第二章       肆




 ユェンが再び瞼を開いた頃には、玉は消失していた。


「どう。まだあなたの中にある?」


 泰然とした表情で頭を上げる。青碧の目が捉えているのは暁蕾シャオレイではない。


「ああ。これが」


 だらりと手を下げて首を振る。


「だめだ。ちょっと意識がそれただけで途切れた」

「でもこれでどんなものかわかったでしょ? 安心して。この方法を七日連続でやれば完全に習得できる。あたしが保証する。日課の一つに加えてみて」

「そうだな。今の感覚を忘れないうちにもう一回やってもいいか」


 暁蕾は急に真顔になった。右からの突き刺すような気配に振り向く。廟の入り口から視線を感じたのだ。


「誰かいるな」

「淵も感じた?」

「いや、見えてる。裾がはみ出てる」


 流石にそれは見えなかったが、地人の彼が言うならそうなのだろう。とにかく人がいるのは確かだ。近づいて声をかけてみた。


「あのー、どなたかいらっしゃるんですか」

「ああいえいえ我々はいないものとして扱ってください。視界に入らなければいないのと同じ」

「そうそう、こうしてじっとしているとそこらのつぶてと変わらんからな。自然そのものと一体になっている最中だ。わたしは岩石」

「何を言っておるんだ。この期を逃してどうする。さっさとご挨拶しろっ」


 小声で話されると聞き取りづらいが、さいわい深淵は静かだからある程度内容は拾えた。先程の練度の高い業に感銘を受け、もしや仙人候補の者ではないかとそわそわしていたらしい。しばらくの会議の後、彼らの中で何か決着がついたのか、男女五人の道士が一人ずつ表に出て、横一列に並んだ。

 手を前に重ね、礼をしたまま端の男が口を開く。


「類いまれな業をお使いになる若き道士にお尋ね申し上げる。もしやあなた様は七仙の者ではございませんか」

「そうだけど」


 おお、と各々が感嘆の声を上げる。七仙は代々仙人候補となる道士の総称だ。


「若くありながら人間業とは思えない術を行使なさるので、きっとそうだろうと」

「霊符からもそこらの粗悪なお符では考えられない未知の氣を感じます」

「遠路はるばるようこそ地宵郷にいらっしゃいました」


 と、別の男女が順番に話す。口元が隠れているから誰が喋っているかは不明だ。


「邑は職人ばかりで道士がバイさんくらいしかいなかったし、活動自体なくなったのかと思ってた」

「そんなことはありません。数年前と比べ人数は減りましたが儀礼や祭事には道士がいなくては成り立ちませんから、最低限残っております」

「もうすぐお祭りがあるのに祠廟に籠って何をしてたの。灯りもつけずに灯籠に絵でも描いてた?」

「ええとそれは」


 顔を寄せ合って道士たちが相談する。答えを用意していなかったのだろう。

 中心になって動いていてもおかしくない立場の人間が邑の隅で息を潜めていたのは不自然にも思えたが、これまでのラン氏の振る舞いを考えるとさほど不思議でもないような気がした。暁蕾は推察した内容を口にする。


「その数年前に藍家からの支援が途絶えて、儀式も減って活動が難しくなったとか?」


 なんとも言えない表情で彼らは耳打ちをし合う。右端にいる道士の中でも若い顔立ちの青年がぴんと背筋を伸ばし、けれど苦々しく応えた。


「当たらずとも遠からず」

「元々大した活動もしていなかったから支援もあってないようなものだ」

「これ、余計なことを」


 道士の修行は俗世からは基本的に隠されるため、儀礼への参加によって人々に功徳を示すのは布教や権威の主張などの点において非常に重要だった。宗家は占いから伝統的な儀式に至るまで、あらゆる行事を使者を筆頭に道士に務めさせている。その歴史は古く、厚い支援を受けた廟の道士は一般的な民より高い地位を得ることもある。彼らの場合、見たところ支持される立場でもなければ信奉者もいないようであるから、肩身の狭い生活をしているのだろうと暁蕾は察する。


