第四章 贰
月が出ようが出まいが、人々が夜と言えば残照があろうと夜になる。
漏刻を逐一確かめてさあと合図する者はいない。元より闇の中で過ごしている住人たちが暮れを待つのは非常にもどかしいものだ。はやる気持ちを抑えられず子ども達が大人を急かす。既にざわめきがそこかしこに広がっている。これではいつ始めたとしても変わりがない。
提灯に新しい蝋燭が入れられる。紐が引かれ、高く長く灯が邑を照らす。
どん、どん。
足を踏み鳴らし、手を叩く。同じ拍子で拍板が鳴らされる。随分と大きく響くものだ。
邑から音が洩れ聞こえているのではなく、廟でも催しが始まったのだ。
暁蕾の腰には丸い竹編みの籠が提げられている。小さな提灯蛍が夜目の効かない暁蕾の視野を広げてくれる。あまり中で蠢いてもらっては困るが、これがないと一人では動けない。特に明かりの届かないところでは。
西棟の奥には耳房という、母屋である正房の両隣に設けられた小部屋のうちの一つがある。暁蕾は音を立てないように近寄り、建物に手のひらを押し付けて回る。湿気を逃すためか上に小さい窓がいくつかついている。念の為周りに気配がないか確かめてから飛び上がった。
かろうじて指が引っかかる隙間にぶら下がり、気合いで中を覗くが、真っ暗で何も見えない。
かん、かん。
拍板に合わせて着地する。位置的に物置部屋なのだろうが、果たして
流蝶が最後に母を見たのはここだという。病で寝込んでいるのであれば正房ではないのかと暁蕾が訊くと、父の
病気なら世話のために女中が出入りするだろう。様子を見に家族が訪れることもあるはずだ。恐ろしかったというだけで数年も扉を引けない理由になるのか。暁蕾は得心がいかなかった。一年もしないうちに疑念が湧きそうなものである。精神的なものにしろ肉体的なものにしろ放置して治るような病などない。さらに訊くと、どう恐ろしいのかも説明のしようがなく、もはや父に恐れているのか生死のわからない母を恐れているのか自分でもわからなくなっているという。
当時の様子を聞き出そうとしたが、流蝶は初めてあった時に見せた未熟で柔らかい部分を露呈させ、思い出そうとするとどうしても悲しみでぼやけてしまうと言って、最終的には目を宙にさまよわせてしまった。
明らかに異常だった。
どう考えても、これは泥だ。泥にやられているのだ。暁蕾は歯噛みして、流蝶をひたすら宥めるしかなかった。
そうして今独断で調査をしている。
心臓が警鐘を鳴らすように激しく脈を打つ。予感は生温かい湿度を持って暁蕾の頬をくすぐる。幽鬼とは違う祓いの効かない敵にどう立ち向かえるのか。勝てる算段は見つからず仕舞いだ。しかし次に妖と邂逅すれば、確実に消滅させるまで戦う以外方法はない。
とはいえ焦りは禁物だ。暁蕾はなるべく理性的に事を進めようとした。まずは月娟の安否を確かめる。断定とまでいかなくとも、少なからず家にも泥が絡んでいるとなれば彼女の病状も尋常とは考え難い。よって緊急性が高いと判断した。
何より地宵郷に来る以前から知り合っていた彼女に、会えないままなのは歯痒い。
人気のない時を狙って正房から侵入する。
正房は夫妻の住む場所だ。暮鷹とうっかり鉢合わせでもしたら終わりである。話が通じる相手とは思えないからだ。注意を払いながら廊を跨ぐ。あの憔悴具合ももしや泥の影響があるではなかろうか。いつから、どのくらい飲んでいたのだろう。なだらかに思考が加速する。
暁蕾は平静を装おうとするあまり内心の焦りを鎮められずにいた。
今度こそ上手くやらねば。
ギ。と扉が軋む。中から何か動く気配はない。
もう少し引く。何も起こらない。
隙間から中を見る。外からの灯で入り口から一本筋が通り、卓らしきものに当たっている。体を滑り込ませて扉を閉じた。光源は蛍火のみとなる。
余計な探索はせず壁に沿って左に進む。すぐに耳房に行き当たる。
扉ではなく、布を垂らして空間が隔てられていた。布の中央には札がついている。どうやら上下左右の壁や床にも札が貼られているらしい。魔除けだと思われるが、民間に配られるそれと比べ精巧な作りをしているのがわかる。字面は装飾性が強くて読めず、自己流なのか術が複雑でどんな効力を持っているのか検討がつかない。下手に触れてはならない威圧感を感じる。
