第三章      叁




「待って。連れて行かないで」


 急いで後ろから投げかけるも、聞こえているのかいないのか、不審がる周囲をものともせず守衛は邑の入り口へと向かう。ユェンは罪人のようにこうべを垂れて大人しくしている。服を掴もうとすると、守衛の一人が槍を傾けて制した。


「誰に言われたの」


 無視され、隙をついて淵に手を伸ばすとまた槍を傾けられる。


「教えて」

子墨ズーモウ様の命です」


 やはり流蝶リウディエの弟だ。暁蕾シャオレイは下唇を噛む。人が楽しんでいる時に水を差すとは意地の悪いことをする。よりによってなぜ今なのか。


「暁蕾、時間までにはどうにかするから」


 俯いているせいで淵がどんな顔をしているかわからない。

 彼を行かせていいのだろうか。子墨は先日淵を咎めていたが強制的な行動には出なかった。遅れて怒りが込み上げたというならあの時にそうしておけばよかったのだ。

 暁蕾は思い出す。淵を地下に閉じ込めていたのは宗主だ。彼はとても厳しいから侵入しようとした際も淵は歓迎しなかったし、出るのも散々躊躇っていた。

 もし淵を連れ戻そうとしているのが子墨ではなく宗主だとしたら。


 嫌な予感がした。姿焼きを置きに家に走った。奥さんに押し付けて邑を出る。

 穴を通る頃には、楽しげな歌声がこだましていた。



 ◐ ◐ ◐



 一人で漕ぐのと二人で漕ぐのでは速さが違う。追いつけると思ったが甘かった。穴を抜ける前に淵の乗る舟は見えなくなった。漕ぐのに慣れたとはいえ焦っても方向が乱れてしまうから急ぐこともできない。もどかしい気持ちで屋敷の傍に舟をつける。廟では奉納が行われているからいきなり放り込めはしないだろう。門を二つ潜って東周りに進む。女中でも歩いていればよかったがあいにく出払っているようだ。


 というより、祭りのために皆が庭に出ていた。奥の院から厳かな大太鼓の音が響いている。柱の影から覗くと数人の舞手の後ろ姿があった。縄を使って鬼を捕縛する舞いだ。時おり素早く地面を叩いているが、邑の踊りほど愉快でもなければ大きな音でもない。鬼を脅かすためのものではなく、貴人に披露するための様式だ。左右には年配の者が座って酒を片手に談笑している。暁蕾は宗主を探したが、どこにもいない。子墨も同様だ。祭りの席にも出ていないとなると、やはり淵は彼らのところにいる。


 どこだ。どの部屋にいる。暁蕾は人目に付かないよう建物の裏に回ろうとした。そこで、ものすごい強さで裾を掴まれ、息を飲む。


「お、お願いだよ。淵様を助けておくれ」


 老婆が崩れそうな勢いでしがみついて来る。暁蕾は倒れそうになるのをどうにか堪えて彼女を支えた。メイである。本を盗んだあの女中だ。忘れるわけがない。

 梅はあの夜の強かさがすっかり剥ぎ取られ弱々しく震えていた。頬は涙の筋で汚れ綺麗にまとめていたであろう髪はややほつれて結び目が下がっている。どうしたのかと訊くと、梅はある方向へと引っ張って行く。


「この立場で守るのは限界がある。このままでは淵様が打たれてしまう。あなた様しかいないのじゃ」


 暁蕾はひとまず従うが、どうしてもとけきれない蟠りがあった。


「あなた、あたしを侮辱したのに助けてもらおうなんて虫がよすぎるよ」

「旦那様はご乱心なのじゃ。自分の息子に懲罰を与えようなどいくら代理とて許されぬこと。か弱く脆い淵様では到底耐えられるものではない。私のことなど、何とでも思えばいい。月娟ユエジュアン様が動けない代わりに私が淵様をお守りするしかなかった。旦那様の目に触れぬように、外の出来事に興味を持たせまいと必死になっていた気持ちなどあなた様にはわかるまい。私とて自由にしてやれるならそうしたかった!」


 梅は後半になるにつれて早口になっていた。奥歯を噛み締めるような吐露である。

 以前彼女は暁蕾にこの家の何がわかる、と言っていた。藍家の事情は複雑を極めている。それは流蝶に話を聞いていたから暁はある程度理解しているつもりだった。それは内情を全て把握したということではない。他家に首を突っ込むのは御法度だ。使者の立場ならなおさらそれを意識しなければならない。だから探りはしなかった。


