第二章       叁




 蛍火ではこのような色で常に光りしないだろう。地上まで続きそうな高い岩壁には等間隔に穴が掘られ、民家らしき建物が突き出ている。そこも屋根や柱が仄かに発光している。平地の家々も同じで、橋の位置からへりと水の境目までよく見える。最低限の明かりだけで、全貌すらぼんやりとして寂しげだった屋敷周辺とかなり雰囲気が異なる。


「綺麗」


 言葉では言い尽くせない感動を胸いっぱいに吸い込み、時間をかけて吐いた。青い海の中にも邑があるとしたらこのような幻想郷なのかもしれない。天晨郷てんしんごうも楽園と称される美しさを誇って──暁蕾シャオレイ自身も誇りにしていた──いたが、廟の意匠といい、邑の全景といい、深淵だからこそ感じられる神秘的な美が巧みな技術で彩られ、最上の形で魅せている。

 天晨郷の職人は色彩の豊かさや独創性を重視した加工技術でものを作るのに対し、地宵郷ちしょうごうは静謐な景観を壊さず統一感を持たせ、自然の素材でなじませる傾向があるように思える。


 光の仕組みをバイに尋ねようとすると、彼が何かを手にしてこちらに近寄って来ていた。ごつごつとした石を二人に見せる。


ユェン様は覚えているかな。前に話したやつだ」

「夜光石か! 暗い場所でしか光っているところが見れないっていう」

「ああそうだ。これで叩いてみろ。指を潰すなよ?」


 鎚を渡された淵は、おやつを与えられた子どものような期待に満ちた眼差しで石を握った。不慣れな手つきで位置を定め、一度、二度振り下ろす。三度目で真っ二つに割れ、中から青緑色の光がこぼれた。


「すごい。生き物以外にも光るものなんてあるんだ。地宵郷は鉱山を持ってるってこと?」

「鉱石鉱物の発掘はうちの専売特許と言ってもいい。他よりも多くの坑道を掘削して資源にしているんだ。特に夜光石はここでしか採れない貴重な種類だ。でも暗がりでしか輝きを堪能できない。陽の下にさらせばただの石だ。外では需要がなくてな。おかげで邑では贅沢に使いたい放題だ」


 小さく削ったものを目印代わりに並べ、薄く円形に加工したものを紐で括って飾り、光に反射する宝石を細かく削って一部に貼り付け、魚の鱗のような艶を出す。そうした工夫で少しずつ暗澹とした空間を華やかにし、変化を与えることで沈みがちな人々の心を楽しませたという。


「月光の恵みがあるとはいえ年中暗い場所で過ごしていると、闇の中の自分を見つめて深い思案に陥ってしまうやつもいる。だが光の暖かさに触れると人の胸に宿る輝きを思い出せる。夜光石はわしらのためにあるようなものだ」


 暁蕾は耳を澄ませる。鎚が石を打ち鳴らす高い音が聞こえる。研磨する音もする。乳鉢で砕かれた石が粉状に擦られる。水のせせらぎ。湿気た木が一定の感覚で割られる。短い橋を渡り行く人の足音。静かでも、暮らしている人々の息がそこかしこにある。

 話すことも忘れてしばらく景色に耽っていた。誰も、後ろから近づく人影に気づかなかった。


「ちょっとあんた、また仕事もせずにふらふらしてんの?」

「あいて! おいおいひどいな。帰ってたのかい」


 頭をさすって白が後方に顔を向けると、破顔して普段よりいっそう親しげな口調になった。暁蕾たちに向き直って紹介する。


「わしの女房だ」

「女房だ、じゃないよ。また修行だの道士の務めだの言ってさぼってるんだろう。もう祭りまで時間がないんだからお札ばっか書いてないで灯籠作りな。ほら行くよ」


 彼の頭を叩いた手で首根っこを掴み、容赦無く引きずって行く。白は苦しそうに暴れながらもなぜか抵抗はせずされるがままだった。妻の背中の籠には大量の石が詰まっていて、大人を引きずってもなお安定した足取りからは、剛腕の師匠でも侮れない所以を感じさせた。


 坑婦である妻は坑道でしばらく緑松石と夜光石を採りに行っていたらしい。祭事に使う飾りに不足が生じたためだという。緑松石は青緑色の不透明な石で、地中では見られない鮮やかな発色に価値を見出され儀式や祭事に利用されている。不純物の多いものは使われない代わりに民間の魔除けやお守りとして装飾にするのだそうだ。

 白を追った先の家で白湯をいただきながら二人はそんな話を聞いた。


「廟祝でもしているのかと思ってたけど、坑夫だったのは意外かも」

「この人は採掘なんてしてないよ。結婚してすぐに道士を目指すなんて言って変な本を仕入れては、変な術の練習をしだして、挙げ句の果て地上で変な拳法を学びに旅に出たり、ちっとも家のことなんかしようとしないんだ」


