第二章 伍
易者を求めてはや二日が過ぎた。邑を往復することにも慣れ、一通り全ての邑での調査を終えたが、ついに易者に遭遇することは叶わなかった。収穫がないのは正直焦った。これではただ舟の漕ぎ方を学び、灯籠の作り方や石の加工法を習得しに来た客人である。
無論、
通交での成果は得られなかったが、短期間で地帝と通じるという高度な術に挑んでいるのだから当然ではある。上手くいかなくとも淵は術を使う時は非常に楽しそうだった。こればかりは気を急いてもしょうがない。暁蕾は彼の成長の機会を奪いたくはなかった。
「確かに、術を磨くよりも儀式や慣習に則った行動をした方が地帝を呼べる可能性は上がるな」
「そう。最近色々と読み漁って地宵郷の伝統や儀式形態を見ていたんだけど、地帝の性格的にはあまり個々の崇拝者が参拝しても効果は薄いみたい。死に関連する物事には寄り添い、生者の俗事には目を配りつつも沈黙を保つ。人は因果の果てに死を迎えるから、俗世の理に干渉しないようにしているんだって。天帝とちょっと似てる」
暁蕾と淵は邑の岩壁に向かって並び、壁にあらゆる絵を描いていた。文字から図式、奇妙な曲線で描かれた謎の生物などが腕の届く範囲に埋め尽くされている。近くで遊んでいた子どもから借りた滑石を二度ぶつけ、暁蕾はミミズを集めたような謎の生物の絵を指した。
「死に寄り添うところとか?」
「理に干渉しないところだよ。天帝は人間がかなり好きで生者に対しては天啓を与えて良い方向に導いてくれる。魂を管理する天と魄を管理する地では寧ろ性格は対照的だね」
「ところでそれ、なんだ」
「どれ?」
これ、と淵が滑石で暁蕾の描いた絵を示す。
「え? 天帝だけど。こっちが地帝ね。龍と虎。文献を見ていたら地帝の化身が詳しく載っていて、なかなか見れるものじゃないから覚えておきたくて。忘れないうちに描いてみた。虎なのに背中とか腕に鱗が生えていて、尻尾も魚の尾になってるんだって! 深淵だから見えることはないけど、光に当てたら鱗が七色に光るらしいよ。知ってた?」
「おぉ、意外に派手なんだな。何となく怖い印象だったけど、こうなると会ってみたくなる。今言った感じだと、尻尾はもっとこうなんじゃないか?」
淵は尖った凹凸の長い線を補うように数本加え、二股に別れた鰭を描き足した。
「あ、本当だ。この前食べた魚もこんな尾鰭だった気がする」
「暁蕾のところでは馴染みがないんだもんな。鱗は半円を小さく、繋いで描くといいよ」
「ふぅん。なかなか、上手いじゃん」
「空想上の生き物だから難しいよな。で、こっちの蛇も鱗を足せばもっといい具合になる」
「蛇じゃないよ?」
「毛の形ももっと勢いをつけて、長いのと短いのを交互に、段差をつけてやると立体的になるな」
「すごい。すごい勢いであたしの絵が生まれ変わっているけど屈辱しか感じない! つまりあたしの絵が下手だって言いたいんでしょ。これ見よがしに実力を発揮して!」
耐えきれず淵が吹き出す。
「っはは! だってこれ、ふふ。暁蕾は何でもできるのに。絵をほとんど描いたことがないんだな」
「許せない。いつかあたしを笑ったこと後悔させてあげるから。覚悟しておいて」
「え。急に真剣な顔になるなよ。怖い」
淵はわざとらしく咳払いをする。
「それより、話がそれたけど。言われてみれば儀式は邑と一丸になって行うやつが多いな。深淵のさらに深くで眠っている地帝を起こすために足を踏み鳴らして、わざと賑やかなところを見せるんだ。毎年俺の部屋まで聞こえて来るくらいだから、相当だと思う」
あからさまに誤魔化そうとしている。しかし今重要なのは絵ではなく儀式だ。暁蕾も渋々切り替えて言った。
「今回の
滑石を擦り付けていた彼の手が止まる。
「この時期に冠礼の儀って、本気か? 本来は春節の後だぞ」
「あえてやるんだよ、あえて。邑の人たちにも協力してもらって、過去最高に盛り上げてもらえば陰陽霊符が手に入るかもしれないよ」
「地帝と天帝が使者に与えるあれか?」
