第三章 男は女を売り捌く
「その腕、どうされたんですか!?」
王政国家アデイルの王都リュクセイヌ。その城下町にある食堂の前で待ち合わせていたフレイアが、到着するなり開口一番そう叫んだ。
シアの魔法でのどかな村へと転移して、そこから馬車に揺られること数時間。王都に辿り着いた。検問をシアの顔パスで通過し、見上げる程に大きな城壁の門を潜って王都の中に入った。連れていた狼も難なく許可が下りた。
「シアさんって偉い人なんですか?」
訊くと、膨らみの乏しい胸を張って澄まし顔をした。
「こう見えても私、やんごとない一角の人物なんだから」
希少存在の仙だというし、何かしら特別な人なのだろうと納得する。自分から詳細を話さないところからすると、言いたくない事なのかもしれない。無理に聞き出そうとするのは鬱陶しいかなと考えて黙っておいた。
シアが検問所で衛兵に、騎士という偉い立場であるらしいフレイアへの伝言を頼み、今に至る。
「ああこれ。この狼に食わせた」
「食わせたって……そんな平然と……」
「そうしないと死んでただろうし、それくらいしか打つ手がなかった。栄養を摂ってれば、そのうち元に戻る」
P‐ユニットを寄生させた人間は、身体の一部が欠損しても死ななければ徐々に修復される。
その事と、一連の経緯を知っておいてもらいたかった。
腕を食わせて傀儡にした狼。翼の男が牡丹を蘇生した可能性。謎の少年との邂逅。言いたい事が多過ぎる。
「またこれで教えるから、首に付けて。記憶見て欲しい」
外脳を外して渡す。フレイアは嫌そうな顔をしながら、掌に乗った外脳を眺めた。
「これ、苦手です。なんというか……ぶわーってきて、ぐわーってなる感じが、どうも好きになれそうになくて……」
歯切れの悪い意思表示だった。参ったような表情には、どこか怯えさえ見え隠れしている。
朝陽にとっては慣れ親しんだ感覚だが、他者から強制的に五感情報を与えられるのがよほど恐ろしいのかもしれない。安全の為とはいえ、体も支配してしまった。他人に体を乗っ取られるのは気分のいいものではなかっただろう。
「じゃあ、やめとこう」
怖がっている相手に自分のやり方を押し付けるのは良くない。断念する。
「いえ、効率を度外視した主張であることは自覚しています。付けるのはかまいませんが、体の自由を奪うのはやめてください」
引き下がった朝陽に、フレイアが待ったをかけた。条件付きで承諾する。
「わかった。ゆっくりやる」
「はい。ゆっくりで、お願いします……」
なんかちょっとえっちな会話になってないかと思いながら、自分で外脳を装着したフレイアの脳で記憶を再生する。心の準備が出来ていたからか、今度は問題なさそうだった。
終わると、フレイアは怒ったような顔をした。
「……事情は分かりました。ですが、もう無謀なことはしないようにしてください。魔力の無いあなたでは、命が幾つあっても足りませんよ」
「それは約束できない。やらなきゃいけないことがあったらやる」
叱られるが、抑圧に頑として首を振る。
「あなたの面倒を見ると言った私にも責任が……はぁ、もういいです」
聞く耳を持たないこちらの様子に、溜息を吐いて折れてくれた。
「その子、名前は付けたんですか?」
狼を指して訊いてくる。
「いや、付けてない」
「付けないんですか?」
「名前も何も、今のこいつに意識はないし、俺が動かしてる。身体の一部に名前なんて付けないよ。狼っていう部位って認識してる」
「それは…………可哀想ではないですか?」
「名前を付けないことが? 意識を乗っ取ってることが?」
「両方です」
「いらなくなったら自然に返すつもりだし、動物そんな好きじゃないから、名前とかどうでもいい。呼ぶんなら戦利品とかでいいんじゃない」
「物扱いなんですね……。あなたが片腕と引き換えに手に入れたのは事実ですし、私がとやかく言うものでもないのでしょう……」
疲れた声で言う。
「お腹が空きました。食事と行きましょう。料理を待っている間に今後の方針などについて話したいと思いますが、いかがでしょう」
「そうしよう。俺も腹減った」
待ち合わせていた大衆食堂の扉を開けて店内に入る。夕飯時の忙しい時間帯なのだろう、満席近くなっている。空いている席に、二人とは向かい合わせで腰かけた。
フレイアが給仕を呼んでメニューから幾つか注文する。商品名から味が想像できなかったので、適当に人気の料理を頼んで貰った。
無用な騒動を避ける為、狼は外の目立たない場所に置いている。食事は後で与えるつもりだ。
(それにしても……)