 妻は休む暇なく動き回る。被せていた布を取って蛍火で部屋を照らし、火が完全に消えないよう竈の下に注意を払い、籠から石を選別しながら種類別に並べ、ものすごい速さでそこから最良のものを袋に入れていく。


「道士なんて祠廟にいる人たちで十分」

「その道士たちがいながらわしが流蝶リウディエ様の先生として召し上げられたのは、紛れも無い事実だ」


 暁蕾たちと並んで一息ついていた白は唇を尖らせるが、妻の刃の如き睨みで震え上がり、一瞬で萎縮する。


「本物ならたいそう名誉だったろうけど、代理じゃあねぇ、名のある道士を呼ばずにあんたみたいな半端者が選ばれるなんて、今代の仙人は諦めたと言ってるようなもんさ。地帝も見限っているから何年も宣託がないんだろう? だから今回の祭りで、少しでもここに上がって来てもらえるように大いに盛り上げないといけないんだ。さあ、さっさと手を動かして、灯籠を作る!」

「はい、作ります作りますっ」


 どたばたと騒がしく机に向かい、大量に積まれた紙に一枚一枚文字を書き始める。堂々としていた彼が冷や汗をかいてあたふたする様子は新鮮で面白いが、暁蕾は隣にいる淵の様子が気になって盗み見る。

 淵は白湯を飲み切り、椀を回しながら独りごつ。


「この湯もなんともない。普通の水だ」


 思うところがないというわけでもないのだろうが、こちらが気を利かせすぎても惨めにさせてしまう。

 彼女の言ったことが郷民共通の認識だとすれば、郷長一家への不信感や不安はそれなりに高まっていると推測できる。易が流行ってほとんどの民が怪しい水を飲んでしまうのも当然の流れではある。先の見通しが立たなければ憂うか蜂起するしか選択肢はない。

 不安定な状況に乗じて現れた易者はますます怪しい。


「あの、奥さんは易者に会ったことはある?」

「あんたも占いに来たのかい? そんなに珍しかったかねぇ」

羅瓣郷らべんごうにはいくらでもいるけどな。水を使った占いなんて一度も見たことなかったぞ。お前は知らんだろうが地上では、」


 妻の殺気で白は黙った。


「今日はいたかどうか……お隣のリーさんならわかるかもしれないよ。夫婦そろって毎回通っていたから」

「易者はいつも祠廟で占ってるの?」

「ああそうだね。いや、邑の入り口で座ってたような……壁沿い? 舟の上だった気も」


 呟くうちに手の動きが鈍くなる。


「見た目の特徴とかは」

「ぼろを、頭から被っていたかな。だから顔は覚えてないんだ。こう、袖の長い衣と、麻の草鞋を履いていた記憶はあるんだけど」


 宙を見つめた瞳は時おり焦点を合わせるように細くなる。


「占ったのはかなり前?」

「そんなに前じゃない。満月の日、いや、前? つい先月のことだから忘れたなんてことは……年でもあるまいし……」


 ごとり。

 石が手から落ちて、下にあった石にぶつかる。なんとも不思議そうな顔で目尻のあたりを撫でた。


「あら? ──何の話だったっけ」

「易者に、ついて」

「そうそう。今日はいなかったよ」


 暁蕾は白と視線を交わした。彼が神妙な面持ちで首を振る。情報が錯綜していて曖昧なのは白と似ているが、妻の方が強く現れている。思い出そうとした弊害か、途切れて会話が振り出しに戻ってしまった。当の本人は奇妙なやり取りをした後は元の調子で石を並べている。


 暁蕾は当惑した。一体どんな術をかけたらこうなるのか。


「淵、とりあえず探しに行こう」

「ああ」


 まずは隣の家から順番に訪ねて質問をして回った。自分たちより明らかに立派な衣を身につけた珍客を郷民たちは訝しんだが、白の知り合いだと言うと納得して快く答えてくれた。答えてくれたが、皆一つ目の質問から歯切れが悪く、やり取りを重ねるほど情報が分散して、自覚のないうちに混乱していた。収拾がつかなくなると閑話休題とばかりに目が虚になり、こう言うのだ。


「ごめんなさい、何だったかしら」


 こちらが惑わされているのかと思うほど人々の反応は一致していた。こうなると白だけ正気を取り戻したのが謎である。彼は錯綜した状態から自ら抜け出そうとしたのではなく、たまたま変哲もない綺麗な水を飲んで冴えただけだ。やはり易者の振る舞う水を見ないことには始まらない。