暁蕾は朱で字図が描かれたそれを二枚出した。
「そう。これは儀式で通じ合った本物の使者の前にしか現れないとされているから、成功したら手に入るはず。使者にとっての冠礼の儀は周囲からの承認を得るためだけではなくて、魂魄を通して祖からの霊氣が霊力に共鳴してくれるの。つまり自分の属する氣が扱いやすくなるってこと。儀式の前と後じゃまったく違うんだよ。だからこの時期が好機!」
「なるほど、な。その発想はなかった」
「慣例を破るのは、好きじゃない?」
「いや、俺は気にしない。邑の人たちはどうかわからないけどな。儀式をするからには準備も必要だろ。それだけでも大変なのに、祭りの最中に他の儀礼をやることを周りが許してくれるかどうか」
「
「でも、無名の俺に協力してくれる人なんて他にいないだろうしな」
当然そうであるとでも言うような横顔である。邑人は淵をそこらの若者と変わらない扱いをしている。白がどこかで拾った弟子だと思っているからだ。それで自信を持てないでいる。白は邑にいても隠す気がないのか周りに人がいても淵様呼びだ。年下の人間を様づけで呼ぶなど身分を明かしているようなもの。察している人はいると思うが、口にするとややこしくなるからか皆知らないふりをしているのだろう。
改めて考えると妙な関係である。存在を否定した者とされた者が同じ空間で和やかに祭りの準備をしているとは。
水を使って落書きを消していると、白が暁蕾たちを呼んだ。水を挟んだ邑の方で、葉に包んだ何かを掲げている。
「当日に振る舞う予定の菓子だ。試しに作っていたのをいくつかもらってきた。一緒に食べよう」
橋を渡って来た白が包みを広げて暁蕾たちに差し出す。葉をめくると、微かに温かい湯気が立ち上る。ほんの少しツノの立った、丸い包子である。
「見た目は桃饅頭なのに、匂いがしょっぱい」
「これは蓮饅頭と言ってな。蓮の実を使った甘いものもあるんだが、うちは貝類を使った餡を入れるのが主流だ。蓮の蕾に見立てて包んでいるから蓮饅頭だ。縁起物だから行事でよく出てくる。ここでしか食べられない味だ。ほれ、熱いうちに食べな」
触れると意外に熱い。出来立てを食べられるのは貴重な経験だ。舌を火傷しないようにほんの少し齧った。
もちもちとしたお米の生地はほんのりと甘い。二口目でようやく餡にありつけると、歯ごたえのある不思議な食感が口内に広がる。これが貝である。暁蕾にとっては磯の風味は新鮮だった。餡は塩辛いが、生地と上手く合わさることで食べやすくなっている。
「作戦会議をすると言っていたが、こんなに落書きしてちゃんと進んだのか? うん?」
「子どもじゃあるまいしこれはただの落書きじゃないぞ。伝説、説話、文化、伝統を暁蕾がまとめて発表してくれたんだ。絵図つきでな」
「ほう。この龍と虎はなかなか上手いな。暁蕾様は絵も描けるのか」
「そう。あたしは教われば何でもできちゃうから」
「あの絵は俺が教えた時のものだから、きっと次は名作が生まれると思う」
憎たらしい笑みで淵は蓮饅頭を平らげる。こんなに美味しいものを二口で食べてしまうところまで恨めしくなった。いつか絶対に追いついてみせると暁蕾は密かに闘志を燃やす。
「そういえば師匠が来たら聞こうと思ってたんだ」
「おう、何だ?」
「俺が預言を授かった時に水月橋が見えたって話をしたのを覚えているか。あの橋にも何か逸話があったような気がするんだけど、思い出せなくてさ」
淵は幼い頃に聞いたきりで内容が朧げなのだそうだ。預言を覆すのに役立つ可能性を考えて記憶を呼び起こそうとしていたが、できずにもどかしそうにしていた。
「水月橋といえば
「ああそれだ。最初は月から仙女が降りて来るんだったよな。そこから先は?」
「仙女は地人の男と恋に落ち、やがて契りを結ぶ。しかしそのせいで仙女は月へ帰る力を失ってしまう。故郷を恋しく思い仙女は一生をかけて霊薬を作ったが、男が霊薬を盗んで飲んでしまった。うっかり昇仙した男を哀れに思った仙女が、満月の夜に月の見える水月橋で躍るようになった──、といった話だな」
