夢見る乙女は夜に舞う

八月朔日八朔

#1 人の恋路を邪魔する奴はアナスタージの馬に蹴られろ

十一月十一日

午前七時〇〇分

―おはよう

 そっとキミにキスした。

 灰色の朝、カーテンの隙間から差し込む光にキミが重そうな瞼を開ける。

「んぁ……」

 キミはあくびとも寝言ともつかない声で答えた。 

―「んぁ……」じゃないでしょ~?朝は元気に「おはよう」だよ。ほら言ってみて、りぴーとあふたぁみー……

「うるさい……頭の中でギャンギャン騒ぐな」

 その不機嫌ボイスに、おはようさぎもそそくさ逃げ出す。気だるげに上半身をベッドに起こして乱れた髪をかき上げるとキミは低い声で言う。

「マイ、それより早く状況の復習を。まだ記憶の新しいうちにやっときたい」

―まったく、塔子ちゃんは真面目なんだからなぁ……まあいいや、それじゃあこれまでのおさらいね

 コホン、と一つ咳払い。

―前回のあらすじィ!東京が誇る敏腕美少女分析官のボクこと早乙女マイは当局からの命令を受けて陰険でドSな相棒の望月塔子と共に都民の平穏を脅かす連続通り魔事件を調査していた!夜闇に紛れて姿を現す異様な影、巨大な黒い馬に跨りながら獰猛な野犬を従えて容赦なく通行人に襲いかかるその男の正体とは?捜査が行き詰まる中、マイはその明晰な頭脳である手掛かりを見つけ出す!さあ、果たしてこのでこぼこコンビは無事に事件を解決し東京の平和を取り戻すことができるのかっ?!

「うん、だいたい思い出した」

―テンションひっく!

「低血圧なの。ていうか、手掛かりを見つけたのは私だから。勝手に自分の手柄にしないで」

―ちぇ、夢の中のことまでよく覚えていらっしゃることで……

「残念でした。私、記憶力はいい方なの」

 勝ち誇ったようにそう言うとキミは洗面所に立った。顔を洗って歯を磨く。滑らかな長髪は梳く手間いらずで、元々綺麗な顔の上には申し訳程度のメイクしか乗せない。トレードマークのメガネをかければ、いつものキミが完成だ。

 う〜ん、この美人さんめ……

 キミは続いてパジャマのボタンを外す。衣擦れの音ともに控えめに膨らんだブラが服の下に覗くと、キミはハッとしてまた胸元を隠した。

「ちょっと、覗かないでよ」

 なにを今更……

 キミの裸くらいもう何度も見てる。四六時中一緒にいるんだから着替えも、お風呂も、何ならトイレだって……いや、これ以上は止めとこう。

 しかし、改めてこうやってキミに恥じらわれてみると、これはこれでなかなか……あれだ。

―だってしょうがないじゃん。ボクの意識は塔子とつながってるんだから、どうしても見えちゃうよ

「そんなことわかってる。見えるのは仕方ないわ。別に今更あんた相手に気にしてもいないし……そうじゃなくて私は「覗くな」って言ってるの」

―ん?何がちがうの?

 キミがため息を吐く。

「こう言えばわかる?やらしい視線をこっちに向けないで」

 なんてひどい言われようだろう。人をそんな変態みたいに……

 キミのことを、やらしい目でなんて、見て……ない!そう見てない!はずだ……

―そ、そんな視線向けたことありませんけどぉ?!

「この前のこと、まだ許してないからね」

―うっ……

 そこをつつかれると弱い。でもだからって、キミも根に持ちすぎだと思う。ちょっと性格悪い。

―別に、あれは上と下で色はそろえた方がいいよって教えてあげただけじゃん……

「あんた、また説教されたいの?」

―マジすんません。勘弁してください

 早めに白旗を上げておく。キミのお説教は怖いから。

「いくら意識体だからって透明人間気取りはやめることね。私たちは〈リーベ〉なんだから。あんたがなに考えてるかなんて私には全部お見通しなの。また変な気起こしたらタダじゃ済まさないから」

 あいも変わらず、キミの刺す釘は的確に急所を狙ってくれる。

 現実の体が無くたって言葉の刃にはちゃんと傷つくのに……

 よよよと泣いてみる。

 今日はグレーだった。


午前九時五十五分

 上野にある国立西洋美術館は巨大な岩が少し宙に浮かんでいるかのような不思議な見た目の建物だった。その岩の足元をくぐるようにして中に入ると、石造りの室内はひんやりとして肌寒い。大きな天窓から取り込まれた光が部屋の中を疎らに照らして空間の所々に陰を塗る。

 飾り気ないコンクリートの柱の裏には黒い彫像がたたずんで、のっぺりとした壁の上にはけばけばしい額縁が盛り上がる。複雑に入り組んだ回廊は人を迷わせようとしているようだった。さっき通り過ぎたはずの入り口を見失って、出口もわからない。コツコツと、乾いた足音だけが時折響く。

 今が無限に引き伸ばされていくようだった。ここでは時間が眠っている。

 石舞台はもしかしたら棺だったのかもしれない。


 そんな冷たい静寂の中をキミはせかせかと歩いていく。

 左右の壁に掛けられた絵を几帳面に全て見ていくが、それはじっくり鑑賞しているという感じではない。キミはお客さんというよりは警備員のように、何かを待っているというよりはむしろ探しているようだった。

―ねぇ、なんで美術館?