 一通り回ってから二人は祠廟に向かった。朔邑と隣の陀落邑の間にある祠廟は邑の隅から橋で岩壁の方へ渡り、少し凹みのあるところに小さく建っている。


「んー、ここで鉢合わせになってくれたらよかったんだけど」

「都合がよすぎたか」


 想定内ではあった。探す手間は省かせてくれないらしい。だが残された時間はそう長くない。できれば今日明日で解決して地帝との通交に費やしたいと暁蕾は思っている。調べるべきこと解決すべき事案はいくつもあるのだ。

 改めて祠廟へ目をやり、それから斜め上へと曲線に沿うように視線を動かす。


「何を見てるんだ?」

「気流の流れ。向こうにいた時もあまりよくはなかったけど、こっちに来てから明らかに弱くなってる。速度も一定じゃない。たまに途切れてる」

「ここまで流れて来るのか」


 気流は大きく捉えると郷全体を帯状に囲っているが、それぞれの郷にも加護があるためさらに幾重もの帯が重なっている。つまりどこにいたとしても観測できるわけである。そう説明してから、暁蕾は気流の読み方を教えようとある霊符を取り出す。


「水を見るのと要領はほぼ一緒だから難しくはないよ。自分の霊力は扱えるんだし何となく流れは見えてるでしょ?」

「読めるのとはまた別だけどな」

「陽の氣は下から上に、陰の氣は上から下に向かって強く力が働いていて、淵は慣れているから感じにくいと思うけど、その力があるからここは地上より少し重くなってるんだよね。その感覚を掴めばわかるかも」


 うねりのある囲いの中に壬陽と書かれたそれを宙に投げる。


「『壬陽請来じんようしょうらい』」


 呪文に応じた霊符が液状に変化し、空気を含ませながら弾けては分裂を繰り返す。腹を空かせた蛇のように空中にいくつもの円を描いて駆け回り、十分に空気を食べ尽くすと一つの巨大な玉と化した。

 表面をたゆませながら降下し、暁蕾の手のひらの上で止まる。

 淵が興奮を拳に握り込み言った。


「どういうことなんだ、俺たちが使えるのは陰陽術なのにこれって五氣陰陽術だよな。一つの氣しか扱えないはずなのに。特別な術でも練ったのか? いや、待ってくれ。霊符の字はどこかで見た覚えがある。水陰の氣は相反するもので暁蕾には使えないはずだろ。それを可能にしているということは陰陽五行論の中に答えがあるんだ。じん……壬か。木火土金水……あ」


 ひらめいた淵は手を叩く。


みずのえか! 五行に陰陽を当てはめた読み方だ。三國郷に気流がまたがることを証明した時に生まれたやつだよな」

「そうそう。何を隠そうこの霊符は符籙にも記載されていて、あの羅瓣郷を守護する五麟によって生成された陰陽使者のための呪物! あたしたちは全土の気流を管理して整える責務があるから相反する氣に対応できるように使用が許されているの」


 淵は懐から符籙を出して急いでめくる。


「これか。一つを極めて仙人になるものだと思ってたのに、そうじゃなかったのか。人は生まれた瞬間からタオが決まっていて他の氣を取り込むことは難しいと習ったから、引導の書を読んでも陰陽術を扱う前提で書かれていたし──」

「待った。符籙はたとえあたしの前でも無闇に晒しちゃ駄目。自分以外の人間がおらず精神を統一させた状態で開けるべし」

「はい。すみません」

「水が地帝と関係が深かったのもあってか我ながら上手く扱えた気がする。こうやって相反する性質のものをを調べられるから便利なんだよね」


 暁蕾は玉の表面に両手を当て、押し込むようにして沈めた。透明な水は景色を反射して見えづらくなっているが、中では気体がとめどなく楕円形に回転している。


「淵も入れてみて」


 彼は蜘蛛の糸を押すように指先から触れた。水の質感は確かにあったが、中に入った途端に水気が消え失せ、激しい大気の流れが指の間を駆け抜ける。

 はっとして彼は暁蕾と目を合わせる。


「重い」

「気流の一部を閉じ込めると循環が速くなるからわかりやすいでしょ? これを気流そのものだと想像して、上から下に流れる力に意識を集中する。霊符に込めるのと同じように気流を霊力で繋いで」


 暁蕾の言葉に従って淵は目を瞑り、頭を空にして手の内側へ霊力を送る。


「注ぐと霊力が気流に乗って回っていく。同じ速度と力で循環を繰り返す。この感覚を覚えておいて。そして少しずつ体内に戻すの。回転を保ったまま気流と一体になるように、少しずつ、少しずつ」


 どのくらい経っただろうか。術の訓練をしていると現実との境目が曖昧になって時の流れを見失う。早朝から初めても夕暮れになっていたりするし、深夜の一刻で終えるつもりが朝日を拝む羽目になる。物理法則を凌駕した陰陽五行の力は不思議なもので、我々の魂魄を無限の空間へ導いてくれるのだ。








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