第三章 縛鬼伏邪 壹
どれだけ速く走ろうと万物の流れには追いつけない。偉大なる天帝さえも大きな流れの一部であるというのに、激流は人々を翻弄させるひとつまみの混沌でしかないのだ。
だから己がやるべきことを常に見定め、その度に決定していかねばならない。何もしないまま飲み込まれてしまえばただの塵芥と消える。
邑の人たちは全員無事だった。意識が混濁した者から屍状態の者まで症状に濃淡があり、皆が恢復できるか懸念されていたが、前例を参考に試した治療が見事な快気をみせた。
前例というのは女の道士のことである。彼女が倒れた後、暁蕾は介抱される様子を見ていた。それまで健康そうだった彼女の顔は土色に染まり、虚な目を彷徨わせながらしきりに喉の渇きを訴えていた。慌てふためいていた道士の仲間はとりあえず水を持ってきて飲ませた。ひとまず落ち着いたが、少しするとまた苦しそうに喉を摩って水を求めた。次はその倍を飲んで落ち着いた。それを繰り返すうちに彼女は甕一つ分を飲み干してしまい、吐き気を催して泥を吐いた。それは水を大量に飲んだとは思えない黒さだった。
渇きがなくなるまで飲み続け、何度も吐き続けた結果、五度目でようやく吐瀉物に透明な水が見えるようになった。暁蕾が祭りの手伝いをして再び戻った頃には、七度目の後で正気を取り戻した頃だった。水を汲むために往復を繰り返し、道士たちも大変だったと語っていた。
拷問のような気分だったと、布団の中で女の道士は言った。全身の水分という水分が吸い尽くされ、臓器までもが泥のように溶けていく感覚があった。まるで魂魄が乖離し、一種の神がかりのような恍惚感すら覚えたが、僅かに残った意識と体が悲鳴を上げていて、地獄の狭間を行き来していた、と。
ちなみに女は虎穴邑出身で、かなりの頻度で泥水を飲んでいたという。
易者の術を目の当たりにしても泥の構成する呪力は解析できなかった。だが体内から取り出すことで元に戻れる可能性があるのであれば、それを試す他なかった。
邑に引いている水を使い切る勢いで甕は人々の手から手へと移り、往復した。吐くのが苦手な老人や子ども、たくさん飲むのを苦しんだ者もいたが、他の邑人たちの協力もあり、どうにか治療は完了した。
健康そうな邑人にも易者からの水を飲んだものは治療しておくよう呼びかけた。万が一のことがある。体内に蓄積させたままにするよりも何かある前に吐き出しておいた方が危険はないだろう。
暁蕾が起きた頃は昼を回っていた。道観には寝ている人もまばらにいた。水を求めてうろついている人がいたので、座らせて水を入れた椀を与える。
それから外に出た。昨日の出来事が嘘のように静かだった。まだ耳には奇妙な節のついた唄が残っている。思い出すとなぜか悲しい気持ちになる。
これまで何度も地下室を空けていたが、一晩中そうしていたのは今回ぎ初めてだ。これをきっかけに誰かにばれてしまえば、大目玉を食らうことになるだろう。厳しいので処罰を与えられると言っていたのは彼自身だ。
そう考えると何だか心配になった。歩いているうちに舟に乗ろうという気分になって桟橋に向かう。
橋の近くには人がいた。数人の恰幅のいい守衛たちと、彼らの前に立つ潔癖そうな細身の青年である。
暁蕾は必死に記憶を掘り起こす。確か名前は、
「さて、どうしてやろうか」
彼が腕を組んで蔑むような視線を送っている。その先にいたのは淵だった。
「昨晩は目を瞑ってやったが戻る気がないというなら報告せざるを得ない。せっかくの慈悲を無下にする気か?」
「もう少し面倒を見なきゃならない人がいるんだ。それが終わったら必ず戻る。それでいいだろ」