出入り口にこのような貼り方をするのだから守る意図はあるのだろう。立派な霊符も手練れの道士が作ったものだ。藍夫妻は道術の心得があると暁蕾は幼い頃に聞いた覚えがあるが、どの程度の実力だったかは不明だ。たった一度議会で会っただけなのだから。
ともあれ分析できない霊符を剥がすのは危険だ。効力を無効化してどうなるか予測できない。惜しいが、一旦引くしかない。流蝶に泥を吐かせてみてからまた考え直そう。
そう思いつつ蛍火で霊符を一枚ずつ照らしていると、右に寄った時にぐにゃり、と分厚いものを踏んだ。
暁蕾は驚いて飛び退く。鼓動がまた早くなる。蛍火を向けてそこにあるものを見た。
くたびれた靴。捲れた服。その間にあるのは、枯れ木のような、棒。
外で悲鳴が轟いた。
洞窟中にこだまする。暁蕾は正房を出た。
いつからなのか、音楽が止んでいる。悲鳴は流蝶のものだ。一体何が起こったのか。
暁蕾は助走をつけて東棟の屋根まで飛翔した。屋敷の角に行って橋に届きそうな辺りで降り、廟に駆けつける。
楽士らが暁蕾と入れ替わるように逃げて行く。正殿の前で藍家の面々が恐怖に慄き叫んだりひれ伏したりと混乱を極めていた。腰が抜けて動けない者もいた。
「下がって!」
暁蕾は彼らの前に立ち、符を構えた。
「くゥアはははハハハはははははハはァ!」
あれは。
黒い飛沫が散っている。その中央に膝をつく巨体は暮鷹、のはずである。
片手ではらわた辺りを掴んだ格好で全身を泥で汚している。天に向けて開けた口は泥の泡を吹き、そこから液を垂らし、蛇の如く宙を漂う不気味な流体。
それが流蝶の腕を絡み取り、今にも食らおうとしている。
「お父様ぁ!」
「『有為万象』!」
まばゆい光が泥を裂いた。旋回してさらに流蝶を襲う泥を弾き飛ばす。暁蕾は彼女を助け起こして下がらせた。
「お父様、お父様が」
「何があったんですか」
「急に。っ、裏に向かい始めて。止めようとしたの」
暁蕾は流蝶を守りながら一緒に下がろうとする。人々は泡を食って屋敷に引き返す。
「そうしたら、そうしたら言ったのよ。あんたはもういらないって」
動揺を声色に変えながらも、流蝶は正殿の方に釘付けだった。
「泥が飛び出して私を襲おうとした。でもお父様が、お符を」
霊符を使った?
「何の術ですか」
「わからないわ。でも泥の勢いが弱まって、泥を被らずに済んだ。──ああ、あれは」
「ともかく逃げてください。どこでもいいので大勢で固まって、魔除けを施してください。流蝶様ならできますよね?」
「いいえ。一人は危険よ」
「駄目です。あれは普通の道術は効きません」
だから早く。
裂かれた泥は一つに集まり、散った泥も余さず吸い上げ暮鷹の口から完全に抜けた。
「あなたも、立ってください」
腰が抜けた老人を起こすべく腕を回す。
しかし暁蕾の腕を老人が掴んだ。その手が、ざらりとした質感を持って崩れ落ちる。
「わしは、もう」
暁蕾は声も出なかった。
老人の露出している肌は尽く茶色に濁り、木の幹に似た筋が浮かんでいたのだ。
からからに、乾いている。
老人は動かなくなった。
乾いて、干涸びて、土へと還る。
「自然の理、とは言うけれど」
こんなものは自然ではない。
「僕らは生来摂理から爪弾きにされていてね。粗悪な生まれではあんたらのようにはいかないんだ」
泥は人の形を成し、くちゃ、と嫌な音を立てて液状の足を引きずる。
縮れた蓬髪の下には片目を覆う梟がいた。
気怠げに襟元を緩め、いかなる光も受け付けない炭のような袖を払う。
「ああ。この形も何年振りか。上手くできたかな、っと」
泥は下から頬をなぞる。
「おやおや? 左目がない。神が作るのを忘れたようだ」
掠れた笑いが冷たく響く。暁蕾は流蝶の前に立って法輪を手前に置いた。頭は嫌に冴え渡っているというのに、変な夢を見ている気分だ。人が生きたまま土に還るなど。現実にあっていいものではない。
「暘谷使者くん。わざわざ会いに来てくれて感謝する。ところで」
「あなた、暮鷹様の中にいたの? ずっと?」
暁蕾は一歩後ろに下がる。
「ああそうとも。ようやく出られた。まったく人ってやつは思うようにはいかないね。あんただって、そうだ。巡り合わせにしてはでき過ぎてる。天が我々を導いたーってか?」
「暮鷹様が正気じゃなかったなら、藍家にどこまで干渉していたの。全員に泥を飲ませておかしくさせてたってこと? 地人を滅ぼすつもり?」
