第四章 風前の灯火

 王政国家アデイルの南部と中央の直線経路を隔てるように聳えるソイル山脈。

 そこで行われていると推測される異種交配の研究を阻止すべく編制された軍隊に組み込まれた朝陽は、なだらかな丘陵の平原をフレイアと肩を並べて歩いていた。兵数が千を越える大部隊の足音と砂塵が煩わしい。

 与えられた仕事の概要を、フレイアはこう教えてくれた。

「あなたは兵站部隊に組み込む事になりました。私の推薦で隊列に加えていますが、客分待遇ではないです。生きる糧を得る以上は働いて頂きます。兵站部隊というのは、兵糧の管理、配給、輸送、補給経路の確保を専任する部隊です。後方部隊なので危険は少ないはずです」

 役割を貰った方がタダ飯食らいより気が楽なので、有難い采配だった。

 行軍日数は三日の予定だ。本日の昼前に王都リュクセイヌを出立した軍は、明後日の日没までにはソイル山脈の麓に到着するらしい。

 魔法で一気に行かないのには理由がある。『転移術』は修得難度の高い魔法なので、行使できるのは極少数であり、魔力消費量も多いのだとか。

 それから、転移術は結界で阻めるらしい。なので、町や村などの周辺には結界が敷いてある。そうでないと、敵対する勢力の軍勢が町の中心に突如として現れるなどの事態に陥るからだ。強制転移も出来なくはないし、騎士などは転移が可能となる権限を授与されている場合もあるが、その権限を行使するのはかなりの緊急時だけのようだった。

 異世界の知識はだんだん身に付いてきている。

「そういえばさ、フレイアの父親って何やってるの?」

 暇なので雑談に興じる。

 本来ならフレイアは騎士専用の屋根付きの馬車でゆっくりしていられるのだが、「一緒に歩いて話そうよ。暇だし」と誘うと、渋々といった様子でありながらも隣に居てくれた。馬車に乗せて貰うのは駄目らしい。身分の低い一般兵が王から騎士に下賜された馬車を使うのは、王の名誉を著しく損なうから良くないのだという。狼はいいらしいのに、難儀な話だ。動かすのが面倒なのでそれだけでも助かるが。

 歩いてるだけだしいいかと思って隊列からは抜けて来た。フレイアはすこぶる呆れていた。

 考えている事があって、そういった行動を取っていた。それは、悪辣な閃きだった。

「父親……ですか」

「うん」

「わかりませんね。聞いた事がないので」

「行方不明ってこと?」

「さぁ、なんとも」

 気が乗らない話題だったのだろう、薄い反応しか返ってこないので早々に話を打ち切る。

 他にも気になっている事があったので訊いてみる。

「運命や予言について、フレイアは詳しい?」

 謎の少年が言っていた事が引っかかっていた。運命や予言があると言っていたし、最後に意味深な予言を言い残した。

『アサヒは運命や予言をばかばかしいと思っているみたいだけど、重要なのはキミの感覚じゃないんだ。世の中にね、それを本気にしている人がいるってところなんだよ。気をつけてね』

 確かに運命や予言云々なんて、真面目に取り合うものではないと思っている。

 未来が確定しているみたいで、いけすかない。知っていたら回避できるにしても、それはそれで「なんだそりゃ」と思ってしまう。知らなかったらそうなっていたと言われたら、たぶんムカつく。決定論は量子力学の不確定性原理で否定されているのだ。

 だがそれらを信じている人の被害を受ける事は、少年の言う通りあるかもしれない。

 そうなった場合に対処できるようになっておきたい。

「詳しいかどうかはわかりませんが、一般的な知識程度ならあるかと思います」

 フレイアは謙遜する子みたいなので、この言い方なら詳しそうだ。

「どんなのか訊いてもいい?」

「ええ、まぁ」

 フレイアは頷く。

「【運命】は通常の使い方もありますが、魔具に付加されている『運命操作能力』の事も指します。【予言】は色々ありますが、ひとえに予言とだけ言った場合、ノーラ教の姫神子様が予知した未来を、ご本人に言語化して頂いたものになりますね」

 ちょっと複雑な情報だった。順を追って整理していく事にする。

 先に気になっている【予言】から片付けていく。知らない単語がいくつかある。

「のーらきょうって? 宗教?」

「はい」

 ノーラ教、だろう。これについて語るフレイアの口調が、やけに丁寧だった。

「それって、フレイアは信奉してるの?」

「もちろんです。この世界はノーラ教が信仰する三柱の創生神によって創造されました。【テュカ】、【セルネリィヤ】、【千の名を持つ神】です。彼らの名を呼ぶ時、敬称いりません。我々は隣人であると、そう神託が下されていますので」

 語気が強い。熱心な宗教家なのかもしれない。

 無宗教なので共感できそうになかった。宗教論に関しては深く言及しない方が身の為だろう。

「姫神子様って何?」

「ノーラ教の総本山にして発祥の地であるポードヴァ―レのエドラスト神殿にいらっしゃるお方です今代の姫神子様にはお会いした事があるのですがとても素晴らしい方でした三柱の創造神の中でもとりわけ平和を愛したセルネリィヤの秘術を模した能力を発現させたという噂が朗報として大陸を席巻したのは記憶に新しいです【調和の祈り】と呼ばれ姫神子様が祈りを捧げている間かなり広範囲で生物は争う心を失ってしまうとか」

 やたら早口だった。姫神子様という人が好き……推しなんだろうか。

「へ、へー。【調和の祈り】……そんな力もあるんだね」

「私自身この目で見たわけではないので断言はできませんが、教会が否定していないので真実かと。姫神子様代々の能力として【予言】と【吉眼】もあります」

 興奮しているらしく、頬が赤らんでいた。

 吉眼については見当がついた。マイナーだが、この言葉は地球にもある。邪眼の対義語のようなものだ。呪いを解いたりする。同じ言葉に聞こえているなら、たぶん似たようなものだろう。この【意思疎通】能力は、既知の言葉に似た概念を押し込めているように思える。

「じゃあ『運命操作能力』って――」

「なぁ――あそ――ヴェルナ卿――な?」

 そんな時だった。なんとなく、こちらを噂しているようなひそひそ話を聞き取ったのは。

「…………?」

 会話の途中だったが、気になってP‐ユニットを使って耳を澄ます。

「珍しいな、ラズヴェルナ卿が誰かと一緒に居るなんて。しかも親しげに話してるぞ」

「恋仲……って感じでもなさそうだな。それなら馬車の中でいちゃつくんだろうし、格好からして身分が違うだろ、あれ。私服て。見慣れない外見だし、この辺出身じゃなさそうだけど」

「ぽいな。小姓か……? あいつ、ラズヴェルナ卿の事なにも知らないのかね?」

「もしそうなら気の毒だな。『血塗れの騎士』と関わると不幸になるってもっぱらの噂なのに。見ろよあの髪、どんだけ魔力が強いとああなるんだ?」

「なんでも、返り血で染めてるらしいぜ」

「ひぇー、おっかねぇ~。ハハハッ」

 明らかにフレイアへの陰口だった。

 どういうことなのか、他に訊ける相手もいないので本人に訊いてしまおうかと隣を歩く少女の顔を盗み見る。兵士達の会話はフレイアにも聞こえていたようで、その表情からは色が抜け落ちて、視線は歩調に合わせて地面をなぞっていた。

「……いいの? あんな事言わせといて」

「あなたには関係ありません」

 けんもほろろにあしらわれる。その表情には見覚えがあった。初めて出会った時に張り付けていた無表情。おそらくそれは、親しくない相手に向ける顔なのだろう。

「……俺が言って来ようか、変な中傷はやめろって」

「余計なお世話は止めて下さい。過度の干渉は迷惑です。こちらにはこちらの事情があるので」

 そう言ったきり、何を言っても一切返事をしなくなってしまった。

 まるでこれまでの関係がリセットされてしまったかのように、寡黙になった。


     ※


「よーし、これで配給はすんだな!」

 日が完全に落ちきる前の黄昏時、出発してから休憩も無く歩き詰めだった討伐軍はようやく行軍を停止して野営の準備、食料の配給が行われた。

「おーしお前達ー、飯にするぞー!」

 兵站部隊の隊長が豪快な大声で呼びかけると、兵士達は銘々に食料を携えて散らばる。

 朝陽も指示された通りに配当分を受け取ると、どうしようかと周囲を見渡した。

 この部隊は役割の性質上食事を摂るのが最後になる。フレイアもう食べ終えてしまっているだろう。そもそも同じ物を食べているのか、それすらも不明なのだ。

(ご飯食べてからまた行くって一方的にだけど伝えといたし、今は他の人でも誘うか)

