

親の仇でも見るような冷ややかな顔で、フレイアにそう告げる。

「既に二度、少年は私に寿命を削られた。これからも、似たような事は起こる。貴殿が生きている限り、確実に。私以外にも、同じ事を考える人間は何度も現れるだろうからね」

 周到に、呪いを囁く。

「これが、私の計画の全貌だ。栄誉なんていらない。法を破った罪人として、この場で処断されても、墓さえなく亡きがらを打ち捨てられても、地獄に堕ちても構わない。でもどうか、民を、家族を、彼を愛する心があるのなら……」

 ここまでの言葉が浸透するのを待つように、一度台詞を切る。

「忌まわしき女勇者はどうか――早々に、自害して頂きたい」

 そう、訴えるように言う。

 動揺を色濃く顔に滲ませ蒼白となったフレイアは、すぐに口を開く気配を見せなかった。

 最後の言葉で、ようやく意図を見抜く。わざわざ懇切丁寧に計画を明かしたのは、親切でも自慢でもなく、自供という形式を取った恫喝だったのだ。滅びの因子は早く死んでくれないかと、遠回しにずっとそう言っていたのだ。

 煮詰まった敵意をぶつけられ、フレイアは怯えたように顔を伏せる。

 両者の間に割って入る。少女を穿たんとする、射殺さんばかりの眼力を遮る。

「フレイア、この人の言う事は真に受けないでいい。この人が俺に敵意を向けるのは、この人が弱いからだ」

 騎士と真っ向から対峙する意志を態度で明示する。

「いつだって頭の中にチラついている理想の結末ってのがあるくせに、次善策で妥協してる。本当は誰も傷付かず、皆が笑える終わりを夢見ている筈なのに、自分の力じゃそこに届かないからって甘えてこんなことしてるだけだ。そう予言された方が悪いみたいな空気を作りだそうと腐心してるけど、あんなのは負け犬の思考。罪をなすりつけようとしているだけ。そんなしょうもない相手、まともに取り合わなくていい」

 一応確認だけはしておこうと、訊く。

「世界をどうこうなんて大仰なこと、考えてないでしょ?」

「……考えた事、ありません。…………でも」

 言いにくそうに言い淀み、上目遣いで、探るようにこちらを覗き見てくる。

「嫌な事をされたり、悪口を言われると……嫌いだって、いっそあんな人達いなくなっちゃえばいいのにって思ってしまう事は、あります。たぶん、私はすごく嫌な人間で……そういうところが世界を滅ぼすっていうのに繋がっていくんだと――」

 どうやらフレイアは、騎士の言葉を疑っていないようだった。

「そっか。正直者だ」

 ネガティブな思考をして、自己嫌悪するフレイアの発言を、声を被せて切り捨てる。

「でもま、その程度の感情、誰でも多かれ少なかれ持ったことあるよ。重く捉え過ぎだって」

「で、でも……」

「だから、深く考え過ぎ。その程度じゃ世界を滅ぼすだとかの根拠にはならない」

「あなたこそ、なんで断言できるんですか!」

 瞳を潤ませながら、救いを求めるようにそう叫ぶ。

「だって、私は世界を滅ぼすと予言されているんですよ! …………あの」

 目尻に涙を滲ませる。不安げに揺れる瞳で、距離感を計るように疑り深く見詰めてくる。

「私のせいで、あなたはこんな目に合ってるんです。それなのに、こんな風に話していて怖くないんですか? ……ぁあ、逃げ切れそうにないから仕方なくそうしているんなら、どうにかしてあなただけでも逃げられるように手を貸しますから――」

「あのさ」

 自覚するほど冷めた声を出す。響きの感触に怯えたのか、フレイアは小さな肩を跳ねさせた。

「俺のこと馬鹿にしてるの? フレイアが苦しめられてるのに尻尾巻いて逃げ出すって? 逆の立場だったら助けるでしょ? なら、俺もそうする」

「…………っ」

「で、どうして世界を滅ぼすようになるのかって話だけど」

 一度言葉を区切り、調子を真剣なものに変えて続ける。

「これは明らかにおかしい。フレイアはそんなことしない。考えた事も無い。だけど結果はそこに行き着く。それは何故か。俺が気付いた可能性は二つある」

 指を二本立てて騎士に突きつける。

「一つは、滅びこそが救いだと思い込む程、世の中の有様が惨くなること。言っておいてなんだけど、これはよくわからない。それがどんな状態か想像つかないから。何が起きても普通に事態を好転させようとするだろうし。だからもう一つ、こっちが重要なんだと思う。世界を滅ぼしたくなる程、辛くて暗い体験をこれから味わう。誰かを守りたいとか、助けたいとか、泣いてる人を見るのが嫌だとか、そんな優しさを全て吹き飛ばすくらい、苦しい経験を」

