第三章 贰
ぽんと太鼓が短く鳴り、四つ目の仮面をつけた方相氏が矛を持って家の前で躍る。奇妙な珍客に子どもが周りではしゃぐ。大人たちと一緒に歌いながら家の中に入って行く。
家の外にある椅子に淵は腰掛けている。暁蕾は横から蓮饅頭を渡した。
「ありがとう」
「気をつけて。前食べた時より塩辛くなってる。これが普通らしいけど本当かな」
「食べたのか?」
「ご近所で交換し合うからたくさん作ったんだって。どうせ余るからってもらっちゃった」
淵は生返事をして視線をまた遠くへやった。お祓いの様子を見ているのだ。隣に座って暁蕾も観察する。
「こんな感じなんだね」
「ああ」
「少し騒いだだけでも響くから、こっちまで歌が聞こえてくるの、すごいよね。普段静かに過ごしてるのも納得。足を強く踏み鳴らすのが大事なんだって。みんなでやればさすがの鬼も怖がって逃げそう」
「そうだな。鬼門から来る鬼は小心者だから」
「鬼門? 外にいる幽鬼ではなくて、鬼門から来る鬼を祓うの?」
「どちらも兼ねてるけど、鬼門の方が俺たちに近いからそこからやって来る鬼を祓い戻す意味合いが強いな。悪い鬼が出ると番人をしている地帝が罰してくれるんだ」
暁蕾は飲み込んでから言う。
「番人をしてるのにどうして鬼が出て来るんだろ。見張ってないのかな。それって職務怠慢じゃない?」
「失礼だろ。伝説には冥界の門と鬼門は別にあって、鬼の善悪を試すために鬼門はわざと開かれている、と書かれてた。そこを通った鬼は地帝に食われてしまうらしいけど、うっかり上に登って来る鬼がいるかもしれないだろ。だから俺たちも対策をするんだ──……というか、暁蕾も調べたなら知ってるんじゃないか?」
「確かに見たけど、厄災や地帝招来には関係ない気がして斜め読みしてたんだよね。それ、食べないならもらってもいい?」
「いや、やらない。お腹空いてるなら取ってくればいいだろ。食い意地張るんじゃない」
奪われないように淵は饅頭を一口食べた。食い意地が張っているのではなく冷める前に食べた方がいいという意味だったが、半ば事実でもあるので暁蕾は反論しなかった。
「髪の毛邪魔じゃない? あたしが結んであげようか」
「え。いや、いい。もう慣れてるから」
淵がほつれた髪を耳にかけるが、髪の長さがばらばらなせいですぐに戻ってしまう。
「手入れもしていないから縮れて、切れて、ボサボサなんだ。汚いからまとめてもそんなに変わらない」
「少し整えるだけでも違うよ。あたし予備の紐持ってるからちょっと触らせて」
「おい、よせよせ」
暁蕾は彼の髪をいじるために強引になった。長い髪を整えもせず背に流していたり結っても適当だったりしていたのが、実は前から気になっていたのだ。だが髪を結いたいなどとなかなか言い出せる機会がなかった。櫛を通せるのは今しかない。
腰の下まで伸びた髪は一本一本が細く弱々しい上に、ところどころで酷い絡まり方をしているのもあって梳かすのにかなり過労した。時々淵が悲鳴を上げて頭を抑え、饅頭を食べるどころではない痛みを味わった。
「うちの癖毛の妹といい勝負だけど、元が真っ直ぐだとまとまりやすいね」
「妹がいたのか」
「あなたみたいに長くなってるからあたしがよく結ってあげてたの」
「横に結ぶのは何でだ?」
「正面から見た時に短い毛の跳ね具合が対称になるから。うん。思った通り。似合ってる」
「もしかして当世風ってことか? まあでも、整えると確かにすっきりする、かもな」
暁蕾は満足感に浸ってない汗を拭った。自分も旅の最中で絡まった毛と幾度も対決したが、彼のは稀に見る大物だった。始終気まずそうだった淵はようやくといった様子で肩の力を抜く。
「気を遣わせたな。悪かった」
暁蕾は座り直す。
「儀式の後から元気がなかったよね。やっぱり、見るのは辛かった?」
「辛くはなかったな。どうしてもこうなんだ。寧ろ邑の一員になって参加していたつもりだったのに、その感覚すらなくてさ。舞台上にある劇を見ているような気分だった」
淵の口調は猫背な姿勢と同じくらい気楽なものだった。