 独りは寂しいので、歳の近そうな兵士の集団に目をつけて仲間に入れて貰う事にする。

「よかったらここで一緒に食べてもいいかな?」

 歩み寄って声をかけると、年若い男の兵士達三人が視線を寄こしてくる。

「え、ああ、かまわないぜ」

 その内の一人、気の良さそうな青年が快諾してスペースを空けてくれる。他の二人も嫌な顔はしていない。許可に礼を言いながら輪の中に入ると地べたに尻をつけて胡坐をかいた。

「名前はなんて言うんだ?」

「朝陽。よろしく」

 名字は省く。この国では浮いてしまうフルネームだからだ。

「朝陽ね。俺はリーグ。よろしくな。で、こっちの二人がカルスとロイだ」

「おう、よろしくー。噂の私服くんじゃん」

 カルスと呼ばれた方が手をひらひらさせながら飄々と言った。私服とはその通りで、朝陽は特徴のない白シャツと黒ズボンを着用していた。軍隊の人達はみんな軍服を着ている。激しく浮いている自覚はあったが、特に気にしていない。入隊したわけではないからだ。

 次にロイが口を開く。

「ところで、朝陽はどこ出身だ? なりからして異郷人のようだが」

 低い声で訊いてくる。堅物そうだった。

「死んだ両親が異国の人間だったから。生まれも育ちもこの地方なんだけどね。ほら、言葉も流暢でしょ?」

 淀みなく嘘をつく。出身を明かすのは面倒なので、この経歴で押し通すと決めていた。

「言われてみればそうだな」

 信じてくれたらしい。騙すつもりはなかったが少しばかり心が痛む。

「その腕はどうしたんだ?」

 無い腕をちらりと見られる。

「魔獣に食われた」

「うひゃー、そいつは運が悪かったな」

 軽い態度でカルスが言う。

「三人はどういった関係なの?」

 自分の話題は避けたかったので、今度はこちらが訊く。長く続ければボロが出そうだ。

「どうってほどのもんじゃないさ。軍の寄宿舎で同室なんだよね、俺達」

 リーグの答えに、他の二人が首肯する。「そうなんだ」と返して、食料の入っている持参した布製の包みを開く。パンとチーズが出てくる。干し肉や雑炊といった軽食も炊き出しで貰えたが断った。

 硬いパンをやっとの思いで噛み千切って咀嚼する。

 腰に下げてあった革袋を手に取り、中に溜めてある水を口に含んでふやかしながら胃に流し込む。味気ない。食事というより栄養補給でしかない。P‐ユニットで味覚をいじろうかとも思ったが、円滑な人間関係を構築する妨げになるだろうと踏み止まる。物事へ対する感想の齟齬も、親密な関係へ進展する弊害となるだろう。

(………………。この三人は、どんな感じでする(、、)んだろう……)

 昨夜の事を引き摺っているのか、そんな淫猥な事を考えてしまう。そんな自分にびっくりして、ギャグマンガばりに自身の顔面を殴ってへこませたくなった。ギャグマンガなら次のページになれば治っているだろうが、現実はそうではないのでやめておいた。

「にしてもいつぶりなんだろうな、こんな大掛かりな作戦が行われるのは」

 ロイが低い声で言う。

「さぁ……? 最低でも、二年近くはないんじゃないかな。俺が入隊してから一度もないし」

 そう、カルスが反応する。

「異種交配の研究してた奴らが見つかるとはな。しかも王都の真南にあるソイル山脈とは……大胆な奴らもいたもんだよな」

 ロイの言葉にリーグが真剣な表情で答える。

「領主のフリーデンベルグ卿、名誉挽回の為に今回の作戦指揮を執ってるんだろ? 定期調査を長年に渡り怠ったとかで糾弾されて、かなり立場がやばいらしい。下の職務怠慢なんだろうけど……災難だよな、騎士様なのに」

 この国において騎士とは、最上級の栄誉だった。騎士の称号は王から直接贈られるが、その意は『王に刃を向けてもいい権利』だ。

 ――私が誤ったら、騎士が正せ。これが王の言葉であり、自身が選定した騎士達に対する絶大の信頼がそこにはある。こういった事を、シアから教えて貰っていた。

 そして、フレイアは王に認められた騎士だ。隊列を抜けた朝陽の勝手な行動が咎められていないのは、騎士であるフレイアの威光があるからだと上官の反応で察せられた。

「せっかく魔王が居ない時代に生まれたってのに、迷惑な話だよな、まったく」

 リーグのぼやきに、チーズをもそもそ噛んでいた朝陽は耳を疑った。

「…………ん、なに? 魔王って言った?」

「ああ。それがどうかしたのか?」

 何食わぬ顔だ。

「え、いや、なにそれ?」

「なにって朝陽……まさか魔王を全く知らないって事はないだろ?」

「全然知らない」

 思いも寄らない単語に、演技を忘れて素で答える。

「え、もしかして朝陽、勇者一行の冒険譚を聞いたことないの?」

 カルスが声のボリュームを上げた。今更取り繕うのも無謀なので素直に頷く。

「いるんだな、そういうやつ、この世に。親から聞かされたことないのか」

 大変失礼な物言いでロイが驚きを露わにしている。

 ここでへまして素性を疑われるのは軋轢を生みかねないので上手い言い訳を探す。

「そういうの、まるで聞かされた事ない。田舎暮らしだったし、俺の親、現実主義者だったから生活に役立つ知識以外教えて貰えなくて。山羊語と羊語には他の追随を許さないくらい精通してる自信あるよ? あはは……」

 最後は笑って誤魔化す。自分で何を言っているか分からなかったが、ロイは「そいつはすげぇな」と感嘆の息を零した。強面なのに素直だ。朝陽だったら、そんな事を言っている奴がいたら「ホントにわかるのかよ」と疑うだろう。

「しゃあねぇ、いっちょ俺らで教えてやるか。野営の準備もあるし、手短にだけどな」

 カルスが言った。興味を引かれる話題に、期待を込めた眼差しを向ける。神話研究部に所属していた事もあり、冒険譚といったジャンルには目がない。現実のものであるならば尚更だ。

「勇者一行ってのは七人の英雄の事を指すんだ。勇者は六人の仲間を伴って聖剣を振るい、人類を滅ぼそうとしていた魔王を完膚なきまでに倒したのさ」

「……それだけ?」

 どこにでもあるような簡潔な解説に、肩透かしを食らう。

「まぁまて、今のは概略ってやつさ。まずは初代勇者の話からしていこう」

 ロイが口を挟む。

「伝承にはこうある。――とある国の民が暴君の敷いた圧制に苦しんでいた。非道を見かねた一人の青年が、国を救う為に世界で最も太陽に近い場所にいた『光の大精霊』と契約した事から勇者の伝説は始まる。人々を救う力が欲しいと願う真摯な気持ちと、純粋な優しさに魂を揺さぶられた『光の大精霊』は、世界中の光を集めて聖剣を紡ぐと青年に授けた。『光の大精霊』は青年に宿り、肉体に【不死の加護】を与える。そしてそれは、聖剣を持てば【勝利の約束】に変換された。さらに両者を繋ぐ【運命の意図】も付加され、その力を以て青年は暴君を失脚させる事に成功し、物語は大団円を迎えた。――かと、思われていたんだが……」

