第三章 伍
人の満ち溢れる正気が床に沈んでいる。真昼のぎらぎらとした氣は生々しい温かさでそれもまた居心地がいいが、温柔が過ぎる時は蒸せ返るほどの暑苦しさを感じてしまう。
飽和した夜の気配は棘もなく堅苦しくもなく、陽が差してもしばらくそこにいる。太陽のその日一番の穏やかな光が心身を透過して、氣の流れを整えてくれる。
暁蕾は地帝との通交を試みていた。水のたっぷり入った炉には芙蓉を供えてある。正式な名前は鬼芙蓉と言うらしい。蓮の花が地下に適応した変異種と言われ、泥岩の隙間から芽を伸ばし、水面から突き出して花を咲かせるのだ。透明な花弁を持つことから幽霊、つまり幽鬼を連想させることから名付けられたという。寝ぼけ眼を擦り、女中は語りながら花を摘んでくれた。お礼に朝餉についてくる点心をあげる約束をした。
廟の周りに浮いているそれとは別に、人工的に使った水場で育てたものであるから完全な透明ではないと言うが、暁蕾からしてみればどちらも大差ないように思える。地人の暗闇を見通す目があったとしても目利きは適わないだろう。
手を合わせて瞼の裏に浮かんだ故郷の景色を想う。そうすると雲の中へと体が溶け込む。自分という概念から逸脱して軽やかな心地になる。重々しくしなだれた陰の氣に下へ下へと手繰り寄せられる。
真っ暗で、何も見えない。
何もせずとも流れに沿って落ちて行く。
だんだんと苦しくなる。魂魄が圧迫されて震え出す。
方向が定まらず流れを見失う。集中が続かない。痛い。押しつぶされそうだ。
それ以上は、行けない。暁蕾は軽すぎるのだ。
目を開く。水から上がった後のように肩で息をしていた。何度試しても到達できない。言葉を交わすどころかこちらから念を送るのもままならない。想像を絶する深さである。日を重ねれば変わると期待したが、どうやら相反する陽の氣では上がることはできても沈むのは至難の業のようだ。
修行を乗り越えた身であるから能力不足ということでもあるまい。
暁蕾は諦めて立ち上がった。水が浸っているところで膝をついていたから濡れてしまったが、正座はしなかったので袖で拭っておいた。足に挟んでいた裾を丁寧に伸ばして、廟を離れる。
灯の連なる橋を渡る。何となしに浮かんでいる花の数を数える。暗い中でどこまで認識できるだろうかと一つ二つ指先を跳ねさせ、光と闇の境目をなぞった。
奥で蛍火が点滅している。ちょうど指の先ほどの大きさだ。光の下で人の形が縁取られている。一艘の舟が邑へと繋がる穴から出て来たのだ。
こんな朝から珍しい。祭りで心が洗われた信者が拝みに来たのだろうか。敬虔なのはとても素晴らしいことだ。人が通い詰めて新しい花で埋め尽くされれば、見た目が絢爛なだけの寂しい廟も浮かばれる。
暁蕾は廟祝になった気持ちで感心していると、影が親しげに手を振った。暁蕾の周りには誰もいない。鬼でも出ない限りは彼女が手を振られていると考えるべきだろう。
暁蕾は目を凝らして姿を見ようとするが、暗いのではどうしようもない。影が肩を震わせて忍び笑いをしている。舟が近づいて正体が明らかになった。
「あたしを笑ったでしょ」
「すまんすまん。一生懸命睨んだ顔が面白くてな。暁蕾様は見えないんだったか」
「昨日はどうだった?」
「その日の分を回り終えてもどうも熱が冷めなくって、ずっと食べては踊っていたなぁ。みんなが労わってくれたもんだからつい飲み過ぎちまった。おかげで二日酔いだ」
内緒だぞ、と言わんばかりの小声だが、意味がない。確かに酔っているようだ。楽しめたのなら何よりである。
「今日も方相氏役をするの?」
「一日毎に交代だから、今日は一人の民として鬼を追い払うぞ」
ところで、と灯にぶつからない程度に白は舟を寄せる。
「
先に酒を入れてしまったせいで、二人の姿がないことに気づいたのは深夜を回った頃だった。数人の邑人に尋ねたたところ、連れ去られたと聞いたので心配していたという。
「朝は術の特訓をしていたからいるだろうと思って来てみたんだが、淵様と一緒じゃないんだな。道士が例の儀式は明日に変わったと言っていたぞ。やっぱり何かあったのか」
淵は宗主にお咎めを受けたのだと簡単に説明した。詳細は言わなかった。だが白は何となく察しがついたのか、悔しそうに口を結んだ。
「今も途切れずに瞑想を続けているから、今夜は大丈夫だと思う」
「そうか。わかった。なら邪魔するわけにはいかんな。参拝だけして戻ろう」