他の客達に目をくれる。毛髪や眼球を注視した。
シアやフレイアと比較して、それらの光彩が極端に地味なのだ。
目に痛いほど鮮やかな赤い髪をしたシア。それには及ばないものの、人混みの中に入れば一目で居場所が特定できそうな程に特徴的な赤髪のフレイア。
当初、これが一般的な容姿なのだと思っていた。魔力を使って魔法を起こす際に起こる発光現象の影響で、体毛や眼球に色彩異常を起こして成長するにつれてあたかも人工的な配色を施したように変色していくものなのだろう、と。
しかし、どうやらそれは見当違いであったらしい。ここに至るまでの移動中に目にした人々は、地球の人類と大差ない色合いをしていた。
「他の人と比べて、二人の髪ってなんでそんな明るいの? そういうオシャレ?」
気兼ねなく訊いてみる。フレイアは親切なので、訊くのに尻込みする感覚は薄れていた。
「魔力量が多いとこうなります。正確には、多量の魔力を放出し続けると、ですが」
簡潔な答えが返ってくる。
「そうなんだ」
「ええ。では、あなたの話といきましょう」
「うん。まず、この会話の目的を明確にしておきたいと思う」
フレイアの青い瞳を見る。
「翼の男に連れて行かれた牡丹の行方の捜索と追跡について。それから、地球に帰る方法の模索だ。でも後者は後回しで構わない。難易度が高そうだ。生活については、自分でも仕事とか探したりしてみるけど、基本的にはそっちの意向に全面的に従う」
郷愁がないわけではないが、そこまで地球での生活に未練はない。夢や、成し遂げたい目標などを持っていなかったからだ。学業といった義務を果たし、あとは遊ぶ。その日常に情熱はなく、大半の人達がそうであるように漠然と生きていた。
友達や弟に会えないのはちょっとだけ寂しい。
「なんて言ったらいいかな……『儀式』の異常現象についてから入りたい」
朝陽の言葉に、フレイアは怪訝な顔をする。
「また記憶見せたいんだけど、いい?」
「もう慣れました。やって下さい」
事の発端となった出来事について、フレイアと共に反芻する。
怪奇現象が起きたのは、神話研究部の活動で開催したオリエンテーションの最中だった。文化祭での催し物で、神話時代の空気を体験するという企画をして、ある『儀式』を行った。部長は至極真剣なものにしたがっていたが、朝陽は強く反発して遊園地のアトラクションのようなエンターテイメント風仕立てにした。準備は着々と進み、予行演習をする事になった。
床に魔方陣を描いて蝋燭を並べて、オカルトという言葉から連想できる小道具や方法を駆使して、それっぽく準備した。用意が整い儀式を始める段階で、部長が老婆の声でこう言った。
『では、これより儀式を始めます。この儀式の目的は、人の心の奥底に眠っている願望を叶える為のものです。さぁ皆さん、貴方が望むものを強く思い描いてください。貴方が資格と強い想い、両方を兼ね備えているのなら、神様は必ず力を貸してくれるでしょう』
儀式が始まる。部長が呪文を唱える。
すると朝陽の足元だけが、黒い水溜まりみたいになった。身体が床の中に沈む。一緒に参加していた牡丹が手を伸ばしてくれたから掴み――
そのまま黒い水に引きずり込まれ、気付いたらあの山に、二人で仰向けに倒れていた。
「…………」
フレイアは無言だった。朝陽の言葉を待っているようだ。
「こうやって、俺は儀式中に起こった怪奇現象でこの世界に来た」
「……はい、理解しました」
「それで、気がついたらあの山で寝転んでた。でもこれにはあからさまな飛躍がある」
「飛躍……ですか?」
「そうだ。俺は間違いなく何者かの『意思』によってこの世界に来た。それは『俺がここで生きている』という事実が証明している」
確信を持って断言する。
「転移の行き先がなんであの山だったのか、それがわからない。落ちたら死ぬような高度でもなく、深海でもなく、地中でもなく、宇宙空間でもない。無作為に異世界へ紛れ込んだりしたら、よっぽど生存できないはず。儀式による転移は偶発的な『事故』なんかじゃない。明確に何者かの『意図』が介在している。あの子供が言うには『契約』されてて言葉が通じるし、俺は間違いなく、死なないように調整されて転移した」
フレイアは口を引き結んで聞き入っている。朝陽がただ路頭に迷っているだけではなく、何らかの厄介事に巻き込まれているのを感じ取ったのだろう。一拍置いてから更に続ける。
「現時点で原因あるいは犯人に見当がつけられるのは二つ。儀式に参加してた人達と、フレイアが任務で調査してたっていうあの山の何か」