 ロイはそこで一端言葉を区切り、にやりと笑う。

「そこで一つ問題が起こった。光を集めて聖剣を作る間、世界は闇に覆われた。その時に、魔王が誕生してしまった。世界中の魔物と魔獣が凶暴化し、魔王は人間を滅ぼそうと猛威と悪意を振り撒いた。大挙して押し寄せた異形の軍勢に人類は蹂躙され、劣勢を強いられた。聖剣を携えた青年は己の招いた事態を収拾する為に冒険に出て、艱難辛苦を乗り越えた末に見事に魔王を討伐せしめ、勇ましき者――勇者と呼ばれるようになった」

 ロイは子供のように興奮し、まるで自分の武勇伝でもひけらかすように得意げだった。勇者の冒険譚がよほど好きなのだろう。

「へー……そんな伝承があるんだな」

 実話だったら面白いなと、半信半疑に思いながら言う。ロイはさらに口の端を釣り上げた。

「だが物語はここで終わらなかった。世界が闇に覆われた時の事をノーラ教では『絶光(ぜっこう)』と呼んでいるんだが――」

「まて、俺にも話させてくれ」

 リーグが申し出る。軽快に物語を紡いでいたロイは「おう、んじゃ任せようかね」と気前良く話の主導権を譲渡した。引き継いだリーグは揚々と語る。

「その後も、魔王は定期的に現れた。理由は未だにわかっていないけど、一説ではこう言われている。絶光している間に魔王を生み出す『何か』が生まれた。これが一番有力な説だ。五十年から百年に一度の頻度で魔王は復活する……発生するのかもしれないけど、歴史上幾度も現れては、勇者の子孫に討ち果たされている。直近の戦いは十八年前に終わってるんだ」

 そう話を締め括った。

「勇者の持つ能力について、もう少し詳しく話そうか。気になるだろ?」

 そう言って返事も待たずに意気込んで話を続ける。遮る理由もないので、大人しく聞く。

 リーグが指を一本立てる。

「まずは【不死の加護】。どんな窮地に陥っても死なない力。どれ程の深手を負おうが、命を繋ぎ止められる廻り合わせに守護される。脳を潰されても心臓を抉られてもおかまいなし」

 二本目を追加する。

「次に【勝利の約束】。勇者は聖剣を装備すれば、いかなる勝負においても敗北を喫する事はなく、必ず勝利を掴み取れる」

 三本目。

「最後に【運命の意図】。勇者と聖剣は何度離れてしまっても必ず巡り合える」

 かなり強い能力だった。最終的に勇者は必ず聖剣を入手し、絶対勝利能力を発現させる仕組みになっている。聖剣を所持していない空白期間も、【不死の加護】で守護されている。聖剣を破壊すればいいのではとも思ったが、【運命の意図】で必ず巡り合うなら言外に不壊能力でもあるのかもしれない。絶対に壊れない武器などは神話でもありふれている。

 紛れもなく世界最強。完全無欠にして絶対無敵の存在だ。ちょっと羨ましい。

 運命操作の力。その性能はまるで、地球の神話に登場する数々の魔法道具のそれだった。必ず心臓を貫く槍『ゲイボルグ』。投擲すれば必ず当たって尚且つ手元に戻る槍『グングニル』。所持する者に必ず勝利を齎す剣『勝利の剣』。

「すごいっちゃすごいけど……」

 こういった戦闘用の能力を聞いた時に朝陽が抱く感想は、自分がそれらに絡んだら、という前提で捻出される。聖剣を使う勇者に敵対された時、付け入る隙がなさ過ぎる。厄介どころか絶望しかない。

「それ、明らかに強すぎない? 怖くないの、そんな無敵能力。悪用されたら対処のしようがないと思うけど……」

「悪用? 聖剣が?」

 リーグは意表を突かれたように眉を上げた。うーんと唸りながら空を見つつ口を開く。

「たぶん、聖剣が悪用されることはないと思う」

 勇者とは善行を積むものだとか、正義の代行者という先入観でもあるのか、危機感は共有してもらえないようだった。

「勇者は何者にも犯されない善性を宿しているのさ。身体に宿る光の大精霊によって常に浄化されるから、呪い、精神汚染、洗脳、幻覚の類は効果がないらしいし、性格も穏やかで人情に厚いっていうよ。まかり間違っても悪行を働くなんて事ないんじゃないかな」

「ふーん? なら大丈夫なのかも」

 根拠はあったようなので納得しておく。理屈の欠陥を指摘出来る予備知識がなかった。

「でもなんか、自作自演(マッチポンプ)臭くない? 元を質せば勇者のせいだよね、魔王が生まれたのって」

「あー……それな。言っちゃダメなやつなんだわ」

 ロイが渋面を作った。

「え、なんで?」

「勇者を支援する団体ってのがあって批判がまずいっていうのもあるんだが、そもそも勇者に敵対するような気持ちを抱くの自体がまずいんだよ」

「勇者を倒そうとすれば【不死の加護】や【勝利の約束】に呪い殺されるってやつだろ? その団体もこの発想から始まってるんだよな」

 横からカルスに言われて、ロイは頷いた。

「禁句(タブー)なんだね。悪かった」

 謝る。リーグが肩を竦めた。

「朝陽の言う事もわからないではないよ。俺達の親世代は魔王がいる時代を生きてるから結構しんどい経験してるし。朝陽の親がこの話をしてなかったのはトラウマでもあったのかもな」

「なんにせよ、どうせ一生縁のない話だろ」

 カルスの言葉に、それもそうだと懸念を棄却した。

(魔王を生み出す『何か』……か)

 ある日突然現れるという魔王。

(今代魔王が実は俺……なんてのは、まぁないんだろうけど)

 自分は特別な存在かもとか、選ばれし者なんじゃないかとか、自意識過剰な妄想は容易く否定されてしまうのが世の常だ。


     ※


 食事を胃に収めきって一息つき、野営準備を進めながらの日常会話にも花が咲き始めた頃。

「やぁ、少しいいだろうか」

 背後、高い位置から声がかかった。精悍な男のものだ。振り向き仰ぐ。

 騎乗した男がいた。立派な鎧を具していて体格がいい。眼差しこそ穏やかで涼しげだが、鍛え上げられている筋肉質の体躯はしなやかで強靭を思わせる。馬上で少しも揺るがない体感の良さは人馬一体という言葉を苛烈に彷彿とさせ、並外れた存在感は他者を呑み、他者を屈服させる威圧感を放っている。

「……何か御用でしょうか?」

 身分の高そうな人なので畏まる。他に先立って対応したのは、男との距離が最も近かったのも一因だが、なにより男が主にこちらへと視線を注いでいたからだ。

 男は仄かに口角を上げ、柔らかく口を開いた。

「竜胆朝陽、というのは君でよかったかな」

 尋ねられ、首肯しつつ「はい」と答える。

「そうか。もしよければ、少し時間を貰いたい。話したいことがある」

「ええ、それはかまいませんけど……」

「なにかあるのかね?」

「あなた、誰ですか?」

 なるべく波風を立てたくないので、不信感を抱いている事があからさまにならないように馬上の男を見上げる。表情が僅かに驚きに染まる。悪い人でないのはなんとなくだが見て取れた。けれど男の帯びる空気は異質に過ぎて、どうしても本能的に警戒してしまう。

「おい、バカ! お前なんつー無礼なこと言ってんだ!」

 後ろから肩を掴まれ、カルスに抑えた声で怒鳴られる。

「このお方はフリーデンベルグ卿だぞ!?」

 フリーデンベルグ。耳にした覚えのある名。確か、これから向かうソイル山脈を含むアデイル南部の領主であり、この軍団の総指揮を執る騎士だ。

 見れば、騎士の後方に控えている付き人達数名が気色ばんだ目で睨んでいた。どうやら相当よくない態度をとってしまったようだ。

 騎士はふっと気の抜ける微笑を浮かべると、気さくな口調で話しかけてくる。

「いやすまない。初対面の相手に名乗りを忘れるとは、私はどうやら驕っていたようだ。どうか許して欲しい。――馬上から失礼する。私の名前はキルスフェルト・フリーデンベルグ。この部隊の総指揮を任されている」