「恐れなくていい。そんなことをしたら勿体無いだろ。大量の砂粒があってこそ大河の流れが窺えるというものだ」
半歩下がる。
「でも、邑人の気を狂わせたし人を土にした」
正房で見たあれも、恐らく。
「あいつも加減を最近学んだところだ。まさか飲み過ぎるとああなってしまうとはね。僕たちも知ってから調整はしていたんだけど、これがまた難しい。飲ませ過ぎたら使いものにならないし、一定の量を超えると吐いてしまう。吐き過ぎると正気に戻るから、また飲ませることになる。いやあ、なにぶん僕らは泥濘生まれの半端者でね。この身を扱うのもままならないんだ」
「私、飲んだ覚えがないわ。泥水なんて」
流蝶が後ろで呟く。
泥男は悠々と足を前に出す。先の濁った生白い足が現れる。
「食べ物に混ぜることもできるはず。流蝶様も症状は出ています。吐き出さないとまずいかもしれません」
「さて。僕の手も空いたところだし、まずはあんたからもらおうか」
泥男が腹をまさぐりずるりと紐状のものを取り出した。瞬く間に門を仰ぐ長さになる。
五芒星を描くように腕を振るう。泥の紐が法輪とぶつかった。
破裂音が耳をつんざく。暁蕾は三本指を眼前に構えて耐えた。法輪を回す。紐は曲がりくねってあらゆる角度から襲ってくる。
動きが読みづらい分反応速度が試された。神経が焼き切れるほど目を凝らして法輪を制御する。
決して逸らすな。間違えるな。外せば死ぬ!
「『
背後から黒い鳥が羽ばたいた。
鳥ではない。あの翼の形は蝙蝠だ。
紐を潜り抜けて分裂し、数匹が泥男の目を眩ます。流蝶が操っているのだ。
紐が緩んだ瞬間に暁蕾は法輪を分解する。輪を残し、八本の
軽々と二、三度回転し、急激に距離を詰めて回し蹴りをする。
当たる直前、泥男が蝙蝠を薙ぎ払った。顔を蹴り飛ばして暁蕾は後退する。目元を拭うと、粘性のある泥が袖を汚した。
「うん、うん。人には意志があるんだった」
折れた首から泥が湧き、流動しながら元の形に戻ろうとする。
「意欲があるからばらばらに動き、まとまりのない意識を交差させてそれを人との接触で複雑にする。どうしてあるがままでいようとしないのか」
凹んだ顔が修復され面妖に笑う。
暁蕾は輻を飛ばした。奴の肩を穿つ。
それでも泥男は薄気味悪い笑みをたたえる。
紐が風を切る。輻で塞ぎながら廟を大きく回る。弾く度に洞窟が手拍子を繰り返す。
祭りは、向こうで続いている。
周りは水。廟の奥下には淵。屋敷には人。これほど戦いに不相応な場所はないだろう。だが誰もどこかに逃げる暇もない。奴の目的がわからない。暁蕾はどうするべきか迷ったが、すぐに全ての考えを捨てた。迷いは隙を与えるだけだ。目の前の敵に集中するのだ。
すると流蝶がそれぞれの腕に札を貼り、背を向けた泥男に肉薄した。拳を突き出すと空気を震わせて体に大穴を開ける。
彼女は幽鬼を祓った経験がある。体術も会得していたのだ。
暁蕾は輪を引き寄せて紐を切り刻み、灯の上から踵を落とす。
二つの打撃が合わさって奴の上半身は破壊された。
今だ。
輪をかけて輻を一つずつ刺していく。法輪はだんだんと速度を上げて泥を巻き上げる。
迷いはない。
もう一枚の霊符を、取り出そうとした。
「暁蕾!」
腹部の衝撃に意識が僅かに途切れ、視界が真っ暗な天井に切り替わる。
浮遊感の中体を捻り、足が着地点へと向く。ほとんど無意識だった。
泥を巻き込みながら屋敷の屋根を滑る。泥は覆いかぶさろうとする。暁蕾は均衡を失って倒れる。
──疫鬼 急ぎ立ち去り給え
──さもなくば 黒虎の餌食となろう!
「僕らに言葉はいらない。魂で語らおう」
下半身が形を変え、泥男の胴体、腕、首があぶくのように現れる。
黒い天幕が降りようとする。
食われる。
にわかに、地面が震えた。
「⁉︎」
じわじわと大きくなる。
そんな。
「あなた、何をやったの!」
知っている。これは。
「何も。こんなのただの現象だろう?」
地揺れだ。
遠くで岩が鳴いた。吠えているような、唸っているような、耳が割れるほどの轟音である。
恐怖が蘇る。
壊れてしまう。
──お前のせいだ!
──お前がいたから
「お前がいたからここは‼︎」
叫びは沼の中へと沈んだ。
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