 だが、宣託以降に起こった藍家の出来事は尽く繋がっているようで不可解な点が多すぎる。

 淵が使者になる権利を失っても地下で暮らさなくてはならなかったのはなぜなのか。過剰な罰になんの意味があるのか。


 梅は門まで戻り、それから右に行った。貯蔵庫の半開きになった扉から駆け足で中に入る。暁蕾も続いた。


「おやめください旦那様!」

 梅の声と破裂するような音が鳴ったのはほぼ同時だった。暁蕾が入ると梅が手前で倒れる。埃っぽい空気の中、薄暗い部屋には大きな影が佇んでいた。


「邪魔するなと言ったというのにいよいよ呆けてきおったか。お前もまとめて打ってもいいのだぞ」


 手には鞭を握っている。暁蕾は全身が粟立った。


「暮鷹様、お静まりください。淵を出したのはあたしです。責任の所在はあたしにあります」


 刺激しないよう低くそう告げたが、暮鷹はだからなんだと言うように息を吐く。


「は。お主に絆されなくともこいつは今までに何度も外に出ておる。懲りずに出たのは打たれる覚悟があるということ。無用な庇い立てをするな」

「お言葉ですが、このような罰に何の意味があるのでしょうか。そこまでして彼を隠す理由などあるようには思えません。民には宣託で男児が生まれることは知らされていたはず。隠蔽が目的ではないなら、使者の権限を握らせないために教育を施せない環境に置きたかったから。それならただ放置すればいいだけ。屈辱を与える必要なんてない。何のために彼を粗末に扱うのですか!」


 狂っておる、旦那様は気が狂ってしまっておる……老婆は上半身を起こしながらぼやく。

 暮鷹は足先の向きをたどたどしく変え、こちらに体を向ける。隆々とした肉体のわりに動きが皮一枚被っただけの骨のような鈍さだ。外から差す僅かな光が彼のこけた頬を縁取る。以前よりさらにやつれている。


「平穏のために鞭を振るわねばならないこともある。例えそれが道徳に反しようとも、それで守られるなら我々は耐えねばならんのだ」

「許してくだされ、どうか許してくだされ」


 梅が暮鷹の足元に這い寄る。暮鷹が一瞥もくれずに前屈みに、ふらっと歩み出す。


「よい。もう終わった」


 彼は去った。暁蕾は辺りを見回す。麻袋の間に横たわる足が見えた。


「淵様、淵様!」

 梅がひと足先に飛びつく。


「ああなんておいたわしい。このばばが代わりに打たれてやれたらどんなによかったか。老いた体では盾にもなれず情けないばかりでございます。無力なばばで申し訳ございません。月娟様になんと申し上げたらいいか。今すぐ冷やしてあげますからね。さあさ、立てますか。支えて差し上げます。痛むのならそのままでも構いません。水を持ってきますから」

「──もういいんだよ!」


 淵は掠れた声を絞り出して叫んだ。押し除けられた梅は尻餅をつく。


「俺に構うな。放っておいてくれ」

「そういうわけにはいきません」

「大きなお世話なんだよ。いつまでも小さい子どもみたいに扱うな。不快だ」

「そんな。私は淵様をお守りしたいがために」

「なら俺の言うことを聞け。もう下がってくれ」


 老婆は大きな目を幾度かしばたかせた。淵の命令にさも驚いたかのような素振りで、中途半端に口を開いたまま手を下ろす。ややあって魂が抜けたように立ち上がり、貯蔵庫を出た。


 太鼓の音が虚しく耳を通り抜ける。


「淵」


 暁蕾にできたのは名前を呼ぶことだけだった。それ以上でもそれ以下でも彼を惨めにさせてしまう気がした。これが正解なのかも怪しい。名前だけは唯一彼を傷つけないからそうしただけだ。


「母上の、侍女だったんだ」


 長い沈黙の末、淵が呟く。


「よく慕ってた。だからか閉じ込められてからよく俺の世話をしてくれた。ありがたいとは思ってたんだ。でもそれは母上のためであって、俺のためではない。結局他のやつらと同じなんだ。同情するだけして、俺を自由にしようともしない」


 妨げにならないよう暁蕾は忍び足で麻袋の山に近づく。淵は背中を丸めて自分を抱きしめた状態で地面を見つめていた。倒れてからずっとその姿勢であるかのようだった。

 また時が静止したような間が訪れる。暁蕾は瞼を閉じ、そして開けた。淵は動かない。そんなわけはなくとも死んでしまったのかと錯覚する。


 淵は訥々と語った。


「女に、生まれていたらよかったな。って。毎日思ってた。昔は、抜け出して姉上の髪飾りや服を盗んで、女の子のふりをした。まあ、当然ばれてたけど。女の子になれば喜んでくれると信じてた。小さかったから、俺が生まれたせいで状況が悪くなったなんてわからなくて、でも、何となく自分はそのままでは駄目なんだろうと思って、どうにかしようとしてた。それでも体は勝手に大きくなるし、声も低くなって、それが嫌でたまらくて、暴れてた。大人からすると迷惑だっただろうな。今なら、わかるよ。分別がつくようになると、却って馬鹿らしくなる。望まれなかったんだからしょうがない。大人しくしているしかない。