「……」

 キミは何も答えずに、その代わりそっと唇に人差し指を当てた。これは秘密のサインだ。意味としては「今は話せない」。

 そりゃそうだ。こんなところで話し出したら流石に目立つ。意識体は普通の人には認識できないから、他のお客さんから見たらキミは独り言の激しい、ちょっとヤバい人になってしまうだろう。館内ではお静かに、だ。

 仕方がないので、キミを見ていた。絵を見てればいいかなという気がしないでもなかったが、柱に縛られてる顔色の悪いおじさんとか生首をお盆の上に乗せてしたり顔のおばさんとかその他何人もの厳しい表情の男の人とか、全部趣味じゃない。なんでよりにもよってこういう絵ばかりなんだろう。どうせ描くならもっとかわいいものとか楽しいこととか、心ときめくものにすればいいのに。昔の人の気がしれない。

 というわけで、キミを見ていた。くるんと巻いた長いまつ毛とかぱちくりと瞬きする切れ長の瞳とかすらりと伸びた鼻筋とその下に結ばれた薄紅色の唇とか……

 本当に、元の素材がいいんだ。なのに、キミはそれを飾ることを知らない。キミの服ってひょっとして一年通して四パターンくらいしかないんじゃないだろうか。パリジェンヌは服を十着しか持たないって言うけれど、キミのはたぶんそういうんじゃない。

 花の十七歳、世のJKはきっと今頃昼休み。制服のスカートを揺らしながら、友達と廊下を駆けたりするんだろうか……知らんけど。

 そんな景色も全部妄想。キミは奪われていたのだろうか。それともキミが……

「あ……」

 急に、キミが足を止めた。壁に掲げられた大きな一枚の絵を見上げながら、キミは呟く。

「これだ」

 その光景は暗がりから朧げに浮かび上がるようだった。キャンバスの中で猛る、黒い巨大な馬。剥き出しの白い眼球が闇の中で光れば、馬上から振り下ろされる剣にも不吉な光沢が宿る。騎手の目には怨みがこもり、その視線に貫かれた男は恐怖に大きくのけぞっていた。逃げ惑う裸の女を、肋の浮き出た灰色の犬どもが追う。女の柔肌に鋭い爪が突き立てられて、深く裂けた口の中に飢えた牙が覗く。ドロリと赤いものが滴ったような気がした。

 見ているだけで気分の悪くなりそうな絵だった。悪趣味だとか、そういう出来合いの言葉で片付けられるものではない。まるで悪夢というものをそのままキャンバスに閉じ込めたような、そんな絵。これがゲージュツとかいうやつなら、そんなのわからなくてもいい。

―これがお目当て?

「そう、ヨハン・ハインリヒ・フュースリ『グイド・カヴァルカンティの亡霊に出会うテオドーレ』」

ーカバの亡霊に出会う……なんだって?

「カバじゃない。馬よ」

 キミは言いながら絵を細部まで観察する。目を細めると眉間に皺が寄って目尻の筋肉がピクピクと小刻みに痙攣した。足元の柵から身を乗り出して、キスでもするんですかってくらいの至近距離で絵の具の凹凸に視線を這わせれば、キミの肩を叩く手が一つ。

「あまり近づいての鑑賞はご遠慮ください」

 低く滑らかな声が言った。美術館のスタッフらしきその若い男は声のイメージがそのまま具現化したような薄顔のイケメン。膝と腰を折り曲げてキミに視線を合わせようとしてくれているが、そのささやかな気遣いも二人の間の身長差を埋めるにはあまりにも足りない。振り返ったキミは彼の顔を見上げ、しかしすぐに目線を逸らすと気まずそうに言った。

「すみません……」

「いえ、いいんですよ」

 男は顔に柔和な笑みを浮かべながら言う。

「気持ちはわかります。この絵は、人を惹き込みますから」

「はあ……」

「フュースリの絵は暗い題材のものが多くて、一見不気味な印象さえ与えますけど、見れば見るほどその深みみたいなものにハマっていくというか、不思議な魅力があるんですよね」

「ええ、まあ……」

 てんで気持ちの欠けた相槌を打ちながら、キミは怪訝そうに男を検分する。ただのスタッフにしてはしゃべりすぎだが、ナンパにしては癖が強すぎる。おそらくはちょっとオタクっぽい学芸員といったところだろう。分類するなら残念イケメンというかんじ。まあ、好き好んでこういうところで働いている人というのはこういうものなのかもしれない。どちらにしろ、あまりキミの得意とするタイプの人間でないことだけはたしかだ。

「あの……」

 それだけに、キミの方から会話を広げようとするのは意外だった。

「私この絵についてもっと知りたくて、その……気に入ったので……」

「フュースリについてなら資料センターのほうに詳しい資料があります。学生さんなら申請を出せば閲覧できますが」

「いや、学生ではないんです」

「あ、それは失礼しました。お若く見えたのでつい」

 男はやや面食らったようだった。彼の見立ては間違っていない。キミは高めに見積もっても大学生、下手したら中学生と言われてもワンチャン通用するくらいの見た目だ。別にそれは意外性とかそういうのではなくて、ただ年相応というだけなのだけど……まあ、キミにはいろいろとあるのだ。説明するのはめんどくさい。

