第1章 名前がイヤと言われても<2>

 この世界は混沌で満ちている。


 人や動物だけではない。あやかしと呼称される怪異がおり、またその内においてもさまざまだ。知能を有する類いもいれば、獣に近い種類もいる。特に野生動物同様、本能に従うまま行動する妖は『魍獣もうじゅう』と規定して対応に追われる日々だ。


 都市は比較的安全というだけで境界地域からの侵入は食い止められない。何より両区域を分断してはデメリットの方が大きい。各地域の交流があってこその繁栄だ。紛れ込む危険は確率にすれば微々たるものでしかない。

 ただ滅多とは言えない頻度であり、出現すれば相応の被害は出る。


 都市としては防衛も含め社会経済を維持していくうえで少子化は重要な懸案だった。ここ最近の傾向として、恋愛を面倒なものとして捉える若者が増加傾向にある。意識の変化を促す施策が検討された。


「独身者に家庭というシステムを体験させてしまおう、とする主旨で制定された家族実習法なのです。細かい点でいろいろ制約も多いですが、ざっくり申せば男女を一つ屋根の下で一緒に暮らす体験をさせる法律だと理解していただければけっこうです」


 仆瑪都ふめつの説明はどこか芝居がかっているがゆえに、今回は真剣だと感じる天風てんぷうである。これは思っていた以上にまずい。ただ相手の女性が自分なんか好みじゃないとする態度を示している。


 家族実習を行う最重要点として、女性の同意が不可欠だ。他の何よりも尊重される条件とされている。

 なので呑気に構えていた天風だ。だから驚いた。


「へぇー、この世界にはそんなシステムがあるんだ。了解、いいわよ、あたし」


 山田幸子やまだ さちことする名前に激しい拒否を示していた彼女が、あっさり同意ときた。 


 良かったな、と上司がめでたいとばかりな態度だ。


「ムリですー、ムリムリ、絶対ムリです、本部長が一番にわかってますよね!」


 絶叫に近い天風は気の毒なほど青ざめている。


 自分の名前を嫌がる山田幸子が、ぐいっと顔を寄せてきた。


「あんた、天風って言ったっけ。あたしが相手じゃ不服なの」


 間近にしただけで、天風はやばい。彼女の抜けるような白い肌に印象的な黒い瞳、すっきりした鼻梁、何も塗っていないようなのに花を咲かせたような紅唇である。それに何よりも、いい匂いがする。


「ぎゃく、逆ですよー、綺麗だから、素敵すぎるから、僕には……」

 と、言っている最中だった。


 天風は本日二度目となる、鼻からの血を噴いた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 シャワーを浴びた時に続いて、ううっと本日二度目になる唸りを上げた天風だ。前回は肉体的苦痛からだったが、今回は精神的部分からもたらされていた。

 マンションの一室から窺える西の彼方は余光の橙で染まっている。夜の帷が降りてきていた。一日は終息へ向かっている。


 なんて日だったんだろ、と独り呟いた天風は、はぁ〜と吐いては荷を結ぶ紐へ手をかけた。


「ちょっとぉ、ナニため息吐いてんのよ。もういい加減、腹くくりなさい」 


 荷物を抱えてリビングに入ってきた彼女は気っ風もいい。ますます魅力的に感じる。だからこそ天風は困っているわけである。


「でも、でもです、幸子さん……」

「やめてよね、名前で呼ぶの」

「あ、すみません。慣れ慣れしいです、名前で呼ぶなんて」


 慌てる天風に、幸子という彼女は荷物を床に置き、なぜか胸を反らした。


「別に名前で呼ばれる分にはかまわないわ。実習とはいえ、いちおう夫婦という形だし、名前で呼び合うくらい有りなんじゃない」

「じゃ、どうしてですか?」

「幸子よ、幸子ってのがイヤなの」

「そうなんですか。幸せになって欲しいとする願いがこもったような、素敵な名前だと思います、僕は」


 意見してから、ん? となった天風だ。


 なにやら真剣な眼差しを送ってくる彼女だ。やがて、ふぅーと息を吐く姿は何やら納得した様子だった。


「そうか、なるほどね。ずいぶん王子様とするにはかけ離れたもじゃ頭のチビだったから疑ったけれど……なるほどね」


 えらい言われような気がしないでもない天風である。だがここは褒められたとして話しを進めるとした。

 仆瑪都から彼女について探って欲しいと耳打ちもされてもいる。


「なんで幸子っていう名前がイヤなんですか」 

 

 さりげなくされた質問に、彼女は腰に手を当てた。その姿勢は天風に樹木の魍獣から救出した直後を思い出させる。

 すらりとした肢体を陽光に煌めかせるなか、吹く風が灼け焦げて脆くなった衣服を剥げば……。


「ちょ、ちょっと、天風。どうしたのよ!」


 解釈次第では不遜とも言えるポーズを取っていた彼女がいきなり慌てだした。


 え? となる天風へ、「鼻、鼻」と指摘が入ってくる。いけね、と急いで荷解きから離した手でティッシュを取り出す。鼻孔へ押し込んだ。


「やだぁー。あたしの裸、思い出したんでしょ」


 思いっきりからかわれているのが解っても、その通りだから返す言葉がない。けれども天風なりに男のプライドとして、せめてである。


「ぼ、僕は見てないです。は、裸は見てません」

「でも下着姿は目に焼き付けたんでしょ。いやらしく思い出して興奮してたくせに」


 いやらしくなんて! と天風が激しく反駁する一方で鼻から詰めたティッシュが飛び出た。押し出してまで噴き出る赤き奔流だ。あわわ、と手で鼻の穴を塞ぐも、指の間から鼻血は溢れ落ちていく。


 もぉー、と彼女は微笑しながら近寄ってくる。ティッシュボックスを差し出しては、床の血を雑巾で拭いてくれる。


「わからないです」


 どうにか鼻血を止めた天風が挙げる不思議でならないとするセリフだ。


 なにがよ、と彼女の当然な反応に、ティッシュを鼻から抜く、これでも分隊長が答える。


「幸子……は嫌なんでした。僕にはどうしても山田さんが悪役に見えない」


 絞った雑巾を置いて彼女は、ゆっくり顔を上げた。真剣そのものといった目を向けてくる。

 黒い瞳を覗けば、やっぱり素敵だ、となる天風だ。なれば変に感情が昂らないよう、必死となる。どう見ても彼女は大事な話しをしようとしている。鼻血を出している場合ではない。


 天風、と今までにない低くて重い声で呼ばれた。


 はい、と天風の返事だって固い響きだ。どうぞ仰ってください、と促す。例えどんな難題でも逃げないで一緒に考える覚悟は決めた。


 あたし……、と彼女がこれ以上はなく真剣な眼差しとなった。


 ごくりと天風が息を呑んだところへ、叫ぶように訴えてきた。


「山田もイヤー!」


 これから本当にやっていけるのか、甚だ自信を失くす天風であった。

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