第3章 あやかしじゃないと言われても<1>

 夜のしじまが支配するリビングに微かな足音が響く。


 忍び足は冷蔵庫の前で止まった。


 扉を開ければ、冷気が漂い出てくるなか中瓶を器用に両手で持つ。

 ぱかっと蓋を外して、口へ持っていこうとしていた。

 瓶から直接とする豪快な呑み方である。


 今まさに、口につける寸前だ。


「やっぱり、てめぇーか」


 ぱっと部屋が明るくなるなか、怒声がまさしく轟いた。


 じゃもー、と酒瓶を両手にする三毛猫は驚きで眼を開いていた。表情豊かな哺乳動物である。ただし表情の激しさでは人間に及ばない。


 パジャマ姿の愛莉紗めりしゃが、これこそ鬼の形相で掴みかかっていく。

 酒瓶から手を離した三毛猫の首を正面から締め上げては頭上へ掲げた。


「どうしたの、メリさん」


 騒ぎを聞きつけて来たのは天風てんぷうだけでなく、寝ぼけ眼をこする女の子もだった。お揃いで着るパジャマがとても似合っていて、ほのぼのといった風情である。


 実習中の父娘は居るだけで心和ませるが、妻であり母役の女性までには届かない。


「こいつ、このバケネコの首、今ここでへし折ってやるわ。いいわよね!」


 はい、とは言えない天風であればなだめるしかない。


「メリさん、落ち着いてください。魍獣もうじゅうの処分は僕の役目だし、首を折るとたぶん血を吐いて手が汚れてしまいます」


 ピントのずれた引き留め内容に、心なしか三毛猫が青ざめたような感じがした。


 気を落ち着けて欲しい愛莉紗には、天風の説得は火に油をそそいだ格好となる。 


「これくらい、わたしでぶち殺す。酒を盗み呑みする猫なんて生かしておいたら、今後のためにならないわ。今、ここで息の根を止めてやる」


 天風としては、ともかくしょうがない。

 連れてきた覚えがないに、いつの間にか部屋に上がり込んでいた。いちおうその場で検査室へ連れていったが、普通の猫とする結果だった。投げ捨てては我が家に来たばかりの娘、正式に『希愛のあ』の名で登録された女の子に心象が悪いだろう。取り敢えず家へ連れ帰った。


 その翌朝である。あー、と声を挙げる愛莉紗に、どうしましたと聞いたらである。今晩から始めようとした晩酌のため用意していたお酒が空になっている。せっかく天風の体質改善の可能性を秘め、かつ初めてだからと特上を準備をしておいたそうだ。それが台無しとされて愛莉紗は、どたまにきた! だそうである。


 そして今晩、犯人確保となった。


 夜中にこっそりとはいえ、家の中である。ずいぶん脇が甘いな〜な三毛猫である。一方、メリさんはなんて熱い方だと思う。

 以上が天風の感慨であった。猫の特性から外れた行動に目を向けることなく、妻役の凶暴性をいいように捉えて感心していた。

 つまり助ける行動までは移らない。三毛猫の命は風前の灯であった。


「待ってくれじゃも〜」


 誰のものでもない声が響いた。


 リビングの空気が止まった。だがそれも一瞬である。


「凄い、しゃべれるようです」


 天風が示す感激は、良い方向へ運ばなかった。むしろ愛莉紗に非情な決断を促したようである。


「要は魍獣ってわけよね。生かしておいても仕方がないわ」

「待つじゃも。魍獣はヒドいじゃも。せめてあやかしくらいに言って欲しいじゃも」

「わたしからすればどっちも同じようなもんよ、ともかく、処分処分」

「謝るじゃもー、謝るから許してじゃもー」


 かなり必死になって繰り出す謝罪に、じゃもじゃもを付け加える三毛猫だった。

 天風の気質からして気の毒に思うようになるのは自然と言えた。


「メリさん。ここまで謝っているので、許してあげませんか」

「さ、さすが、天風殿。一家の主だけあって御心が広いじゃも」


 おべんちゃらとされてもしょうがない調子が多分に含まれた三毛猫の言である。余計な発言とも言えた。

 一家における実際の権力者は妻とする多くの事例は、ここ咸固乃みなもとの家においても該当する。


「じゃ、あたしは主でもなんでもないから狭い心のまま抹殺といかせてもらうわ」


 いよいよ三毛猫の命はヤバくなってきた。 


「希愛どの〜、どうか儂らの仲、助けてくれるよう頼んでくれじゃも」


 最終的切り札とばかり子供に縋っていく。


 どうする? と天風が希愛へ視線を落としながら訊く。


 愛莉紗の首を締める力も若干緩まったようだ。

 抱え上げられている窮地は続くものの三毛猫が期待で目を輝かせる。  

 希愛がぼそぼそと答える。


「……会ったばっかだし……どっちでもいい……」


 最後の希望は砕かれたようだった。

 じゃもー、とする三毛猫の悲鳴と言っていいかどうか不明な叫びがリビングにこだました。

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