「駄目だね。そんなの守衛に任せてしまえばいい。人は足りている。お前が残る理由はこれっぽっちもないんだよ。元より人様に見せるべきでない姿を晒しているだけでもこちらとしては堪え難いというのに、今更人々に尽くそうとしたところで誰もお前を覚えてはくれない」
淵が髪の間から冷めた視線を返す。
「あんなのを見たら卑しい気持ちで助けられるわけがないだろ。俺はそうしたいからここにいるんだ。今まで通り俺はいないものだと思って放って置いてくれよ。もう気にしている人なんていない」
「いいや、いるよ。父上はいつもお前を気にかけている。ご飯は食べているのか。運動しているのか。健康でいてくれているか」
「ふざけてるな。そう言いながら逃げ出さないか監視しているだけだろ」
「そうそう、姉上だって、毎日顔を出しているそうじゃないか」
「最近の話だ」
流蝶の弟はおどけた調子で肩を竦める。
「酷い奴だ。こちらが大変な思いをしている中、貴重な時間を作って会いに行ってやっているというのに、姉上の心遣いを何だと思っているんだ」
「大変、か。全部姉上に押し付けているのはお前たちだろ。父上もまともに動いてくれていないと聞いてるぞ。姉上の時間を奪っているのはお前らだ」
「口が悪いぞ弟よ。それと間違えるな。時間を奪ったのはお前の方だ。お前が努力もせず怠惰に生きているから私たちが苦労する羽目になった」
淵は唐突に怒りを滲ませた彼を訝しむ。まったく心当たりがないといった様子だった。
「何言ってるんだ。誰も出そうとしなかったくせに。そのツケが回って来ただけだ。俺は関係ない」
流蝶の弟は詰め寄った。きつい目元をさらに釣り上げて淵の胸に指を差す。
「ある。大いにある。自分は何かできる、特別な人間だと思うな。何もして来なかったやつに手に入れられるものなどない」
淵は苛立ったように指を掴んで外側に曲げた。
「お前みたいな兄は知らない。俺の知っている兄はそんな顔じゃない。喋り方も違う。他人同然のやつの言うことなんか、聞きたくもない」
流蝶の弟が痛みに顔を歪める。淵は振り捨ててこちら側へ歩き始めた。
淵は暁蕾に気づいたが、通り際に袖を引くだけで何も言わなかった。暁蕾は肩越しに淵を見る。そして守衛に囲まれながら怒りに身を震わせる彼を見る。
「待つんだ淵!」
「何もしていないって、どうして思うの」
「またあなたか。そんなもの見なくてもわかる」
わかるのではない。彼はきっと、そう思いたいだけなのだ。
◐ ◐ ◐
「水徳真君、火徳真君、どうか我らをお守りください」
火打金で石が打たる。
カン。カン。カン。
金糸の屑のように火花が落ちる。皆が息を潜めて光を見守る。
再三にわたる打撃が緊張を伴って反響した。
カン。
火種が生まれる。やがて大きく育つと魚の脂肪で作られた蝋に移され、隣の蝋に、さらに隣の蝋に火が点されていく。
それらは提灯の中に入れられ、一列がそろうと紐を引いて高く上げられる。
いくつもの提灯が掲げられ、視界がだんだんと明るくなり、突き抜けるような高い岩壁が露わになる。
わっと声が上がった。太鼓が鳴り、点灯の儀は終了した。そして祭りが始まるのである。
暁蕾は首を伸ばして灯りを仰ぎ、何日ぶりかの開放感を味わった。視界が広がると堅牢な岩に囲まれた圧迫感が嘘のようになくなる。否、地宵郷は決して狭い洞窟ではない。元からある吹き抜けの構造からさらに下へと広げて作られたのが現在の住処だ。横に広く、縦に長い空間を自然に、あるいは砕いてできた柱が支えて、同様に梁が複雑に交差して天井に張り巡らされている。見えているようで見えていなかった。深淵の新たな景色が天色の瞳を輝かせる。
肩を叩かれてふと現実に帰り、暁蕾の目の前に何かがぶら下がった。
「これ、今日みんながつけてるやつだ」
「蝙蝠の魔除けだ。俺も少し手伝わせてもらって作ったんだ」
