第三章 肆
奉納が終わると、廟には藍家の面々と奉納した邑人たちが集まり、魚や肉をその場で調理して全員に振る舞われる。宝石なども世帯ごとに分け与えられ、盃を掲げて酒を飲んだ。いっそう華やかな音楽が奏でられる。
汗を滲ませながら最後の譜を弾く。雨の降るような喝采を浴びる。流蝶はそれを他人事のように眺める。にこりともせず礼をして下がった。
脇から廟へと上がっていた
「どうかしたの」
流蝶は濃い藍色から下にかけて碧色へと変わる、薄絹を何枚も重ねた仙女を連想させる格好をしていた。化粧もいつもより派手になっているが、陶器に繊細な模様を付け足したのと同じように美しさは損なわれていない。
今日は御影石の地面が濡れているせいか裾を引き摺らないようにまとめてつまんでいる。そういえば暁蕾も上がった時に水溜りを思い切り踏んでしまったのだった。舟が桟橋にたくさん寄せられているから波が立ってしまったのだろう。
「例の儀式の件なんですけど、明日にさせてください」
「何があったの」
「
流蝶は絶句した。壁に隔てられて見えないが、先程彼女が座っていた方向へ鼻先を向ける。嫌悪感で眉間にしわが寄っていた。
「どうかしているわ。人に鞭を打った後に何食わぬ顔で出席するなんて。淵は、どこにいるの」
「客室で休ませてます。流蝶様はご存じだと思いますが、氣が乱れたままでの儀礼は通交に影響が出ますし、場合によっては危険が伴います。整える時間が必要なので、予定をずらすしかありません」
「そうね。様子を見に行ってやりたいところだけど、生憎家族の目があるから長く空けていられないわ。いい氣を取り込んで、焦らず養生するよう伝えてくれるかしら」
祭日であるからやむを得まい。暁蕾は承諾した。
「祭器はもうそろえてある。いつでも始められるように邑の道士には私から言っておくわ。それから、そう、衣装ね。私の部屋にあるのだけど、それも後で地下室へ運ぶつもり。当日は私は着付けるから安心して」
「何から何まで、ありがとうございます。廟は深夜には空くんですよね?」
「ええ。──そういえば、これは話してなかったわよね。使者の冠礼の儀を行うのはここではなく、さらに地下にあるお堂なの」
初耳だ。立派な廟があるというのに下にお堂とは。地下室もそうだが、暁蕾の常識では考えられない構造だ。
「廟の中にあるのは黒虎の像だけで、本尊はその地下に納められているの。本尊を直接見られるのは使者と儀礼に関わる者たちだけ。あなたには暗くて見え難いかもしれないけれど、廟の裏手に階段があるの。そこを下ったところがお堂よ」
「わかりました」
この世で最も深い冥界に座すのが地帝であるから、低ければ低いほど地帝に近くなり、神聖になる。そういうことなのだ。
健全な魂魄と安定した氣の流れは術や儀礼での交通に不可欠である。道士は基礎の段階から体内にある陰陽五行のいずれかの氣を巡らす法を学ぶ。一度習得すればそれで終わりということはない。道術を自由自在に操るようになるには氣の流れを常時意識しなければならない。最初は一時間も持たずに乱れてしまう。それを半年続けてようやく一日持つようになり、一カ月、一年と少しずつ伸ばして常態化するまで続ける。それを乗り越えてようやく霊符を書く訓練に入る。
淵は修練はしていたようだが常態化までには至っていなかった。故に精神に負荷がかかると揺らぎが生まれる。
通交は魂魄で霊的な接触を図るため、最中にもしものことがあれば精神や肉体から魂魄が剥がれてしまう恐れがある。
大変なことはあったが、祭りで心身共に癒されてくれれば事は上手く進む──そう思っていたが甘かった。淵の安全が保証されなければ儀式は行えない。暘谷使者として彼を徹底的に指導しなければ。暁蕾は故郷の師匠から学んだあれそれを掘り起こしながら部屋に帰る。
「どうしたんだ?」
寝台でうつ伏せになっていた淵が頭を上げる。手元には祭祀の記録が載った本がある。
何が、と暁蕾は聞き返す。
「怒ってるように見えたけど、違ったか」
「あたしが?」
暁蕾は笑って手を振る。
「儀式の段取りを反芻してただけ。淵は知ってた? 冠礼の儀は廟の下にある本尊の前で行うんだって」
「ああ、姉上が儀式をやった時に調べたことがある。普通はみんなの見えるところでやるけど、使者だけが見れる本尊があるって。そこに通じる階段は俺の地下室からも行けるようになってるから、場所はわかるよ」
──何をやっているんだあたしは!
