第二十三幕『その水を汲み入れるのをやめろ!-It’s no use crying over spilt milk-』

 夏雲が立ち上がり、気持ちの良い風の吹く空の下、小さな船が海をただよっていた。

 船はエンジンが止まっており、完全に止まっている。しかし事故やアクシデントでエンジンが止まってしまったと言う訳では無く、ただ単に乗員が操舵そうだをやめて日光の下で昼寝ひるねをしているだけだった。

 船の甲板で昼寝をしているのは一見痩躯そうくだが筋肉質な青年で、日焼ひやけをしないように肌の露出ろしゅつが少ない服装で眠っていたが、彼が沖で昼寝をしている間に、青かった空はみるみる内に黒い雲が立ち込め、まるで夜の様になってしまった。

 すっかり周囲が暗くなってしまったのだが、事態じたいはそれだけでは済まなかった。更に沖の方から、古ぼけた雰囲気ふんいきの木造船が現れたのだ。

 木造船は小さな船に近づき、そしてそれこそ船から船へと飛び乗れそうな距離きょりまで接近してきた。

 しかしこの古ぼけた木造船、船首は朽ちかけており、船体はどこもかしこもおおわれていて、船体を構成こうせいする木はくさっている様に見えた。

 そして何より、何より目を引くのは木造船の船員達せんいんたちだった。

「体があついいい……」

「水を浴びなくては……」

柄杓ひしゃくしてくだされ……」

 船員達の体は強烈な熱波を至近距離しきんきょりで浴びた様にけただれ、ドロリと溶解ようかいした皮膚ひふが垂れ下がった状態で、眼球は水分を失って黒くなっていた。

 船員達の声は外見とは裏腹うらはら不思議ふしぎとよく通り、その声は昼寝ひるねをしていた筋肉質な青年の耳にも届いた。

「………………」

 筋肉質な青年は鬱陶うっとうしそうに起きあがると、頑丈な空のコップをいくつか、木造船に投げ入れた。

「おお、ありがたい……」

「これで海水をすくう事が出来る……」

「これで願いが叶う……」

 木造船の船員達はそう言い、コップを手に、船から垂れ下がって海水をコップに入れ、そして笑みを浮かべた。

「「「これで仲間を増やせる……」」」

 次の瞬間しゅんかん、木造船の船員達は明らかに船の規格に合わない大人数を見せ、武器でもかまえる様な姿勢しせいで手に持っている物を見せた。

 誰も彼も海水が入ったコップや木製もくせいのジョッキや柄杓ひしゃくや調理用のお玉のたぐいを手にしており、全員が全員寒気を覚える様なゾッとしないいやな笑みを浮かべていた。

「「「お前も仲間になれ!」」」

 木造船の船員達はコップやジョッキや柄杓やお玉で、その小さな船に海水を投じ始めた。

 この木造船は一種の海賊船かいぞくせんで、略奪対象りゃくだつたいしょう善意ぜんいに付け込み、船員を溺死できしさせては沈まなかった物をぶんどり品としてふところにしまっていたのだろう、船員達の手に持つの統一感が無いのはそういう事にちがいない。

 このままでは船が沈んでしまう! しかし筋肉質な青年は慌てず騒がず、消防しょうぼうと書かれたバケツを手に取り、船に投じられた海水を木造船へと投げ入れ始めた。

「「「え?」」」

 木造船の船員達は文字通り、顔面に水を打ち付けられたかのような反応。パニックにおちいり、海水を掻き出そうとした人間は見た事はあったが、自分達の船に水をかけ返す人間は見た事が無かったのだ。

「「「ええい、相手は一人だ! 全力で沈めろ!」」」

 船員達は多勢たぜいと言えど、筋肉質な青年がバケツで海水を掻き出し返す速度には、コップやジョッキや柄杓やお玉ではとてもかなわなかった。

 木造船の船員達は必死になって海水を相手の船に投じたが、それをはなで笑う様な速度で自分達の船へと返されるのだからどうしようもない。何せ自分達が相手の船を沈めようと海水をかければかける程、自分達の船に海水が降りかかるのだ。

「い、いかん。このままでは船が沈む!」

 木造船の船員の一人がそう気が付いたが、しかし必死になって海から海水を掬っては相手の船に投げ入れる作業に没頭している船員達の大半はそんな事に気が付いていない。

 助かりたいならば、! しかし、そんな行為が無駄むだである事は―船に海水を投じる存在が居る限り無為に終わる事は―外ならぬ自分達が知っている!

 最早自分達は船を沈めるために海水を投じるのではなく、自分達が船を沈められないために抵抗をしなければならない。それも、目の前でバケツを振り回す青年たった一人に!

「水を汲み入れるのをやめろ! !」

 その船員はそう叫んだが悲しいかな、木造船の船員の誰もがその言葉が自分達を止める言葉だとは気付かなかった。そして……


  * * *


 この地域には古くから船幽霊ふなゆうれいと呼ばれる妖怪が居た。

 海難事故かいなんじこで亡くなった人々がその正体だと言われており、生者を仲間に引き入れるために溺死できしさせようとするのだという。


 この地域では昔から海難事故で船が沈む事が多く、そう言い伝えられていたのだが、しかしある時を境に船が沈む事故がめっきり無くなった。

 人々はやれ、成仏出来ない幽霊をあわれんだ旅の僧侶がとむらったのだの、やれ、酷く機嫌きげんの悪い益荒男ますらおにちょっかいを出して全員返り討ちにあったにちがいないだの、やれ、悪い事をするから天罰がてら雷が落ちて沈没したのだろうだの、いい加減かげんな事を言い合った。

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