第四章 泥偶方士 壹





「壁の窪みに太陰元君の像が祀られてあったんだけど、その下から地下水が流れ出ていて綺麗だったよ。何より久々に陽を浴びれて本当によかった。最高だった。あの瞬間からあたしは生まれ変わったの……! 太陽の恵みのありがたさをこんな形で知るなんてあの頃のあたしは知るよしもなかったんだよね。元気が湧いてきた気がするし行ってよかった。太陽万歳、天帝万歳!」

「俺を起こさなかったのは納得いかない。俺も一緒に参拝してもよかっただろ」


 寝台で横になったユェンは不満げに眉を寄せている。帰宅後に起こしてからお参りをした報告をすれば、彼のやる気も上がるだろうと踏んでいた暁蕾シャオレイだったが、失敗だったようだ。見るからに効果はいまひとつである。


「そんなに太陽を浴びたかった?」

「行く時は三人で行くものだと……。勝手に勘違いしてただけだ」


 後半になるにつれて淵の声がだんだん小さくなる。三人でいる時に水月橋の話をしたのだから、そう思うのも当然である。一緒に行く選択肢も確かにあったが、彼の見事な集中力を見たら、氣の流れを崩したくない気持ちが高まってしまったのだから仕方ない。あの円を誰が止めたいと思うだろうか。いや、きっといない。


「このお餅、美味しいから食べてよ」

「そう、その大量のお土産もどうしたんだ?」

「虎穴邑の人たちがお礼してくれたの。あたしたちが邑のためにやったことを覚えていてくれたんだよ! これってすごいことじゃない?」


 淵は意外そうに自分を指す。


「暁蕾じゃなくて俺も?」

「そうだよ。淵だって一番人を多く運んでいたし戦ってもいたんだから。知り合いだって言ったら淵の分もたくさんもらったの。他にも助けてくれた人はいたのにあたしたちを讃えてくれた。ちゃんと見て評価された!」

「すごい、のか? それって」

「すごいに決まってるって。道士の地道な貢献は見るだけでは伝わらないものも多いし、当たり前だと思われたり軽視されることもざらにあるんだから、あたしたちは恵まれてるよ。この気持ちは受け取っておかないと損!」

「おお、おお……」


 淵は暁蕾のきらきらしい目力に押され、上体を起こす。たった今認識したように部屋を埋め尽くす品々を見回して、口元を緩めた。


「なんか、いいな」

「でしょ?」


 帰りも舟が沈みそうなほどの品と食べ物が積まれたため、まずは食べ物を無駄にしないよう冷めたらまずいものから順に食べていく。もちろん二人は食べ切れる気持ちでいるので無駄になるものなど最初からない。


 貪りながらも、軽く道術を練習して氣の流れにぶれがないか見ておくことにした。水を読む簡易的な占いと精霊の招来をしてもらう。


「西向きの流れ。この方角が吉ってことか」

「うんうん。問題ないね。じゃあこのお符を使って」

 

 精霊は自然に存在する霊的なものの中でも通交しやすい部類にある。己の氣と共鳴した身近なものを呼び寄せるため、対象を絞らなければ初心者でも招来できる。


 淵は符を指に挟んで目を閉じる。


「『精怪請来せいかいしょうらい』」


 符が濃淡のある気体となって分散し、別の形を成していく。それは宙を羽ばたきながら無軌道に部屋を飛び回る。暁蕾と淵の頭上を掠め、二人は端に避難した。

「何だ何だ、失敗か⁉︎」


 黒い塊となってそれは天井の網に落ち着いた。丸い目をこちらに向け、首を傾げている。


「蝙蝠」

「あれがコウモリなの?」

「蝙蝠の精霊っているのか」


 何にせよ霊的なものであるのは間違いない。ひとまず成功したということだ。


 日が暮れる前に二人は地下室に行くため屋敷を出た。暮れるという概念はここにはないが家の者と鉢合わせることがないよう早いうちに移動をしておく。

 廟までの道のりで淵は何度か屋敷を振り返っていた。懐かしんでいるのか、それとも物寂しく思っているのかはわからなかったが、尋ねるのも野暮というものだ。暁蕾はなるべくゆっくりと歩いて渡った。


 半刻もしないうちに、仕事が一段落ついた流蝶リウディエが着付けに訪れる。

「少し早いけれど、祭りが始まってしまえば離れられなくなるから」


 暁蕾は事前に届けられていた儀礼用の衣装がどんなものか気になったが、なぜか見る前に追い出されてしまった。淵が自分で開けておきながら頑なに中身を覗かせまいとして聞かなかったのだ。そんなことをされたら余計気になってしまうものだが、どのみち見られるわけだから暁蕾は我慢することにした。


