第十三幕『見ざる、聞かざる、言わざる、そして……-taboo-』

 人気ひとけの無い山の中にパチパチとぜる音と光がひびき、小銃を背に背負った猟師が焚火をしていた。

 この一帯は獣道けものみちから外れており、獰猛どうもうな動物の縄張なわばりでもなし、彼はったキジを傍らに置いて干し肉を食べていた。

(獣道から外れたとは言え、一匹オオカミが出るかも分からんし獲物を解体かいたいする気にもならん。この山で一匹オオカミが出たと言う話は聞かないが、念には念だ)

 一匹オオカミと言えば聞こえは良いが、その実は群れから追われたりはぐれたりしたオオカミ。

 集団で行なう狩りが出来ず、人里に降りて人畜をおそったりする駆除の対象だ。

 それこそ一匹オオカミを完璧かんぺきに出さないためには、オオカミを絶滅ぜつめつさせるか、或いはオオカミ間に割って入ってイジメ問題を解決でもしなければならない。

(この暗さで山を下りるのは無謀むぼうか。夜明けまで休んで、朝霧あさぎりが晴れたら下山する事にしよう)

 その時の事だった。

 猟師は何かの気配を感じ取った。

 山賊さんぞくや夜盗の様な、人の気配ではない。

 息を潜めて他者を襲おうとする人間の気配ではなく、見慣れぬ動物にんげん興味本位きょうみほんい凝視ぎょうしする動物のソレだ。

(群れからはぐれたオオカミか? それともクマか何かか?)

 猟師は小銃に手をかけ、自問自答した。

 オオカミなら火を恐れるし、クマなら人を恐れる。

 ここまで踏み入ったのならば、オオカミの法度から外れた一匹オオカミか、もしくは人の味を覚えたクマか何かだろう。

 猟師は引き金に指を掛けたまま、視線の主を刺激しげきしない様にゆっくりと振り返った。

 もしもこれで相手が人間ならば、引き金に指を掛けていたのだから人殺し扱いされるかも知れんが知った事か、こっちだって自分の命は惜しい。

 それにゆっくり振り返るのだから、相手だって分かってくれるだろう。

 猟師が視線の方を向くと、そこにはが有るだけだった。

 視線の主はやぶの中からこちらを見ているのだろうか?

(よく見えんな……一発って獣ならば音におどろいて逃げてくれるだろうが、人だったら大惨事だいさんじだな)

 猟師はそう判断し、声を出そうとしたが急に背中が気になった。

 今さっき感じていた、動物の様な視線を今現在も背中に感じる!

(これはオオカミの群に囲まれたとでも言うのか? 俺がオオカミだとしたらどうする? オオカミは火を恐れて襲って来ない筈……いやそもそもこの山道には獣らしい獣は出ない筈! ではこれは獣ではない化生の類だとでも言うのか?)

 猟師はその場に凍りついた様に固まったまま、動けなくなった。

 振り向いたが最期、今現在自分の前方のやぶからバケモノが出て来て、取って喰われそうな気がした。

『ねえ、もし?』

「!?」

 猟師は背後から人の声がして、反射的に返事をしそうになったが飲み込んだ。

 周囲はすっかり暗くなった山で人が居るとはそうそう考えづらいのが第一、第二に声がひどく不自然にこえたのだ。

 そう言えば街で、人間の言う事をマネる天竺の鳥と言う見世物を昔見た事が有るが、それに近い。

 天竺の喋る鳥は聞こえる声をそのままマネするのであって、人間の声をやまびこの様に返すどころか、鳥の声で不自然な声を挙げると言った様子だった覚えがある。

 即ち、今自分の背後に居るのは天竺の喋る鳥の様な獣。

 いや、人の声のマネをするバケモノか何かではないか? そう考えると、猟師は肝が雪にさらされた様に冷えるのを感じた。

『ねえ、もし?』

 またも声がした。

 今振り返ったり返事をしたりすると、自分の背後に居るバケモノに丸呑みにされるのではないか? ひょっとしたら今前方からした獣の気配はヌエの様な一心同体の捕食者ではないのか?

 猟師はすっかり蛇に睨まれたカエル、その場で影をわれた様に動かなかった。

 目線と銃口はやぶから逸らさず、背後は決して向かず、まるで像の様に微動びどうだにしない。

(化生かか、それとも山の神か何かだとでも言うのか?)

 全く動かない猟師だが、その時更なる変化が彼を襲った。

 今度は左手の方から、獣があばれる様な音がするのだ。

 しかし猟師は左手の方向く事はおろか、目線をやる事すら出来ない。

 そちら側にも目を合わせたら襲ってくるバケモノが居ると言う想像が、彼の頭の中で組み立てられていた。

(ダメだ……今なお前方のやぶの中に、俺の事を狙っている獣が居る気がする。左手も背後も見る事が出来ない!)