「預言を見た時もそうだったんだ。動揺もしたし恐怖も感じていたのに、時間が経つと遠い国の出来事みたいに俯瞰して考えるようになってた。自分の故郷に関することなのに、危機感を持てなかった。元々関心すら持ってなかったからな。俺はたぶん薄情な人間なんだ。それがどうにも辛くて、人間としての大事な部分が欠けている自分が嫌になって、あの時は出て来れなかった」
彼は蓮饅頭に目を落とす。
「でも邑のみんなと関われば気持ちが変わるんじゃないかと思って、外に出たんだ。よかったよ。頑張って働いて生きている人たちがいるとわかると、情が湧いてくる。みんな親切にしてくれたし、美味しいものも食べさせてくれる。技術も教えてくれるし、いろんな話も聞かせてもらった。簡単に失っていいものじゃない。邑や人は、単なる自然の産物ではなくて、一人一人が生きているから成り立っているんだ。そこらに転がっている石ころとは違う。意思があって、それぞれが幸せになろうと思いながら生活してる」
子どもたちの笑い声がする。
「十分に救う意義を感じた」
「落ち込んだのは、それでも俯瞰した視点から抜け出せなかったから?」
「俺が努力して助けられるなら俺がいた意味はあると思ってた。閉じこもって霊符を書いているより廟で拝礼したり術を使ったりしていると充実感があってさ。俺が頑張れば使者を名乗ってもみんなが認めてくれるかもしれないって。ちょっと期待したんだ」
淵は照れ笑いをした。暁蕾からしてみれば限りなく自嘲に近いものだった。一口で饅頭を食べ、先に立って暁蕾を手招く。
「見回りながら話そう」
祭りの最中でも気が抜けない。妖が紛れ込んだりしないようこの期間も注意を払っておかねばならない。
「そんなことのために自分は出てきたのかって、恥ずかしかった。姉上は真剣に祭文を読んで、占いまでしていたのに。何もやっていないやつがいきなり救いに来ましたって言っても、誰も信じない」
「あなたにしかできないことをやっているのに?」
「誰にも見えないところで、誰にも理解できないことをやってもそれはないのと同じなんだ」
「儀式をしないつもりなの?」
「やるよ。役目は責任を持って務める。でも、ここに留まる意味はないんだろうなと思う」
通りがかりに串刺しの練り物をお裾分けされた。礼を言って橋の向こうの壁沿いを歩く。
「みんなに自分の価値を知ってもらわなくていいの?」
「時期はもう過ぎた。ここにこだわるほどの情もない。認められたいのは自分の生きる理由が欲しかったからなんだ。でもそれを人に求めるのは違うのかもしれない。俺にも自分の意思があるんだから、自分で決めなければいけないんだ」
暁蕾は少なからず彼に同情と共感を覚えながら接していた。彼は自分と似ている。不本意な生まれも不遇な育ちも、己の意思を逆撫でするように絶えず大きな流れとしてあった。そして押し流された先に残ったのは使者としての役目だった。
役目をまっとうして存在を証明できれば、誰も生まれたのが間違いだとは言わなくなる。だから価値を人々に示していくのが正しいことなのだと暁蕾は思っていた。
だが淵は真逆のことを言った。彼は自身と向き合うことを優先したのだ。暁蕾と淵は似ているのではない。本当に同じ境遇であればそのような考えは持たないはずだ。
「暁蕾が地宵郷に来たのは宣託でそう言われたからなのか?」
暁蕾は遅れて答える。
「あれ。話してなかったっけ」
「ちゃんと聞いてやれなかった気がするから。最初はかなりぼろぼろだっただろ」
軽く言ってしまおうとしたが、上手く言葉にならない。あ、あ、という意味のない音を発してしまう。口を結んで、暁蕾は逡巡する。
「悪い。忘れてくれ」
「宣託は禍のことしか教えてくれなかった。落ちた後で見た夢が
心なしか声が硬くなってしまい、練り物が消えた串を回して気持ち和らげてみる。
「落ちた、っていうのは」
暁蕾は自分でも聞こえないくらい小さく息を吸う。
「