霊薬は不老不死になれる秘薬として逸話によく出て来るが、男は仙人になりたかったのだろうか。その欲に溺れて盗みを働き、最愛の人と離れ離れになるとはなんとも間抜けな話である。仙女も遠く離れても想うのは健気だが、苦労して作ったものを盗まれてもなお尽くそうとするのは疑問だ。とりわけこの手の話は道理にかなった行動をする方が珍しい。盗みはよくないという教訓を子どもたちに与えるために作られたとしてもおかしくない。
「んー、こうして聞くとそれほど有益な情報は隠れてなさそうだな。案外普通の話だ」
「なんだい喋らせておいて。その仙女は太陰元君、この地の最初の支配者とされているんだぞ。
そんなところで縁が繋がるとは、淵も想像がつかなかったらしい。驚きつつも興味深そうに相槌を打っている。
「水月橋の近くに太陰元君の廟がある。新しい水を汲む時は拝礼してお清めするのが決まりだ」
「太陰元君を祀る行事は、確かなかったよな」
「ないこともないが、地帝と一緒に祀られているのがほとんどだな」
「悪い暁蕾。俺が出せる情報はもうない」
「いいのに。あなたは霊力を高めることに集中してもらって、あたしがそれ以外のできることをしているだけなんだから。でもお参りに行ったらご利益がありそうだし、儀式の前に行ってみるのもいいかも」
白がきょとんとする。
「儀式って何だ?」
暁蕾は冠礼の儀について説明した。時期の大切さや大勢が協力する必要性も合わせて伝えると、白は予想通り二つ返事で引き受けた。邑人には自分から話をしておこう、任せておけ、と胸を叩く。やはり彼がいると頼もしい。
例の廟は郷の最奥に位置する虎穴邑にあるらしい。と言ってもそこから洞窟を通って上に上がり、天井に裂け目のある池まで行かなければならないそうだが、近道があるためさほど時間はかからないという。
舟を漕いで外回りに進んでいると、やがて節のついた音が耳を掠める。さらに進むとそれは節のついた言葉になり、唄が歌われているのだとわかる。祭りで歌う歌を練習しているのかと暁蕾は思った。
しかし数人での歌唱ではなく、歌っているのは一人だけのようだ。
白が表情を変えた。
「易者だ。易者がいるぞ!」
急いで舟を寄せ、暁蕾たちは虎穴邑に降りた。
邑は他の邑と相違ない静粛な様相を呈していて、点々と灯りがそこら中に灯っている。提灯が下がり、家々に縁起のよさそうな飾りがつけられ、すっかりお祭りの雰囲気だった。
やたらと人が多い気がする。朔邑の住人は家で作業をするか出払っていることが多く、そのためいつも閑静だったが、ここは街の大通りかというくらい人が行き交っている。
「何を、やってるんだ?」
狼狽える淵に誰も答えを出せなかった。人々は闇雲に歩いているのではない。老若男女が思い思いに盃を掲げ、幾重もの円を作って交互に回っている。待ちきれずに踊り出したと言うにはあまりに生気がない。足取りは不安定で、目は虚であるのに何かを求めるように蠢いている。その様は魂魄の抜け落ちた幽鬼にも似ていた。
異様な有り様に言葉を失っていると、あの唄が今度ははっきりとした音で耳に響いた。
「
滴滴の粒の 庸庸たるや 哀し
墨に染まれや 黒くなれや
点睛 頼来
暁蕾は声のする方へ向かっていた。淵たちを置いて行くのも構わず人混みへ滑り込み、隙間という隙間を潜り抜ける。すれ違いに誰かが衝撃で盃を落とし、少しでも止まると膝から崩れた。暁蕾は振り返りつつもひとまず円を横断した。
掻き分けて反対側に出ると、上から何かが落ちる気配がして、咄嗟に飛び退く。
鋭い音を立てて真っ黒な液体が地面に叩きつけられた。
「だあれが来ていいって言った?」
家屋の上にぼんやりと浮かんだ影を見上げる。
奴は、だらしなく足を広げてしゃがみ、指先で盃を弄んでいた。
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