「うーん、学生さんじゃないと資料センターの申請は少し難しいかもしれませんね……」

「そこを、なんとかなりませんか?」

 そんなしおらしい声と上目遣いができたのかと感心する。男はそれを見て悩ましげに頭を傾け、しばらくして搾り出すように答えた。

「わかりました。短時間でしたら」

「ありがとうございます」

 キミはそう言って控えめに微笑む。

 そんな顔もできたんだ。

 またもや、ちょっと感心。


午後十二時〇四分

 空調の音だけが部屋の中に反響していた。どうやら、今日この資料センターに利用申請を出している人はおらず、終日貸切状態らしい。

「これなら何時まで使ってもらっても問題ないですね」

 学芸員の男はそう言って、キミが届かない書棚の上の方にある本を取って手渡す。

「僕は少し外しますけど、何かあれば呼んでください」

「ありがとうございます」

 キミはまたそうやって愛想よく笑った。男の背中を本棚の向こうに見送って、キミは閲覧席の上に分厚い図録を開く。机の上に肘をつきながら、細かい文字列を目でなぞる。反対側のページにデカデカと載っている絵の中では、またもや薄着の女が襲われていた。胸の上には不細工な小人が座り込んで、赤いカーテンの後ろから黒い馬の首が覗き込む。絶対に、この絵はドのつく変態の手によるものだ。

ーでもまあ、結構イケメンだったよね

「なにが?」

 キミは本に目を落としたまま聞いた。

ーさっきのお兄さん、塔子ああいうのがタイプなの?

 キミの目が次の文字を見失い、徐に視線が上がる。

「は?なんでそういうことになるわけ?」

ーいつになく愛想がよかったから

「べつに、普通でしょ」

ーいんや、嘘だね。普段の塔子はもっとこう、ツンツンツーーーッン、グサッ、てかんじ

「初対面の人間にそんな態度じゃ失礼でしょ。私は誰かさんとちがってそこのところはちゃんとしてるのよ」

ーなるほど、じゃあボクへのツンは親愛の証しってわけだ

「あんたへのは純度百パーの悪意よ」

ーうわひっど……普通に傷つくんだけど

「じゃあ貴女にも今後そういうふうに接しましょうか?早乙女さん?」

ーう……やっぱキモいからいいです

 キミはふんと鼻を鳴らしてまた本に視線を落とした。

 真昼の図書館に冬の日差しが差す。整然と並んだ背表紙たちは予定外の来訪者を気にする様子もなく、ずっと前からそうあったように、そしてこれからもそうあり続けるように、しんとして書棚に眠る。二人きりの静謐に緊張はなく、夢の中にも睡魔は訪れるようだった。キミの視線を追いながら、ふとして尋ねた。

ーそういえばさ、なんでその絵をそんなに一生懸命調べてんの?捜査に関係ある?これ

 キミが深くため息を吐く。

「やっぱり、なんも理解してなかったわけね。まあ、薄々そんな気はしてたけど……説明必要?」

ーぷりーず

 もう一つため息。キミは眼鏡を掛け直すと説明を始めた。

「まず大前提として、今回の事件は〈夢魔〉によるものよ」

―ま、そうじゃなきゃボクらの出る幕じゃないしね

「ええ、当局もこれを識別コードAlb-七八として認定してる。百年前ならいざ知らず、二十一世紀にもなって無差別な辻斬りをする騎馬の男は誰かの深層意識が現実世界上に〈形象化〉したものとしか考えられないわ」

―なるほど、つまりあれはどこぞの異常者が見てる夢なわけだ。なんというか、業が深いねぇ

「人の夢についてとやかく言うつもりはないわ。どんな夢でも見るだけなら本人の勝手よ。だけど、それが実害を出すとなれば話は別。夢は夢に、現実は現実に、その境界を守るのが私たち分析官の仕事でしょ?」

―そうだね、次の被害者が出る前に早いとこ片付けないと。だけどさ、それとあの絵となんの関係があるわけ?

「察しが悪いわね」

 そう言って、キミは指先でとんとんと手元の本を叩く。開かれたページにはさっき見たあのおどろおどろしい絵が載っていた。

「これを見て、何か気がつかない?」

ーえ?あーっと……

 もう一度注意深く絵を眺める。あまりまじまじと直視したくはなかったが、この際仕方ないと腹を括る。

 黒い巨大な馬、殺意をむき出しにして剣を振るう騎手、恐怖にのけぞる男、逃げ惑う裸の女、それを追う獰猛な犬……この一瞬の光景が、続いて引き起こされるであろう惨劇を鮮明すぎるほど鮮明に予感させる。自分のものでないはずの痛みを錯覚し、流される血の生臭さがここまで漂ってくるような……

ー……似てる

「そういうこと」

 得意げにキミが言った。

「そう、似てるのよ。事件の被害者たちの証言から判明した犯人の姿と、この絵に描かれている騎手の姿は酷似している。これは偶然の一致じゃない」

ーどういうこと?