そう提示すると、フレイアが訥々と言う。
「一番怪しいのは、儀式に参加していた面々ではないでしょうか? あるいは、その背後に糸を引いている犯人がいるのでは。現象も効果も、魔法のように思えます。あなたの世界にも魔法があるのでは?」
「タイミング的にはそうなる。けど、魔法は絶対ない。情報の断片からわかると思うけど、あれだけ高度に情報化された文明で魔法の存在は隠匿できるはずがない。もっと言えば、隠されていた魔法を儀式に参加した俺達の中の誰かが使えたかもって時点で、かなり胡散臭い」
それに、と嘆息する。
「犯人が地球に居るとしたら、こっちから手の出しようがない。俺としてはこの世界の誰かに呼ばれたんじゃないかと思うんだけど……?」
「それこそ、私にはとても認めかねます。感覚的ですし、私は博識ではありませんが……」
「でも俺の中であの山は犯人が潜んでいる第一候補だ。牡丹の捜索にあたって、突き詰めるのは必須な気がする。軍の任務がどうのって言ってたけど、あそこで何が行われてるんだと思う?」
「おそらく、異種交配の研究が行われています。あの翼の生えていた人はそれによって生まれてきたものと私は推測しています」
「異種交配……の研究?」
物騒な言葉に歯切れ悪い反応を返す。
「ええ。異種交配の研究は禁止されています。魔物が量産されて大きな被害を生む可能性があるので」
この国の法を知らない朝陽に、気を回したフレイアが先んじて補足してくれる。
「あの山でそんな事が……」
薄ら寒さを感じてそう言いながら、ふと思う。
「でもどうしてわざわざそんなことしてるんだ? 異種交配によって生みだした生物を何かに使う為だよね? 何の為に、そんな違法行為に手を染めてるんだろう」
「おおかた、力で成り上がりたいとか、他者を支配したいだとか、欲望を源泉とした碌でもない動機かと思われます。あるいは未知の探求や究極への到達なども考えられますが、好奇心という妄執にとり憑かれてそこまで悪逆無道になった時点で許容すべき存在ではありません」
「他に何かあるとしたら?」
一応、思慮を巡らせる。未成熟な社会で何故と思われる問題が起こった場合、多くは利益を求めてというのが鉄板だろう。利益とは、結論金だ。新種の生き物達を売り捌いて金にする為の異種交配の研究。それくらいしか思いつかなかった。
「他に、ですか」
考える素振りをする。
「賊側にも言い分があるようなケースを想定するとしたら……テロの為、でしょうか。現体制に不満を抱いた反社会的な発想を持った集団か、研究を主導する首魁が反社思想に耽溺しているのかもしれません」
テロリストや革命者。力を持たない者が国の中心で何を叫ぼうが誰にも届かないが、力さえあれば例え世界の裏側に居ても声を響かせられるだろう。
「ですが、ここで可能性を論う事に意味はありません。政には疎いので、私には会話と推理で犯人や目的を割り出す能力はないです」
それはこちらも同じだった。半端な知識では、どうせ真偽の検証なんてできないだろう。
「それよりも憂慮すべきは、研究がどれほどの成果を上げているかですね。その程度によっては、事態はかなり深刻化するかもしれません。あの翼の人は、強かった」
緊迫した面持ちで呟く。
(あの人か……)
窮地から救ってくれた、血に塗れた翼の男の姿を思い出す。
賊の一味である可能性もなくはないが、おそらくは人間の身勝手で産み落とされていいように利用されている被害者。
魔物から助けてくれたあの行動にどんな意味があったのかは知らない。魔物を生命の共通の敵として殺処分しただけなのかもしれない。
それでも翼の男は命の恩人だった。
そんな人への暴虐は看過したくない。
「フレイアは今後、それにどう対処していくの?」
「異種交配の研究は、早急に停止に追い込みます。既に軍本部に顛末は報告しました。大規模な討伐軍を編成して明後日には出陣、三日の行軍を経てもう一度あの山に、ソイル山脈に乗り込む算段になっています」
「それ、俺も同行させてくれない?」
あそこまで、歩くと三日もかかるのかと驚きながら言う。
その要求に難しい顔が返ってくる。
「私達の戦闘に魔力のないあなたではついて来れないでしょう。生き物は例外なく魔力を扱えます。狼を操るにせよ、あなた自身が魔法を使えるわけではないのでしょう?」
「試してみたけどダメだった」
魔法は一部の生き物が行使できる特異な力というわけでないらしい。そうなってくると、行動が制限されてしまう。
「行軍に帯同させられないわけではないでしょうが、危険が大きい。薦められませんね」