 廟の門から敷かれた御影石の上はほとんど水を張っている。上がってしまった水が相変わらず溜まったままだ。正殿にかけてやや下がる造りをしているから、廟の周りを歩くとくるぶしまで浸かってしまう。建物の境目は段差になっていて中に水が入ることはないが、神話の時代から残るそれは蒸発する気配もない。


 屋敷の周りも動揺に水浸しだ。祭りの度に水浸しているのであれば掻き出すのも一苦労だろう。暁蕾は水面を観察して歩く。やおら御影石の端に立って腕を伸ばし、親指と人差し指の間に隙間を作る。

 変だな、と思う。

 水位が上がっているように見える。

 建物の下にある岩と水の間が狭まっている。花も茎がすっかり沈んでしまっている。

 と、思うのは気のせいだろうか。

 気のせいだろうと暁蕾は腕を下ろす。元々水位がどれだけあったかなど把握していないのだから、水が上がっているせいでそう見えているだけなのだ。錯覚だろう。


 昼に各邑の人に怪しい人やものを見ていないか訊いて回ったが、易者や泥はあの日以降現れなくなった。あらゆる術を試してもどこにも何も引っかからない。特殊な妖であるから退散していてもしていなくてもそれを証明する方法がない。

 それもあって、暁蕾は漠然とした不安を抱えていた。


 ずっと嫌な予感がしている。


 これからやるべきこと、果たす役目を胸の内に描き、暁蕾は思案に耽った。



  ◐ ◐ ◐



 淵は頭上にある世界に思いを馳せる。

 あの曲がりくねった筒の先には地上がある。暁蕾が落ちてきた日に、彼の中で深淵と外界の繋がりが明確な糸となって繋がった。

 文字でしか語られない世の中の形、文字よりも複雑で感覚的な道術と天地の世界。それらが輪郭を持ち、現実にあるものとして鮮明に想像できるようになった。それらは暁蕾という逸脱した者がまろび出なければ永遠に得られなかったもののように淵は感じていた。


「まっすぐ前を見て」


 流蝶の指先がつむじを押し、淵は正面を向いた。


「なんだか櫛の通りがいいわ。もう少し絡まっているかと思ったけれど」


 瞑想から覚めた後に暁蕾が梳いてくれたのだ。自分より長い髪を扱うのが楽しいらしい。妹を思い出すからだろう。


「短い毛も多いから高い位置にまとめるのは難しそうね。どうせ飾りはつけるし、三つ編みでまとめておきましょう」


 頸の辺りから一つに編まれていく。

 淵は淡い緑色の袖を持ち上げる。緑松石を細かく砕き、染料にして染められた贅沢な衣装だ。袖口や襟、裾には丸く加工された粒が縫い付けられ、上半身は虎、下半身は魚の伝統的な獣の模様が全体に施されている。波のように織り込まれた薄絹が腰から後ろに尾のように垂れ下がる。もすそは布の量が多く、ひらひらとして動きづらいが、足首が出てしまうため歩く分には困らない。袖もまた然り。つまり淵の体格にはまったく合っていないのである。


 肩に浅くかけた披帛ひはくは少し濃い緑でこれもまた綺麗だが、それこそ暁蕾がまとえば仙女のような着こなしになったことだろう。

 

「格好つかないと思っているでしょう。あなたは細いから案外様になってるわよ」


 それはないな、と淵は心の中で笑った。容姿に気を使う性分でもないからどちらでも構わないが、鏡を見なくても不恰好だと彼はわかっていた。祭事の中心になるのは宗主か使者のどちらかだ。つまり代々女性がまとってきた衣装であるから、図体ばかり大きくなった淵はだいぶ気崩さなければならなかった。


 十を過ぎた辺りから淵は女の子になりたいとは思わなくなった。物事の道理がわかると意味がないと気づいたのだ。自分には覚えのない罪があって、変われば許されると思い込んでいただけだった。


「口数の少ないあなたが暁蕾と上手くやれているのは、あの子が引っ張ってくれているから? 外に出ているんでしょう」

「ああ」


 流蝶は正面に回り込んで、薄い貝殻を繋いで作られた冠を頭に乗せる。玉飾りが横に垂れ、しゃらしゃらと耳元で鳴る。


「使者の名は誰かに譲ったり継承されるものではないから、正式に譲渡するための儀式もない。だからここで、あなたに返すわ」


 流蝶は膝をついて両手を合わせた。


「地帝よ。お聞きください。私はこれまで虞淵使者を騙り民を欺いて参りました。地帝のありがたき御言葉に耳を塞ぎ、お導きを無下にして、愚かにも過ちの一途を辿りました。地獄に落ちるのは覚悟の上。今をもって、虞淵使者の名を返上いたします。どうかあなた様のお選びになった藍淵を、使者としてお迎えください。そして地宵郷ちしょうごうと、全ての民に、ご加護をお与えください」