「申し訳ありません、生意気な態度をとってしまって」

 相応の礼儀を欠いた事を謝罪する。騎士は穏やかに見つめてくる。

「なに、そんなに畏縮しないでくれ。君は正式な軍人でもないし、ラズヴェルナ卿の推薦で同行してもらっているだけだ。迂闊に手が出せる相手ではない。……特に、今はね」

 言葉尻に落ち込んだ響きが混じる。騎士の顔色を窺う。困ったような、自虐の混じった微笑みを湛えていた。

(職務怠慢だとかの汚名を着せられてるんだっけ、この人)

 真実がどうだかは知らない。だが目の前の騎士は人柄が良さそうで、悪事に手を染めそうでもなければ、いい加減な仕事をするようにも見えなかった。人は見かけに寄らないとも言うので、所詮ぱっと見の印象でしかないのだが。

「……君に渡したい物がある。ラズヴェルナ卿の母君からの申し出で王から預かった品物だ」

「お、王……? シアさんから渡したいものって……?」

 戸惑う。なんだか物々しい。王からの預かりもの。身に覚えがない。

「公の場で口にしていい類の代物ではなくてね。ここで明言できない。私の陣まで来てもらいたい」

「はい……わかりました」

「理解が得られてなによりだ」

 騎士は相好を崩すと、後ろで控えている人達に指示を出して馬を持ってこさせた。

「馬に乗った事は?」

「……以前、ちょっとだけなら」

 数鞍(すうくら)だけだが、授業で乗馬した事があった。

「経験は浅いか。こいつは駿馬だが、乗れるかい?」

 騎士の全身から溢れる気品と力強さ、そこから生じる有無を言わせぬ圧力になんだか反骨心が芽生えて反射的に身体が動く。馬に歩み寄って勢いよく、その背に拵えられた立派な鞍の上に危なげなく乗る。

「乗れます」

 授業の時、ジョッキーの記憶と感覚のデータは参照した。現代人はP‐ユニットによる脳機能の上昇で座学に割り当てる時間が短くても学力の向上に支障がなく、様々な技術の習得を優先したカリキュラムが組まれている。だから大体の事はある程度出来た。学校の教育はそれ以外にも、倫理や道徳、礼節や作法といった精神教養的なものも重視している。

 だからと言って、振る舞いを強制はしてこない。最終的には自己判断だ。

「威勢がいいな。では私の陣まで案内しよう――はっ!」

 騎士は手綱を操り、馬を走らせる。

「ちょっと行ってくる」

「あ、ああ」

 リーグ、ロイ、カルスの三人にそう言い残し、馬で騎士の後を追った。


     ※


 陣に着くと、天幕の張られた屋根付きの豪華な馬車内へと招き入れられる。フレイアは良くないと言っていたのに入ってもいいのだろうかと逡巡したが、形状が違うのでこの馬車は王から下賜された物ではなく騎士の私物なのだろうと当たりを付けて中に入る。

 中には、緑の生地が使ってある長椅子があった。濃い色調で、インテリアのような木製机を挟んで二脚が向かい合うように平行に並んでいる。促されて片方に腰を下ろし、何の気なしに手のひらで布地を撫でる。肌を無意味に擦り付けたくなるくらい触り心地が良い。光源は天井に吊るされたランプ一つきりだが、十分な明るさが確保されていた。

「早速で悪いが、本題に入らせてもらいたい」

 騎士が対面に腰を落とす。頷いて了承の意を伝えた。

「まずはこれを」

 金や色とりどりの宝石で装飾された、掌サイズの煌びやかな赤い箱が目の前に置かれた。

「我が血の呼び声に応えろ」

 騎士が呟くと、触れてもいない宝石箱の蓋がひとりでに開いた。鍵穴はあるので、解錠の方法が複数ありそうだ。

 そこには黒いリングの指輪が填め込まれていた。血色をした楕円形の赤い石が象眼されている。菱形に輪をくっ付けたような形状をしており、鋭角的なフォルムが禍々しい色合いをより強調している。

 指輪を瞳に映した瞬間、どくん、と心臓が跳ねた。

「これは『ルインハイドの指輪』と言う。知っているかい?」

 神妙な声で騎士が言う。

「知りません。なんですか、これ」

「一度嵌めたら外せない、呪いの指輪だ」

 呪いの指輪。そんなものもあるのかと興味深く思う。

「これがどういった由来の品物か説明しておこう。――この国が北の大国から独立して国家を名乗った約百五十年前。その頃この国は、情勢が安定していなかった。故に、元の支配者や内部に巣食った賊に対抗する為、貪欲に力を求めた時代があった。その頃に、大量に製造された魔具だ。この地方に生息していた鹿――ルインハイドの魂を封じ込めて制作されている」

 血生臭い話だった。当たり前だが、この国にも歴史があるらしい。

「聞くところによると、君は魔力を持っていない特異体質らしいね」

「……シアさんから聞いたんですか?」

「いいや、王からだ。王はシア殿から聞いたと仰っておられたが」

 知らないところで何やらすごい経緯があったようだ。王なんて言われても、たぶんすごく偉いくらいしかわからない。

(王様に口利きできるって、シアさんはいったい何者なんだ?)

 謎は深まるばかりだ。

「話を戻すが、そこでこの『ルインハイドの指輪』だ。これには【寿命を魔力に変換する】能力が備わっている。君にも魔法が行使できるだろう」

「寿命を……魔力に変換」

 眼前にある呪いの指輪は、見る者の心を魅了する引力を宿していた。それには人に――生物に内在する力への憧憬や渇望といった感情を強引に喚起する魔力があった。

 しかし、代償がでかい。

「この指輪さえあれば、昨夜のような真似はしなくて済むだろう。無論、使い過ぎは厳禁だが」

 こちらの躊躇を感じ取ったからか、騎士がそう助言してくる。

 内容に、冷や汗が噴き出した。アレは絶対に誰にも知られたくない秘密だ。

「な、なにを…………」

 しらばくれようとする。

「すまないが昨日一日、監視をつけて君の事は調べさせてもらった。ラズヴェルナ卿の推薦とはいえ……いや、むしろだからこそ、調査せずにはいられなくてね」

 知られている。顔から火が出そうだった。

 すれ違う人や物陰から見られていた気がしたのは、気のせいではなかったのだ。ロイにも異郷人のようだと言われたが、容姿が珍しくて注目を集めてしまっているのかと思っていた。

「魔力もなく、片腕もない。そんな君が生きる為に手を尽くすのは当然だろう。だが、騎士の庇護下にある者の行動としては非常に品がない。生きるに逞しいと賛辞は贈るが、今後身体を売るのは控えなさい」