厳しく諫められる。強く否定するのは、こちらの身を案じてくれているからだろう。
だからといって引くわけにはいかなかった。
「あの翼の人は、人間が混じってるだろ? てことは、異種交配の研究に牡丹が使われるかもしれない。それなのに黙って見ていられない。ダメだって言うんなら、一人でも行く」
「それは――」
フレイアは何かを言おうとするが、
「――そうなんでしょうね」
何も言わずにこちらの気持ちを認めてくれた。
説得を諦めたように肩を落とす。
「わかりました。希望通り手配しましょう」
「ありがとう。汲み取ってくれて」
「あなたが頑固で扱いにくいのは十分理解しました」
「ごめん」
「はぁ……というか、こんな場所でする話ではありませんでした」
しまったといった様子でフレイアは周りを見渡した。軍の情報や計画を、大勢の耳がある場所で軍とは無関係の朝陽にべらべら喋っていた。意外と抜けているのかもしれない。
「普段人と話さないもんね。慣れないことをすると、勢い余ってそういうこともあるよねぇ」
横合いから茶化すようにシアが言う。
目を向けると、なにやらニコつきながらこっちを見ていた。嬉しそうで、楽しそうだ。
「……なんですか?」
「いえいえ、順調に仲を深めて行っているみたいでいい感じだなって」
「そういうんじゃなくないです? これ。変な目で見ないで欲しいんですけど」
色恋的な目線で見られてそうで嫌な感じだった。娘の近くにいる男を警戒しないのだろうか。
「私にも都合ってのがあるからね。たぶん朝陽くんが思っているようなものじゃないよ」
「じゃあいいですけど」
どうやら勘違いだったみたいだ。
シアはあまり自分の事を語りたがらない人のようだった。年上に根掘り葉掘り質問するような性質ではないし、他人の思惑なんて過剰に気にして詮索するようなものでもない。
「これからもフレイアと仲良くしてあげてね」
「ちょっと、そういうのいいから!」
「はいはい」
微笑ましい、よくある親子の会話を眺めていると、ようやく料理が運ばれてきた。
「申し訳ございません! 大変お待たせしました!」
「ああ、全然気にしないでください」
忙しなく料理を並べ始めた給仕を気遣って声をかける。謎の少年が言っていた通り、言葉が分かる。普通の日本語に聞こえたし、唇の動きも音と同期しているように見えた。
人間は外界を認識する時、五感という限定的な入力器官から取り込んだ情報を脳で処理して、頭の中で自分なりの世界を展開しているに過ぎない。真実の世界なんて知覚していない。自分の脳が解釈した世界を捉えているだけだ。
違和感がないように、翻訳能力はそこに干渉してきてくれているのだろう。奇妙なくらいストレスがない。その心配りに何者かの意志を感じてしまう程に。
脳の機能に何らかの影響を受けていたらと考えると気味が悪かったが、その恩恵に与っている立場で文句を言うのも筋違いだろう。そういうものだと納得するしかない。
恐縮していた給仕は安心した表情を浮かべて会釈した。
目の前に置かれた温かそうなスープを見る。途端、かつてない空腹に襲われる。口内で唾液が溢れ、喉を鳴らして飲み込んだ。
食欲が湧く。スプーンを手に取り、一掬いして口に運ぼうとし――
「…………!?」
その事実に、気がついた。
茫然として、スプーンが湛えている乳白色の液体と、その中心に転がっている調理された肉の破片を凝視する。
「――――ぇえ?」
歯の隙間から、およそ自分のものとは思えないほど間抜けな音が漏れた。
そう。それは『肉』だった。
そして肉とは、どこから来るものか。
その答えに思い至るやいなや、くわんと視界が揺れる。全身から力が抜けて行き、スプーンを取り落とすとバランスを崩して盛大に後ろへひっくり返った。
「え――どうしたんですか!?」
フレイアが叫ぶのを、焦点が定まらない頭で認識する。
――地球では、食糧複製(フードコピー)というシステムが導入されている。
食糧となる動物の一部だけを複製する事をそう呼ぶ。食料としての肉を作る際、豚や牛を殺して加工するのではなく、豚や牛の粒子構造を丸ごとスキャンして部分的に複製する。そうする事で、人類は命を奪う必要性からすら脱却した。地球の人間が口にする肉は知性のない細胞の塊でしかなく、最初から食料としてこの世に生まれた、ただの有機物にすぎなかった。
だから朝陽は、命を奪った事がない。
自ら手を汚した事がない、というわけではない。真の意味で、清廉潔白だった。
再度湧き上がる疑問。
この『肉』は、いったいどこからやってきたものか?
