第5話 日常と異常
シャインは、心地よい風を感じながら歩く。
お目当てのパン屋「くるみベーカリー」に着いた。店の外にも、焼きたてのパンの匂いが広がっている。
長年愛されてきたことを感じさせる店構え。メンテナンスは行き届いているけれど、古さは隠せない。看板にある「くるみ」という文字はパンを並べたような意匠になっている。ベーカリーはカタカナ書きだ。
ベッカライなんとかやブーランジェリーほにゃららといった、お洒落な名前をつけているパン屋よりも、シャインはベーカリーの方が親しみがあって好きだった。
そのことをレインに話したら……「ベーカリーは学校で習う英単語だからだろ」と言われた。そのことを思い出して、シャインは口を尖らす。正論かもしれないけれど、人の気持ちがわからないんだ、あの人は。
カランコロン。自動ドアでない扉を開けると来店を告げるベルが鳴った。店内は、より一層、美味しそうな焼き立ての匂いに満ちていた。
「いらっしゃい」
と、レジカウンターにいる男が言う。
「こんにちは。
巧と呼ばれた男の本名は、
もともとはIT企業に勤めていたらしい。店主のくるみと結婚してからは、会社員を辞めて、店を夫婦で切り盛りしている。
「ああ、雨宮さんからの注文だったね」
そう言うと、彼は背後にある棚に置かれているいくつかの紙袋を順に見ていった。貼られた付箋を確認して、ひとつを取る。雨宮は、レインの名字だ。
「はい。どうぞ。お会計はオンラインで済んでるよ」
シャインは紙袋を受け取った。
「あ、
シャインの下の名前が呼ばれた。ちょうど厨房から、焼きたての食パンを乗せたトレイを運ぶ女性が出てきた。
「くるみさん、こんにちは」
つい声に嬉しさが混じる。シャインは朝月くるみが焼くパンの大ファンだった。
くるみは、棚に食パンを並べていく。
彼女は、この店の店主だ。父親の後を継いだ二代目。ブラウンで長めの髪を巻き上げている。健康的で笑顔が魅力的な女性である。巧よりも少し背が低い。動きやすいようにジーンズにTシャツ。そこに白いエプロンをつけている。頭にはコック帽。
「そうだ。ちょうど良いところ。咲輝ちゃん、辛めの味付けのパン好きだよね?」
「大好きですよ!」
シャインが激辛カレーパンを何度もリピートしているのは、知られている。
「じゃ、ちょっと試食お願い。ちょうど新作を焼いたところなんだよね。味を調整して、来週から売りに出したいなと思ってて。持ってくるから奥のイートインで座ってて」
彼女が基本的にこの店の商品を開発しているのだった。
くるみベーカリーは、少々手狭ながら、イートインスペースがある。個人卓が二つに、四人掛けテーブルが一つだ。
シャインは、個人卓に座る。ほどなくして、くるみが新作パンを持ってきた。
「新作の、麻婆チーズトースト。ご賞味ください」
そう言って、くるみは新作パンの皿とミルクを注いだカップをテーブルに置いた。
厚切りのトーストに膨らむようにチーズが覆い被さっている。チーズは程よく焦げ目がついていて、食欲をそそる。
シャインは一口食べてみた。トーストとチーズの間にはとろみを強めにつけた麻婆豆腐が挟まっている。チーズが膨らむ様になっていたのは、このためだった。辛めの麻婆豆腐に、サクッとしたトーストの食感。それにやわらかく伸びるチーズが、パンチの効いた辛味を和らげてくれる。
「美味しい!」
「ありがとう。麻婆豆腐の辛さはどう?」
くるみは、嬉しそうな顔で聞いてきた。
「ちょうど良いですね。もっと辛くても私は平気ですけど」
「今悩んでいるのが、子どもも食べれるように甘口の麻婆豆腐のも作るかなってところなの」
「確かに。大人が食べる分には問題ないですけど、小さなお子様には辛味がきついかもですね。でも、麻婆豆腐って子どもも好きですよね……」
「そうなの。だから、味の調整で悩んでいるの。甘口と辛口両方ってのは、他のパンを作る工程もあるので……」
ちなみに人気商品のカレーパンは、辛さで三種類ある。
「だったら、甘口にして、お好みで七味唐辛子をおかけくださいってのが良いかもです。私、よく辛さが足りなくて麻婆豆腐にふりかけるので」
「あ、それは良いアイデアね。参考にさせてもらうわ。じゃ、またね。そろそろ他のパンが焼き上がるから」
厨房に戻るくるみを見送ると、シャインは麻婆チーズトーストをたいらげた。
そして、くるみベーカリーを後にする。そろそろ事務所に戻らなくては。
*
レインとシャインがまだ知らないところで、二つの異常な出来事が起きていた。
一つ目は、約一週間前に起きた。捜査にあたる二人の刑事の会話はこうだった。
「鑑識の結果によると、転落死。つまり高所からの墜落だな。頭から落ちた。見るも無惨な仏さんだった」
と、年配の男性刑事が言った。
「でも、遺体の発見場所はオフィスビルの屋上ですよ。しかもそのビルは、周囲のビルよりも高かった……。落ちてくるなら、ヘリから飛び降りるくらいですよね」
と、若手の女性刑事が返す。
「そうだな。俺もそれくらいしか思いつかない。だが、死んだ仏さんは、このビルに入っている会社の従業員だ。それに、ヘリからの落下なら搭乗や航空の記録から判明するだろうが、それはなかった」
「事故死にしろ、殺人にしろ……では、一体どうやって?」
「わからん。さーっぱりだ」
警察がその捜査に追われている数日後、もう一つの異常な出来事が起きた。こちらの現場も見た二人の刑事の会話は、次のとおりだった。
「またおかしな転落死だ」
年配の男性刑事が言った。
「え? 鑑識がそういう結論だったのですか? オフィスフロアの長い廊下、その突き当たりの壁に墜落するなんてありえません」
若手の女性刑事が報告書を見て、驚いた。
「だが、遺体の損傷は、落下したような衝撃を受けたものだそうだ」
「事故死というのはなさそうですけど、殺人にしては激しいですよね。オフィスの中で殺そうと思ったら……刺したり絞めたりの方がてっとり早い」
「だよな。だから、わからん。さーっぱりだ」
「ウィルに捜査協力依頼を出しますか?」
若手女刑事の提案に、ベテラン刑事は少し考えた後、うなずいた。
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