 消え入りたくなって、目が見られずに俯く。

 もう目的は果たしているので、最初からするつもりはない。

「この指輪さえあれば、誰であっても騎士に匹敵する莫大な魔力を得られるだろう。どこぞの村の用心棒くらいになら、君でもなれるようになる」

 それは、魅力的だった。この世界で魔力が無いのは死活問題だ。瞬発的な自衛力は欲しい。

 要は、普段は使わなければいい。緊急時にだけ使えばメリットしかない。

「ならこれ、貰っちゃっていいんですよね?」

「もちろん」

「じゃあ――」

 手を伸ばし、指輪を摘み上げる。なかなか重量感があった。どこに填めるか逡巡した後、人差し指をリングに通した。こういうのは勢いが大事だろう。片手では填めにくかった。

 劇的に何かが変容するようなこともなく、魔具は静かに指に収まった。

 感傷はなかった。鈍感なのか、呪われてしまった自覚なんてどう持ったらいいかわからない。

 一応、抜く事を試みる。肌に癒着している……というよりは骨と一体化しているかのように固定されていて、簡単には外せそうになかった。

 寿命を消費するとはいえ、土壇場で異世界人には適合しておらず効果がなかったでは命に関わる。さっそく使ってみておこうと思ったが、使い方がわからなかった。

「これって、どうやって使うんですか?」

 騎士ならわかるのだろうかと心配になりながら、一応訊いてみる。

「意思を持って働きかければいい。魔力を寄越せ、と。願えば、叶う。魔法の基本だ」

 感覚的だった。

「やってみてもいいですか?」

「もちろん」

 既知の魔法を使ってみる。指輪に象眼された血色の宝石が輝き、狼が居なくても風が操れた。

 指輪の質感を指で確かめる。滑らかでひんやりとしている。重さといい、鉛に似ている。

「これで依頼は完了ではあるのだが……」

「……? どうかしたんですか?」

 まだ何か、話か用でもありそうな雰囲気だ。

「実は私にとって、ここからが重要なのだ。使者を送らずに私自ら出向いたのは理由があってね。率直に言うが、折り入って頼みたいことがあるのだ」

「僕に、ですか?」

「ああ」

 なんだろうと出方を待つ。

「先に確認しておきたいのだが、君はラズヴェルナ卿をどう思っているのだろうか? 聞くに随分仲が良さそうに会話しているらしく、浅からぬ関係だと見受けられるが」

「どう、と訊かれましても……」

 個人の事情に踏み入ってくるような質問に、鈍い反応を返す。突然フレイアの話題になったのもそうだが、騎士がどういった話運びをしたいのかが掴めない。この流れまさか成人男性から色恋の話をされるのかと、だるくなって引き気味になる。

「放浪していたところを拾って貰って、後見人になって貰っているので感謝をしている、といいますか……歳も同じなので、親しい間柄になれればとは思っています」

 漠然としていた気持ちを言葉にしてみる。そんな風に思っていたのかと、言っていて驚く。

「その言葉、偽りはないと誓えるだろうか」

 やたらと厳格な語彙の選択だった。並々ならないものを感じた。

「誓うって言うとちょっと仰々しく思いますけど……本心です」

 騎士の気勢に押されながら返答する。

「そうか。ならばやはり、君にお願いしよう。いや、その言葉さえ聞ければ必要はないのかもしれないが……ともかく、これから話す話は他言無用で頼みたい」

「……はい」

 込み入った事情でもあるのか、勿体付ける騎士にさっさと本題に入ってくれないかなと痺れを切らす。一応目上だと思うので文句が口に出せず、僅かに聞く気を削がれる。

「頼みというのは、ラズヴェルナ卿の事だ。彼女はこの軍で……アデイルという国で、迫害に近い扱いを受けているんだ」

「…………!」

 散漫になりかけていた注意が話の内容に集中する。

 今朝、フレイアへ兵士達が送っていた白眼視。

 思いも寄らず気がかりを解消する糸口に当たり、真相を知れるかと期待する。

 朝陽には、ひっそりと企てている計画があった。

 狼のように、フレイアを傀儡化するというものだ。

 P‐ユニットを飲ませるか、外脳をもう一度装着するかして、フレイアを操り人形にしてしまうのが最善の手段なのではないか、とぼんやり考えてしまっていた。

 先程口にした言葉に噓はないつもりだが、同時にそういった邪な事を企んでしまっているのも、また事実だった。

 友達になって気を緩めさせる為に、弱みを握りたい。付け入る隙を見つけたい。フレイアにあれやこれやと話しかけていたのは、そういった後ろ暗い思惑から来ていた行動でもあった。

 フレイアが外脳を装着した二回は、いずれもシアが傍にいる場面だ。下らない理由では、フレイアからすればかなり危ないものを軽々しく着けて貰えるかは怪しい。失敗して悪意を看破されれば、温情を反故にされるかもしれないし殺されてもおかしくない。

 罪の意識はある。それでも焦り、気持ちを制御できなかった。

 指輪の礼は、シアには言えない。もう会えない。この裏切り者の思考を悟られてしまう。

「フレイアが迫害されてるって……どうしてなんですか?」

 前のめりに、こちらから踏み込む。

 昔を思い出すように、騎士はどこでもない空間に目の焦点を漂わせた。

「少々長くなるが――実は彼女、ラズヴェルナ卿は、多くの人を死に追いやってしまった過去があるのだ」

 信じ難い切り出しに動揺しながらも、黙って聞く。

「あの娘は十にも満たない砌より軍に在籍し、比肩なき強さを発揮していた。彼女がそれほど無類の力を獲得できたのは、天より稀代の才覚を賜っていたのはもちろんだが、それを育み開花させたのは彼女の母親が施した修行だった」

 騎士は痛ましいものから目を逸らすように瞼を伏せる。

「修行風景を直接見てはいないが、凄惨なものであったらしい。修行で負傷したラズヴェルナ卿がシア殿に抱えられて王城に担ぎ込まれたのは見た事があるのだが……」

 険しい顔をする。

「ひどいものだった。全身を打撲と火傷、切り傷が満遍なく埋め尽くしていた。手を尽くしてなんとか一命は取り留めさせたが……とても見ていられなかったな」

 そんな扱いを受けていたというフレイアの事は当然気になった。けれどなにより衝撃だったのは、別人にしか思えない、かつてのシアのやり様だった。

「本当にシアさんがそんな事を……? どうして……」

 信じられない、という想いを込めて訊く。シアという人物像とまるで重ならないからだ。騎士の捏造、騙り、妄言にしか思えず、発端であるシアにリアリティを感じない為、そんなフレイアの存在など、もっと現実感がなかった。

「修行の動機は、知らない。……いや、やはりこの場で嘘はよそう。本当は知っている。だが国家機密なのでそれは教えられない。ごく一部の者達にしか知らされていない事なのだ。本来なら知らないという体を通さねばならないが、今回ばかりは王も大目に見てくださるだろう」

 とりあえず、最後まで聞こうと思った。

「当時のシア殿は心を病み、ラズヴェルナ卿へ常軌を逸した修行を強いていた。自分で傷つけておきながら『誰かこの子を助けてあげて』と半狂乱で懇願するシア殿には戦慄さえ覚えたよ。どう見ても、無抵抗になってからも危害を加え続けたとしか思えない有り様だった」

「…………」

「そんな彼女を、誰もが口々に非難した。シア殿はその詰りを空虚な顔で聞いていたかと思うと、『ごめんなさい』と泣き崩れたよ。――わけがわからなかった。あの頃まだ事情を知らなかった私は、この人は頭がおかしいのだと思った」

 情が湧き始めている相手を貶められた気がした。高ぶる気持ちを落ち着かせる。。

「その時だった、ラズヴェルナ卿が我々とシア殿の間に割って入ったのは。『お母さんを虐める奴は殺してやる』。そう言われ、攻撃された。その場にいた全員が束になっても敵わない程に、彼女は強かった。……嫉妬や劣等感は抱かなかったな。ただ、震え上がった。骨肉を削ぎ合ったどんな猛獣よりも恐ろしかった」

 言葉を失う。それは、現在のフレイアとシアからは想像もできない姿だった。

「私達を蹴散らしたラズヴェルナ卿は、泣きじゃくる母親を抱きしめるとこう言った。『大丈夫。お母さんの事は、私が守ってあげる。泣かないで』、と」

 騎士が一息つく。間髪入れずに問う。

「その場に居た人達を、フレイアは殺してしまったんですか?」

「ん? ああいや、そうではない。結果的に死に追いやってしまったのであって、彼女が直接手を下したわけではないんだ。それは、これから話そう」

「……はい」

 聞くに徹する事にする。

「それからもそんな事が何度かあって、見かねた王が対策を講じた。シア殿に国宝を消費して癒しの力を植え付けたのだ。その力の恩恵で精神を安定させたシア殿は、ようやく凶行をやめた。ラズヴェルナ卿の境遇は、そこで一旦改善された」

 一旦。そこからどうまた悪化するのだろう。

「……そう。改善されたのだ、一度は……」

 声に力が入る。

「修行の一環として、ラズヴェルナ卿は軍役に従事させられていた。それを辞めさせた方がいいのではという意見もあった。だがそれは、結局却下された。彼女という戦力は、アデイルにとって必要不可欠なものとなっていた。それが……心の育っていない少女の力に、大人達が傾倒した事が、次の悲劇の幕開けになってしまった」