「…………ッ」
喉の奥から何かが込み上げてくる。掌で口を覆い隠した。顔から血の気が引くのが分かる。
――えーそんなわけで、食糧複製(フードコピー)の技術が確立されて以降、地球は『楽園』に限りなく近づきましたと。
昔、教師がそう言っていた。
だが、楽園という表現が好きになれなかった。食料にしているけれど、命を奪ってないんだからいいよね? という、だから自分達は綺麗だと言いたいような主張の仕方が、薄汚い性根を隠し通そうとするかのような姿勢が、ひどく醜く映った。
同じ想いを、教育課程を考案した大人達も抱いていたのだろう。
後日、こんな授業があった。
人間を――自分自身をスキャンして、食糧複製(フードコピー)したのだ。
そして、その肉を種族保存施設で飼育されている動物に本人達が手ずから食べさせた。
恐がって泣く子供もいたが、その時に朝陽が覚えた感慨は、不快でも嫌悪感でもなかった。
ただひたすら、許された気がした。
こういった経験があったからこそ、狼に自分の腕を食わせる事にもそれほど抵抗がなかった。
「…………ッ。…………ッ!!」
朦朧とした意識。そのぼやけたピントを料理へと合わせる。
テーブルの上に置かれた、スープの入った皿。そこに沈む肉片は、口にしてしまったら取り返しがつかなくなる程の毒物に見えた。
朝陽にとってそれは、受け入れられない罪の塊だった。
「あの……本当に、どうされたんですか?」
心配した顔のフレイアが、背中を擦ってくれる。
「…………」
支えられて立ち上がる。
けれどもう、何かを口にする気力は失せていた。
※
翌日。
寝泊まりする事になった宿の自室で、朝陽は鏡と向き合っていた。
鏡面に映し出されているのは、P‐ユニットでそうなるように設定してある中性的な容姿をした自分。遺伝子的に可能な範囲で好みにしたらこうなった。血は争えない。日本人らしい黒い瞳に、そろそろ切ろうかと思っていた男にしては長めの黒髪。鋏を使って手入れをする。
台の上には化粧品が並べられていた。朝陽はそれらを次々に手に取っていくと、自身の顔に化粧を施していく。手慣れたものだった。女装というのはもう死語だ。男が可愛く着飾るのは当たり前にある事で、それなりに嗜んでいる。
まずは化粧下地でノリを良くする。肌にファンデーションを塗る。フェイスパウダーで崩れを防ぐ。瞼にアイシャドウを付ける。睫毛をビューラーで持ち上げる。マスカラで束感を出す。アイラインにはアイライナー。目元をグリッターでキラキラさせる。眉にアイブロウを施す。涙袋と小鼻にシェーディングで立体感を出す。要所をハイライトで明るく。唇にリップを引く。頬にチークを入れる。髪の毛先をヘアバームで遊ばせる。香水も振って、派手に仕上げた。
作業が終わる。使い慣れない道具でやったにしては上々の出来なのではと満足する。
昨晩、水分だけは摂って結局何も食べられなかった。
フレイアに理由を話すと、共感しては貰えなかったが理解はしてくれた。
今日も、もう完全に日が落ち切っている。日中にシアと日用品の買い物を済ませ、長期滞在できる宿を探した。料金は全部フレイア持ちだ。
買い物の後シアと別れ、手渡して貰った生活費を使って化粧道具一式を買い揃えた。
牡丹の捜索以外にも、やりたい事が出来たからだ。
なるべく早く、地球に帰りたくなってしまったのだ。
この世界はどうにも生き辛い。そのうち元に戻るとはいえ左腕はなくなるし、今日はパンやサラダを食べられたが、何が入っているかわからない料理は口に入れるのも無理だった。
だから、帰る方法の探し方を考えた。
最初に注目したのはどちらの世界にも人間がいる、という点だった。
これは異常なのだ。二つの世界に、少なくとも見かけ上は全く同じ生物が生息しているのはおかしい。しかも魔力の有無なんて決定的な相違があるにも関わらず、だ。大気の成分も生命活動を維持するのに支障がない。重力も同じようだし、太陽もある。共通点が過多だ。
二つの世界に、何らかの繋がりや関連はある気がした。キリスト教にこんな言葉がある。『神は自分に似せて人間を造った』。同じ神が作った世界で、どちらにも人間を配置したか、誕生するように世界の骨子に手を加えている。そう考えてさらに深掘りしていく。
