第二章 陆
「さあさあさあ! 止まっちゃあ駄目だ。もう一杯欲しけりゃもう一節踊ろうぞ!」
影は叫んでから頭上を飛び越え、円の中心にある脚の長い机の上に立つ。つんのめっても器用に重心を戻し、危うさのある足運びで音頭を取る。
「
奴に調子を合わせて輪が動き出す。よくよく観察すると、人々は喉を動かして声を出そうとしているが、ひゅっと乾いた空気が通るだけでまともに歌えていなかった。どこか苦しそうでもある。
「あなた、何をしたの。答えて!」
梟は恐ろしい鳴き声を持つという不吉な鳥だ。龍や虎ではなくわざわざ梟を選ぶとは、それだけでも彼──声だけではどちらとも取れるが、少年のようでもある──はとち狂っているとわかる。
「答えないなら吉と出るか凶と出るか、試してやる」
呟き、暁蕾は霊符を前に出す。
「『
符は白い靄となり光の反射に見え隠れしながら、易者に向かって流れて行く。
そこに
ちょうど、一節を終える頃だった。
「常夜の憂いは消えずとも、月下に貝の盃を呷れば夢も現もないのと同じぃ! 壺が空になるまで呑み明かせ!」
易者が傍らにある壺の蓋を開けた。それを合図に飢えた屍のように次々と人が押し寄せる。
人波の中で暁蕾は静かに奴を見据えた。
「日々の所在なさに鬱々とした坑夫、子宝に恵まれず嘆く女画師、一生を深淵で終える希望なき子ども、日々近づく死に怯える老女。海を渡る夢に敗れた漁師。恐れることなかれ。おれらと共に酩酊を極めよう。同じ泥へと還れるさ。悩み辛みも怨み弱みも、全てを泥に沈めてしまおう!」
しなやかに伸ばした易者の指先から、どろりと銭のような厚さの円が落ちた。硬い音を立てて邑人の持つ盃に着地し、大きな壺がひとりでに水を注ぐ。粘性のある液体が壺を下から持ち上げていた。
真っ黒な銭がどんどん盃に放り込まれ、水が注がれると生き物のようにくるくると回って裏表を水面に示す。
「陰と出るか陽と出るか、乾と出るか坤と出るか! 運命を呑み込め。そらもう一杯!」
あれを飲んではいけない。人間が飲むべきではない。
「目を覚ませ。やめろ!」
淵が易者の周りにいる人々の手を叩いた。からんころんと盃が転がる。嗚咽のような声を漏らして一人は這いつくばり、一人は手で拾おうとし、また水を求める。
淵の背後にいた邑人は黒い水を啜った瞬間、口を押さえて盛大に吐いた。
「おい、しっかりせんか」
白が蹲ったその人を支えて、人混みから離れようと引きずって行く。残った嘔吐物は、どす黒く染まっていた。既に吐いてしまっている人もいた。家の柱に身を預けてぐったりとしている。
これは、と淵が暁蕾の方を向いた。道士が吐いた時と同じ具合である。
暁蕾は頷いて、空を切った。
すっかり見えなくなっていた靄は突如易者の頭部を覆った。それまで酔狂な足踏みをしていた彼はびくりと痙攣して天を仰ぐ。
「あ。れ?」
壊れた人形のように、どっと彼の左腕が落ちた。
液体を肩から零しながら、泥となって溶けていく自分の腕を不思議そうにじいっと眺める。一時の間を経て、三白眼気味の目が暁蕾を認めた。
その口が三日月型に変形する。
「なぁにしてくれちゃってんの?」
正体見たり。
「『有為万象』!」
深淵が一瞬強い光に包まれた。符から変化した法輪が回転しながら易者へと突進する。
酷くゆっくりと腕をくっつけていた彼は、あらゆる箇所から垂れた泥を体内に引っ込め、飛んだ。
「嫌なんだよねー、そいつ速くて」
暁蕾が一足先に宙返りをし、先回りする。
「逃がさない」
回し蹴りを易者はすんでのところで避ける。
「あっぶなー、おれいいことしてやったのに。邪魔するなよなぁ」
「何を邪魔してるって?」
三度の蹴り技を躱し、人を押し退けて易者は走る。
「わかんない? おれはみんなの悩みを聞いてあげてんのさ。こんな吹き溜まりみたいな氣に満ちたところで暮らしていたら気が滅入っちゃうでしょ。救いが欲しいと求められたから占っただけなのに」
「あの黒いものは何。何を飲ませたの」
「そりゃあもう、わかるだろ」
暁蕾が手を振り法輪が動く。易者は人を薙ぎ倒す勢いで駆け回っているが、暁蕾は同じようにはいかなかった。そこらの小石と変わらない扱いをするのは言語道断である。今すぐ彼を仕留めようと、現実の物体ではあり得ない軌道を描いて、法輪で正確に易者を狙った。
脇腹に命中し、肉を深くえぐる。
「ぐぁ⁉︎ っと、くっそ」
しかし飛び散ったのは赤い血液でも肉片でもなく、やはり黒い泥だった。しかも倒れるほどの負傷を負いながらも痛みを感じている様子はない。
易者を法輪の中心に閉じ込め、暁蕾は近づく。
「泥を飲ませて、どうするつもりだったの」
「もちろんおれたちが元あった姿に戻るんだ。こいつらは未来を憂いていながら今を変えようとする気力もないらしい。だったら原初に還ってしまえばいいんじゃあん、てことで少しずーつ呑ませて、嫌なことを忘れさせてやったんだ」
──なんつってな!
