第1章 名前がイヤと言われても<1>

 ううっと唸り天風てんぷうはシャワー室から出てきた。


 天然パーマの長髪は爆発したように頭の上に広がっている。見た感じより小柄な身体は最前線に出るだけあって鍛え上げられているが、童顔のせいだろうか。線が細いイメージを与えてくる。

 何より廊下を歩く姿が弱りきった前屈みで哀れを誘った。


 目的地である執務室のドアを叩く音も力がない。


「おぅー、入れー」


 誰が来たか確信している、気さくな応答だ。


 自身を両手で抱え込む姿勢で入室した天風を迎える人物は、窓を背景にデスクに腰掛けていた。甘いマスクに均整の取れた体型であり、とても魅力的な男性だ。お行儀の悪さも絵になる。特務隊の貴公子、と憧れる女性が多いのもうなずける。

 人気がある彼だが理由は容姿だけではない。


「どうした、天風。なんだか辛そうな顔をしているじゃないか」


 親しみやすい言動が、相手との距離を詰めていく。

 階級は下の天風であるが、誰もいないせいもあり、遠慮なく文句を口にした。


「本部長でしょー、僕のシャワー室を消臭液に変えましたね。傷口に沁みるのなんのって、まだ身体中がヒリヒリします」

「だって、それくらいしないと匂いが取れないだろ。ずっと風呂に入らず、クレームがくるほどの悪臭を漂わすオマエが悪い」


 笑顔の断言に、天風は返す言葉がない。


 本部長という直接の上司に当たる仆瑪都ふめつがデスクから飛び降りた。やって来た部下へ近づいていく。


「でもまぁ、頑張って薬剤シャワーを我慢して浴びたオマエは偉いぞ」

「人と会うならば仕方がありません。今回だけじゃなく、臭いって苦情が多く寄せられているんでしょう」


 上官に対する口振りになった天風に、仆瑪都は相変わらずの笑みを浮かべている。


プロテーゼ人工器官との関連はあるだろう。とても人間が発する匂いとは思えないからな」

「早く解明されないものですか」

「されないだろうな。別に普段から清潔にしていれば問題にならないものに乗り出す暇は我が研究開発部にはないぞ」


 ですよね〜、と嘆息するみたいに答える天風だ。


 ポンポンと仆瑪都がその肩を軽く叩いた。


「プロテーゼが身体にもたらす影響についての研究は毎日のように続けられているんだ。きっといずれ利便性増したやつが開発されるさ」

「そ、そうですよね」

「だけどな。俺たちは、今現在をどうするかを考えなければならない」


 それはどういう……、と天風が言いかけた時にデスクからベルにも似た音が響いてくる。呼び出しの電話を取った仆瑪都が何やら確認するかのように話している。傍から内容は読み取れないが、最後にここへ通すよう伝えていることだけは解った。


 受話器を置いた仆瑪都がさっそくだ。


「どうやら彼女、来たみたいだぞ」


 は、はい、と返事する天風は背筋を伸ばして固まった。


 一目で緊張が見て取れる姿に仆瑪都が上司らしく助言を送る。


「あまり畏まりすぎだと、お礼を言うほうも落ち着かないぞ。リラックスだ、リラックス」

「すごく綺麗な人だったのです。僕なんかじゃ、意識するなってほうが無理です。もう別に仕事なんだから、わざわざお礼なんか言いに来なく……」


 あれ? となった天風である。


 就いている職場は『シティ平和維持特務隊』通常は英語表記の略称で『PTF』もしくは短く『特務隊』と呼んでいる。名称が示す通り、防災に当たる公的組織で、警察では手に負えない事件を担当する。要は人間ではないモノが起こす問題に対処する、強力な武器装備が許された警護隊といった感じだろうか。


 つまり仕事として当然のことをしたまでである。

 そして特務隊の原則として感謝の面談は受け付けないとしている。


 キリがないとする理由もあるが、救護した相手が実は機会を窺っていた暗殺者である可能性もなくはないからだ。


 人間に化ける妖だっている、それがこの世界だ。


 でも、と天風は考え直す。

 そういえば彼女はお礼が言いたいとしていた。意志が強そうな女性であれば、押しかけて来たか。用心を含め遠慮するが基本路線としているだけで、厳密に断っているわけではない。


 今回は相手の熱意にほだされ面接許可となったのかもしれない、なんて考えた自分が甘かった。

 ドアが開くと同時に、天風はそれを思い知らされた。


「ちょっとー、どういうことよ。あたしに結婚しろって」


 入ってくるなり仆瑪都に詰め寄る女性は、確かに今朝、樹木の魍獣もうじゅうから救出した彼女である。長い黒髪は流れ、スタイルは抜群。何より喰ってかかる黒い瞳がまるで表情のように目まぐるしい閃きを放っている。


 魅力的な方です、と改めて彼女を目にした天風の印象だ。

 すぐ目の前でドタバタしているにも関わらず、荒れ狂う女性を素敵と考えられている。まるで自分とは無関係だと、のんびりしすぎな姿勢であった。だから報いは早々にきた。


 額に冷や汗を浮かべていそうな仆瑪都を見据えたまま彼女は指差した。ビシッと鋭く空気を裂くかのように立てた人差し指を、天風へ向ける。


「まさか相手は、このもじゃもじゃのチビじゃないでしょーね」


 ここでようやく天風は思い至った。

 消毒液を浴びせられてまで会う人物は勝手にお偉いさんだと決めつけていた。不快感を与えない身なりを整える。好印象を持たれるための準備を整える。第一印象を大事にするべき、もう一つのパターンが存在していた。


「も、もしかして僕に家族実習かぞくじっしゅうを受けさせようとしてるんですか!」


 天風の剣幕は、怒鳴り込んできた彼女の目をぱちくりさせた。


「あら、なにそれ。家族実習って」

「わかりませんか」


 尋ねる仆瑪都は真面目に仕事をする顔へなっている。


「あたし、すっかり政略結婚させられるのかと思ったんだけど」

「ここの世界に身分制はありませんよ。恋愛はあくまで自由です」

「じゃ、なんであたしに結婚しろって言うのよ」


 二人の会話に、天風も通常の流れではないことを悟った。どういうわけです? とこちらも上司へ目で訴えかける。


 コホン、と仆瑪都がわざとらしい咳払いを一つしてからである。順を追って話しを進めていこう、と提案してくる。受けた男女に異存はない。


 まずはお互いの紹介を、ということで仆瑪都が天風を『咸固乃みなもとの』の姓を付けて名前を口にすれば、特務第七分隊のチーフを務めていることを伝える。この若さで分隊を率いるなど凄いことである点も付け加えていた。


「見た目じゃわかんないものね〜」


 彼女が妙に感心してくる。


 天風からすればなにか裏がありそうな気がしないでもない。が、彼女に好感を与えられて嬉しいと感じているのも事実だ。でもだからといって、この制度を受ける気にはならない。よく勧められるが、まだ二十三歳なのだ。無理に押し付けられるような年齢ではない。


 ここは強く出よう。そう決意を固める天風だが、強固な態度を取るのは彼女が先だった。


 こちらは山田幸子やまだ さちこさん、と仆瑪都が名前を紹介した途端だった。


「ちょっと、やめてよー、そんな地味なネーミング。あたし悪役令嬢なのに、なにその名前。もぉおおおー」


 いきり立つ彼女の訴えは、天風には意味不明もいいところであった。

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