手で包めるほどの小さな石が翼を広げた生き物を象っている。紐で括られた下には二つの房が垂れている。腰につけるのにちょうどいい長さだ。
「この石の部分を加工したの?」
「綺麗に左右対称になってるだろ? 蝙蝠は古くから地宵郷の入り口を守ってくれているから窓や扉によく飾られるんだってさ」
言われて辺りを見回すと、民家周りの装飾は至る所に蝙蝠模様があしらわれている。菱形の布や四連の灯籠、岩偶や壁画にも円陣を作った生き物が潜んでいる。黒くて小さくて可愛らしい。小鳥のようなものだろうか。暁蕾は気に入った。
祭りは地帝を招く儀式に始まり、地帝廟に郷民一同がそろう。さあさあと邑人たちに引っ張られ、暁蕾と淵は転びそうになりながら舟に乗った。廟の周りは既に舟でいっぱいで、前列で儀式を見ようと隙間を狙って争う者がいる。けれど浮いている花は神聖なものだから潰すわけにはいかない。結局距離は空けなければいけないのである。なら競ってどうする、と笑い合う。賑やかな様子に暁蕾は胸が軽くなった。
あれから二日後の夜、予定日を一日延期することで全員が健康な状態で祭りに参加することができた。人々の行事に対する熱量は暁蕾の思っている以上に高いものだったのだ。
介助をしていた時、老爺が泥を拭った口で唐突に語った。祟りなのだ、と。
ここ二十年前後で地宵郷は変わった。外と一切関わり持たず、工芸品を積み上げ祖を祀るばかりだった昔の姿はもうない。今は誰もが手に職をつけ、坑道をいくつも作り、海へ進出し、他郷との積極的な交流で流通を拡大させている。邑はもはや町となり、郷は國と言っていいほど大きくなった。我々は目まぐるしい日々を送ったが、できることが増えるうちに人も活気づくようになって、誰も彼もが夢中になって働いていた。実は皆変哲ない生活に飽いていたのだ。
だがすべてがうまくいったわけではない。大きな失敗は何度もあった。その度に酷く沈んで、立ち上がるのに時間がかかった。堪え性のない我々は問題が立ち塞がっても乗り越えられる力を持っていなかった。現在もそこだけは成長していない。そんな中での宗主の
しだいに廟から足が遠のいたのは、忙しさにかまけていたのもあるが、やはり一番は尸鬼だ。奴は邪な心を食べ、肥大化させる。知らず知らずのうちに犯されて、傲慢になってしまった。祖の助けがなくとも自分たちは迷わずに進める。祈らなくとも幸福を手に入れられる。なんと不敬で、甚だしい勘違いだったことか。灯籠の光となって導いてくれたのは地帝だったのだ。人間は間違っても灯籠にはなれない。図ったように海は荒れ、漁業は失敗し大打撃を受け、外には幽鬼がうろつき出るに出られず、見せつけのように男児の使者が生まれ、地帝の声は遠ざかった。泥と水で二重の苦しみを受けたのも当然の罰だったのだ。
今頃水底で地帝は嘲笑っているに違いない。この世の全てはひとつの大きな流れでしかなく、地帝が大河で、宗主が小川だとするならば、我々は角のとれた礫であり、水草であり、めだかなのだ。我々の意思で川の流れや速さは変えられない。こうなるべくしてこうなったのだ。
残された道はこれまでの行いを懺悔し、平伏するのみ。おちおち寝てなどいられない。
地帝招来の歌が響く。壁に音がぶつかりいくつも重なって反響する。耳の奥まで浸透して一種の瞑想領域へと落ちる感覚すらあった。暁蕾は目を開ける。
きっと水底まで届いているのだろう。足元に未だ付きまとう下へと向かう力が直感的にそう思わせた。
儀式を終えると方位が占われ、その方角から方相氏一行が鬼祓いに周り始める。人々は邑に帰り、待つ間も馳走と酒を手に近隣住民と歌や踊りで盛り上がるのである。
騒げば騒ぐほど、鬼は怖がって逃げるのだ。
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