第1章 名前がイヤと言われても<3>
ひと仕事を終えて戻ってきたところで声をかけられた。
「おつかれ、
執務室のドアを開けて、
そうなんですけど……、と返す天風の顔と声は暗い。
「まぁ、なんだ。取り敢えず、入れよ。実習の様子も聞きたいしな」
気さくな話し方だが、仆瑪都は天風にとって直接の上司に当たる。軍隊に通じる一面を持ち合わせる特務隊だから上下関係は厳密だ。上からの「聞きたい」は報告しろ、とする意味である。
失礼します、と天風は昨日に続いて入室した。
「おい、怪我のほうは大丈夫なのか」
さっそく仆瑪都が訊けば、天風は影を落としたままだ。
「はい、腕をちょっと噛まれただけですから。大したことはありません」
本当か? と質問者は
そっか、と一言だけこの件はお終いとした仆瑪都は本題へ入った。
「どうだ、彼女。おかしなところはなかったか」
すると暗かった顔から一転して天風は頬を膨らませる。
「本部長。やっぱりムリですよー、所詮は僕なんです」
立ったままの上司が声を上げて笑いだす。
どうせ思い出し笑いと見当がつくから、文句はすぐに吐いて出た。
「ヒドイです、お見通しで実習受けるよう仕向けたんですよね」
昨日の今頃だった。
ここで
しかも一日でも肉体の洗浄を怠れば悪臭を放ち、性的興奮を覚えれば相当量の鼻血を出す。
こんな自分と実習をする物好きな女性などいるはずがない。そう高を括っていた。
なのに選りによってである。
不慮の出来事で衣服が落ちて、彼女の下着姿を目の当たりにした。貧血を起こすほど鼻血を噴かされた。天風にとって彼女はとても魅力的なのだ。しかも純粋に憧れるではなく、情欲をもよおさせる肢体ときている。
艶っぽすぎる彼女と一つ屋根の下だなんて、気持ちが休まらないもいいところである。鼻血が止まらないから無理です、と少し恥ずかしかったものの、彼女へきっぱり伝えた。
なぜか彼女は引き下がらなかった。大丈夫、大丈夫、と自分の上司を思わせるポジティブさで返してくる。なお無理を連発した天風の肩を、彼女がいきなりつかんだ。慣れなさい、と顔を寄せてくる。
天風は掲げた両腕を交錯させては真っ赤になった顔を背けて叫ぶ。
「や、や、やめてください。ぼ、僕は女の人とお付き合いどころか、触ったこともないんです」
それを聞いて身を引いた彼女へ、仆瑪都が改めてといった感じで問う。
「まぁ、そういうわけなんですが。どうします?」
「いいわ、ぜんぜんいいわよ。むしろやりがいがあるって感じよ」
彼女の答え方は不審を感じさせる点があったが、気にしている場合ではない。
「ダメダメダメ、絶対にムリ、無理ですってば。僕は鼻血で死んでしまいます!」
まさに雄叫びをもって訴えた。懸命なる天風の拒否だった。
もっとも数時間後には、実習用として用意された部屋へ二人の荷物を運びこむことと相成る。
現在する仆瑪都の思い出し笑いは、泣き叫ぶような天風の姿を頭に描いているに違いない。
「いやぁ、もう、あんなに必死になって嫌がるなんてな。かわいいくらいだったぞ」
「ウソ吐かないでください。どうせ今回の件だって、一番の理由は面白そうだからなんでしょう」
わかるか、と未だ笑みを消さない仆瑪都だ。
屈託がないから余計にたちが悪い。まさか本当に面白がって家族実習を画策したなんて、天風には信じられない……わけでもない。長年の付き合いである。この人ならやる、やってもおかしくない。冗談半分と思わせながら己の意見を押し通す。今回も完全に意図を把握したわけではないが、行動自体はこの上司らしいと納得させられる。だとしても心穏やかでいられるはずもない。
はぁ〜、とため息くらい吐いても罪はないはずだ。
「では天風に家族実習を押し付けた第二の理由である報告を聞かせてもらおうじゃないか」
少し真面目な調子を交えてきた。
天風は長年に渡って仕事を共にしてきたから気づく。こちらの気を緩めておいて訊いてくる内容こそ重要事とする。
「別段、特に変わった点はありません」
「そんなに身構えなくてもいいぞ。彼女をどうこうしようなどと考えているわけじゃないからな、今すぐには」
