59.野犬②

「雨姫……!」

「キミも早く逃げて」


 犬は先ほどの獰猛さはなりを潜め、今度はただ雨姫を観察しているだけだった。


「あーあ。メシの途中なのに割り込んできよってからに」


 犬が人語を介した。口元の毛が薄くなり、細長い口吻こうふんが短く平べったくなり、元の姿へと回帰し、ものの数十秒で人間の顔立ちになる。

 肌は浅黒く、襟足の長いぱさついた髪をした青年。犬の胴体に人間の頭部がついていた人面犬の気色の悪い姿だ。

 雨姫はそれにたじろぎ、広場内に流れる水路から氷の剣を作る。


「こんな血生臭い犬はいない」

「ま、バレるわな。そのつもりやけど」


 その正体は関西訛りの喋る犬ではなく、犬に化けていたヴァーミリオンだった。


「ようやく見つけたでぇ~? 『リスト』の標的!」

「リスト?」

「こっちの話や。氷使い、あんたはウチらの間では有名人やで」


 白昼堂々子供を襲っていたのは雨姫を誘き寄せる罠だったようだ。


「悪いが殺させて貰うでぇ」

「こっちも今ここで殺す」

「やる気かいな、なら雑種じゃアカン」


 犬のヴァーミリオンは脱ぎ散らかしたズボンのポケットからジップロックに入った毛を咥えた。どうやら犬の毛らしく、それを口で破り開けると、口の中に入れて飲み込んだ。


「ウチの能力をみっちり味わえや!」


 みるみると体は硬い毛髪に覆われていき、まるで『狼男』のように、犬に変身する。


「アンタにはがかかっヴォオアッッッ!」

「ど、どういう理屈で犬になってんだよ⁉」

「多分イヌ科の動物に化ける『Were Wolf』って能力。離れてて」


 今の茶色い毛並みが生え変わるように、今度は灰色の毛、筋肉質な形状に変化して雨姫に襲いかかってくる。

 体の大きさは同じでも、先程の細長い形態からずんぐりとした体躯だ。

 機敏に動き、一瞬で雨姫の喉元まで距離を詰めた。通常の犬種とはかけ離れた恐ろしい瞬発力を持ち合わせている。


「察しが悪いねんな! こいつはシベリアン・ハスキーから採った毛でさっきの雑種たァちゃうぞ!」


 そう言い終わると、顔まで毛が覆われて完全なる獣となった。

 シベリアン・ハスキーは凍える極地に生息する大型犬種であり、その逞しい体つきに加え氷点下の世界を生き抜く高い耐寒性能を持つ。


――露骨な寒さ対策、恐らくこの男は雨姫の能力の性質をよく知っている。その性質を知った上でこの犬種に化けたんだ。


 人を襲い、人払いを兼ねて標的を誘い出す。明らかに準備してきている。

 雨姫は犬の口元に氷刀を押し当てて噛みつきを防ぐ。そしてもう片手に氷の杭を作り、首筋に刺そうとする。


「ちっ!」


 だが雨姫の氷の剣は掠りもしなかった。犬は獰猛な声を上げて雨姫が剣を振るう速度よりも早く、身を翻して回避する。

 ヴァーミリオンの身体能力は獣と化しても健在。それだけには留まらず、人間よりも速く駆ける犬本来の脚力に、ヴァーミリオンの強靭な肉体が合わさり、爆発的な速度を発揮している。