「…………!」

「怖いと言うなら、俺はそれが一番怖い。良い悪いは別にして、自分より利己主義な他人を優先しちゃうような子がそんな風に歪められるんだとしたら、それは想像を絶する苦痛なんだと思う。最後、どんな風に世界を呪うのか想像するだけでも頭に来る。もしそんな事があるんだとしたら、俺はこの仮定のフレイアの決断を支持してもいい」

 やられたらやり返す、やったらやり返されるのは基本だ。無関係の人を巻き込むのは良くないが、その人達には生まれついた星の下を嘆いて貰うしかない。

「話を戻すけど、世界を滅ぼす程の苦痛とは具体的にどんな体験なのか? 生まれついての善玉である勇者を歪める悪意の発生源はどこなのか?」

 視線で騎士を示す。

「これらはあなたの存在で説明できます。あなたの企てた勇者を自死させる計画が、思惑を外して勇者を狂わせ、世界を破滅に導く」

「かもしれないな」

 指摘にまるで動じず、淡々と肯定する。

「……可能性の一つとして考慮していたのなら、何故計画を強行していたんですか? 他に方法が無かった、思い付かなかったとは思えませんが」

「勿論幾度も検討した。だが結論は出なかった。分かっているのは、予言は回避不可能で、なんらかの対策を講じなければ世界が滅ぶ定めであるという――」

「――――っ? あのっ、ちょっとまって下さい! 予言は回避不可能? じゃあ対策を立てても無駄なんじゃ……」

「……君は賢しいように見えて、どうも基本的な知識が欠落しているな。予言は不可避。どう足掻こうが必ず辿り着く運命。これは常識だぞ」

「そう……なんですか…………?」

「ああ。だが対策は無駄じゃない。予言とは曖昧な言い回しが多い。故に、多様に解釈出来てしまう。そこに、付け入る隙が生じる。終末の予言には『いつ起こるのか』が明言されていない。いずれ終焉を迎えるのは確定しているが、結果は先送りに出来る。必中系の運命攻撃に照準された時、敵の身体から武器を引き離して封印し、延命するのとやり方は同じだ。当たるのは決定しているが、その瞬間を限りなく遠ざけられる」

「……なるほど。察するに、予言を分析するとフレイアが世界滅亡させる勇者である可能性が高い。でもそうだと決まった訳じゃない。だけど、超高確率で怪しいのは間違いない。楽観は危険。代償は取り返しもつかずやり直しもきかない世界そのもの。放っておけば滅ぶけど、延命処置は出来るから、憂いの芽は摘んでおくのが吉。あなたの主張はこういう事ですよね?」

「……そうだ」

「じゃあやっぱり、あなたは弱くて甘えた臆病者だ」

「なに?」

「だってそうでしょう? 他にも選択肢はありますよ。僕はそっちを選びます」

「…………」

「世界を滅ぼすだなんて考えてられないほど楽しい人生を、フレイアには送って貰います。やらなきゃいけないことなんて、たったそれだけです。この程度の発想に、そこまで狡猾で緻密な計画を練るあなたが至らなかったとは思えません」

 騎士が苦渋に満ちた表情で奥歯を噛み締める。

「ならどうしてあなたがその道を選べなかったのか。滅びから世界を救おうとするあなたの言葉には正義があった。そんな人なら僕と同じ結論に強く惹かれていたはず。……けど、あなたは結局信じられなかった。善意や優しさで世界が救えるんだってことを。たった一人の心を守り抜いて、ただ普通にそこにあるよう、守ってあげられる自信が無かっただけだ」

 騎士は一時押し黙り、しばらくして乾いた笑みを浮かべた。

「君の言う通り、私が臆したことは認めよう。しかし――」

 語気を強め、睨みつけてくる。

「信じる信じないではないではないか! 『女に生まれし青き瞳の勇なる者、紅の髪を靡かせし灼熱の乙女、太陽よりも光り輝く聖なる剣を振るい、大地を猛火で焼き尽くさん。これにて世界は終焉を迎え、命なき静寂が支配する』――これは、確実に訪れる未来。いつか必ず予言の子は生まれ落ちる。予言の子とは災禍そのものなのだぞ。どうしてそれを信じられる……!」

「……予言ってものの存在を実感出来ない俺には、正直あなたの恐怖と葛藤の深遠は理解できません。でも、これだけははっきりと言い切れます。もし世界が……人類の歴史が絶えるのだとしたら…………それは、人が人を信じられなくなった時なんだと思います」

「…………!!」

 悔しそうに俯いた騎士は、ふっと嘲るように笑った。それは一体、誰に向けられたものか。

「連絡を絶った事で尻尾切りを悟られた手下には研究成果をけしかけられ、被害は甚大。今回の招集からして王には正体を暴かれたようだし……挙句、こんな子供に説教まで食らう。……無様とはこの事か」

 断腸の思い、ではあったのだろう。このシナリオを描く判断を下したのは。世界と少女を天秤に乗せ、世界を選んで破滅する憐れな男。

 だが、騎士は微笑を継続する。

「いいさ。最低限の種は蒔いた。あとはこれが芽吹き、遅効性の毒となるのを願――!?」

 改心などせず、主義を一貫させる騎士が何かに気を取られたように遠くを見やった。

(これは……!)