仆瑪都は表情を緩めたままだ。だが天風は前と違うように見える。目が笑っていない。
「本当にぜんぜん変わってないです。相変わらず名前がイヤーと言っているくらいです」
「ずいぶん力説してくるじゃないか。天風があの手の女が好みだったとは、ちょっと意外な気はするが」
「僕だけじゃなく誰だって彼女を見たら素敵だと思います」
天風が断言したからだろう。
立場として上に立つ仆瑪都から笑みが消え、難しい顔つきとなった。
「念のため繰り返すが、確かに彼女は山田幸子に違いない。けれども確実な異変も起きている」
ここで机上に置かれたタブレットを拾い上げた。線に繋がれた液晶画面を立ち上げれば、ひっつめ髪の眼鏡をかけた女性の肩から上が映し出される。黒い髪に瞳、それは天風との家族実習を承諾した彼女に間違いない。そう確信しながらも、写真の彼女と別人に見えるから不思議だ。とても曖昧な理由とする判断になるが、雰囲気が違う。画面越しでしかないのに、まるきり別人に感じてしまう。
「ここに映る彼女な。幸いと言っていいか、三日前に身体検査を受けていたんだ」
「なにかわかったことがありますね」
天風のなかで緊張が一気に高まる。一緒に暮らしている人であれば当然だ。
「昨日、
すると? と鸚鵡返してしまうほど天風の気は張っていた。
これ以上にないほどの真摯さで仆瑪都が報告する。
「おっぱいが大きくなった」
天風は返事ができない代わりに思った。
この人は切れ者で鳴らす分だけ、トラブルを起こす方だった。しかも原因になる内容はくだらなすぎるパターンも実に多い。
どうした、天風? と尋ねてこられればである。
「本部長。もっと表現方法を考慮していただけませんか。それでは単なるセクハラだと思われます」
「なんだよー、ちゃんと事実は伝えているだろー。ちなみに変化したのはおっぱいだけじゃなく、ケツもきゅっと締まったようだ」
まだ現場に出ている荒くれ者ならまだしも、コンプライアンスが求められる組織で上位の肩書きを持つ人物である。スーツが似合うイケメン長身だからこそ、平気でする際どい発言が必要以上に目立ってしまう。もし女性相手だったら問題へ発展させかねない。
「そんなに変わったんですか」
やや呆れた口調に為らざる得ない天風だ。
「ああ貧乳から巨乳だ。三日ではとても不可能とする成長ぶりだ……人間ならばな」
最後の言い回しが天風の気を引き締めさせる。
「でも彼女、検査の結果、人間以外の何者でもなかったのでしょう」
「現在の検査技術では、といった結果だからな。完全とは言い切れないさ」
そうですね、と答える天風は胸の前で腕を組む。注意は必要と耳打ちされた昨日だが、問題はそう簡単ではなさそうだ。もしかして大変な事態に発展する可能性だってなくはない。
「おい、天風。勧めておきながらなんだが、止めてもいいんだぞ」
仆瑪都がこの場において一番の真面目さで問う。
天風は自分でもびっくりするくらい直ぐに返答した。
「いえ、まだ彼女と家族実習は続けていこうと思います。まだ少ししか一緒にいませんけれど、良い人っぽいです」
「ホントかぁ〜、ただ彼女とやらしい関係になれるよう頑張りたいだけじゃないのか〜」
当初へ戻ったかのように、仆瑪都がからかってくる。
本当です! と力を込めて答える天風は真っ赤っかときている。
「わかった、わかった。今回の目的には天風に鼻血を克服してもらいたいというのもあるからな。まぁ、頑張って続けてくれ」
ううっと唸る天風だ。正直なところ配慮された点に対しては自信がない。彼女の全身像を思い出しただけで鼻血が出てきそうなのである。
情けない。
ははは、と仆瑪都が笑っている。笑いながら「ただな、天風」と呼んでくる。
なんでしょうか、と込み上げてきそうな鼻血を必死に抑えながら天風は応じた。
「彼女が正真正銘普通の人間だとしたら、俺側に属するタイプだと思う」
「それは、どういうことですか?」
「笑うにしても悲しむにしても、何か企みがあって、ということさ」
問題をより複雑にしてくる天風の上司だった。
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