第2章 子供と言われても<5>
森に囲まれた広場の中央にはジェヴォーダンと呼ばれる巨大な狼に近い
掲げた口先に人影がある。月明かりに照らし出される。
牙に突き立てられた幼い姿を。
少女がジェヴォーダンに咥えられていた。
身体が震えてしまうほど天風は悔しい。
もし先日の少女ならば年齢は五歳くらいだと思う。自分もその年齢だった。
獣に歯を立てられる恐怖は、今でも甦る。
今後誰かを同じような目に遭わせたくない。そんな想いで訓練を積んできた、この仕事に取り組んできた。
なのに目の前で無力を突きつけられていた。
自分は身体の損壊ですんだが、少女は命を失っている。
ちっくしょー、と普段なら発しない言葉と共に天風は駆けだす。
ファイヤーナックル、と叫べば左拳に相当する部分が
獲物を口にしているせいか、ジェヴォーダンは敏捷さを欠いている。
一気に間が詰められた。
ジェヴォーダンが勢いよく顔を横へ振った。
咥えていた少女をまるで吐き出すかのように放り出す。
白い衣に包まれた幼い身体が樹々の生える場所まで吹っ飛んでいく。
一瞬、天風の頭に疑問が走った。
なぜジェヴォーダンが口にした少女を放り出す?
習性として獲物を投げるなど考えられない。あれほどの牙で噛まれ喰いちぎられない生物などいるものだろうか? 人間の子供を傷つけないような甘噛みが出来るジェヴォーダンなんてデータにない。
目前に迫り、牙が覗く口のなかは血の痕跡を全く認められない。
つい今まで少女へ歯を立てていたなんて、見間違えだったのか。
僅かな間とはいえ、考えに捉われたことで隙を生んだ。
天風が繰りだす灼熱の鉄拳はジェヴォーダンを炎の渦へ沈める。
攻撃の余波に巻き込まれないよう大きく跳ね、着地した瞬間だ。
獣の息を間近に感じた。
考えるより咄嗟だった。
振り向きざまに天風は左腕を掲げる。
喰らいつくジェヴォーダンだ。
もう一匹いた。気づけなかった迂闊さに歯軋りせずいられない。
渾身を込めた灼熱の鉄拳だけに、
腕に噛みついたまま巨体で鳴らす狼型の魍獣がのし掛かってくる。
仰向けで倒れた天風は歯を食いしばりながら左腕で防ぐ格好だ。身体自体は人間のそれだから、力では魍獣に圧倒される。もし左腕が噛み砕かれれば、口の牙なり前肢の爪が胸や腹といった生身の部分へ向かってくるだろう。
そうなったら終わりである。
ここで倒れたらジェヴォーダンに咥えられたまま放り投げられた女の子を助けにいけない。絶命している可能性のほうが高いかもしれないが、牙はおろか口が血塗られていなかった。希望があれば、賭けたい。賭けるからには少しでも早く救助に向かいたい。
天風は渾身の力を込めた。
左腕を噛むジェヴォーダンを押し返す。覆い被さってくる巨体をやや押し戻した。
微かでも身体の間に隙間が出来れば、充分だった。
天風は右脚を割り込ませる。足底を巨大な腹に当てた。
「ヒバシラキック!」
みるみる右脚が熱を帯びたように赫くなる。
狼型の魍獣は苦しげな咆哮を上げた。天風の左腕から口を離せば、巨体を弾ませるように飛び退いていく。一目散に山の連なる森のなかへ走っていく。
はぁー、と天風は上体を起こしつつ安堵の息を大きく吐いた。
近接による発動は決め技とならなかったようだ。敵も危険を察知して早々に離れた。
ともかく魍獣が逃げてくれて良かった。しかし、のんびりはしていられない。
鋼鉄の義足はまだ熱いものの歩行に影響はない。立ち上がって、女の子が投げられた方向へ走っていく。
樹々の間だけでなく上に引っかかっていないか見渡すが発見できない。
そうこうするうちに東の空が白じんできた。ずいぶん時間は経過してしまったらしい。
「どこに、どこにいますか。無事でいてください……」
大きな独り言をしてしまうほど天風は必死だった。つい昔の自分に重なるから、一旦戻ろうとする考えが出てこない。
片方づつの手足を喰われた五歳の自分を探し出してくれた戦闘員のおかげで、今こうしている。今度は僕が救うんだと決心して就いた仕事なのに、今回は力になれなかった。
ちっくしょー、と天風は虚しさのあまり雄叫びを上げた直後だ。
猫の鳴き声を耳にしたような気がした。
猫? そう断じるには難しい要素が二つある。
こんな森の奥とする場所と、変な鳴き声だった。ごろにゃ〜、とするところまでは良い。じゃも、と変な末尾を付けていたような気がしないでもない。
もしかして魍獣の類いか。神経を尖らせながら、鳴き声のする方へ草をかき分け向かう。
あっ、と挙げた天風は急いで駆け寄る。
いくつくらいだろう。小学校にはまだという年頃に見える。髪はざんばらで白い貫頭衣は、病院の患者を思わせた。
胸に耳を押し当てれば心音は微かだ。通常なのか弱っているのか、天風では判断がつかない。女の子の身体を揺すりながらである。
「大丈夫ですか、大丈夫なら目を開けてください」
意識を失っていたら、かける言葉としては微妙ながら、ううんと女の子がうなる。ゆっくり目が開けば、天風は感激が抑えられない。
「良かった、本当に良かったです」
ぼろぼろ涙が溢れてきて止まらない。
子供を助けたい、自分のような目に遭わせたくない。その一心で特務隊の任務に励んできたから、女の子の無事には格別な達成感があった。
それに……、と天風は今までになかった任務後の感慨を覚えていた。
家へ、妻の元へ帰れる。無事に、とする
胸裡に流れる暖かさは、体験してこなかったことだ。これまで数えきれないほど任務をこなしてきた。けれども今日のような感情は初めてだった。
泣きながら微笑を浮かべる天風は女の子の前であるにも関わらず口にした。
「メリさん、帰ります」
家で待つ愛莉紗の姿がまぶたに浮かんでくれば、自分の想いを確認する。
気が強い感じだけど、本当はとても優しい。家事一切をこなし料理は上手とくる。しかも何より綺麗だった。あれだけの女性が一緒の家にいて、ノーブラな格好を見せてくれたりもする……。
はなぢ、とする声が聞こえてきた。
えっ? と我れへ還った天風が向けた視線の先には自分の顔を指差す女の子がいた。本能的に右の手のひらで口許辺りを拭う。
ぐしゃぐしゃの涙に混じる赤い血だ。傷から流れ出たものではない。天風からすれば負傷からくる出血のほうがまだマシだった。
まずい! と天風はつい叫んでしまったようだ。
その証拠に女の子が、ビクッとしている。
ご、ごめん、と慌てて謝る天風の内は不安の嵐に巻かれていた。愛莉紗をちょっと思い出すだけで性的興奮を催すなんて恥ずかしすぎる。万年発情していたら彼女に呆れ果てしまわれるだろう、近いうちに愛想を尽かされてしまうかもしれない。
それは嫌だ、と強く強く思う天風は、鼻血の大洪水の絵図が過ぎる。このまま帰ったら間違いなく描かれる光景だ。
二人きりならなければ、そう二人きりにならなければ……。
危うく命を落としそうだった場面を切り抜け、諦めかけていた救助も叶ったことで気分がいつになく昂揚していたせいか。一人暮らしから激変した生活も大きく影響していたに違いない。
だいぶ判断能力を失っていた天風は女の子へ、引かれるほど縋りつく視線を向けていた。
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