「道士をやめていないなら何もしないのは不徳だよ。職人や坑婦の人たちも地帝の加護を取り戻したくて色んな飾りや御輿の準備を頑張ってた。あなたたちのこともきっと地帝は見てくださっているんだから、こういう時こそ尽力するべきじゃない?」

「それはごもっともな意見です。もちろんわたしたちもこの頃の再興の兆しは感じておりまして、どうにかこれを機に畏敬の念を思いだしてもらえたらと思っておりましたが」

 女性の声が継いで言う。

「近頃不穏な影が後を絶たず、私どもではとても手に負えなくなっていて籠らざるを得ないのです」

「不穏って?」


 道士たちは無言になる。言葉にするのも疎まれるようだ。

 何となくだが言いたいことは理解できた。だが隣の淵はそうではなかったらしい。疑問の字を顔に浮かべて暁蕾を見てくる。遠回しな言い分が通じないのに自分まで遠回しに言ってしまえば彼はさらに混乱してしまう。仕方なく暁蕾は口の動きでそれを教えた。得心した淵はああ、と声を漏らす。


「易者のことか」


 道士らはまた無言だったが、暁蕾と淵はそれを同意と受け取った。


「あなたたちも易者を怪しんでるの? 占いで変な水を飲まされたことはある? 易者について何か知っているなら教えて欲しいんだけど──……、どうしてずっと黙ってるの」

「話せない理由でもあるのか」


 暁蕾は彼らの顔を順に見ていく。一番右端の男と最後に目が合い、彼は小さく顎を二回引いた。わかるようでわからない。易者に関する発言を忌避するなど、そいつは邪な存在であると言っているようなものだ。

 もしや本当にそうなのだろうか。


「そんなに難しいなら無理には聞かない。けどあたしたちは易者を探さなきゃいけないからある程度その人のことは知っておきたいの。質問をするから『はい』なら縦に、『いいえ』なら横に首を振ってくれる?」


 道士たちはばらばらに頷いた。


「まず占いを受けて、易者から水をもらったことはある?」


 五人中三人が『はい』と答えた。


「易者の見た目や行動をはっきり思い出せる?」


 五人全員が頷く。迷う様子も曖昧なそぶりもなかった。


「清められた水を飲んだからか」


 淵の問いに再び三人が頷いた。おそらくは、白がたまたま目覚めたのではなく、霊力のある道士に清めの力が働いたのだ。だから彼らとのやり取りには不都合が起きない。地帝の恩恵とも言えるのか、とにかくその辺りが上手く作用したのだろう。


「易者がどこにいるか知っているのか」


 今度は全員『いいえ』だった。


「次はいつ来るか知ってる?」

 首を振る。


「声に出せないのは脅されているのか?」

 縦に振る。


「易者は、人間ではないの?」


 暁蕾はやや緊張を孕んで問うた。

 ここにきて道士たちは首を傾げた。どう答えたものか考えあぐねているようだ。判断に困るということは、彼らも人間かどうか怪しんでいるのだ。暁蕾の予感は、ほぼ的中したということである。


 妖の類いであったとしても、少なくとも幽鬼ではないと断定できる。幽鬼は尸鬼しきという寄生虫に乗っ取られた屍であるから間違っても人間には見えない。気流に覆われ加護を受けた場所であれば邪な存在はどんなものでも弾かれる。簡単には侵入できない。であれば易者は人間だと言えるだろうか。言い切れない部分はある。地宵郷ちしょうごうの氣脈は不安定だ。まともに機能していれば否定できたのだろうが、可能性は十二分にあるのが現状だ。


 暁蕾は背中がひやりとした。もし暁蕾たちが探りを入れず、得体の知れないものをずっと放置してしまっていたら、邑は内側から侵食されて尽くして取り返しのつかないことになっていた。清貧に修行をした道士でも祓という行為は極めて難しく、幽鬼を退けられる者は大きな道観に三人いれば多い方だ。邑には対抗する術がない。