 目を細める。

「ラズヴェルナ卿に与えられる任務の大半は、危険区域の調査と、害獣指定された生物の討伐任務だ。彼女は危険度の高い任務を単独で、一挙に担っていた。そんなある日の事だ。こんな事をやっていられるかと、ラズヴェルナ卿が癇癪を起こして予定されていた全ての任務を放棄した。その結果、代わりに編成された討伐部隊が幾つかの戦場で壊滅し、大量の死者を出した」

 フレイアの行動の結果、沢山の人が命を落とした。けれど。

「そんなの、あの子のせいじゃない……!」

「……その通りだ。原因は、他に幾つもあった。ラズヴェルナ卿の存在による兵達の平和ボケ。彼女が軍に参入してから配属された、部隊編成を采配した人物の経験不足。それまでが、上手く回り過ぎていた。手酷い被害を出してようやく、愚かな我々はそれを痛感する始末だった」

「そんな事よくないって、誰かが言ってあげなかったんですか? だってどう考えてもおかしいですよ。子供にそんな役回りを押し付けるなんて……!」

「ああ、おかしい。おかしいとも。だがその判断をさせてしまうくらい、あの娘は強かった。特異だったのだ、存在そのものが。考えてみて欲しい。彼女が嫌な気持ちを味わう。これだけで、多くの人が死ななくて済む。事実、機能している間の死者数は激減していた。ならば我々は、その道を選ぶしかなかった」

「…………っ」

 歯噛みする。騎士の言っている事も、またそうなのだろうと思わせられたからだ。

「あの娘自身、若者に良くある反発のようなもので、深く考えての行動だったのではないのだろう。闘争ばかりの毎日が嫌で、逃げ出したかっただけなのだろう」

 ただの反抗期、だったのだろう。

「だが平穏に慣れた人々は、我侭で任務を放棄したと彼女をきつく責め立てた。家族を失った恨みから石を投げつける者もあった。騎士であるラズヴェルナ卿へそんな事をすれば、重い罰が下されるのは従来ならば避けられない。だが、彼女自身がそれを諌めた。多くの人を死なせた自分への当然の報いだと言って、己を虐げる者達を庇ったのだ。……その誠実な姿勢が事態を収集へ向かわせるかとも思ったが、それは結果的に、彼らの暴走に拍車をかけるだけだった」

「そんな……」

「そうなっても、国への忠誠心を人質にされれば、我々は彼女の示した方針に従うしかない。損得勘定を優先する俗物と罵られようと、甘んじて受けよう。それで、人民の生活が守られるのなら。……もう何年も経過した今でこそ落ち着いてきてはいるが、その時の遺恨から、流言飛語を囁いて彼女を迫害する風潮は根強く残ってしまっている」

 そんなに長く、誰かを恨んだり虐げたりできるものなのだろうか? 全くそんな感情がわからず、人間が怖くなった。

(いや……)

 それは自分が、両親に対して向けている感覚かも知れなかった。空虚で歪な、無関心なのに引っかかる、異物感。

「以後、彼女は従順になった。積極的に軍務に従事し、国に奉仕している。贖罪のように」

 騎士が強張っていた身体から力を抜いた。

「君が彼女の事を快く思っているのであれば、どうかあの娘と友人になってあげて欲しい。私がこんな事を言える立場でないのは重々承知している。だが、私は彼女が不憫で堪らない。巡り会わせが悪かっただけで、決して不幸にならなければいけないような娘ではないのだ」

「……フリーデンベルグさんが自分で親しくなろうとは思わないんですか?」

 朝陽は腹に一物あった。自分がフレイアの味方に相応しいとは思えずにそう訊く。

「一度敵だと認識されてしまったせいか、何か力になろうとしても私には見向きもしてくれなくてね。手をこまねいていたところだったんだ。あの子は普段から誰も寄せ付けない。例外は君だけなんだ。――だから頼む、あの子の力になってやって欲しい」

 そう言って、頭を下げた。

 嘘、ではない気がした。この話に辻褄の合わないような点は見当たらない。

 騎士にはおそらく、朝陽に頭を下げてまでこんな頼み事をする程の義理はない。それでもこういう行動をとる程に、過酷な生い立ちの少女の身を案じているのだ。

「出来る限りの事は、しようと思います」

 他人を思いやる騎士の優しさに触れ、断れずに中途半端な言い方で安請け合いしてしまう。

「――ああ、よかった。ありがとう、朝陽君」

 騎士は安心したように微笑むと、礼を述べた。


     ※


「…………ふぅ」

 リンドウ・アサヒという変わった名の少年が出て行ったのを認めて、フリーデンベルグは拳を強く握り締めると息を抜いた。

(まだだ……まだ終わらない)

 目的を強く、意識する。

(…………フレイア・ラズヴェルナを――勇者殺しを、成し遂げなければ)


     ※


 騎士の付き人に送られて隊列に戻ると、そのままフレイアの所へと連れていかれた。騎士がそのように手を回したらしい。お節介が鬱陶しかったが、気持ちはわからないでもない。親心みたいなものなのだろう。もしかしたら屈折した恋心だったりするのかもしれない。

 なぜなら、フレイアの容姿は美しいと評して差し支えないくらいには端麗なのだ。

 炎のように風に揺らめく緋色の髪と、空のような蒼い瞳。健康的だが白い肌に薔薇色の頬。血色と艶の良い、瑞々しい真っ赤な唇。それらが小さく儚げな輪郭に収まっている様は、さながら男児が夢想する空想上の産物であるかのように可憐だ。誰がどこでどんな風に惚れたところで、見た目の一つで理由は足りるだろう。

 隊列から離れた場所。木陰で佇むフレイアを、しばし遠巻きに眺めた。

 浮世離れした可愛らしさが余人を遠ざけてしまうのか。はたまた悪目立ちする原色の毒々しさが恐怖を煽ってしまうのか。まるで絶海の孤島で一人寂しげに立ち竦んでいるような錯覚をするくらい、赤い少女は孤独に、木の幹にもたれかかり睫毛を伏せていた。

「……こんなところでなにやってるの?」

 歩み寄り、声をかける。無表情をこちらに向けた。

「あなたを待っていたんですが」

 なにやら不機嫌そうだった。

「え、なんで?」

「食事が終わったらまた来ると、あなたが言っていたからですが」

 律儀な子だった。

「うわ、そうだった、ごめん、遅くなった」

「別に……いいですけど」

 謝ると、伏し目になりながら許しの言葉を口にした。顔は、能面のようだった。騒ぎ立てる事もなく、たいして気にもしていなさそうだ。

 そういう子、なのだろう。

 自分がないがしろに扱われる。それに慣れきってしまっていて、きっと、こんなの本当になんともなくて、どうでもいい事なのだろう。

 いや、もしかしたら嫌だとか、辛い、むかつくという気持ちははっきりあって、でもそれを押さえつける自制心に長けているのかもしれない。過去の経験から、我侭に振舞う事を、自分の気持ちを素直に表に出す事を、怖がっているのかもしれない。

 他人の為に、自己のことごとくを犠牲にする生き方。自分が損な役回りを引き受ければ、相手に得を、楽をさせてあげられるというある種当然の仕組み。

 わかるなどとはとても言えない。けれども一連のささやかなやりとりに、騎士との会話を経た朝陽はフレイアの本質の断片を垣間見た。

「あのさ、ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな」

 フレイアの抱える事情を聞いた事を、話してしまおうと思っていた。本人が語りたがらない過去を知っている。それを知らせないまま、これからも付き合っていく事は出来ないと思った。