昔、ここではない異世界に行った事がある。
その異世界は、コンピュータの中に人工的に創りだされた地球に酷似した電脳空間だった。学業の一環で、専用の装置で意識だけを飛ばし、約一ヵ月間そこで生活した。
そこには人間がいた。人が過ごしやすいように創りだした世界なので、人に限りなく近いモノを作っておいたのだ。その人達は皆データだったが、疑う余地のない生命でもあったと朝陽は認識している。
だから世界を作った神がいるのだとしたら、世界の頂点に君臨する生物を模写した外見をしているのではないだろうか。でもそれは人間とは限らないし、今いるとも限らない。今は創生の過渡期の段階で、もっと未来にしか生まれない生命体が目標の生物かもしれない。
これは『シミュレーション仮説』と呼ばれている。
人類がコンピュータ内に世界を構築して、その創世された世界でも何らかの手法で創世が行われ……と、世界が樹形図のように広がってマトリョーシカのような入れ子構造になっているのでは、と考える仮説だ。
世界とはそういうもので、二つが近い世界だった。こう考えれば、どちらにも人間がいる事に説明がつく。
結論すると、自分が仮想世界に行った時のように神が遊びに来ていると期待して、手当たり次第に「あなたは神様ですか」と尋ねて、あるいはそういうビラをばら撒いて、見つかったらその神に頼んで地球に返して貰うというのが辿り着いた案だった。
けれど、これをやったら狂人扱いだ。なるべくなら最後の手段にしたい。色んな世界を渡り歩いて人間の種を蒔いている種族がいるだけだとか、世界が一本の木に生っている果実の一つに過ぎないだとかも考えられる。同じ木に生っているのだから似るのは当然といった具合だ。こんな仮説は妄想の域だからいくらでも思いつけた。
だから、次に目を付けたのは魔法だった。
異世界に渡る魔法を探すか開発する。その為には、必要なものが多いと感じた。
金、人脈、知識、技術。
この事情は個人のもので、他者の協力は期待できない。
フレイアだって、どこまで信じていいかわからない。今は庇護を受けられているが、すぐに見捨てられるかもしれない。気が変わるなんていくらでもあるだろう。
今日みたいに、手間もかかれば金もかかる。いつ嫌気が差してもおかしくはない。
孤独だった。
信じられるものが、何もない。
牡丹にしてもそうだ。本当に生きているのか確証もない。狼がそうであるように、操られて動いていただけかもしれない。今この瞬間にも、酷い目にあっているかもしれない。
出来るだけ早く、何か手を打っていかなければいけない。
そこで思ったのだ。
だったら人間を狼のように傀儡にしてしまえばいい、と。
金も人脈も知識も技術も、魔力や権力も、もう既に持っている人達を支配して手に入れればいいじゃないかと。
そして、この格好をした。
喉仏を隠す為の、襟付きのパフスリーブ。ゆったりとした、足元までのロングスカート。その上にフード付きのコートを羽織る。姿見に映るのは、大人になりかけている時期の少女。くすみのない明るい肌には、無駄な毛はない。骨格は不安だが、悪くない見栄えではなかろうか。
濃い目のメイクは、そう(、、)だとわかりやすくする為だ。
本当にやるのかと、弱気になって身体が竦む。
娼婦のフリをして、男に接吻して口から唾液に混ぜたP‐ユニットを含ませて飲ませる。
女性の口説き方なんてわからなかったし、そういった情事を受け入れやすいのは無責任に行為に及べる男だろう。だから女と偽って行動する事にした。
時間をかければこんな事をする必要はないが、事態は差し迫っているかもしれない。手遅れになる前に、打てる布石は打っておきたかった。
魔物に襲われた時、自分は怖くて動けなかったのに、牡丹は危険を顧みずに戦ってくれた。恐ろしい怪物に立ち向かってくれた。その結果、命を落とした。見殺しにした。
その思いやりに報いる為なら、なんでもするつもりだった。
ふと、ベッドの上に置いてあった牡丹の髪飾りが視界に入った。
歩揺(ふよう)と言う、その名の通り歩くと揺れる簪だ。