 最優先事項は地宵郷を救うことだが、いよいよこの件も放っては置けない。


「郷民ですらないなら家もないんだろうし、どうやって見つければ」


 淵と頭を捻っていると、唐突に女性の道士が口を塞いで蹲った。両脇にいた男女が心配そうに様子を伺ったが、女性は二度えずき、嘔吐してしまう。

 暁蕾たちは目を見張った。地面に吐き出されたのは、人の腹に入っていたとは思えないどす黒い液体だった。

 その女性は、易者から水をもらった一人だった。



 ◐ ◐ ◐



 祭りの準備を手伝っていたら帰宅が遅くなった。とはいえ客人であろうと暁蕾の所在に頓着する人はこの屋敷内にはいないようである。逗留してすぐの頃から暁蕾についてくれている女中も、もくもくと食事を用意するだけでどこに出かけたのか尋ねて来ようとしかった。もしくは頼み事をした流蝶リウディエなりのはからいなのかもしれなかった。なんにせよ暁蕾にとっては都合よく過ごせているが、部屋にいると一人でいることが自分の中で大きく感じてしまい、無性に虚しくなって、落ち着かなかった。


 ここは静か過ぎるのだ。

 人の足音が滅多に聞こえないのは、地人は歩く時はすり足のように、あるいは踵から地面に吸い付くようにして足を運んでいるからである。地下に閉じ込められていた淵ですら同じくせで歩いていたから、地宵郷生まれの特徴なのだ。


 中庭にある水時計によると亥時の初刻になろうかという頃だった。流蝶に近況報告をしようと部屋を訪ねたが残念ながら不在だった。かといって戻っても眠りにつけそうにない。気晴らしに庭を一周するつもりで歩いた。

 するとどこぞの部屋から話し声がする。母屋の方である。魚も眠る時間に何をしているのだろう。扉の側で耳をそばだてる。老人たちのしわがれた声が波打ち際の泡のようにひしめき合っている。会議でもしているのだろうか。

 その中に深みのある朗々とした流蝶の声が響く。


「変化が起こるならば祭日中です。その期間を大いに盛り上げられれば必ず兆しが現れます。民もそのことをわかっている様子でした。私もここが潮時だと痛感しております。だからどうか機会をお与えください。彼しかいないのです」

「その話は聞き飽きたぞ流蝶よ。わしらがお前に未来を託しどれだけの時間と力を注いで支えてきたと思っておる。それを棒に振ろうとするのは不孝者のすることだ。いいな。次に同じような発言をした時にはうちの門は倒れないと思え」

「もうそう言っていられる状況ではありませんお祖父様。見えていないからわからないのでしょう。幽鬼がすぐそこまで迫っているのです」

「黙れ。そこをお前が踏ん張らずしてどうする。早く祭日のお前の抱負を語り、如何にして務めるのか我々に示すのだ。さぁ、言え」


 暁蕾はそっとその場を離れた。流蝶が何かを言う度に老人たちが堰き止め、思想を押し返して流そうとする。あのようなやり取りをずっと続けてきたのだろうか。少し耳に入れただけでも辟易してしまう。あの者たちを昔から相手にしてきた流蝶の苦労は途方もないものだったに違いない。


 今夜は瞑想してから寝よう、と西棟に向かった。

 客室辺りの扉から人が出て来た。灯りをつけてくれているから姿はよく見える。あの髪と背丈は流蝶の側仕えの一人だ。特に驚きはしなかった。女中には本を届けるのは夜にして欲しいとお願いしていた。昼は外に出ていることが多いから、部屋にいる時にもらえば本を管理しやすいと考えたのだ。ちょうどよかった。新しいものを読んでいれば寝付けられるだろうと近づいて行く。しかし入れ違いに物影からもう一人現れ、暁蕾は立ち止まった。