暁蕾は自分を殴りたくなった。彼にとってあまり快くないであろう記憶を思い出させてしまった。心穏やかにいてもらうはずがとんだ失敗である。早急に話題を変えようと座って机から一冊拾う。
おや、と違和感を持つ。
積んである本の横に見覚えのある表紙があった。
淵が読んでいるものを合わせて八冊、流蝶からもらっている。正確には老婆から奪われたものを除いて、だ。中身を見るとやはりそうだった。あの女中はこっそり返しに来ていたのだ。
何か一言でも言うことはないのかと思ったが、この際返って来ただけでもよしとする。改めて中身を見てもやはり参考になりそうな記述はなかった。
というのも、暁蕾が求めていたものは
二帝五麟とそれらを祀る道士は切っても切れない関係だ。厄祓いの儀式は必ずどこかに書かれていると踏んで本を集めてもらったが、かすりもしないとはどういうことだろう。
「何か悩んでるのか?」
びくりと身を縮めた。真横に淵が立っていた。
「気配がなさすぎる!」
「そんなつもりは。いや、癖だ。ごめん。急に黙るから問題でもあったのかと思って。あと六日しかないのに明日になったから」
「儀式が成功するかしないかよりも魂魄が抜け出る方が怖いよ。あなたが
「からかってるのか? まあ、人を驚かすだけの尸になるのは嫌だけどな。そんな死に様を晒すくらいなら自死した方がましだ」
「とりあえず今は休んでゆっくりしててよ。十分に冷やしてからじゃないと集中できないでしょ?」
「でもこんなところで休めって言われても、正直、落ち着かない。何もすることがないのは不安になる。するべきことがあるんだったら俺にも教えてくれないか」
不安になると言われてしまえば、話すしかない。
「斎醮儀礼って知ってる?」
説明も交えつつ暁蕾は己の考えを述べた。
「道士の儀礼だけ抜けているのは確かに変だな」
「師匠や姉弟子からはこういうものがあるって聞かされていたけど、伝統であれば後世に伝えるために書写されていると思うんだよね」
「姉上の知っているものと暁蕾の求めていたものが合致しなかったんじゃないか? 道士に関するものと言っていたら出て来たかもしれない」
認識の齟齬というのは確かにあり得る。だがもう調べている暇はない。
「というか、斎醮と厄災がどうして結びつくんだ? 普通の儀礼にも厄祓いはあるよな」
「小さい頃に、大昔の伝説を聞いた覚えがあったの。斎醮儀礼で厄災を退いたか封じ込めたかなんかで、詳細も思い出せないくらい記憶が曖昧だから、確信があって調べていたわけじゃない。斎醮は気流を安定させる役目もあるし、繋がりはあるんだろうって……」
あるはずのない符号を見出していたのだとしたら、時間を捻出して読み込んでいたのはなんだったのか。
確実に禍から救われる儀式など、最初からなかったのだろうか。
淵は腕を組んで唸る。
「儀式も伝説も、全部人の口から聞いたものなんだよな。本や木簡に書かれたものを見たことはあるか」
「ない。かも」
思えば、口伝えで教えてもらっただけで、書物から知識を得てはいないのである。術も呼吸法も全ての法則や理論が文字で記録されているのではなく、細かな技術は口頭で学び、実践を重ねて身につけていた。儀式だってそうだ。伝統や文化は学ぶだけに収まらず、体験を通して次の世代へ伝えることで受け継がれていく。
暁蕾はすっかり見落としていた。
「そうだ……そうだ、そうだった!」
興奮して拳を上下させる。
「使者になる時に天帝を招く方法を教えてもらったんだった!」
急に大きな声を出した暁蕾に淵は目を丸くする。
「招くって? どういうことだ」
「大きな儀式で通交したのは笄礼の儀が初めてだった。でも天帝はあたしが成人をしたから使者と認めたんじゃない。扉を、開けたから……」
淵はわからず、扉? と繰り返す。暁蕾はぶつぶつと糸を手繰るように言う。
「あれは何だったんだろう。実態のない現象の中での出来事だったから、いや、ある意味では現実だったとも言えるけど。とにかく魂魄を通じた抽象的な体験だったから境界線も朧げで、でも、あれは、一種の通過儀礼みたいなものでもあったんじゃ──。だとしたら、淵も儀式で密接なやり取りができるのかもしれないし、普段の通交より確実な情報が得られる可能性も」
「つまり、地帝と直接交渉すれば助かる?」
「かも、しれない!」
「うん。よくわからないけど、わかった。ひとまず目標は氣道術が揺らがないように儀式を完遂することだな。なら今すぐ瞑想を始めよう」
「ここでいいの? 廟が空いてからでも遅くないよ。次の日の夜までかなり間があるし。いつもの場所が落ち着くんじゃない?」
「どのみち集中すれば周りは気にならなくなる。長く続けた方が安定するだろ。ああ、でも、お前が寝難いだろうから隣の部屋にしておくか」
「ここの方が人払いしやすいし、あたしが隣の部屋で寝るよ」
暁蕾は寝台を軽く整える。淵に座るよう言って、彼はそこであぐらをかく。暁蕾は装飾性の低い墨で書かれた札を出した。
「それは?」
「町で会った薬師の道士からもらった余り。食べられそうな野草を片っ端から食べていたらお腹をこわしちゃったことがあって。親切なお爺さんだったんだけど、その時タダでたくさんくれたんだよね」
「色々聞きたいことが多すぎる。まさか下剤作用のあるものを貼ろうとしてるんじゃないよな?」
余計なことを言った。暁蕾は全力で否定する。
「違う違う! あたしが道士だって言ったら、氣の流れがよくなるものも一緒にくれたの。それがこれ。精神が穏やかになって瞑想に入りやすくなるよ。効果は実証済みだから、ほら、目を瞑って」
閉じる前の彼の目には未練が残っていたが、問答無用で額に札を貼った。
肌に溶けて消えていく。暁蕾は二歩下がる。
魚はとうに眠りにつき、漏刻は亥時を告げる。音楽は止み、人々の声はさざなみにも満たない。部屋には小さな蝋燭が一つだけ。暁蕾の吹き消す息すら無音だった。
灰色の煙が龍の髭のように細く長く伸びる。右へ左へ曲線を描き、淵の頭上まで漂うと、軌道が変わった。
上から下へと流れ、また上に上がり、また下がる。
永久に流れ続ける気流、そして消長する万物。彼の内包する
円環が出来上がる。
そんな思考を、彼は巡らせている。
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