 そこに大きな理由なんてものはない。なんとなく、だった。

 フレイアは答えなかった。逸らしていた瞳を再びこちらに向け、上目遣いでじっと、腹の中を探るようにねっとりと、視線でこちらの思考をねぶる。

 縄張りを侵犯しようと目論む外敵に向ける、排他的な目だった。

 眼力に耐えかね、逃げるように口を開いた。

「なるべく誰かに聞かれたくないから……どこか人目につかない場所に行きたいんだけど……」

「……わかりました」

 乾いた返答。響きの中に、心の扉が閉ざされていく音が紛れ込んでいて、耳朶を切なく打つ。

 兵士の集団から離れる。十分な距離を取ってから、どう切り出そうかと悩む。

「話というのは、私の昔話ですか」

 核心を突かれる。結構、勘がいい。ここまで明確な予想を立てられたのは、こちらの態度と会話に望む条件付けがあからさまにそれを暗示してしまっていたからか。

 はぐらかすような事でもないので素直に認める。

「……うん、そう」

「それで?」

 剣呑に、投げつけるように問いかけてくる。

 神経を逆撫でないように、慎重に言葉を選ぶ。

「責めたいわけでもないし、嫌いになったんでもない。喧嘩を吹っかけたいんでもない。ただその、知っちゃったからにはその事を伝えておかなくちゃって思って……言わずにいることもできるんだけど……こういうのは、早めに言っておかないとっていうか……。あと、勝手にかぎ回るようなことしちゃってごめん」

 不機嫌に耐えかねて弱った声を出していると、嘆息が聞こえた。

「もう、わかりましたから……虐めているというか、なにか居たたまれない気持ちになってくるのでそんな風にしょげるのはやめてください」

「しょげてはないけど」

「……それで、話というのはそれだけですか?」

「いや、違う。フレイアの気持ちを教えて欲しい。いろいろ話は聞いたけど、俺はまだフレイア本人の口からなにも聞いてないから」

 挑むように言う。勇み足かもしれなかった。昨日今日知り会ったばかりの相手に、生きているうちに背負ってきたものを吐き出せなどと要求するのは図々しいだろう。

「フレイアは何を思って戦ってるの? どうしてここに、軍にいるの?」

「…………国の為です」

 多くを語ろうとしないフレイアに、突っ込んで訊く。

「それは結論だよ。どうして国の為に生きようって思ったの? やっぱり、罪滅ぼし?」

「どうしてあなたにそんな事を教えないといけなんですか?」

「俺が知りたいから。会ったばっかりだけど、フレイアがいい子だっていうのはもうわかってる。だから、酷い扱いを受けてるのは嫌だ。辛いなら、辛いって言って欲しい。もし弱音を吐ける相手がいないなら、俺を頼ってみて欲しい。俺にできることなんて全然ないかもしれないけど、なにか、力になりたい」

「――――ッ」

 まっすぐな言葉を伝えてみると、目に見えて動揺した。

「私は……っ」

 声が震えていた。それを自覚したからか、焦ったように口を噤んだ。

 何も言わずに待つ。何かを言おうとしてくれている。それがわかったからだ。

 たっぷり思い悩むように俯き続け、やがてぽつりと小さな声で言う。

「罪滅ぼしも、理由の一つではあります。……うまく言えるかわかりませんが、私は……私は誰かが幸せそうにしている姿が、好きなんです」

 そこでさらに言葉に詰まる。目一杯、言い淀む。

「…………悲しそうな人を見るのが、ダメなんです。泣いているのを見るのが、嫌なんです。笑顔でいられるのが、一番いいんだと思っています。だから私は、人々を守るために、彼らの幸福を願って、戦っています」

 まるで喋り慣れない異国の言語を話すように拙く言う。

 国を守るために命を懸ける理由として、それはすんなり心の中に転がってきた。

 けれど。

「……それ、嘘じゃないんだよね?」

 思わず、そう訊いてしまっていた。誰かが泣いているのが嫌だ。悲しんでいるのを見るのが辛い。笑顔を見ると心が温かくなる。それら一つ一つは理解できるし、どこも変じゃない。

 しかしそういった感情を、自身を虐げる人達に対して向けられるものだろうか? もし本当ならそれはあまりにもお人好し……それどころか病的な献身や過剰な自己犠牲精神だ。

 この国の人達は、フレイアにとんでもない負担を強いている。おまけに、恩を仇で返しているのだ。朝陽だったら、絶対に見限っている。

 身内の不幸を嘆くのはわかる。しかしその悲劇を免罪符に頼った相手を攻撃した時点で、見向きしてやる価値はない。自分の命くらい他人に委ねず、自分で責任を持つべきだからだ。預けたのなら、結果に文句を言ってはならない。それが自立した大人な考え方だと思っている。

 例えば、牡丹の死は畢竟、牡丹の過失だ。仮に「お前のせいで牡丹は死んだ」と責められても「知るか」としか思わないだろう。ひたすら自分の無力を恥じはするが、それは現在進行形の感情だ。その言葉でそこに影響は生じない。

 こういった朝陽の哲学と比較して、フレイアの発言は心が広過ぎた。

「自分でも、どうかしてるかもって思います。でも、嘘じゃありません」

 心外とでもいいたげにむくれながらいった。

 嘘でないなら、それはどんな心境なのか。フレイアの置かれている状況で先程のような言動に至る心理を推し量ってみるが、何も思い当たらなかった。

「すまん、やっぱり俺にはまるでわからない。何をどう考えたらそんな風に思えるの?」

「それは――」

 質問に対してなにかを言いかけるが、結局黙ってしまった。

「思想や主義から来る論理性のある感情じゃない?」

「いえ、そうではないんですが……」

「なら言えない理由とか、言いたくない理由があったりする?」

「…………はい。でも……」

「なに?」

「誰にも言わないと約束してくれるのであれば、話します」

 相手の気持ちや都合が第一、という事なのだろう。覚悟を込めて頷く。

「……わかった。誰にも言わない」

 そう言うと、フレイアは自身を庇うように胸元に手を添えた。

「……………すごく、申し訳ないって思ってしまうんです」

 震えるように身を強張らせながら、気持ちを吐露する。

「……過去の事が?」

 それにフレイアは首を横に振る。

「違います……いえ、それもありますけど、それだけじゃなくて……。もし……もし私が居なかったら、私を悪く言う人達は、その時間をもっと有意義に使えていたかもしれないじゃないですか。もっと楽しくて幸せな気持ちになるために……誰か親しい人の為に使えていたかもしれないじゃないですか。私という不愉快な存在が、そういった彼らの愛おしい時間を奪ってしまっている。私がいなければ、彼らは悪口を言ってしまう経験をせずに済んだんです。もっともっと綺麗なものを沢山積み重ねられたかもしれない。私が……私が皆の人生を汚染してしまわなければ……もっと……ずっと……」

 堰を切ったように喋る。

「……私は、消えてしまいたいんです。自分という存在を、無かった事にしたい」

 乾いた声で、そう言う。

「でも、そんなことは出来ないから……せめて、可能な限り人と関わらなくて済むように、周囲の人達から嫌われようとしました。あなたにも、嫌な……ごめんなさい。ほんとは、もっとうまく……いえ、もし私が上手く立ち回ったとしても、私が死なせてしまった方々の遺族はその光景を快くは思わないでしょう」

「そんなこと……」

 ない、とは言い切れなかった。生きてきた世界が、違い過ぎた。

「私が戦っている理由は、人の助けになりたい気持ちと、沢山の人を死なせてしまった事への贖罪と…………それから」

 何もない顔する。

「死ぬ為です。私を殺してくれるくらいの絶対的な強者に巡り合って……殺して貰う為です」

 決意の現れのように、はっきりとそう口にした。

「私は嫌われてなくてはならないんです。不幸でなくてはならないんです。死ぬのが目的だから。いつか殺されるから。その時に……私みたいな人間を好きになってくれた誰かがいたりしたら、その人を悲しませてしまうじゃないですか。だから、平然としてなければならないんです。本当は……」

 くしゃりと顔を歪める。

「本当は戦うなんて嫌ですけど……殺すなんてしたくないですけど……もう死んでしまいたいけど、自殺なんてしたらまた皆を困らせてしまうから……常に平気なフリをして、こんな荒事はなんて事ないんだって、命を奪うのを楽しんでる酷い人間だと思って貰って、私の事なんてどうでもいいって……放っておこうって……そう思って貰わなきゃいけないから……そうじゃないと、嫌な気持ちや悲しい気持ちにさせてしまうかもしれない……ですから……」

