第1章 名前がイヤと言われても<4>

 マンションに近づけば、天風てんぷうの気は少々重くなる。


 彼女に対する警戒は仆瑪都ふめつの一意見だ。あくまで用心にすぎないけどな、と注意を喚起することが第一で口にしたのだろう。本部長がデータに基づかない意見を述べるなど珍しいから無視できない。


 しかも昼間に遭遇した魍獣もうじゅうの件もある。


 仆瑪都と会話していた間は忘れていたが、一人になれば思い出さずにいられない。いろいろと思い巡った際に平常でいられるだろうか。家には妻役の人がいる。なるべく悟られないようにしたい。 


 エレベーターへ乗る前にポストを覗いたら、声をかけられた。

 郵便配達員で、名前を確認された後に茶封筒が差し出されサインを求められた。どうやら妻の即行に役所が応えたらしい。


 まだ彼女をどう呼んでいいか分からない天風である。玄関を上がれば、口にするのは用件だけにした。


「来てました」


 ひょいっと彼女はキッチンから顔だけ出してくる。


「まずは、ただいまでしょ。今朝も黙って行くし。まったくぅ、これだから独りモンはダメよね〜」


 ああ、と天風は思う。

 てがわれた一室で一人だけで過ごしてきた。家で誰かと挨拶を交わすなんて想像すら出来なくなっていた。


 家族に生贄として差し出されたあの日から、ずっと。


 彼女は自分のこれまでの経緯を知っているのだろうか? ふと気になる天風だが、茶封筒を手渡すなり、風呂場へ追い立てられた。家族実習へ組み込んだ理由の一つに、悪臭のクレームが入る第七分隊チーフに欠かさず入浴させたいがある。同じ部屋にいて、特に相手が女性となれば従うほかない。


 念入りに洗って、居間へ戻れば早速だ。


「あら、ずいぶん時間がかかるって思ったら、下はきちんと履いてくるわけか」


 天風は上半身だけ裸とした風呂上がりの格好だ。夫婦といっても実習中である。節度は守りたい。守らなければ、自分が出血死しそうだ。


「そこまでご面倒をおかけするわけにはいきません」

「いいのよー、そっちまで面倒みても。ほら、下から白いものを出しておけば、上から赤が噴き出さなくなるかもよ」


 やめてくだ……、と言いかけたところで天風は右手で鼻を押さえた。懸命に堪えたおかげで、指を少し濡らす程度ですんだ。一安心であるが、必死になった代償で、息はぜぇぜぇ荒い。