 そんな対峙たいじが一刻か永遠か、或いは一瞬いっしゅんか判断が付かぬが続いた。

 猟師は延々と三方から視線と声と物音に耐え続けた。

 そもそも三方からずっと同じ様な視線と声と物音とがし続ける事自体がおかしいのだ、猟師は完全にこの現象を化生か山の神かの仕業だと確信していた。

『今、わしの事を化生か神の類だと考えたな? 当たらずとも遠からずだ』

 猟師はすぐ右側の耳元で不気味な声がして、反射的に小銃をかまえながら振り返った。その場にはサルの様な野人の様な、毛むくじゃらのが居た。

「お、お前は!?」

 猟師は歯の根が合わなくなり、恐怖でサルの様な何かに向って引き金を引いた。

 恐怖で神経衰弱の様になっていたが、そこは猟師、銃弾はサルの様な何かに確かに命中した。

 サルの様な何かに銃弾は的中したが、しかし、クマやイノシシの毛皮が銃弾を防ぐ様にサルの様な何かには銃創も出血も見られなかった。

『儂の姿を知ったな? いやはや、手強かったがこれで馳走に預かれる』

 猟師は恐怖でその場に尻もちをつき、目をつむった。

 山道に四つの猿叫がひびいた。


  * * *


 ある山道に一人の登山客が居た。一見痩躯そうくだが筋肉質な体躯をした青年で、愛用の登山用の杖を使って苦も無く軽やかに登っていた。

 この山はその昔、四匹のサルの妖怪が出て人を取って喰うと言う伝承がある山だが、なんて事は無い、山の環境が整っていない時代は獣害が多かったと言うだけの話だと言われている。


 登山客が山道を歩いていると、彼をやぶの中から凝視する何者かが居た。

 登山客は特に気が付かずに山道を歩いた。


 登山客が山道を歩いていると、彼に対して『ねえ、もし?』と呼びかける声がやぶの中からした。

 登山客は向こう側にも山道が通っていて、他にも登山客が居るのだと思い、特に気にするでもなく山道を歩いた。


 登山客が山道を歩いていると、やぶの中から獣が暴れる様な物音がした。

 登山客は酔っぱらったリスか何かが暴れているのだと一人合点し、全く気にせずに山道を歩いた。


 登山客が山道を歩いていると、しびれを切らした様なイライラした声がすぐ横からした。

『おいそこの小僧、無視を決め込むな! わしが誰か知らないのか!?』

 登山客が反射的に声のした方を見ると、そこにはサルの様な野人の様な、正体不明のが居た。

 はいきり立っており、今にも登山客に飛びかからんとしている様子だ。

「知るか」

 登山客はそう言うと、手に持った登山用の杖の先端せんたんはなしたたかにった。

『キキーッ!?』

 の体は油分を潤沢じゅんたくに含んだ毛皮に包まれていたが、鼻や目は毛皮で防護ぼうごされていない。

 はその場でへたり込み、酷く痛がってのたうちまわった。

『おのれ、貴様、儂を何……』

「オラァッ!」

 登山客はがのたうち回ったり口を利く元気が有るのを見て、鼻を打ち、眼窩がんかを突き、眼球を刺した。

『キ、キーッ!』

 は抵抗を試みるが、その都度登山客はの鼻尖を的確に打ち、は地に伏し、もう一度抵抗を試みてはまた鼻尖を打たれた。

 そうして何度も登山用の杖で強かに打たれたり刺されたりしている内に、断末魔だんまつまの叫びを挙げ、動かなくなった。

 登山客はが動かなくなった事を見ると、それが死んだふりで無い事を確かめる為、何度かの体を登山用の杖で突いたり刺したりし、間違まちがいなく死体であると認めてから、登山に戻った。


 ある山道の終わりに、長い茶髪ちゃぱつが目に映えるスレンダーで、どこかサルの様な印象を覚える軽快な雰囲気の女性が居た。

「おっす、ゲンジョウ。あたしの方が早かったね!」

 茶髪の女性の背後には下り道が有り、この山には二つの山道が通っている事が見て取れた。

「ああ、負けた負けた。お前、こう言う事は本ッ当に昔から早いのな」

 茶髪の女性に返事をするのは、筋肉質な登山客の青年。

 彼は口では悔しそうだが、その実顔や態度たいどは全く悔しがっておらず、爽やかな様相すら見せていた。

「ところで、この山にはサルの妖怪の昔話があるらしいんだけど、知ってる?」

「いや、知らん。全然、これっぽちも」

 登山客はうそいつわりも叙述トリックも無しに、本心からそう答えた。

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