 全てを曝け出したのか、悄然としたように俯いて、とりとめのなくなった言葉が止まった。

 絶句して息を詰まらせる。

 強い人間、なのだろう。

 散々殺してきたであろう命を惜しみ、割り切れる己の非情さを呪い、それでも苦しみを振り払い、敵も裏切り者も全部慈しんで、前に進もうと笑い飛ばせるくらいに強い。

 けれど笑わない。自分が笑っている事を不快に感じてしまう人達がいるから。その雁字搦めの果てに、他者を欺く無表情という仮面で感情を塗り潰した。

 フレイアは嫌われたい。死にたいという願いに誰かを巻き込んで悲しませたくないから。その自殺願望の果てに、本心を不機嫌で糊塗する方法に辿り着いた。

 どこまでも他人本意で、自分は不必要。ただ全てが大切で、どんな扱いを受けようが守りたいのだと、優しくありたいのだという気持ちを微塵も揺るがせない。自己など顧みずに、人を笑顔にする為の道具である事をその身に希求している。

 悲しいのはダメだと言った。泣いている人を見るのは嫌だと言った。笑顔でいられるのが一番いいのだと言った。だから、戦って守るのだと言った。

 自分はきっと、全然笑顔になんてなった事が無いくせに。

 笑われても。

 馬鹿にされても。

 戦って、傷ついて、身も心もボロボロになりながら、誰かの幸福を願い続けるのだろう。

 フレイアの力と過去は、この小さな少女では抱えきれない程の重荷なのだ。その重圧に、普通ならあっという間に押し潰されて歪んでしまう。

 けれどそこから逃げず、絶望を飲み込んでそれでも強く生きている健気な少女に。

「フレイア、きみは偉いよ」

 薄っぺらな賛辞を吐いた。

 本音を曝け出して弱っている、傷心の女の子。篭絡するなら、今をおいて他にはない。

 女の子の扱い方なら、昨夜身をもって散々学んだ。割と掴めているはずだ。

 褒めて、優しくして……ちょっと強引。

 ゆっくり歩み寄って距離を縮める。正面から右手を背中に回し、抱き寄せた。

「今までずっと、一人で頑張って来たの、辛かったろ」

 軽薄な言葉を並べる。

「もう絶対にきみを一人になんてしない」

 微笑みかけて、出来る限り優しく語りかける。

「あの……」

 フレイアが顔を上げる。戸惑った表情。身体を離そうとしてくる。

 逃がさない。

「俺、きみのこと好きだ」

 抵抗が弱まる。相手の気持ちが第一。そういう子だ。

「フレイアが苦しかったのは、破綻してるからだ。フレイアは皆の為にって想ってるのに、誰もフレイアの為にって行動を見せてくれなかった」

 今までで、最も近い距離。見つめ合う。

「俺は……フレイアにとっての、フレイアみたいになりたい」

 青い宝石のような瞳が揺れる。

「きみが人を救い続ける高潔な生き方を貫いてきたからこそ、自分を救ってくれる人が現れたんだって、こんなに幸せになれたんだって、そう感じてもらいたい」

 小さくて柔らかそうな唇が戦慄く。

「だってフレイア、きみは」

 言葉を、望んでくれている気がした。欲しがっているものを、あげたかった。

「世界で一番、幸せにならなきゃいけない女の子なんだから」

 瑞々しい唇に、自分のそれを軽く押し付ける。

 触れるだけの、安らげるくちづけ。

「これからは、俺がずっと守る。どんな時も隣に居て、どんな事も手を取り合って乗り越えていきたい」

 口を離して、顔を離さずに言う。

「助けに来るのが遅くてごめん」

 フレイアの瞼が上がる。こういった空気に心構えがなかったのだろう、思考が止まったように何も言わない。

 今なら何でも言えた。何でも出来た。悪意に身を浸せば、恐れるものは何もなかった。

 勢いで畳みかける。

「もう一回だけするから、嫌じゃなかったら受け入れて」

 拒否する間もなく、唇を重ねる。甘い匂いがした。感触を堪能する。嫌悪感は欠片もない。

「ちゅ……ん……」

 どちらの声ともつかない音が漏れる。

 これで、嫌じゃない事になった。

 馬鹿な子だ。こんな上辺の羅列に絆されて、こんな悪い男に汚された。

 消えたいんだろ? じゃあ願い通り最後には全部消してやるよ。

 黒い炎が理性を灰にする。

 唇を離して、軍服に手をかける。フレイアの全てを犯したくなった。どうせもう最低なのだ。行くところまで行ってしまえ。

「あの、なんで服、脱がせようと――」

 片手だったし、構造がわからなくて脱がすのに苦戦していると、ようやく声を取り戻したフレイアが何かを口にしようとし――

「……どうして、泣いてるんですか……?」

 ぽたりと、朝陽の頬から雫が滴った。

「ぐ……ひぐっ……」

 喉からしゃくり上げるような音が漏れる。

「おれ、なんでこんな……こんなことしたわけじゃ……うぐっ……」

 力が抜けて、膝から崩れ落ちる。

 優しさに甘えた。人の良さに付け込んだ。我儘に付き合ってくれる、こんないい子の厚意を踏みにじった。

「ごめ……ッ、ごめんなさ……っ」

 胸が軋む。

 頭の中が、もうぐちゃぐちゃだった。

 自分が何をしたいのかも、どんな気持ちなのかもわからない。

 嗚咽を漏らし、子供のようにむせび泣く。何も考えたくなかった。

 そんな朝陽の頭が、不意に抱きしめられた。

「不安……だったんですよね。突然こんな状況に放り出されて」

 フレイアが、頭を撫でながら言ってくる。小さな子供をあやすような、柔らかな声色だった。

「大丈夫です。あなたの事を、見捨てたりなんてしません」

 その言葉で、急速に気分が落ち着いていく。

 訪れたのは沈黙。そして、後ろ暗さ。

(もうやめよう……こんなこと……)

 やってしまった事の後悔に、押しつぶされそうだった。

「今の、全部嘘なんだ」

 ポツリと、独白のように懺悔する。

「きみに言った事、全部」

 許されなくても、仕方がない。洗いざらい全部言う。

「俺はきみを騙して――」

「嘘なわけ、ないですよ」

 静かな声に遮られる。

「あなたの言葉が嘘だったら、私の心がこんなに震えるはずありません」

 迷いのない断言。

「仮に嘘だったとしても、その言葉を見つけられるあなたの事を、私は素敵だと思います」

 腕に力が籠り、布越しでもふくよかさを感じられる胸に頬が押し当てられた。

 やわらかくて、安心する。

「ずっと……ずっと誰かに言って欲しかった。助けに来たぞ……って。助けて欲しかった。だけど、いくらねだっていてもそんなの与えてもらえなかった。だから私は、せめて自分はそうなろうと思ったんです。助けを求める人の前に現れて、助けに来たよって言ってあげられる存在になろうって。そうすれば、信じる(、、、)じゃない……少なくとも世界に一人はそういう人間がいるんだって、確信(、、)できるから」

 やっぱり、強い子だ。眩しいくらいに、かっこいい。

 自分で自分を救える理屈を懸命に手に入れようと、作り出そうと足掻いてきた。

「全然上手に出来なかったですけど……消えてしまいたいって思いながらも、いつか報われるかもって、報われたいって願っていました」

 頭頂部に、フレイアが頬をくっつけてくる。

「あなたが私みたいになりたいって言ってくれて……この人なんだって思いました」

 いつの間にか、攻守が逆転していた。

「これから私は、あなたがくれた言葉を胸に飾って生きていくんでしょう」

 頭が解放されて、汗ばんだ両手で頬を挟まれる。

 真摯な瞳に、吸い込まれそうだった。

「何回したってかまいません。ずっと一緒に居て下さい」

 キスされる。案外、肉食系なのだろうか。気持ちよくて、目を閉じた。

 どちらからともなく、そのまま二人で草原に寝転がる。手を繋いで、空を見上げた。

 会話はなかったが、見えない言葉を掌の温もりが伝え合った気がした。一秒だって、離れたくなかった。

 少し肌寒かったが、いつの間にかお互いに眠ってしまっていた。

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