 その理由は、はっきりと感じ取れた。

 肌を掻き毟る膨大な魔力の気配。覚えがあった。翼の男のものだ。

 去って行ったばかりなのに、再びここに向かって来ている。

 上空を飛翔して、肉眼では視認できない速度で翼の男の気配が頭上を通過、軍の進行方向であった方角と消えていった。離れたところにいる兵士達のどよめきが聞こえる。

 そうして――何度も何度も何度も何度も何度も、まるでこれまでの鬱憤を晴らすかのような爆音が遥か遠くから響き渡る。この音は、どのように形容されるべきなのだろうか。地平線の果てまで轟かせようとでも言うかのように、強大な力で大地を――惑星の外郭そのものを殴りつけるような怨念の籠った打撃音が山脈から響き渡ってくる。

(異種交配の研究施設を破壊している……?)

 音が、止む。翼の男が山脈から飛来して姿を見せる。軍の真上で停止した。

 そして、魔力を込めた握り拳を振り上げ――、……躊躇うように、葛藤するように、数秒。

(攻撃される……! でも、止めようにも相手が空の上じゃ……)

 手の出しようがないのはフレイアや騎士も同じようで、驚愕したように空を仰いでいる。

 断念するように、翼の男は拳を下ろした。未練そうに、緩慢な動作で指を開く。

 そうして、最初に来た方向へと飛び去った。

 翼の男は自身の在り方に迷っている。そんな印象を抱く。

「……行かないと」

 隣からそんな呟きが聞こえた。

 翼の男は何を仕出かすか予測がつかない。後を追い、良好な関係を築かなければならない。

「うん、行こう」

 当たり前の事を言ったつもりだったが、フレイアがこっちを見上げて不機嫌な顔をする。子供っぽいままごとのような怒りの表情だが、目は真剣そのもので、成熟した理性を帯びていた。

「ここから先は本当にいけません! あまりにも危険です!」

「なんで? 脅威ではあるけど、まだ敵と決まったわけじゃない。あの人は、悪い人じゃない気がする。だから色々話してみたい。そうすれば和解できる相手なんじゃないかな」

「向こうにその気がなければ、話が出来る状況を作り出すだけでも一苦労でしょう。懐柔なんて、それは見越しが甘いです」

「かもな。だけど、やってみる意義はあると思う。牡丹の事もある。礼だって言いたい」

 それに、と続ける。

「危険な役回りを誰かに押し付けて吉報を待つ。そんな利口な生き方はしない」

 その発言に、フレイアは言葉を詰まらせる。

「無茶だけは、しないで下さい」

 それだけ言った。

「了解」

 短く応じる。

「……で、行くってのはあいつの後を追うって事でいいんだよな? どうやって追う?」

 フレイアは王に呼び出されている。だが、騎士の発言から内情は推し量れる。行っても既に知っている事を教えられるだけなら、今優先すべきは翼の男だ。

「ええ、人命を優先します」

 フレイアは『王に刃を向けてもいい権利』を与えられている『騎士』だ。現場での自己判断は許されているだろう。政治的な事にも関与してなさそうだ。

「追撃速度のみを求めるなら走ってなのですが……」

「それだと俺が置いて行かれちゃう、か……」

「はい……。こういう場合、馬を使うと思うのですが……私は馬に乗って移動しないので馬がいません。それから乗った事もなくてですね……」

「ああ、なら問題ない。俺が乗れる。馬はフリーデンベルグさんに借りればいい」

「え!? フリーデンベルグ卿……ですか? ですが……」

 戸惑いを露わにするフレイアに取り合わず、騎士の方を見る。

「国民に被害が及ぶのは好ましくないですよね? 事態を収束させる為の協力を要請します」

「……どういうつもりだ? 私は君の――」

 困惑しているようだった。朝陽は言う。

「――敵、とは言い切れませんよ」

「……なんだと?」

「あなたの計画的に、僕がフレイアの不可欠な存在にならないといけない。客観的に見て、そこに到達するにはまだまだ物足りない段階です。えっちもしてない。あなたとしては、僕が『かけがえのない存在』になる為に協力は惜しむべきではないでしょうし、危険に身を晒して死に近づくのはしてやったりといったところでしょう? だったら、遠慮なく力を貸して貰います」

 呉越同舟というやつだ。利害さえ一致するなら、手を取り合わない理由はない。

 騎士はすごく嫌そうな顔を返してくる。

「それから、もう一つ訊いておきたいんですけど……」

「……なんだ?」

「僕がこの世界に来たのも、あなたの計画の内ですか?」

「…………何の話だ?」

「いえ、知らないのならいいんです。忘れてください」

 勘だったが、口ぶりから無関係なのだろうとは思っていたので、特に追求しない。

 手掛かりは、まるでなくなってしまった。

 フレイアの馬車の中で眠りこけていた風太郎に記憶見せて、牡丹を守れと命じて出発した。

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