「夢魔と言っても所詮は誰かの深層意識の〈形象体〉よ。つまり、その夢を見ている〈本人〉「誰か」が必ずいるの。そして、夢魔の〈形象かたち〉はその人間が深層意識の内に抱える記憶やイメージの影響を強く受けている。つまり……」

ーつまり、今回の事件を引き起こした本人はこの絵を見たことがあって、その記憶が形象体の姿に影響を与えてると

「半分正解。たしかに夢魔の形象は単に本人の記憶のコラージュという側面はあるけど、それ以上にその人間が無意識下に抱える根源的な欲望を象徴するの。いわゆる〈Sエス〉ね。そして、その欲望Sこそが夢魔の本質を構成している。だからこそ、私たちは夢魔っていうそれ自体ぱっと見じゃ得体の知れない化け物を、その形象を分析することによって理解可能な意味コードの中に〈解体〉することができるの。分かる?要するに、支配することは理解することなのよ」

ーなるほど、だからこういうお勉強も必要なわけだ

「そうよ。特に、今回の場合は形象の元となっているのが実在する絵画だから、それが本人のSを何かしら象徴していると考えるべきでしょうね……ていうか、この話今朝もしたわよね?」

 ぎくり……

 口ぶえを吹いて誤魔化してみる。フスーと間抜けな音がした。

「あんたのそのトリアタマ、一回病院で診てもらったほうがいいんじゃないの?」

ーひどいな〜、ボクだって大切なことはちゃんと覚えてるし

「じゃあこの絵の題名は?」

ー……カバ

「ばーか」

 お決まりの罵倒。これを言う時のキミは心なしか少し声にハリがあるような気がする。だからわざと言われるようなことをしちゃう、ってわけじゃないけど。

 

 近づいてくる足音にキミが顔を上げる。あの学芸員は相変わらず友好的な笑顔でキミに話しかけた。

「いかがです?資料にはご満足いただけていますか?」

「はい、とても勉強になりました。この絵、元になった物語があったんですね」

「ジョン・ドライデンによる『テオドーレとホノーリア』ですね。ボッカチオ『デカメロン』の中の一章「ナスタジョ・デリ・オネスティの物語」の翻案です。フュースリは画家になる前に文筆家としても活動していた人だったので文学的素養が豊かなんですよ」

「そういう背景を理解できると、一気に作品への解像度が上がりました。この絵の中の騎手、グイド・カバルカンティはホノーリアへの失恋とそれへの逆恨みから亡霊となって彼女を殺そうとする。きっと、彼の姿が象徴するのは怒りや怨念、復讐……」

「あるいは、愛」

 出し抜けに男の口から発せられた言葉にキミは困惑の表情を隠さない。

「愛……ですか?」

「ええ、まあ僕の個人的な解釈にはなりますが。グイド・カバルカンティは亡霊になってもなお、ホノーリアのことを愛していたと思うんです。だからこそ、殺してでも彼女を手に入れようとする」

「ちょっと、よくわかりません……」

 キミが正直にそう答えると、男は突然笑い出す。何がそんなに可笑しいことがあるのか、キミは呆気に取られて男の奇行をただ見ていた。男はそんなキミの視線も気に留めずに一人で不気味な引き笑いを続け、しばらくするとまた一転、すんとして言った。

「愛というのは必ずしも一様の表現をもって現れるわけではないということです。殺したいほどに愛している。そういうこともまた、あり得るでしょう」

「そ、そうでしょうか……」

「そうですよ」

 顔にうす笑いを浮かべながらそう言う男の口調は不自然なまでに確信に満ちていた。重い鍋の蓋から吹きこぼれた、微かな狂気。その片鱗に当てられて空気が凍りついていく。

 この感覚をよく知っていた。これは人の闇だ。底の知れない深みから湧き上がってきて、侵食する黒。気を抜けば飲み込まれてしまう。

「あなたは、どうです?」

 不意に男が問いかけた。男の瞳にまっすぐと見据えられて、キミは気圧されたように少し後ずさる。

 キミの中に揺らぎを感じた。キミという、危うい均衡の中に小石を投げ入れるような揺らぎ。一度崩れれば、二度と元には戻らない。

「私は……」

 突然、男のインカムが鳴ってキミの言葉を遮った。彼はそれを取って一言二言話すと、また、元の笑顔でキミに言った。

「すみません、そろそろ私が上がらなければならない時間で。何時まででもと言った手前恐縮なんですが、そろそろ退室の準備をしていただけますか?」

「はい」

 男は軽く一礼すると、あまりにもあっけなくその場を後にした。キミの元に戻ってきた静けさの中に、さっきまではなかった残滓が混じっている。それは言葉にしずらい類の、居心地の悪さだった。

 

午後四時一六分

 午後の日がせっかちに傾いて、石畳の上にキミの影を伸ばす。上野公園の噴水広場にはいくつもの出店が軒を連ねていて、あたりはなにやら楽し気な雰囲気だった。どこからともなく吹いた秋風が時折スパイシーな香りを運んできて、鳴るはずのないお腹がぐうと鳴った。