及び腰になる心を叱咤して、簪を髪に挿す。
少しだけ、勇気を貰えた気がした。
※
心細い気持ちを押し殺し、宿の扉を開けて一歩踏み出す。緊張で、心臓が高鳴った。
夜の帳が下りる町の外気は生温い。季節は春を過ぎたくらいなのだろうか。寒くないのは幸いだが、いっそ刺すような冷気でも浴びたかった。
煉瓦造りの建物が立ち並ぶ西洋風な街並みを眺めながら、石畳の上を歩いていく。
目指す場所は概ね決めていた。歓楽街、酒場の周辺、それからスラム街のような治安の悪い場所だ。おおよその位置は調べてある。
明かりの漏れる窓の脇を通り過ぎる。人々の営みの光だ。目に映るその一つ一つがこの街を育んできたカケラなのだろう。朝陽は仲間外れだった。
マッチ売りの少女にでもなったみたいだった。
雪も降っていなければ、売り物はマッチではないが。
楽しそうな笑い声が聞こえて、いっそう惨めな気持ちになる。
狼は宿に置いてきていた。警戒させてしまうだろうし、町中なら獣に襲われる心配もない。
それに、暴力でどうにかしようとは思わなかった。あくまで穏便に済ませたい。お尋ね者になるような事があったら、振り出しに戻るどころかマイナスだ。
標的を見繕いながら人通りが多い酒場周辺を徘徊していると、酔っぱらった若者の集団が向かいから現れた。男達は愉快そうに談笑している。
複数人に声をかけるのは躊躇われた。フードを被り、目を合わせないでやり過ごそうとする。
「あっ…………」
前を見ていなかった為に、すれ違う直前、砕けた石畳に躓いてしまった。一瞬、よろめく。
「おっと」
背の高い男の腕に抱きとめられた。
「危ないぜ、嬢ちゃん。足元もそうだが、こんな夜に一人で出歩くなんてよ」
気障な台詞で気遣われた。
その様子に、他の男達が囃し立てる。
「ひゅー! カッコイイじゃんラスティ!」
ラスティと呼ばれた青年は鼻を掻きながら「まぁな」と得意げになった。
「そのままものにしちまえよ!」
男達は降って湧いたイベントに、盛り上がって笑い合っている。
これは、チャンスなのかもしれない。
「あの……っ」
可憐な声を出す。P‐ユニットでそう力むように設定していた。自然に喋れば、喉から零れる音はか弱い女の響きだ。
「その……もしよろしければ、私を買って頂けないでしょうか」
言った。間違いなく、人生で一番鼓動が激しくなった。
悪い事をしようとしている。いけない事をしようとしている。
騙そうとしている。嘘をついている。偽っている。人を欺く人間に成り下がろうとしている。
緊張と罪悪感で目が潤み、声も指先も震えてしまっていた。
「あん?」
ラスティが真顔になる。男達も静まり返った。
どうやら楽しい空気に水を差してしまったようだ。
「私はっ……か、片腕が無くて……。身寄りも仕事もなくて……」
コートの下からちょっとだけ残っている包帯の巻かれた左腕を出して、しどろもどろに弁明する。顔が熱くなる。逃げ出して、何もかもなかった事にしてしまいたかった。
「あー、……なるほどな」
そう呟き、ラスティは友人達の方を向く。
「悪いけどちょっと外すわ。嬢ちゃん、ちょっとこっちに来な」
背中に手を回されて押される。なすがままに従った。
しばらく歩いて、路地裏に連れ込まれる。
「あのな、こんなことしてても先はないぜ?」
説教された。
「何があったか知らねぇが、その様子じゃあ生きていくのも大変だってのはまぁわかる。けどな、自分の事はもっと大切にした方がいい。そうじゃねぇと天国で親御さんも泣くってもんだ」
まともな事を言われる。いい人なのだろう。
「だがまぁ、その様子じゃあ今日食う飯にも困ってるってところか」
いや、少なくとも化粧をする余裕くらいあるのは見てわかるだろうし、新調コーデなのだが。
「しゃあねぇ……いくらだ?」
やることはやるらしい。いい人なのだろうか。どう評価していいかわからなくなる。
たぶん薄幸な少女に手を出すに当たって、今日を凌ぐのも困難だろうから金銭を恵んでやるついで、という名目が欲しいのだろう。だから訂正しないでおいた。
「私、こういう事をするのは初めてで……いくらくらいにするものなんでしょうか……?」