 腰の曲がった小柄な老婆だった。服装から見るに彼女も女中なのだろう。静々と扉に近寄り、耳を当ててじっと何かを確認している。そして扉をほんの少しだけ開けて薄目で中を覗く。そして一息に体を滑り込ませ、なんと中に入って行った。


 なんてことかと暁蕾は驚きを通り越して呆れ果てた。老婆が出てきた頃には、扉の前で腕を組み、足を広げて待ち構えていた。


 老婆は瞼に半分隠れた眼球をこれでもかというくらい丸くして逃げた。ご老体にしてはなかなかの俊敏さである。それでも天人の素速さに適うはずもなく、四歩であっさりと捕まえられた。

 しかし予想外なことに老婆は体当たりをして逃れようとした。よろけたがこの程度で倒れる使者ではない。

「いっ⁉︎」

 接近に乗じて腕を思い切り噛まれ、手を離してしまう。老婆が縦に振った本が手の甲に当たり、奥歯を噛み締めた。


「ちょっと、何をするの!」

「それを言いたいのはこちらの方。突然ばばを羽交い締めにするなどどういった了見でございましょうか」

 白々しく老婆は本を抱える。


「あたしの部屋から本を盗んだのはあなただね。もう一冊はどこに隠したの。返しなさい」

「書斎に返すだけでございます。伶娘リィニャンが間違えて持って来たようですからこのわたしが代わりに」

「流蝶様には言わないでおいてあげる。だから正直に言いなよ。あたしを誤魔化せると思わないで。入る前から全部見てた。無理があるのは抜け目のないあなたならわかるよね」


 老婆は垂れた皮膚を眉間に寄せ、恨めしげに暁蕾を見上げる。


「最近の娘は口が達者だねぇ。早う天に帰れ。目障りじゃ」

「あなたに何かした覚えはない。その本は普通の本ではなくて、神話や故事の書かれた貴重な文献ばかりなの。粗末な扱いをしたらだめになっちゃう。流蝶様からいただいたものだからきちんとした状態で返さないと。もしかして、本を台無しにするのが目的?」

「そんなことはせん。もうそんな細い長壺みたいな足でドタバタと踏み荒らすのはやめておくれ」


 暁蕾は脳天がかっと熱くなった。


「あたしの足が何だって言いたいの⁉︎」


 大声を浴びせられ老婆はびくりとして目を白黒させた。暁蕾は拳を握りしめて爪を食い込ませる。溢れそうになるほど泡立つ気持ちを理性で鎮める。

 はっと息を落として暁蕾は声を低くした。


「あたしのこと、好きじゃないんだね。よくわかった。でもあと十日はここに留まらなきゃいけないんだよ。解決するべき問題がありすぎる。途絶えた宣託。代替された宗主。擁立された仮の使者。魔に惑わされた邑人。全ては地帝の言葉に耳を塞いだことで連鎖的に起こったことだよ。あたしは暘谷使者として流蝶様に協力を要請されてる。その本で土地の儀礼や伝説を調べて、地帝と通交を成功させなきゃいけない。だから、返しなさい」

「藍家に対する侮辱かい」

イェ氏の名を知らないとは言わせない」


 老婆は頑なだった。拒絶するように身を捩らせて上半身を後ろに向ける。


「軽率に淵様を上がらせるような方にうちの何がわかるって言うんだい」

「暁蕾、メイ、どうしたの」


 会議が終わったらしい流蝶が騒ぎを聞きつけてやって来た。暁蕾が何かを言う前に、老婆は本を無理やり押し付けて去ってしまった。


「ごめんなさい。またあなたに迷惑をかけてしまったようね」

 手元の本を見て肩を落とす流蝶に、大丈夫ですと首を振る。

「みんな疲れているだけなんです。明日もお忙しいと思うので、これで失礼します」


 蟠りを抱えながら、浅い夜を越えた。




 ◐ ◐ ◐




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