―ねえ、韓国グルメフェスだってよ。ちょっと食べてこうよ

「あんた食べられないでしょ。実体ないんだから」

―人が食べてるの見るのも好きなの。塔子がボクの代わりに食べて

「今お腹空いてないから」

 いつもこれだ。キミは細すぎる。体も食も。ちょっと心配になるくらい。

―ちゃんと食べた方がいいよ。痩せすぎだって

 特に胸のとことか、っていうのは怒られそうなのでやめといた。

「食べてるわよ。あんたがいろいろと無駄にデカいの」

 せっかくこっちが気を遣ってやったのに、キミの言葉は遠慮なし。もう少しオブラートに包むってことをしてもいいんじゃないだろうか。

 そんなんじゃモテないぞ〜、なんて一人心の中で呟いてみて笑う。

「そんなことより、夢魔よ。あの形象体についてある程度の分析戦略は立てることができたけど、これはまだ仮説の域を出るものじゃないわ。細部は実際に奴とやり合う中で補完するしかない」

ーつまり、最後はボクの出番ってわけだね。ステゴロなら任しといてよ

「まあそういうことだけど……あんた、夢魔が次どこに現れるか検討はついてるの?」

―それは……きっと塔子ちゃん先生がするっとまるっとお見通しなんでしょ?

「結局、私頼りってわけね……」

 キミは呆れてるようにみえて、でもどこか誇らしげ。そういうところもキミはかわいい。

「これ見て」

 そう言ってキミは携帯を取り出す。殺風景な写真フォルダの中、お気に入りの♡がつけられた一枚には、あるイベント情報サイトのスクリーンショットが写っていた。

ー東京メガイルミ?

「そう、大井競馬場で毎年冬に開催されている大規模なイルミネーションイベントよ。これが今日から始まるの」

ーへえ〜、いいじゃん楽しそう。で、これがどしたの?

「今夜、行くわよ」

ーなに?いきなりデートのお誘い?

「色ボケ……」

ーえ〜、でもこれってそういうイベントじゃん。そこにボクを誘うっていうのはつまりそういう……

「そうよ」

ーあ、認めるんだ〜

「ちーがーう!」

 キミがにわかに声を荒げると、あたりの通行人は驚いた様子でキミの方を振り向く。キミは自分が衆人の注目の的となっていることに気がつくと、顔を伏せて足早にその場を立ち去った。

ーうわ、いきなりキレるじゃん

「誰のせいだと……」

ーごめんって、真面目に聞くから機嫌直してよ。ね?

 キミは舌打ちをしようとしたが、乾いた口でうまく音が出ない。そのことを指摘したい欲をぐっと抑えた。

「私が肯定したのは「そういうイベント」って部分。あんたの言うとおり、これはカップル向けのイベントよ。しかも今日は開催初日の土曜日、世のカップルはみんな蛾みたいにこの光に吸い寄せられてくるでしょうね」

ー言い方……

「そして、重要なのは今まで件の夢魔に襲われた被害者が全て人気のない夜道を二人きり歩いていたカップルだってことよ」

ーなるほど、要するに……

「今夜、ここは奴にとって恰好の狩場ってことよ」

 眼鏡の下でキミの切れ長の瞳が一瞬光ったみたいだった。

―じゃあ、どうするの?

「決まってるでしょ……」

 その時、突風が吹いて道端の落ち葉が高く舞い上がった。キミはとっさに前髪を押さえる。

 風が止み、赤いマフラーを巻き直しながら、キミは言った。

「……帰って寝るのよ」

 黄昏が紫色に染まっていた。東の空に三日月がその朧げな姿を表す。

 手を伸ばせば、夜はすぐそこだった。


 *


午後六時〇〇分

―起きなさい

 ベッドに蹴りを入れた。

 あなたは大仰な動きでゆっくりと起き上がると、手を組んで大きく伸びをする。まるで朝顔が夜の帳を破って水色の花を咲かせるよう。ネコみたいによく伸びる脇腹がシャツの下から覗いて、ベッドの温もりがふんわりと香る。

「おはよぉ……」

―大井町周辺で夢魔Alb-七八の出現予測ポイントを割り出した。これより直ちに現場に向かい、これを形象解体する。以上

「うぇ、そんな説明じゃ出るやる気も出ないよ」

―やる気のあるなしは問題じゃないの。事態は一刻を争うんだから、早く準備して

「はいはい、わかりましたよっと……」

 あなたはぶつくさ文句を言いながらベッドを出ると、床に積み上げられたゴミ山を器用に避けて部屋を歩く。大きくはだけたダボダボのTシャツ、だらしなく後ろに跳ねた無駄に明るい色の髪……無造作に服を脱いでそこらに放り投げると、あなたは胸にぶら下がったうすらでかい脂肪の塊を抑えてちらりと振り返る。

「いやん、えっち」

―こんな時にふざけてんじゃないわよ

「雰囲気ないんだからな〜えっと、昨日あの服着ようと思って出しといたんだよな。どこ置いたっけ……」

―なんでもいいから早く着替えて

「ちっちっちっ、わかってないな〜塔子ちゃん。美意識を失ったら女の子はおしまいだよ」

―ゴミ屋敷の住人に美意識を語られたくない

「うっわ、毒舌」

 あなたは姿見の前でのろのろと身支度を進める。まったくもって無防備に……

 もう少し人目というものを気にしてほしいと、仮にそう言ってみたところで多分あなたは聞く耳など持たないのだろう。もうわかってる。あなたとの付き合いは決して短くないのだから。

 三十分近く経ってやっと着替え終わったと思っても、それはやはりというべきか……目のやり場に困るような服装だった。なんというか、全体的に肌色面積が大きい。

―あんたね……ディズニーランドに行くんじゃないのよ?