「ヴォオオオオオオオッ!」


 周囲を目にも止まらぬ速さで駆け抜け、雨姫の死角に回り込むと、大口開けて雨姫の喉元を抉ろうとする。


「……ッ!」


 雨姫は腕を差し出し防御する。犬はそのまま渾身の力で腕を噛み砕こうとする。


「ごぅ⁉」


 だがその直後犬は後ろへ跳んで距離を取った。犬の舌がいつの間にかなくなっており、太い血管から赤黒い血を垂れ流していた。犬の口中には唾液が凍って霜柱まで立っていた。


「ぅううううわあううあううう⁉」

「斬れないなら口の中から全身を凍らせれば良い」


 雨姫の腕も噛みついた跡が生々しく残っており、そこから血が流れ出ていた。

 だが彼女の腕には霜が降りて『狼男』の凍り付いた舌が張り付いていた。噛みつかれると同時に能力で唾液を経由して血液と舌自体をそのまま氷付けにしたのだ。

 雨姫は汚物を触るような手つきで凍った舌を、テープのように引き剥がした。


「ぐぅ……ゥ⁉ 舌が……!」

「それに、寒冷地の犬に化けても刃は通るよね」

「やるやないか……便利な能力や!」


 犬は顔を人間サイズまで戻し、舌を使って喋り始める。


「だがウチの体も便利やで!」


 人面犬の形態のまま自慢げに話をする。


「ウチみたいな変身系の能力は人間ぶっ殺しても、身元がバレることはあらへん! 害獣がやったことになるから殺人事件にもならへんからな!」

――こいつ喋りたがりだな。

「ついこの前も、糞生意気な人間噛み殺してきた所やでぇ⁉」


 犬のヴァーミリオンの舌は既に止血し、傷口から芽を出すように血管が伸びている。舌の再生が既に始まっているのだ。

 だが、肉体が再生しても補えない物があるはずだ。


「さて、おしゃべりは終いや。死ニヴァエエ!」


 犬の口になり、人語を介するのが難しくなり、だんだん聞き取りにくくなっていく。犬男のヴァーミリオンは雨姫を振り切って逸樹に迫り来る。巨体が猛突進してくる様は急加速のバイクのような威圧感さえ覚える。


――血液補充目的かこいつ!


 犬の前足の爪は逸樹の鼻先を空振り、どうにか引っかかれずに済む。

 このままだったら、逸樹の体が引き裂かれていたかもしれないが、犬は水の塊にぶつかり、押し出される。


「……また水……はッ⁉」


 逸樹達の居る広場だけに雨粒が降り注ぐ。俗に言う狐の嫁入りだ。

 それを引き起こしているのは勿論雨姫の水操作の能力。山下公園には海岸、噴水広場の水、近くの河口と水の宝庫だ。


氷筍の串刺しアイシクルペイル


 地面は水が満ちた状態、水溜りから天に向かって、槍のように細い氷柱が飛び出してくる。犬男は反射神経で避けきるが、氷柱の面制圧の前には無意味で、氷柱が二、三本胴体を貫いた。


「ガァアッ⁉」


 水の量が強さに直結するのであれば、雨天のみならず水場でも隙がない。海に面したこの地域は雨姫の力を十全に発揮できる。


「ぐるるるるるぅ……まあええわ、今日は見逃したる。次は殺す」


 氷柱を強引にへし折り、犬男のヴァーミリオンは逃走する。

 雨姫も走って追うが、あの速度には遠く及ばない。


「あれじゃ追いつけないから諦めろ!」


 逸樹は待ったをかけ、雨姫を止める。

 犬男の逃走を許した雨姫はやるせない表情で手に持っていた氷剣を水路に投げ捨てた。こうして溶けてしまえば証拠隠滅もできるわけか。


「雨姫お前凄く顔色悪いぞ。まさかお前血が足りてないのか?」

「……っ」


 雨姫は壁により掛かって、息を切らしている。顔色も若干青白い。

 雨姫はその場に体育座りをして調子を整えようと深呼吸をしている。


――迂闊だった……こいつ、あれから血を失い過ぎているのか。


 逸樹が以前血を与えた時から、連続殺人、暴風事故、今回の襲撃の積み重ねで再度血液不足に陥っている。以前逸樹が見たあの欠乏状態よりかは軽めだが、貧血は貧血。

 とっくに限界が来ていたのを堪えていたのが、今の戦闘で緊張が切れて一気に出てしまったのだろう。


――流石に俺以外から、輸血は受けているかもしれないが、少しまずいな。

「はぁ……はぁ……」

「この場所から離れるぞ、既に人が来ている」


 獰猛な犬が暴れ回り、一度は散った野次馬が、様子を見に戻ってきている。

 雨姫に肩を貸して、逃げるようにその場から離れた。

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