第37話 去りし者と迎えし者
写真立てをデスクに置いてから、メッセージが来た。紙くずのメッセージだ。実験室にて、シャーレの中で培養された細胞を顕微鏡で観察している時だった。桐明の足元に丸められた紙が届いた。
桐明は、その紙を拾い上げ、白衣のポケットに入れる。実験を済ませた後、トイレの個室でメッセージ内容を確認した。
──仮眠室の入り口から見て左の二段ベッドの下段。そのマットレスの下にあるIDカードをお持ちください。守衛による手荷物と身体の検査が不要になります。外へ出る決行日時は、連絡します。なお、この紙は処分してください。
メッセージをくれる人物は何者だろうか。筆跡に見覚えはなかった。ふと、メモをとっては丸めて捨てる
そもそもデジタル化が進んでいる研究所なのだ。書くこと自体が極端に少ない。他人の筆跡を知る機会はないのではないかと、桐明は気づく。
指示されたとおり、紙のメッセージはトイレに流して処分した。
桐明は、仮眠を取るフリをして、仮眠室に入る。幸いだれも寝ていなかった。確認したメッセージで指示されたところに、IDカードがあった。桐明の顔写真が印刷されている。薄気味悪くなった。誰かの手の上で踊らされている。
IDカードには、銀の帯が付いていた。桐明は、それにさらに驚く。
普段、首から下げているIDカードは青色の帯。金または銀の帯が入っているIDカードは、研究所の上役たちに配付されるものだ。上役たちは、研究所への入退で行われる手荷物検査や身体検査は免除される。
つまり、このIDカードなら、研究データを入れたタブレットを研究所の外へと持ち出すことができる。
だが、桐明は気づいた。冷凍保存している細胞のサンプルなどがなければ、研究の続きはできない……。メッセージの送り主は、研究データが欲しいだけではないのかと。
数日間、謎の紙くずメッセージは来なかった。夜中にこっそりタブレット端末を起動しても何のメッセージも届いていなかった。満月の日まであと数日。とりあえず、桐明は不安を感じながらも、研究員としての仕事を続けていた。
桐明は、研究所内で見慣れない職員が数人増えているように感じていた。研究員を増やしたという話は聞いた覚えがない。
やがて、また例の紙くずメッセージが届いた。桐明が自室のドアを開けて廊下に出ようとした時に、足元に転がり込んできた。自室に戻りドアを閉じる。誰も入ってこないように、塞ぐようにドアにもたれかかった。拾った紙を広げる。
──脱出の決行日は、明日午後一時。正門から例のIDカードで出てください。出て左手の街路樹のあたりにシルバーのコンパクトカーが待っています。そこに護衛となる男女が乗っていますので、彼らを頼ってください。
桐明は、心臓が高鳴っているのを自覚する。ついに、この研究所から出るのだ。
*
桐明が研究所を出る数日前のことだ。ここは女神ヶ丘市女神区にあるウィルの事務所。
雨男と晴れ女の前、テーブルを挟んで、メイドが落ち着いてソファに座っている。
「依頼を受けていただけること、主人の
「……それでは、ご依頼内容の詳細を説明させていただきます。護送は、桐明育久様が研究所から出てきたところからとなります」
「桐明さんは、自由に研究所から出られるのですか?」
レインは、衣折が桐明は軟禁に近い状態だと最初に言っていたので確認する。
「確かに軟禁状態なのですが、彼が出られるように手配してございます。彼が出所される日時が決まりましたら、ご連絡いたします。明後日の見込みです」
衣折は自分の名刺を二枚取り出しテーブルに置いた。レインもシャインも、自分の名刺を衣折に渡す。
「風社の関係者が、すでに研究所内に潜入しているということですか?」
レインが尋ねた。
「申し訳ございませんが、その問いに対してお答えする許可をいただいておりません」
メイドは軽く頭を下げた。レインは軽く息をつきながら、スキャングラスを指で押し上げる。
「続けさせていただきます。彼をお迎えしたら、女神ヶ丘市
衣折と目が合ったレインは、肯定のうなずきをした。
「えっと、衣折ちゃん。いつまでに、そこへ連れていけばいいのかな? 時間制限があるのか気になります」
「数日後の満月の日までに必ずお願いいたします。同じ市内でございますし、そんなに距離はございませんので」
衣折は静かに答えた。
「命音区から双雷区を抜けて空無区が最短ルートですね。長距離の護衛ではない……なのにウィルに依頼するということは、何か懸念があるのですか?」
レインの問いに、メイドは答える。
「はい。四家がひとつである
「えっと、風社家と雷殿家は仲が悪いのですか?」
シャインが質問した。衣折は答えずに、レインに視線を送った。
「衣折さんは、答える許可をもらっていない様だ」
レインはそう言うと、軽く息を吐いてから続ける。
「簡単に言うとな。四家の今は……風社から見ると、雨宮が退き、雷殿が裏切った状態。そして、『魔女』は行方不明とされている」
「……そうなんですね。みんな『魔女』を探しているのですか?」
「さぁな。どこかが
レインは糸のような細い目を開き、衣折の反応を伺う。だが、衣折は伏せがちな目で冷静な表情のままだった。
「螺旋の囚人にも、異能者がおります。桐明育久様を捕える、または殺害する目的で派遣されてくる可能性が高いです」
衣折の言葉を受けて、レインは思う。
やはり研究所には諜報員が潜入していそうだ。だが、どこから足がつくかわからないから、ここでは秘匿にしておきたいのだろう。雷殿の管轄下である命音区での諜報行為がバレないようにか。今回の場合、雷殿と面と向かってやり合いたくないってのが、風社の方針のようだ。
「
そう言った衣折は、レベル3、オレンジの異能者だ。レインは先ほどスキャングラスで解析したことを思い出す。
「承知しました。では、俺とシャインの位置情報は、任務中はそちらでも把握できるように調整しましょう」
「はい。それは助かります」
衣折は微笑んだ。メイド服が似合う笑顔だった。シャインがほんわかとした顔になる。
その後は、具体的な段取りを三人で決めた。護衛対象は、桐明本人だけでなく彼が所持するタブレット端末もとのことだった。桐明育久の写真やプロフィールなど、必要な情報をウィルの二人は受け取った。
「それでは、そろそろ失礼させていただきます」
衣折は立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。レインもシャインも立ち上がり、頭を下げる。
「今日はこの後、お暇をいただいておりまして……女神ヶ丘駅周辺で買い物をする予定です」
そう言うと、衣折は胸元に手をあてて何かを引き抜く動作をした。引き抜かれたのは、折り紙で作られたメイド服だった。すると、衣折の衣装は、メイド服から今流行のカジュアルな服装に変わった。
「ふあぁ、衣折ちゃん変身できるの!?」
シャインの目が輝く。
「風社有澄様から本件で共闘することもあるだろうから、異能を伝えておきなさいと仰せつかってございます。衣折の異能をお披露目させていただきました。簡潔に申しまして、『折り紙を具現化する力』にございます」
「すごいね、すごいね! ……ところで、メイド服はなんで脱いじゃったの? 可愛かったのに。似合っていたのに」
シャインは、すこし興奮気味に尋ねた。
「風社有澄様とのご契約上、勤務中にメイド服を着ていると時給がかなりアップいたしますので……」
伏せがちな目をした衣折の返事だった。雇い主の趣味だと知り、晴れ女と雨男の顔はなんとも言えない顔になった。
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