「いいの。かわいい方がテンションアガるもん」

―このクソ寒いのになんで生足なのよ

「ボクは年中無休で魅惑のマーメイドなんだよ」

 あなたはそう言って爪先立ちで器用にクルクル回って見せる。揺れる体のリズムに合わせて艶やかな髪の毛も踊っているようで……

 心の中でため息一つ。

 およそ日焼けというものを知らないあなたの肌が、夜の中によく映えていた。


午後七時四十五分

 左手の窓に夜の東京湾を眺めながらモノレールに揺られること数十分、大井競馬場前駅の改札では昼からの帰宅者と夜への出勤者たちがすれ違う。寄せては返す波のように、月に引かれて西へ東へ。都会の海は停まることを知らぬまま、いつも静かに揺らいでいた。

「くしゅん」

 と、あなたが小さくくしゃみする。

 体を縮こめながらもこもことした白いダウンのポケットに両手を突っ込んでいるが、あなたのその寒さの原因は手先にあるのでない。羚羊のようにしなやかな両脚が夜の中で静かに震えている。

―だからそんな格好はやめろって言ったのよ

「おしゃれは我慢なんだよ」

―真冬にそんな足出してるやついたら、おしゃれっていうよりバカって感想が先に来るけどね

「うるさいなぁ、ボクは自分が一番かわいいと思える格好でいたいの!」

 あなたが寒さに赤らんだ頬を膨らませる。もしもあなたに触れることができたなら、その頬を指の先で突いてやっただろうか。そんなことを夢想しながら、決して実際にはやってみたりはしない。

 身を寄せ合う恋人たちを横目に見ながら、とりあえず歩き出す。そうすれば多少体も温まるだろう。


午後八時一〇分

 競馬場前を素通りして人通りの少ない川沿いの道を選んで歩いた。街灯すらまばらな薄暗い夜道では人も車ももはやその影を消して、気がつけばいつのまにか公道を外れて公園の並木道を歩いていた。月が雲間から朧げな光を覗かせ、夜風が木の枝を揺らす。ここは他より気温が低い。

「なんかいかにも出そうなとこだね」

―ええ、これまで夢魔は選んでかは知らないけどこういう人気のないところに出現してる。あとは餌になる手頃なカップルがいれば申し分ないわね

「餌って……塔子ってリア充への当たり強いよね」

―別に、他意はないわよ

「嘘だ、ひがみでしょ〜」

ーひがんでなんかない

「まあ、塔子ちゃんもお年頃ですからなぁ〜」

ー勝手に話進めないでくれる?私はそういうの興味ないの。本当に、どうでもいい

「どうでもいいってわざわざ言うあたりがガチ処女っぽいよね〜」

―なっ……!あんたはよく恥ずかしげもなくそういうことを……

「もうその反応がザ・処女じゃん!」

 あなたはそう言いながら、堪えきれないとでもいうように腹を抱えて笑った。本当に、こういうところが人の神経を逆撫でする。

―そ……そういうあんたはどうなのよ!

「え、ボク?う〜ん、そうだな〜」

 あなたは、もったいつけて考え込む。そんなにあれこれ考えられるようなご立派な頭でもないくせに。

 あなたが黙ってしまえば公園は静かなもの。虫の鳴く音や枯れ葉の擦れる音もよく聞こえる。

 どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。あなたは、出し抜けに声を発した。

「やっぱひみつ〜」

 なにそれ……

 あなたらしくもない、妙に含みを持たせた言い方。それは故意か。そんな駆け引き、できるような柄じゃないくせに。

 いつだって、あなたのことなんか全てお見通し。だから、こんなやり方、ずるすぎる。

 夜の小道に冷たい風が吹き抜けた。雲のヴェールが月光を遮り、虫たちが鳴りを潜める。夜が、どこまでも深く口を開いていた。触れ得ぬ闇に触れようと、食指を伸ばす傲慢に、闇は背後から復讐する。

ーマイっ!

 咄嗟に叫んだ。あなたが振り返り、瞬間的に身を避ける。牙が空を裂き、灰色の影は軽やかに地面に着地した。

「あの犬って……」

ー奴よ!マイ、備えて!

 あなたが身構える。その横顔に緊張が走っていた。

 最初の奇襲に失敗した犬は、じっとあなたの出方を伺っているようだった。三歩半の距離を挟んで睨み合いが続く。張り詰めた空気の中、犬は空に向けて遠吠えした。

 それを合図に、周囲の木々が突然にざわめき立つ。激しく揺れる梢を掻き分けるように、その足音は闇の中をこちらへと近づいてくる。暗がりから朧げに浮かび上がったその黒い影は、まさに探し求めたそれだった。

ーグイド・カヴァルカンティの亡霊……

 瞬間、黒馬が奇怪に嘶く。亡霊は妖しく光る剣を振りかぶり、馬を駆ってあなたに突進した。

ーマイ!避けて!