傷は完全に修復されていた。奴の体そのものが泥でできているのだ。
この程度では致命傷にもならない。
易者は液体と化して車輪を抜け、再び人の形になって何かを唱えた。今までに聞いたことのない音に耳は明確な言葉として拾えなかった。呼応したのは、地面や人々の盃に残った泥だった。涎を垂らすように浮かび上がり、細い矢となって飛来する。
暁蕾は一つ避けると、助走をつけて身を捻りながら宙返りし、もう一度地面を蹴って高く跳躍した。その間に家の壁や窓に鋭く泥がぶつかっていく。軽々と屋根に着地してからもまだ矢は尽きていない。
「待て!」
隠れようとした易者の耳元でひゅっと風が鳴った。拳を構えた淵が背後から睨みつける。
「おぉ、
淵は師匠から習った技を駆使して間合いを詰めていくが、易者はいなすだけで一発も食らわない。
「どれだけ飲ませた。どれだけ飲ませたらこうなる。自分に関する記憶を濁しただけなら吐く人が出るはずない」
「え? ほら、だっておまえらに見つかったら嫌だし? またあの娘の術に追っかけられたらたまんないの。一回の占いで何度も呑ませるし、何度も占いに来たらそりゃあねぇ? 泥と水も入れ代わる」
「ちゃんと答えろ、いつからだ!」
「易者を始めたのはぁ、三年前かな」
淵はどっと胸を突いて相手を吹き飛ばす。
「ずっと飲ませ続けたのか」
「毎日じゃあ飽きちゃうよ。ここって邑というわりに大きいし人も多いだろ。だからまずこの邑から少しずーつ占って回ってたわけ。それで、それで、隣の邑に行く前におれ有名になっちゃってさ。さすがに記憶は黒塗りさせてもらったけど、最初に全員に呑ませたのはここだったね」
易者は屋根に登るも、次は暁蕾が肉薄する。
「でも、少し前までみんなの状態は普通だった。泥水に変な術を使ったんでしょう。何をしようとしてるのか言いなさいよ」
「だってさ、だってさぁ!」
何がおかしいのか、宙を跳ねながら易者はきゃらきゃらと笑う。
「一丁前に悩みを持ちながら、故郷を離れようともせず苦しみながら生きているのがあんまりにも、可哀想でさぁ。おれも心の隙間を覗きすぎちゃったんだな。重そうな肉体を、剥がしてやろうと思ったんだ」
「あなたみたいな泥に変えようとしたってこと?」
易者は元気にそう、と答える。
「人間が泥に代わったら、幽鬼みたいに現世に居座れるだろうし、哀しみもなく生きていけるじゃーん?」
無邪気な冒涜だった。皆が密かに抱えているものを無関係の者に打ち明け、相談したのは泥に溺れるためではない。生きようとしているから悩みや負の感情も募るというもの。それをどう勘違いしたのか、易者は一方的に命を奪おうとしている。
こんな妖は初めだ。どこで生まれ、どのようにして地宵郷に辿り着いたのか聞き出したいとろだが、長く野放しにしていると何をしでかすかわからない。邪を縛りつける有為万象が効かないのであれば、もう一枚を使ってでも祓うしかないだろう。
「ほんと、これからだっていう時に邪魔して来るんだから」
再び近接戦が始まる。積極的に攻撃をする暁蕾に対して、易者は防御に徹するばかりでとても戦いとは言えないが、すばしっこい彼に隙を見せれば邑中を追いかけ回す羽目になる。連続で仕掛けるがこれがまた手応えがない。彼も受け流しているから攻撃の手段が皆無というわけでもないだろうに、回避に徹して逃げ腰である。
屋根から屋根へと移って彼は下へ降りる。距離ができて暁蕾はすかさず法輪を飛ばした。
懐に手を入れる。果たして自分に扱えるか。
「生魄くん、あれってどう見ても陽の子だよね。氣がてらてらしていてうざったいし」
淵は木簡を届けに来た知り合いのように話しかけられ、戸惑いを露わにする。その反応を見てか「やっぱりそうだよねー」と易者は勝手に納得して顧みる。