「初めてって、売りが? 行為が?」
「こ、行為です」
「ほーん」
ラスティは鼻の下を伸ばした。所詮酔っ払いだったようだ。
「なら、相場の平均を出そう。初めてなら倍だな。嬢ちゃん若くてすげぇ可愛いし、それくらい惜しくないぜ」
「よろしく……お願いします」
交渉が成立してしまった。
どういった段取りで事を進めたらいいのかわからずに立ち尽くしていると、腰に手を回されて抱き寄せられた。アルコールを含んだ男の息が顔にかかる。
「…………っ」
身体が拒否反応を起こして勝手に身を固くする。
「そう怯えんなって。力抜いてな? 痛くないようにほぐしてやるから」
あ、と思う間に唇が重なった。
「ん……! んぅ……っ」
男の舌が唇を割って入って来ようとする。意を決して、それを受け入れる。
湿っているざらついた生物が口の中を這うような不快感。
さっき初めて出会った相手とこんな行為をしている。ファーストキスがどうだとか、そんなロマンチストな感性は持ち合わせていないつもりだったが、これには流石に泣きたくなった。
「ぐす……ん……」
涙が滲む。相手が男だから嫌だ、ということではない。
ジェンダーレスな文化で生まれ、育った。男女分け隔てなく恋愛対象にする感性は持ち合わせている。だからこれは、身持ちの固い貞操観念からの落涙だった。
牡丹の為と言い聞かせ、こちらからも積極的に舌を絡めに行き、男の唾液を飲み込んだ。
酸素を求めて口を離す。唾液が糸を引いた。荒い息を吐く。頭の芯がぼーっとした。
「私のも、飲んでください……」
熱に浮かされたように上目遣いで媚びた声を出す。今度は自分から男の唇を求めに行く。
喉元過ぎれば熱さは忘れる物らしい。一度始めてしまえば、勢いで繰り返すのは容易かった。
「いいな、お前。センスあるよ」
頭を撫でられて、褒められる。嬉しくなって夢中になった。目を細めて縋りつくように身を預ける。そうしながら、男の口腔に唾液腺から排出したP‐ユニットの一部を忍ばせた。上手い事、飲み込んでくれたようだった。
男がこちらの口を吸いながら、服の上から胸元をまさぐってくる。その表情が若干白けた。申し訳なくなる。気を取り直したように、今度は下半身へと手を伸ばして行く。捲りにくいようにと選んだロングスカートに、手をかけられる。
そこで、男の手を止めた。
(掌握……完了)
体内に侵入させたP‐ユニットが、脳に到達した。これでもう、この男は意のままだ。
手の甲で、唇を拭う。だいぶ激しかった。化粧が崩れてしまっているだろう。どれだけ息を吸っても酸素が足りる気がしない。拍動が狂っていて、うるさい。
P‐ユニットに指令を送り、その場を後にする。下した命令は二つ。
『増えろ』
『広がれ』
友人の多そうなこの男なら、飲み物や料理の中に忍ばせて他の人間にも移していってくれるだろう。
(見切り発車が過ぎた。一度帰って化粧道具を持ってこよう)
冷静じゃなかった。この程度も想像できなかったなんて。
(いや…………)
そうではないのかもしれない。
偶然躓かなければ本当にやるつもりなど、実はなかったのかもしれなかった。
心の片隅では全て断られてしまえと、失敗してしまえばいいと、そう願っていたのだから。
知らないフリをしていた下半身に、抗いようなく視線と意識を向ける。
(うぅ……めっちゃ勃ってる――……)
目も当てられないほどスカートの生地が押し上げられている。自分の中で、何かが変わってしまった気がした。
P‐ユニットで鎮める。しばらくは大きくならないようにしておく。
ここまで来たら、もう後戻りは出来ない。
宿に戻って化粧を直し、その後もこんな事を繰り返した。
何度かしくじって、謝って、逃げた。運が良かったのか、酷い事にはならなかった。
誘惑に成功した男達に唇を求められる度、悲痛で心地良い安心感を覚えてしまった事を、生涯誰にも言わないと心に誓う。
ずっと誰かに見られていた気がしたのは、きっと後ろめたい気持ちがあったからだろう。
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