「ずいぶん興奮させちゃってる。ごめん、ごめん」


 あははは、と笑いながら謝ってくる。


 絶対に悪気があって、と天風は思ったものの、彼女の屈託ない笑みにあっさり考えは翻ってしまう。生来の悪戯好きなんだ、と良い方向で捉え直した。

 それに何よりも自分の左腕を抱えていながら、普段と変わりがない。


「マニュアルには目を通してあるから。さあ、座って」

「えっ、やるつもりですか。持ってくれるだけでいいですよ。早く終わらせないと気持ち悪くてしょうがないはずです」


 意外そうな態度の天風に、緩んでいた彼女の口許がきつく象られる。睨んでさえきた。


「あたしは天風のこれに助けられたんでしょ。なのに、なんでそんなこと思うって考えるの?」


 気遣いはむしろ失礼だったと知らされた天風は、おとなしくダイニングチェアへ腰掛けた。お願いします、と左肩を向ける。

 すっぱり肩口から先はない。

 彼女は手にした鋼鉄の左腕を、天風の左肩口へ当てた。付け根で接合する作業であった。


「ちょっと持っててくれる」


 彼女の頼みに天風は残る右腕で黒光りする左腕を支え持つ。

 上腕部には二桁に上るボタンがある。順番通りに、時折複数を同時に押すなど、組み合わせは複雑だ。間違うと拒絶反応による振動が起こる。


「すごい、すごいです。僕だってたまに間違うのに、こんな素早く完璧にセッティングできるのですか」


 鋼鉄製の指を開閉させる天風は感激で打ち震えている。


 大袈裟ね〜、としながらも微笑む彼女はふと思いついたかのような顔をした。


「天風がお風呂に入りたがらない理由って、もしかして、これ?」


 誤魔化さなければ呆れられてしまう。だが解っていても出来ない。それが天風だ。


「すみません。いきなり呼び出しがかかるかもしれないと心配になるのもあるし……、そうです、本音は面倒なのです」

「お子ちゃまがお風呂に入りたくないようする言い訳に聞こえるわよ、まったくぅ。あんなヒドい匂いだしてたくせに」

「でも僕自身はあんまり気にならなかったです」


 シャツを被るように着る天風に、やれやれといった彼女である。 


 着替え終わった天風はテーブルに着く。

 昨日は急遽ということもありデリバリーにした。今晩は彼女の手作りらしい。取り敢えず家事全般を行う役割を担ってくれるそうである。

 今晩は初めての手料理である。天風にすれば期待するなという方が無理である。


 お待ちかねは、すぐに実行されなかった。

 食事の前に、と彼女は茶封筒に入っていた書類を出してはテーブル上を滑らせてくる。

 なんだなんだとばかり天風は押し出されてきた書類を手に取る。目の前まで持ってくれば、彼女から読んでみてと言われた。


「どう、天風。あたしの名前は」


 腰に手を当て胸を反らす彼女は満面の笑みだ。

 書類から顔を上げた天風は相変わらず神妙なままである。

 ふっふっふ、と彼女は妖しげな笑いを発している。


「山田なんてイヤだから、咸固乃みなもとのにしちゃったわよ。いいわよね?」


 それに関しては問題ない。実習に当たって同姓にする例はほとんどないものの、ないわけではない。仮に破談となっても、実習中ゆえ別姓へ戻すのは簡単だ。


 天風が危惧を覚えたのは名前のほうである。


「あのぉー、説明し忘れていたことがあるんですけど」


 なによ、と彼女が訊き返してくる。もし転生したばかりという話しを信じるならば、この世界におけるルールをよく知らない可能性がある。


「名前の変更は余程の事情がない限り、一回だけしか許されていません」

「そうなの。でもあたし的には別に問題ないわよ」


 やっぱり解っていなかった。天風的にはなんだか悪い予感がする。今一度、書類の名前に目を通し、遅くても説明せずにはいられなかった。


「この世界では名前が出自から経歴まで網羅したデータ表記の役割を果たしています」

「やだ、ずいぶん管理された社会なのね」

「でもそれはシティに住む場合の話しなんです。管理下が嫌でフロンティアで生きる人もけっこういますよ」


 さらに続きを説明しようとしたところで天風は内心で、いかんいかんと首を横に振った。話しが脱線している。問題は名前へこだわりある彼女が書類に記されたもので申請されたとは考え難いことなのだ。


「ここトキオシティはワールドユニオンの東部地域に当たるんです」


 そうなの? と彼女が返してくる。


 天風のなかで一気に不安が渦巻いた。常識とする事柄が頭に入っていないようではないか。ならば定められた法律に対する知識が丸々欠けていてもおかしくない。


「出身地域の判断がつきやすいよう、北米地域は英語だったり、西部地域は印欧語だったりします」


 いろいろあるのね〜、と感心する彼女は他人事だ。

 これはますます懸念が当たっていそうで、天風は怖い。怖いがここで止めるわけにもいかない。


「それでここは漢字もしくはひらがな表記を義務とされています。名前は単なる表記とする考えから、申請名に不都合があった場合、行政側による処理が許可されています」


 ここでようやく彼女は気がついたようだ。


「ちょ、ちょっと待ってよ。名前でしょ、その人にとって一生ものでしょ。それを役所が勝手にやっていいわけ」

「シティで暮らすならば、名前はただの記号くらいに考えたほうがいいです。でも修正が入るとしても申請名をベースにしますから丸きり違うものにまではならない……かと思います」


 自信なさげに説明を締める天風だ。これはあくまで聞いた話しであり、改名する者など滅多にいないから実際そうした例を目の当たりにしていない。


 ちょっと見せなさい! と彼女が天風の手から書類をひったくった。


 やっぱり中、見てなかったんだ、とする天風の所感は口にされることはなかった。


 イヤゃあああー! と今晩も彼女に絶叫されたからである。

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