「わかってる!」

 あなたはそう言うが速いか、軽やかな身のこなしで騎馬の突進をかわした。さながらブリッジのような体勢で大きく上体を逸らしたあなたの鼻先を剣の一閃が掠める。初撃は避けた。しかし、主人の忠実な従者は露わになったあなたの脇腹に喰らいつこうとすかさず追撃を仕掛ける。体勢的にここから避け切ることは不可能に思えた。だが、あなたはそのまま両手を地面につくと、まるで逆立ちでもするように足を真上に振り上げ、逆に犬の浮きでた肋に強烈な蹴りを叩き込んだ。犬は怯んだような情けない鳴き声をあげて、数メートル先の地面に落下した。

 この一連の動きを、あなたはよく訓練された体操選手のような冷静さと正確さをもって実行した。惚れ惚れするようなしなやかな体躯からだの中に底しれぬ力強さを宿して、あなたは自らの敵に対峙する。

ーあいかわらずお見事

「ありがと、でもちょっと無理した。犬蹴った時に足の筋違えたかも」

ーあいつやれる?

「ワンチャンね」

ー犬だけにってわけ

「え?」

ー……忘れて

 敵はあなたに向き直って、再び剣を構えた。人馬の目は共に血走って、あからさますぎるほどあからさまな殺意をもってあなたをしかと見据えている。

「ありゃどう見ても話の通じる相手じゃないね」

―ええ、強制解体する。マイ、〈想具〉を……

「おっけ、塔子行くよ!」

 敵は再度の突進を試みる。その巨体が衝突する刹那、あなたは叫んだ。

 

「想具形象ッ!」


 その掛け声をきっかけにして、あなたの体は眩い光を放ち出す。

 あなたを強く抱きしめた。包み込むように、護るように。あなたの輪郭をなぞりながら溶けて重なる。曖昧な夢の中で、あなたの温もりだけを確かに感じた。


ー私は鎧 あなたを護る 決して破れぬ 硬い意志

 

 世界の理に背を向けながら、夢と現実が交錯する。結びついた二人の意識が、今完全に一つに。

 発光が止んだ時、あなたは漆黒の鎧をその身に纏い、首に赤いスカーフをはためかせながら、力強く地面に立っていた。

 敵の突撃は虚しく跳ね返された。その巨体が大きくバランスを崩して傾く。明らかな困惑の表情と共にあなたを見つめる敵は、言外にあなたに正体の開示を求めているようだった。それはまったくお手本のような反応で、こういうシチュエーションはあなたの大好物だ。待ってましたとばかりに、あなたは大見得を切って名乗りを挙げる。

「月の光をこの身に受けて 纏う想具はリーベの絆 人の世の夢守るため 今宵乙女は夜を舞う! 東京都精神鑑定局は特務分析官、早乙女マイ!」

―同じく黛塔子

「グイド・カバ……」

ーカバルカンティ

「そう!グイド・カバルカンティの亡霊、ボクらでお前に引導渡してやんよ!」

 せっかく練習した口上も、最後にこれでは形無しだ。まあ、そういうところもあなたらしい。

 勢いよく地面を蹴ってあなたは駆け出す。繰り出す拳の衝撃を受け止めながら、あなたの動きを自分のように感じた。


午後九時二十一分

「しゃオラァッ!」

 敵の斬撃をかわしながら、あなたは騎手の横顔に渾身の右ストレートをお見舞いする。

「やった?」

ーいや、まだよ!

 騎手の返刀が襲いかかる。あなたは咄嗟にガードしたが、左腕にまともに攻撃をくらった。

「痛っ!」

 体勢を崩したあなたは一度敵と距離を取る。

―大丈夫?

「うん……塔子ちゃんガードがなかったら即死だった。ていうか、塔子こそ何ともないわけ?」

―なにが?

「なにって……ボクが着てるこのアーマーって塔子そのものみたいなもんじゃん。ボクは守られてるからいいけど、塔子は攻撃もろに食らって大丈夫なの?」

―この想具は私の深層意識を形象化したものにすぎないわ。いくら鎧がダメージを受けたところで、それは所詮夢の中のこと、現実の肉体に影響はない

「わかってはいるつもりなんだけど……どうしても心配になるよ」

ー私の心配をしてる暇があったら敵に集中して。条件は奴も同じなんだから

「ノーダメなのはお互いさまってわけ」

―ええ、いくら形象体を攻撃したところでそれは蜃気楼を殴るようなもの。夢魔の形象を分析して、そこに現れる深層意識の欲望Sを解析しないと埒が明かない

「それで、進捗は?」

―九十九パーセントってとこ。性欲に根差したものであることは間違いないんだけど、それが正確にどういうものなのか、核心部分がわからない

「まあなんでもいいけど、巻きでお願いね!」

 そう言いながら、あなたは敵の突進をかわして馬の首に取り付いた。奇怪な悲鳴が響いて、馬は前脚を上げながら暴れる。

「相乗りさせてもらうよ!」

 あなたの蹴りがまた騎手の顔に炸裂する。普通の人間なら脳震盪まったなしの衝撃。しかし、騎手には蚊ほども効いていないようだった。それどころか、騎手はあなたの足首を掴むと凄まじい力で振り回し、地面に叩きつける。地面に伸びて一瞬気を失ったあなたに、追い打ちをかけるように馬の後脚が食い込む。あなたは十メートル以上は宙を舞って背中から落下した。

ーマイッ!

