第1章 名前がイヤと言われても<6>
「なによー、あたしに『
わざわざ小型のホワイトボードに書いて説明してくる彼女である。
美人だけでなく愉快な人です、とする感想を抱いた天風である。もちろん口にしない。するのは少しばかり気になった点だ。
「あのぉ〜、その『よろしく』とメリッサが『めりしゃ』になったことと、どう繋がるんですか」
「いーのよ、そんな細かいこと!」
細かい以前に論旨が合ってないと思います、と天風がはっきりではなく、もごもごでの反論だ。当然ながら「なに、なんか言いたいことあるの」とくれば、ありませんと答える分隊長チーフだ。
他に逆らえない大きな理由もある。
自分の前に料理が置かれれば、うおおぉと唸る天風だ。
「なんですか、これ。見たことがありません」
「なに、デミグラスグラタンを知らないの。レストランじゃ定番メニューよ」
「僕、宿舎の食堂か携帯食ばっかで、外食とかぜんぜんしなかったし」
「あら、男の一人暮らしなのに変わっているわね。今のファミレスなら一人で行く人もけっこういるみたいじゃない」
「家族が来るようなところは行きたくないです」
口にしてから失敗したとする天風であった。
そぉ、と彼女は短い一言きりだ。それについてはツッコんでこない。喜んでもらえると作りがいがあるわよね〜、とだけ言ってきた。
おかげで天風は気持ちを切り替えて、他に出されたおかずも堪能できた。
「ホントに何でもできるんですね、凄いです」
心から賛辞を述べれば、彼女は相変わらず理解が難しい内容で返してくる。
「男に気に入られる素養がなければ悪役令嬢なんて務まらないの」
意味を問いただすより、今は食べるが先決とした天風だ。いただきます、とフォークにスプーン、箸まで使って忙しく咀嚼すること、しばらくしてからである。
「ところで、どーお? 最近、周りの様子は」
またも彼女はすぐに理解するのは困難な振りをしてくる。
「別になにもないです。臭くなくなって良かったー、とは言われましたけど」
急に彼女が笑う。ふっふっふ、と意味ありげでくる。
「つまり天風はとても良い印象を持たれるようになったわけね」
どうでしょうか、と食べるのに忙しい天風の答えは適当である。
テーブルを挟んで座る彼女は胸の前で腕を組んだ。なにやら確信めいた表情を閃かせてくる。
「まぁ、天風はその手のことには鈍そうだものね。でもそれこそが恋愛ものの男子主人公といった感じがするわ」
「僕、これでも二十三です。もう大人です」
天風自身が不思議に思うほど、ムキになって主張していた。
「なに言ってんのよ。どうせ誰かの気持ちになんか気づいていないんでしょ」
「誰かの気持ちって、なんですか?」
「本来のヒロインよ。つまり天風を密かに想っている、もしくはこれから想うようになる女性のこと」
珍しい展開が生まれた。
彼女が慌てだした。理由は少しはうろたえると予想していた天風がもくもくと食べ続けているからだ。もしかしてドレッシングも手作りなんですか、と余裕の態度で質問を寄越してくる。
「ちょっと、どうしちゃったのよー。なんで天風のくせにそんなに落ち着いているわけー」
まだ出会ってから三日にも関わらずエラい言われようの天風だが、ここは一枚上手の平静さを保っていた。
「だって、そんなこと僕に起こるはずがないのです」
「天風のくせにずいぶん自信満々じゃない」
「それはそうですよ。だって僕の周りに女の人なんかいません」
返事は多少の間を開けた後だった。
「……仕事先に、ぜんぜんいないの? 事務方だってあるんでしょ」
「第七特務隊庁舎は基本実戦部隊しか詰めていないですから、女性職員は一人もいないです。ああ、でもそういえば一人だけいたかな」
きたきた、と彼女が顔を輝かせているなど気づかない天風はすらり述べる。
「食堂の
「なんだ、いるじゃない」
「でもあと数年で定年退職になってしまいます。旦那さんもいますし」
「それって、ただの食堂のオバちゃんじゃない。そんなの女って言わないわよ!」
それは失礼ですよ、と言い返す天風は内心で、でも女の敵は女って言います、と呟いてもいた。
「やだもぉー、これじゃ悪役令嬢になれないじゃない」
頭を抱えて嘆く彼女だ。未だ何を言っているか不明であるが、天風としては放っておけない。せめてと新しい話題を立ち上げた。
「ところで僕はなんてお呼びしましょう」
「いいわよ、好きで」
「じゃせめて二人きりの時くらいはメリッサにします?」
うふふ、と彼女が急に意味ありげな笑みを浮かべてくる。
つい身構えてしまう天風だ。得体の知れない予感が走る。第六感が働く場合はたいてい危険に関するものだったりする。
やっぱりそうだった。
愛莉紗は蠱惑の眼差しに相応しい顔つきをしてくる。
「二人きりの時に好きにしたいことは呼び方だけはないでしょ。もう、えっち」
そ、そんなじゃ! とムキになった時点で天風の負けだった。
なぜなら必死になってしまう気持ちは後ろ暗いの裏返しだ。愛莉紗に対し好きにしたいことと言われて、確かに彼女の肢体を思い浮かべた。ちらりとはいえ、口にできない妄想が過ぎってしまう。
天風の不幸は隠しきれない体質にある。
この後に愛莉紗から「ごめん、食事時はやめとくわ」と謝られるくらい、ズバーと鼻から噴き出す赤い血であった。
女性と二人きりなんて、ある意味身体が保たないと天風は鼻を押さえながら思う。このままではまずいし、愛莉紗にも迷惑をかけてしまう。どうにかしなくては、と考え込む。
真面目の度をすぎると結論をあさっての方向へ持っていくが、天風である。
今回もまた自覚ないまま自らの首を締めていった。
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