 だけどこうして振り返ると、どうしても、腑に落ちないところがある。一緒の空間にすらなく、家族の誰も会いに来てくれず、ほとんどの時間を一人で過ごした。何のためにここにいるのか、時々わからなくなった。考えるしかやることがなかった。考えれば考えるほど、無益な時間が苦しくなった。辛かったんだ。何で俺、生きてるんだろうな。って。こんな風に、暗い部屋の中で息を続けて、一生を眠るように生きていくなら──……生まれなくなんか、なかった」


 ひんやりとしたものが、後頭部から徐々に脳へと浸透する。

 とんでもない思い上がりだった。

 暁蕾と淵が似ているなど、どうしてそんなことが言えただろうか。彼には彼の悲しみがあり、その感情は彼だけのものであって、他の誰かが受け取れるようなものではないのだ。暁蕾もそれは同じはずだった。


「俺と、お前の体を取り替えられたらいいのに。暗いところに閉じこもって、何もせず死んでいくのは、怖い」


 暁蕾も、生きたまま死ぬのが怖かった。


「あたしも、男にろうとしていた時期があった。男の格好をして男の口調で振る舞えば、親の機嫌が良くなったからそうしていたけど、大きくなってからあたしが女の子の流行りの装いになると、儀礼関係なく否定された。自分が自分として認められないのは、辛かったよ」

「似たようなことをしてしまうんだな、同じ環境だと」


 環境どころか、魂と魄から何もかもが違う。暁蕾と淵は別々の人間で、それぞれの人生を生きているのだから。


「修行で力をつけても、男だったらもっと強くなれただろうって、家族や民から何百回も言われた。先代と同じ修行をこなしたのにこれだよ。たぶん、みんなにあたしたちの努力や本音を訴えても、彼らの中にある理想は超えられない。現実にあった予想外の宣託を受け入れられなかった人たちなんだから。向き合ってくれるなんて、期待しても損するだけ」

「俺も、上手く割り切れたらよかった」

「割り切ろうとしなくてもいいと思う。外に出してあげるって、あたし約束したよね。あなたの言った通りここにこだわらなくても、外には肩書きがなくても対等に扱ってくれる人はいくらでもいる」

「約束、だったのか」

「冗談だと思ってたの?」

「いや……想像がつかなかったんだ。使者になれる気もしなかったから」

「使者になってもならなくても、あなたを連れて行くよ」

「なれなくてもいいのか?」


 淵の声色は和らいでいる。


「あたしたちは天帝と地帝に既に選ばれてる。その事実は揺らがない。だから称号がなくても、互いに存在するだけで存在意義は補完できるんだよ」


 淵の指先がぴくりと震えた。額を地面に擦り付けてしばらく、服を引っ張って顔を拭った。手をついてゆっくりと起き上がる。


「大丈夫? 手拭い冷やして来ようか?」

「いいんだ。慣れているから。その、呼吸法で、一応刺激に耐えられるようにはしていたんだ」


 存思の気法、おそらく彼が言っているのは内にある魄へ六根を集中させる呼吸法である。主に陰の氣の精密な制御に使われるものだが、外部の刺激を緩和するなど戦法としての応用も見られる。


「でも感じなくなるからって、傷つかないわけじゃない。取って来る」


 暁蕾は貯蔵庫を出てはたと止まる。西棟に背を預けて人が立ってがいる。灯りの届かない裏手の壁側にいるから見えづらい。こちらに気づいて規則的に歩いて来る。

 子墨ズーモウが腕を振り上げ何かを投げた。


 反射的に受け取ると、びちゃ、と水が滴って手や顔が濡れる。絞り切っていない手拭いだ。


「どういう、ことですか。あなたが淵を連れ戻したんですよね」

「そうだとも。父上の命令だからな」

「今までどこにいたんですか」

「ご老体と酒を酌み交わしくだらない世襲話をするよりも有意義な時間を過ごしていただけさ。手拭いは梅から押し付けられて仕方なく、ね。あの人はいつまでも私と弟が見えない絆で結ばれていると思っている。おめでたいことだ。あそこまで都合よく現実を歪められるなんて羨ましいことこの上ない。まあ、直視したくなくなる気持ちもわからなくはないがね」


 子墨は返事を求めていないのか一気に話し終えると、踵を返して影の方へ消えた。

 視界の端で何かが動く。見渡すが、光源から遠のけば遠のくほど闇は深まるばかりである。何かがあったとしても、暁蕾には認識できなかった。









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