淵が頬をぶたれたような顔つきになる。やめてほしい。彼からの同情は受けたくない。悲しい出来事は過去の記憶の中で停滞して、濃い霧の中に隠れてしまっている。今の自分の足で立っている実像の姿を見てもらえたらそれでいい。
「あたしはどうにもできなかったけど、地宵郷はまだ救う猶予はある。使者として、できる限り手を尽したいんだよね」
おもむろに隅に転がっている滑石を拾い、暁蕾は壁に円を描いた。中に五芒星を加え、中心に符を貼る。淵が何か言いたげにしているが、気づかないふりをした。
朱い文字が浮かび上がる。しばらく手を添えていたが、それ以降の変化はなく白紙に戻った。
「どの方角にも反応がない。あの妖は邪気がないから簡単に引っかからないだろうけど」
「今夜の儀式が上手くいけば、風向きが変わるかもしれない。これで進展がなければみんなを連れてここを出る。そういう計画だったよな」
「うん。あたしが先頭に立って道を開くよ。幽鬼が心配?」
「どちらにしろ民には厳しい状況だよな。そうならないように、成功させる」
彼の青碧の瞳には、覚悟が宿っていた。
◐ ◐ ◐
頃合いを見て戻ると、方相氏は隣の家から出て来てお札を渡しているところだった。住民はありがたそうに受け取り早速玄関に貼り付けている。四つ目の仮面が気取った歩みで暁蕾たちの前に来た。黄色く塗られた面は眉間や目の縁に沿って石の欠片が散らされていて豪華な作りになっている。服装は伝統的な道服に近しい青藍色の筒形で、全身にかけて八卦の記号と黒虎が黒と金で刺繍されている。暗がりでも目立ちそうな出で立ちだ。靴の爪先には木の板がついていて、足踏みする度高らかに鳴った。
両脇に控えている道士たちも負けず劣らず華やかな装いだ。くせになる独特な歩調で一行は家に入る。はたから見れば滑稽だが、何か呪術的な意味合いがあるのだろうと暁蕾は解釈した。
方相氏が石突きで地面を突き、八方位に矛先を向けて鬼を威嚇する。動きに合わせて道士が小さな太鼓を鳴らす。それを十六回繰り返した後、太い声ではっと叫ぶ。
拍子が変わった。太鼓を叩く手が速くなる。方相氏がそれまでの厳粛さを取っ払って小粋に踊りだした。
「さあ、行くよ!」
既に気持ちは高まっていた。
疫鬼 急ぎ立ち去り給え
さもなくば 黒虎の餌食となろう!
部屋の隅から隅まで周り終えると、調子が緩やかに落ち、またもや粛々とした態度で方相氏らが外に出る。例の魔除けの札をもらい、妻は疲労と満足感に満ちた顔で方相氏の肩を叩く。
「お疲れ。もう少しだ。頑張んな」
「え、白さんだったの⁉︎」
淵とほぼ同時に暁蕾が驚く。どうりで歌声に覚えがあったわけである。ずっといなかっただろう、と妻が呆れた。
「どうだ、わしの踊りは。鬼も飛び上がる迫力だっただろう!」
お面の下から豪快な笑いが漏れる。喋ると途端にいつもの雰囲気だ。
「いいから行きな。
「頑張って、白さん」
「飯は一緒に食べられるよな」
もちろん、と淵に頷き、白は一瞬で方相氏に戻る。独特な足踏みで次の家へ行ってしまった。
「ぼうっとしている暇はないよ。地帝に捧げ物を持って行かないと」
妻は祭りの熱に浮かされて声を弾ませていた。暁蕾も乗りに乗って手伝おうとするが、奥から出てきたのは大量の緑松石だった。
「石⁉︎ 食べ物じゃないの?」
「そりゃあうちの産物だからね。食べ物はどうせ他の家が持って来るよ。地帝は光り物がお好きだからこの日のために集めて磨いたんだ」
希少な種類であろう石を籠いっぱい用意するのにどれほどの労力がかかったことか。捧げ物の中では上位に入る高級品となるだろう。
廟に供物を供えると
暁蕾は蓮饅頭を持って物々交換しって回り、ここぞとばかりに料理を手に入れて色々な家庭の味を堪能した。
副産物として三人分の蛙の姿焼きをもらって一度戻る。淵に味見をしてもらおうと探したが、彼はいない。どこかで踊っているのかと思ったが、そうではなかった。
喧騒が止んだ。守衛に挟まれた淵が通り過ぎて行った。
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