舟が動き出す。しんみりとした背中をせめて見送ろうとする。そこで暁蕾は妙案が浮かんだ。
「ねぇ。今日は夜まで暇だよね」
振り向いた拍子に舟が揺れ、白はふらついた。
「っとと、まあ暇と言っちゃあ暇だな。洗濯と、灯籠作りが少々ってだけで、午前の予定は決まっとらん」
「じゃあ水月橋まで案内してくれない? 何だかんだ行けてなかったから」
白は眉を上げて脳裏で反芻するように頷き、手を打って同意した。
「おお。そうだな。それがいい。そうしよう!」
「じゃあご飯食べて来るから、廟で待ってて」
暁蕾は朝餉を食べる前後で、扉の隙間から淵の様子を確認した。氣の流れを読むと夜の時より明確に揺らぎが減って、緩やかで綺麗な円になっている。瞑想が終わらないのは集中しすぎるあまりに時間の感覚がなくなってしまっているからだ。よくあることだから放っておいても問題ないが、水月橋から戻ってもまだ続いていたら起こすことにする。暁蕾は白と合流して舟を漕いだ。
虎穴邑に着く。狭いところに入るためここからは徒歩になる。穴は道観の脇にあるそうだ。
邑は変わりない様子だが、一日目の余韻が残っているのかどことなく人々の表情が明るい。いきいきとしていて血色が良く見える。灯のせいではない。以前と比べて空気が圧倒的に軽くなっている。祭りは霊力では補えない強い力を持っているのだろう。
「あの。道士のお嬢さん」
暁蕾を認めて急いで駆け寄って来る女性がいた。
「これを。子どもたちが食べ尽くしてしまって、今あるのはこれだけなんだけど。どこにいるのかわからなくて、用意できなかったの。ごめんなさいね」
「これ、は、お餅? あたしに?」
唐突に感じた暁蕾はお餅を両手で抱えて困惑したが、女性は神妙に、何かが込み上げるような面持ちで暁蕾を見つめた。
「家族を助けてくれて、ありがとう」
「ああそうか、あの時の子か」
別の邑人が隣の妻に言う。
「気づかなかったのかい。この恩知らず」
「俺のとこの饅頭ももらってけ」
「あたしんとこの串焼きも。食べて行きな」
周りが次々と家から物を持ってきては暁蕾の腕に積もうとする。二、三個目から既に抱えきれなくなってしまった。大きくて縁起のいい飾りや宝石、大量の出来立ての点心。とても受け取りきれるものではない。
「こらこら、今から水月橋に行くんだ、そんなに持たせるんじゃない。食べ物は後にして、他は舟に入れておけ」
限界を超える前に白が仕切って人々を散らした。それでも口々にお礼を言っては立ち去ろうとはしない。暖かい笑顔が暁蕾を囲んでいる。皆が優しい声を暁蕾に向けてくれている。その事実がじわじわと彼女の頬を熱くさせた。
夢にも思っていなかった光景だった。
ふいに近づいた老爺が暁蕾の手を握った。覚えている。あの時介助した老爺である。
「お前たちはきっと、わしらを包む大きな流れなのだろうな」
骨と皮だけの手が、さらに強く握る。
「それを、見誤っていたのはわしらだ」
お前さんは使者なんだろう、と老爺は言う。
「これもまた、定めなのだな」
道すがらいただいた餅を食べる。鍾乳石の垂れ下がる道は凹凸が激しい。白は慣れない道は危ないからと暁蕾に提灯を持たせた。掘削したものではなく自然にできた道を少し削って広げているそうだが、それでも大人が一人通るのがやっとの幅だ。
「喉を詰まらせるんじゃないぞ。冷めたら勿体無いからってその場でたくさん食べてたが、もしや暁蕾様は食いしん坊か?」
「嬉しいし美味しいしで止まらなくなっちゃった。あんなに感謝されるなんて思わなくて」
「そりゃあ感謝してもしきれんだろうな。命を救ってもらったんだ。帰りも覚悟しないと、また囲まれるだろうな」
白は灯がなくとも昼の山登りのように足取りが軽やかだ。時々立ち止まって待つ余裕すらある。暁蕾は置いて行かれないよう灯りを駆使して進む。
「淵もいないし、今のうちに聞いてもいいかな」
「うん? 何だ。嫌な前振りだなぁ。秘密の相談事か?」
「邑の人たちは昔、淵が生まれた時に騒動を起こしたらしいけど、本当なの?」
白は三歩進んで答える。
「そうだな。本当にあったことだ」
「淵が使者だってこと、みんな言わないだけで知ってるんだよね? 髪色も目の色も、藍家の血筋以外ありえないから」
「使者かどうかはともかく、察してはいるだろうな」