「生魂ちゃーん、おれにはおまえの相手無理だから。もう構って来ないでよねー」
そして首を傾け、人間の域を超えた邪悪な笑みを淵に向けた。
「またな」
逃がすものかと淵が符を投げた。暁蕾が練習用に渡していた厄払いの霊符である。
易者の右の鎖骨部分に張り付き、滲むようにして体の中に消える。やや力が抜けて彼の動きが鈍くなり、法輪が素早く囲い込んで回転の勢いを増す。
暁蕾が指先を伸ばして力を注ぐ。
回転に乗じてつむじ風が生まれる。法輪の骨から八つの玉が浮かんで星の如く粉を吹いて燃え盛る。
易者の皮膚が炭のように乾いて剥がれ始めた。祓える──……そう確信した時。
飛散した。
四方八方に泥が落ち、生き物のように壁や地面を這って消えた。対象を失った法輪は回る力を失い、気体となって暁蕾の手元に戻る。
霊符を握る手に思わず力が入る。躊躇って一枚に頼ってしまった自分を恥じた。
気づけば邑人が一箇所に集っていた。壺を奪い合って競うように水を注いでは喉に流し込んでいる。吐瀉物の上に倒れている者もあちこちに増えている。悔やむよりも先にやるべきことがある。
人を運んでいると家から出てきた白がやったか、と尋ねた。暁蕾は首を振る。
「そうか。お前さんたちはよくやった。狭い家には何人も入らんから道観に運ぼう。少し距離があるが、いけるか」
奥まったところに立つ横に広い構えの道観へ収容していく。二回目の往復で三人では到底追いつかないとみて、暁蕾は
事情を聞いた流蝶はただでさえ白い顔をさらに青白くして、すぐに指示を出して側仕えを外に出した。
「あとは守衛たちに任せて」
「それと、もう泥を探す必要はありません」
「見つかったの?」
「民の様子がおかしくなったのは人間に化けた泥の妖が作った泥水を飲んだからです。祓おうとしましたが失敗しました。流蝶様ご自身も守りを固めておくべきです。使者の霊符でも祓いきれなかったので、別の方法を考えておきます」
「あなたが無事でよかったけれど、あまり無理をしないで。ただでさえ身内の問題に巻き込んでしまっているのに」
「あの妖をまともに相手にできる道士は実際あたししかいないと思います。術を使える人も片手で数えられるくらいで、幽鬼が侵入しづらい構造だからか、霊符による魔除けも施されていません。あたしが巡回して警戒しておくのが無難です」
流蝶は痛いところを突かれ、遣り切れない表情で眉間を揉む。
「ええ。そうよね。これもきっと私たちが招いたものなのに、他人に落とし前をつけさせるなんて不甲斐ないわ」
暁蕾は横目で扉を見る。女中はまだ戻って来ない。
「祭りは、予定通りでお願いします。実は泥よりも祭礼の方が重要なんです」
淵や白にした儀式の話を流蝶にも聞かせた。
「もう、それしかないわね。でも祭日が終わった後に正式な段階を踏んでやるのでは駄目なの? それこそ焦らずにしっかりとした場を設けた方が地帝も受け入れてくれるのではないかしら」
暁蕾は言葉を詰まらせる。流蝶は天災について何も知らない。混乱を防ぐために口外はしないようにと三人で決めていた。話すにしても今は時期が悪い。余計な負担をかけるだけだ。何より、あと九日しかないのだ。十四日も待っていられない。
「民も地帝を求めているこの時こそ応えを得られる可能性が高いと思います。陰の氣も高まり始めるし、全員の士気も高い。いい条件ばかりがそろってます。あたしはここに賭けたいんです」
苦し紛れの説得だったが、効果があったのか、流蝶は頷いてくれた。
「家の人にばれないようにやるには、確かに今しかない。祭器は私が準備するわ」
詳細はまた改めて相談することになり、暁蕾は邑へ戻った。
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