「ぐっ……このカバ野郎、ボクじゃなきゃ死んでたぞ?!」

―カバじゃなくて馬だって……

 閃きというのは突然に、しかも思いもよらぬところから訪れるものだった。今まで無秩序に散逸していた個々の手がかりが一つにつながり。説得力のある解答を形作る。

―マイ、わかった!

「わかったって何が?」

ー奴の本体は騎手じゃない。馬よ!馬の足を止めて!

「よしきた!」

 あなたは一度敵と距離を取る。馬は前脚で地面を掻きながら、あなたに止めを刺そうと最後の突進を敢行する。

―マイ!今!

「言われなくても……」

 あなたは素早くその身を横にかわし、馬の脚に鋭いローキックをきめる。何かが割れるような、確かな手応えがあった。

 突然、馬の足が止まる。俊敏だったその動きは一転してぎこちないものになった。敵は自分の身に起こりつつある未知の恐怖に暴れ回り、最後には消え入るような悲鳴とともに膝を震わせながら力無く地面へ突っ伏した。

「やった……んだよね?」

―ええ、もう奴に動ける力は残ってないわ

 あなたは倒れた馬に歩み寄った。改めて見てみれば、騎手はまるで自らが跨る馬の付属品だった。およそ自由意思というものを感じさせない、機械仕掛けの自動人形のような顔。糸の切れた操り人形は四肢を投げ出して地面に横たわるしかない。あなたはしゃがみ込んで、馬の横顔に触れた。馬の瞳は弱々しく、しかし未だ恨めしげにあなたを見つめていた。その姿は、あるいは憐憫を誘うものであったかもしれない。あなたはただ静かに、そこへ寄り添う。

ーマイ……

「うん、わかってる。もう、終わらせてあげよう」

 あなたがそっと、馬の瞳を閉じる。

「形象解体……」

 今、夢は夢へと還る。仮初の形象は崩れて、その正体が明かされる。

 馬の皮が剥がれて現れたのは、静かに眠る若い女の姿だった。その真相は、どこか意外なようで、やはりありふれたものだっただろう。

「ぜんぜん、普通そうな人だね」

―ええ、だからこそ人間は信用できないの

「そうだね……」

 あなたは膝を抱え直しながら続けた。

「ここだけの話さ、ボクきっと昼間会ったあの学芸員のお兄さんが夢魔の本人なんじゃないかって思ってたんだ」

ー奇遇ね、私もよ

「そのわりに、あんまり驚いてないね」

ーそんなものでしょ。人間はみんな、自分で知ることも制御することもできない欲望を抱えて生きてる。いつ爆発するともわからない爆弾みたいなものよ。今回は、たまたまこの人だったってだけ。別にそれがあの男だったってなにもおかしくはなかった。それだけよ

「それだけ、か……」

ー人間はどこまでも不確かな存在。誰だって夢魔になり得るのよ。あんたと私はよくわかってるはずでしょ

 あなたは、何も言わなかった。その代わり、ただ小さく頷いた。

 雲が晴れて、月の光がほのかにあたりを照らし出す。

 ただ、それだけのこと。

 この東京に星は見えない。

 


午後十時五十五分

 あなたは電話で当局に夢魔の正体を報告した。これであとは当局が男の身元を突き止め、うまく処理してくれる。

 想具を解くと、再び薄着となったあなたは寒風に震えていた。

「さっぶ……塔子、もう一回想具形象してよ」

―イヤ、あれやると頭痛くなるの

「うう、風も塔子もちべたい……」

 あなたはそう言いながら白い息を手に吐きかけて擦り合わせる。

「まあでも、これにて一件落着だね」

ーそうね、まだ一つだけ謎は残るけど

「なに?」

ーあの夢魔が、どうして私たちの前に現れたのか、それだけまだ納得のいく説明がつかないの。これまでの全事例では、夢魔は標的に決めたカップルの前にだけピンポイントで出現してる。今回に限って例外的に都合よく私たちの前に現れたのはどう考えても不自然なのよ

「な〜んだ、名探偵塔子ちゃんも意外とそんな簡単なことがわからないんだね」

ーなによ、あんたはわかるっての?

「もちろん、それについては完璧に説明できるね」

ーあんまり期待はしてないけど、一応聞かせてもらうわ

「ボクたちがそういうふうに見えたんでしょ」

ーなっ……!

 やっぱり、あなたの説明はめちゃくちゃだ。そのくせ、効果的な反論ができない。反証可能性が封じられた説明なんて、説明の名に値しない。やっぱり、あなたはずるい。

「ていうか、まだ夜も早いしさ、せっかくならイルミ見ていこうよ」

―好きにすれば?夜はあんたの世界なんだから、私に決定権ないし

「そう連れないこと言うなよ~せっかくのデートなんだからさ、二人で楽しも?」

―デートじゃないから

「じゃあランデヴーだ。ラ・ン・デ・ヴ〜」

―うざい

 あなたが可笑しそうに笑う。あいも変わらず、ばかみたいに口元を緩ませて。

 遠く街の灯は煌々として静寂を知らない。その光を一身に受けながら、あなたは軽快なステップで夜を歩き出した。

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夢見る乙女は夜に舞う 八月朔日八朔 @hozumi_hassaku

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