 懺悔のような祈りが床に向かって吐き出された。それでも足りないのか、手を強く擦り合わせて流蝶は頭を低く低くする。


「どうか。どうか」

「姉上」


 淵が顔を上げさせる。


「あなたも、許してくれる?」


 濡れた瞳と見つめ合う。

 淵は気の遠くなるような十年間を思った。

 口をついて出たのは、本音だった。


「忙しくて会いに来れなかったなんて、嘘だろ」


 流蝶は悲痛に眉を寄せる。


「本当よ。あの頃は課題や訓練で時間を奪われていたから、遊ぶ暇さえなかった」

「廟までそれほど距離もない。一瞬顔を出すのも難しかったなんて言っても言い訳にしか思えない」

「何度も行こうとしたのよ。でも毎回見つかってしまうの。監視されていたから。一度だけ深夜に向かったことがあって、戸を叩いたところまでいったけれど──」


 淵にそのような記憶はない。


「確かに叩いたんだな?」

「ええ。──? そう。戻ったわ」

「見つかったからか」

「いえ。そうね。──ごめんなさい。今のは忘れて。結局会わなかったのは事実だもの」


 でまかせだったのだろうか。それとも古い記憶だから確信が持てず避けたのか。いずれにせよ淵を失望させる結果となった。


「また一緒に暮らせるように努力するわ。だからもう少しだけ、待っていて欲しい」


 淵は大きく息を吸った。己の道を誤らないよう、内側にある円を巡らす。

 立ち上がり、階段に足をかけた。



  ◐ ◐ ◐



 暁蕾は足音で我に返った。廟の奥で何かが光る。白く繊細な貝殻が灯の僅かな光を反射させていた。暗所でも目を惹く、爽やかな色合いの衣が波打つ。


「わあ。綺麗〜! 地宵郷の伝統衣装ってそんな感じなんだ。きらきらしたところって全部宝石?」


 淵は暁蕾と目が合うとそそくさと背を向けて裏に隠れようとする。


「あまり見ないで欲しい」

「何、何、恥ずかしいの? 肌も白いし髪も淡いから衣装にすごく合ってるよ。もっとよく見せてよ」

「ここにいると目立つだろ。先にお堂に降りておく」


 よほど嫌なのか、首を竦めて暗闇に逃げてしまう。華美な装いは初めてだから落ち着かないのだろうか。背が高いから、猫背を伸ばして堂々としていればそれなりに様になると暁蕾は思うが、無理に引き摺り出すのもよくない。貴重な正装を目に焼き付けるだけに留めておく。


「もう行くの? お祭りは日が沈んでからだけど」

「祝詞を読んでもそれほど響かないだろうから、先に始めておきたいんだ。姉上が言うには祝詞は二百二十四編あるらしいぞ」


 信じられない長さである。そんなに読み続けていたら喉が枯れてしまう。しかしかくいう暁蕾も似たような経験をしていたのだった。綴られた木簡を同じ姿勢のまま延々と横に流し、読み終えるまで止まることは許されない。その後に行う通交も合わせて儀式は長時間かけての忍耐力が求められる。


「じゃあ最後にあたしたちの計画の確認ね」


 送り出す前に暁蕾は人差し指を立てる。言いながら指を増やしていく。


 一、冠礼の儀で使者の称号を得る。

 二、地帝と再度通交し、宣託を受ける。地帝の応答なし・霊符を賜わらなかった場合も同様。

 三、宣託の解釈を行い、その通りに動く。なかった場合、すぐさま避難を呼びかけ、白や流蝶の引率で邑人と藍家を連れ出す。


 出口や避難先は周辺を把握している流蝶に任せている。これでもしものことがあっても民の安全は守られるだろう。


「あと五日もある。儀式の結果で生死が決まるわけじゃないし、あまり気負わなくていいからね。地帝はちゃんと水底にいるから、あなたなら絶対届くよ」

「わかるのか?」

「これは勘なんだけど、地帝はあたしと接触を図ろうとしているんじゃないかって気がしてる。ここに来た時から足が引っ張られているような感覚があって、陰の氣の影響だと思っていたけど、通交も氣の流れに乗れなかっただけで拒絶されている感じはなかった。使者をここへ招けというお導きなのかも」

「どうして暁蕾に?」

「あなたは接触する機会がなかったからあたしが代わりに受け取ったんじゃないかな。今度はあなたから通交すれば地帝は答えてくれるよ。だから緊張したり怖がる必要はないよ。天地はあたしたちを見放したりしない」


 淵は意を決したように目元を引き締めた。


「ああ。信じるよ」


 到着していた邑の道士らと話し終えたらしい。流蝶が暁蕾を呼ぶ。淵が裏の地下へと降りるのを見送って、暁蕾はほんの少しの間手を合わせた。


 どうかそうであって欲しいと、祈った。






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