第38話 雨のお迎え
翌日の昼休み、桐明はここでの最後の食事を選ぶ。いつも通りの日替わりランチ定食。今日は生姜焼きだった。すっかり慣れてしまった味だ。だが、もう食べる機会はなくなる。あと一時間もせず、外へ出る約束の時刻になる。
腕時計をつけているのに、食堂に掲げられている時計を見た。緊張しているのだろうか。午後一時まであと三十分。食べ終わった食器を片付けるために立ち上がる。
ふと、二つテーブルの先で食事をしている男性と目が合った。数日前から研究所にいる男性だ。金髪でロン毛。研究員というには派手な格好だった。白衣の下にはロックバンドが好んで着るようなTシャツだ。彼は目を逸らさずにいたので、桐明は気まずくなり目線を下げた。
桐明は自室に戻り、鍵をかける。そして、身支度を整えた。多くの荷物を持ち出すことはできない。必要最低限だ。
トントン。ドアがノックされた。
桐明は飛び上がりそうなほど驚いた。在室しているなら、ノックに応じるのがマナーだが、そんな気になれなかった。口に手をあてて、無意識に息を殺していた。これからこっそりと研究所を後にするのだ。その心理がこのような行動をさせるのかと冷静に分析していた。
ガチャガチャ。ノックをした主は、ドアを開けようとしていた。
「だめだ。開いてたら、調べておきたかったんだけど」
ドア越しに男の声が聞こえた。
「研究所からは簡単には出れない。俺たちなら楽に探せるだろう。問題ない」
もう一人男がいるようだ。二人組か。
桐明は、心当たりない二人の来客の足音が遠ざかっていくのを静かに聞いていた。直感的に危機が去ったのだと思った。額に汗が滲んでいる。腕時計を見ると午後一時まであと十五分だった。
静かに部屋のドアを開け、自然に見えるように歩きだす。いつも着ている白衣は脱いでいた。今は鞄を持ったスーツ姿になっている。それだけで、桐明は落ち着かない気持ちになっていた。廊下を歩いている途中で、自室の鍵をし忘れたかもと不安になる。だが、戻って確かめる余裕はなかった。
桐明は、建物を出た。少し先に研究所の正門が見える。そして、初めて雨が降っていることを知る。苦笑した。
天気予報を確認することなんて、普段していない。そういえば、研究所の窓はほとんどが曇りガラスだったなと気づいた。自室に戻れば傘はあるが……。先ほどの怪しい二人組のことを思い出した。
一刻も早く研究所の外へ出たい気持ちが、強いことに気づく。雨の中、小走りに研究所の正門へと向かった。メガネのレンズにいくつか水滴が付く。
カードをかざす開閉式のゲートに、二人の守衛が立っている。ここは屋根があり、雨に濡れることはない。
「IDカードを見せてください」
取っ組み合いになったら敵わないだろうなという体格差。桐明は、偽造されたIDカードを見せた。きちんと銀の帯が見えるようにしてだ。鼓動が高鳴っているのがわかる。
「失礼しました。どうぞ」
屈強な守衛の一人は一歩引いて開閉式ゲートへの道を開けてくれた。そして正門の待機室へと入っていった。
桐明は、守衛にバレないように静かに息を吐いた。開閉式ゲートにIDカードをかざすのも緊張する。おそらく偽造されたものだから、ゲートが閉じたままになるのではと不安になる。
意を決して、IDカードを開閉式ゲートの所定の場所にかざそうとした。
「ちょっとお待ちください」
後ろから声をかけられた、心臓が止まりそうなほど驚く。恐る恐るふり返った。先ほど待機室に入った守衛が戻ってきて、声をかけてきたようだ。
「傘をお持ちしました。よろしければ、お使いください」
銀の帯のIDカードの持ち主だから、研究所の偉い上役だと思ったのだろう。気を利かせた申し出だったのだろうが、桐明にとっては寿命が縮まる思いだった。
「あ、ありがとう。大丈夫。外に車を待たせてあるから。遠慮しておくよ」
そう言って、慌てて開閉式ゲートにIDカードをかざした。ピローンという電子音と共に、ゲートが開いた。切明は内心緊張しながらも、当然のように通ろうとしたが、歩き方がぎこちないように感じる。
正門を無事に抜けた時、後ろから騒がしい声が聞こえた。
「おい、待て!」
桐明はふり返える。
見ると、そこには食堂で目が合ったあの金髪でロン毛の男だった。そばに体格のいい角刈りの男が付き添っていた。守衛と同じくらいがっちりとしている。ロン毛の男は白衣を脱いで、派手なTシャツにチノパンという姿だった。もう一人の角刈りの男は黒いシャツにデニムジーンズだ。
「なんで、外に出てんだよ」
金髪ロン毛の男が言った。桐明は角刈りの男と目が合った。身の危険を感じる。
「外に出るにはIDカードを見せてください。身体検査、荷物検査が必要な場合があります」
守衛が二人組に告げていた。二人の守衛は、二人組を訝しく思い、開閉式ゲートの前に立ちはだかっていた。
桐明は間一髪、逃げることができたと悟り、雨の中、早足で歩き出した。メガネに付いた水滴が増える。正門を出た通りの左手に、シルバーのコンパクトカーが止まっているのが見えた。指示されたのはあの車だろう。
通りは人が少なく、傘を差したメガネの会社員がこちらに向かって歩いてきていたくらいだ。スーツ姿の男だった。
後方で騒がしい声が聞こえる。先ほどの二人組と守衛が揉めている様だ。
「……そのまま、車に乗ってください。あとは任せて」
会社員の男とすれ違った際に、そう囁かれた。桐明は、雨が止んでいるように感じた。先ほどから感じていた雨粒が肌を濡らす感覚。それがなくなっていたのだ。
不思議だった。目の前で雨が降っているのに、濡れていないのだ。視界もクリアになっていた。メガネに付いていた水滴がなくなっていると、気づく。
とはいえ、今は一刻を争う。桐明は、急いでコンパクトカーに近づくと助手席のドアを開けた。
運転席には若い女性が座っている。明るい茶髪ですこしクセのある丸みショートの髪型。小麦色の肌でカジュアルな服装だった。首元にパイロットゴーグルをかけている。
「あっ、こんにちは! 桐明さんですか?」
まったく緊張していない様子で、気さくに声をかけられたことに驚く。なんとか「はい」と答えると、彼女は言った。
「どうぞ、お座りください。あ、私はシャインて言います。コードネームなので、本名は秘密ですよ」
そう言うと、シャインと名乗った女性は、にっこり微笑んだ。そして、車のワイパーをオンにする。フロントガラスの水滴が一気に掃き去られた。
桐明は助手席に座る。タブレット端末などが入っている鞄を自分の膝の上に置いた。
「なんか追いかけられてそうなので、レインさんが足止めしてくれるそうです。先に出ちゃいましょう」
レイン? 先ほどすれ違った会社員の男のことだろうか。桐明は、シートベルトを付ける。
サイドミラーに、先ほどの二人組が映った。正門を出てきたところだった。その二人を阻むように傘を持ったスーツ姿の会社員が映り込んだ。
車が走り出す。
「今日は雨なので、レインさんは無敵なんです。お任せで大丈夫」
シャインは、運転席でご機嫌に言った。
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