「みんないい人なのはわかってるよ。あたしもよくお世話になったし、淵にも親切にしてくれてた。けど、昔の行動を考えると矛盾してる。だからずっと違和感を持ってた。あたしはその時の状況を知らないから、理由があってのことならどうしてそうしたのか、知りたい。当時は大変な時期だったんでしょ」
「理由、か」
白は立ち止まって呟き、また足を上げて登る。
「正当な理由なんて、なかった。あれは完全に八つ当たりだ。少なくともわしはそう思っている」
「漁業で失敗して損害が大きかったから?」
「大きくはあったが、なにせ元は地下と、地上のほんの少しの土地や海で生活が完結していたからな。その程度で暮らしが貧しくなるわけでもない。ただ、みんな焦燥感に狩られていてな。このままずっと同じことを繰り返して生きていていいのか。他の郷のように新しいことを始め、発展していくべきではないかと思っていた。
今の宗主が就いた時は期待が集まった。当時は若かったが宗主はそれまでの慣習に固執したやり方を捨てて、次々新しい方針を立てて計画を進めて行ったんだ。あれは衝撃的だったな。期待が負担になって潰れちまうんじゃないかと思ったが、なかなか胆力のある、強いお方だった」
その眩しさに誰もが惹かれた。どこまでも導いてくれる星だという思いが、ただ指した方向の通りに行けばどんな理想も叶うと錯覚させた。それほど彼女が優秀な宗主だったとも言えるが、その盲目さが邑人の足をすくうことになった。
「わしらは何もかも不慣れだったから色々と上手くいかないこともあったが、漁業の失敗は宗主の力ではどうしようもなかった。本格的な漁業を始めて二、三年経った頃か。黒潮が発生したんだ」
「黒潮って?」
「わしにはよくわからんが、漁師の一人がそう言っておった。海がこう、墨汁を垂らしたように黒く染まってな、死んだ魚が大量に浮いていたんだと。生きていた魚を獲っても酷い臭いがして、とても食えたもんじゃなかったらしい」
漁獲量が圧倒的に減り、当然交易もできなくなった。今でも時折り黒潮は発生していて、半ば諦めてはいるが、最初は絶好調だったが故に、喪失感は相当なものだったという。
「影に隠れがちだった地宵郷を盛り上げるために生産拡大に貢献して、もう邑とは言えないほど立派な土地に育て上げたのは間違いなく宗主の功績だ。女傑として皆彼女を讃えていた。けど、讃えるばかりで、わしらはあの方に寄りかかりすぎた。頼り切りにした挙句失敗を彼女に押し付けた。誰も対策を練られるやつはいなかった。けれどその頃には宗主のお腹はかなり大きくなっていたから、すぐに動けなかったんだろうな。不満が募りに募った頃に淵様が生まれた。頭の硬いやつらがこぞって非難した。それ見たことかと。宗主は悪い気を溜めておられる。だから勢いが衰え、使者の性も取り違えてしまったんだと」
それで豪胆な
「落ち込むのはわかるがあれはやりすぎだ。向上心もなく一生を深淵で過ごすはずだったわしらを外と繋がる機会を与え、生力を働かせてくれたご恩を忘れてはならんかったと言うのに」
「白さんは、抗議に参加しなかったの?」
左に曲がった。横顔は見えない。
「なにも、しなかったんだ。抗議をしたのは主に望邑の漁師とその仲間だ。乗っかる奴もいたし、静観する奴もいたが、わしはどちらにもつけなかった。男じゃまともに術も使えんだろうと言われながら部屋の隅っこでお符を作っていた。皆が激しく怒りながら舟を漕ぐのを遠くで見てた。その時のわしの怒りは別の方向にあったんだ。男だからという理由で使者の座をすげかえるのは修士を軽んじるにもほどがあるとな。それなりに勉学に励んでいたからな。淵様のお立場にいたく共感してしまって、こそこそとしている自分が腹立たしくなった。縮こまっている場合じゃない。わしが証明してるやらねば、とな」
「ていうことは、召し上げられるために修行を頑張ったの?」
「
「それ、淵は知ってるの?」
坂道が急になる。そろそろ白も疲れてきたようだ。息切れをしている。
「話したことはあるが、あんまり信じていないみたいだな。昔の方がずっと塞ぎ込んでいたからかもしれんが。今はどう思っているのやら」
「信頼は、されていると思うけど。あなたの前だと何となく柔らかくなるから」
「そうだったらいいんだが」
会話が途切れると、二人はしばらく無言だった。
新鮮な空気が鼻腔をくすぐる。灯りのいらないほど強い光が、目の前の空間に一筋、差し込んでいた。
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