第2章 子供と言われても<3>

 家族実習はいずれ夫婦実習と名を変えるだろう。

 そうまことしやかに囁かれるのは、妙齢にある男女間における心情の機微がいかに難しいかに尽きる。

 夫として妻として、協力してやっていくにはどうした役目を担うべきか。人の数だけパターンがあり、何よりも相性がある。理想や方法論はいくらでも語られるが、答えは千差万別であり、正解などないに等しい。


 咸固乃みなもとの家で行われる実習中の二人もまた他とは一風変わった組み合わせである。当然ながら他家にはない克服すべき問題を抱えていた。


「すごい、スゴいです、メリさん」


 本日も食事中に妻役の彼女へ感心の唸りを上げる天風てんぷうだ。


 おおげさね〜、と愛莉紗めりしゃは呆れているものの満更でもない様子だ。


 女性に対して深読みなど出来ない天風だ。本当に凄いと思っていることを妻役へ伝えるため、さらに力を込めた。


プロテーゼ人工器官を接続する手際といい、料理といい、なんでも出来るんですね。ホント、僕にはもったいないです」


 ここまで褒められれば愛莉紗が悪い気などするわけなく、応じる口も滑らかだ。


「料理に関しては、ここと似た世界へ転生したことがあるの。二十一世紀初頭の東京と景色や売られている物が共通って言いたいくらいよく似てる。だからレシピの当てが付けやすいわけ」


 へぇー、と感心する天風に疑念を抱く様相は一欠片もない。

 愛莉紗にしても口が軽くなるようだ。


「でも、こっちはスマホ……あの時代だとケータイか。持ち歩ける電話のデバイスはないのねー」

「それって、電波でつながる電気製品ですよね」

「えっ、知ってるの?」


 ちょっと意外そうな愛莉紗に、天風もはきはきとした口調で答える。


「電波を介す製品廃止は、世界中どこの地域の教科書にも出てくる重大な歴史的事項なんです」

「なになにそれ?」

「電波で人を死に至らせる波長が開発されて、それで一度人類が滅びかけたんだそうです。それから全て有線とするようになったって教わりました」


 へぇ〜、と今度は愛莉紗が感心する番だった。今いる居間やキッチンを見渡しては、「そういうことなのね」と口にしている。全てがコードに繋がれている光景に納得がいったようだった。


「現代社会について解らないことがあったら、いつでも聞いてください」


 食事の途中ながら天風は張り切って胸をドンと叩いてみせる。


 ふっと口許を緩める愛莉紗がテーブルに頬杖をついた。


「あたしの話しをここまでまともに受け止めてくれるなんて思わなかったわ」

「メリさんの言うことですから、信じます」


 屈託ない天風だ。比べて、少し複雑な顔つきをする愛莉紗である。夫役としては、妻の表情が翳るのは見逃せない。せめて隠し事はないようにしようと思う。


「今、メリさんから聞いた話しをうちの本部長にしてもいいですか? イヤだったら言いません」

「いいの、仕事を優先じゃなくて」

「はい。実習とはいえ、夫婦の間柄のほうを大事にしたいです」


 突然だった。

 ドンッ、とテーブルを手で勢いよく鳴らす愛莉紗だ。


 なんだなんだとする天風はまだナイフとフォークを離さない。


「あたしの役目って、天風の問題を解決することなのよね。今日の感じだとだいぶ克服されてきたみたいだし」

「そうですよね、実習のおかげでお風呂にもちゃんと入るようになって、匂い問題は解決しました」

「もう一つのほうも、いい感じなってきたみたいじゃない」


 もう一つ? 天風は小首を傾げた。


「鼻血のほうよ、鼻血のほう」

「いや、それはちょっと……」


 ぜんぜん自信がない天風はナイフとフォークを動かしながらもじもじする器用さである。


「なに言ってんのよ。今晩はあたしの格好を見ても大丈夫じゃない」

「いくらなんでも僕だって、それくらいで鼻血なんて出さないです」


 口を尖らすように訴える天風だ。確かに愛莉紗のざっくばらんなシャツ一枚の姿を一目した際は、どきりとした。だけどこれくらいなら自制してみせよう、というものである。


 ふふふ、と愛莉紗が笑う。


 妖しげな顔つきに天風は本能で身構えてしまう。襲撃に備える現場仕事であれば、どんな状況でも防御の構えは取れる。ただここは家庭であり、攻撃内容は心理を突くものである。

 ど、どうしたのですか? と天風が恐る怖る訊く。


「なに言ってんのよー、夫婦生活も次の段階に入ってもいいわね。我慢できるようになったみたいだし、それとも慣れかな?」

「僕が何に我慢して慣れたんです?」

「だってノーブラでいたって、てんぷ……」


 愛莉紗は名前を呼びきれなかった。


 鼻から噴き出す赤き奔流は、天風を貧血を起こさせるほどの量だった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 迂闊だった、と愛莉紗が悔やんでいる。

 よくよく考えてみれば、天風は真っ直ぐな気質にありがちな鈍さが相当だ。女性と交際おろか遊びにさえ行ったことがないときている。本当に弱い方面なのである。


 普段なら笑い話しですんだだろう。

 興奮しすぎて卒倒した天風を起こしたのは、一本の電話だ。事の急に取り次ぐしかない愛莉紗から渡された受話器から伝えられてくる内容は意識を覚醒させるには充分だった。


 これから現場へ向かう、とする天風の身支度を手伝う愛莉紗だ。身の状態を確かめる以外は口を噤んでいる。


 玄関のドアを開けて天風が出ようとした時だった。


 ごめんねっ! と大きな声がした。


 ドアノブを握るまま振り返った天風の目に、頬を赤くした愛莉紗が気まずそうに横を向いている。つい微笑を浮かばせる姿だった。


「メリさんは何も謝るようなことをしていないです」


 愛莉紗は、ぐっと堪えるような顔を正面へ向けた。


「なら、ちゃんと無事に帰って来なさい」


 はい、と返事した天風はドアを出てから気づく。

 初めてかもしれない、何がなんでも帰って来ようと思ったのは。


 だからここで押し切られるわけにはいかない。


 咄嗟に身を守るため繰り出した。

 鋼鉄製の左腕はジェヴォーダンと呼称される巨大な狼にも似た魍獣に喰いつかれていた。

 グルル、と獣の唸りを発する魍獣は特別な呼称を与えられるだけあって強敵だった。破損とは無縁だった天風の堅牢な義手へ、バキバキと音を立てて牙を喰い込ませていく。噛み砕かれるのは、時間の問題だ。


 ここ最近では類を見ない窮地へ追い詰められていた天風であった。

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