58.野犬①

 [5月 3日 16時 28分 横浜市 中区 山下公園]

 山下公園。全体的に縦長の敷地の公園。海岸沿いからは東京湾も見える。華やかな洋風庭園もある。ここを訪れる人もとにかく多く、一風変わった動物を連れ歩く飼い主が芝生の上で梟や子豚といった動物を散歩させている。


「一応……礼を言う、迷惑かけた」

「しばらく寝てなよ」


 雨姫は逸樹を優しく地面に下ろす。

 立つこともままならない逸樹だったが、体調は少し戻った。

 ただ雨姫に背負われるという恥辱を味わい、木陰で干からびるような表情で寝そべった。


「涼しいな」


 公園は凪がよく吹き、さっきよりかは人も少ないから、気負いせずに休める。

 だが、雨姫はずっとその場に立ち尽くして周囲をしきりに気にしていた。


「どうした?」

「ううん。気のせいみたい」


 雨姫も気を緩めて、スカートを直してから、芝生の上に座る。


「ジュースでも買ってきてあげよっか?」

「いや、いい」

「そ」

「……」

「……」

――一日繋ぐだけの共通の話題もないし話が途切れるな……。


 間を持たせるのが難しく、二人は無言のまま行き交う人や動物を眼で追っていた。

 逸樹は楽しそうに手をつなぐ親子を見ていた。


「大勢のヴァーミリオンが既に人を襲っているのに、不自然なぐらいのどかだ」


 逸樹は寝そべり木陰で目を瞑る。リラックスして風の音、噴水から流れる水の音を聞く。


「ぼーっとする時間も必要なのかもな」

「うん……」


 また何も話すことがなくなって、逸樹がなんとか会話をつなぎ止めようと別の話題を振る。ちぐはぐな会話だとしても喋っておかなければ無言になり、無言という間は益々口を堅く閉ざしてしまうからだ。


「あのさ、逸樹。この前はごめんね」

「急に何だ?」

「殺そうとして」


 暴風事故の時、臆病風に吹かれた逸樹を雨姫が全力で殺しにきた話だ。結局あれは危険から遠ざける雨姫なりの配慮だったと、逸樹は回顧する。


「あれは確かに殺意込めたけど、でも本当に殺すつもりじゃなくて……」

「分かってる。あの状況で立ち止まってる奴なんか置いてくのが正解だ」

人間キミ達のことは命懸けで守るし、絶対に殺したりなんかしない。これだけは約束するから」

「ああ、そこだけはちゃんと信じてやるよ」


 思えば吸血行為の時に噛まれたのも、あくまで合意の上で、雨姫自身は人を傷つけることに消極的でさえある。


「じゃあ俺からも。ずっと言いそびれたことがあるが、一つ言わせて欲しい」

「うん?」

「俺はお前のやっていることは大嫌いだ」


 ずっと言えなかったのは、これまで上手く言語化できなかったからだ。


「だけど、お前自身が嫌いじゃないし、死んで欲しいとも思ってない」


 雨姫の同族殺しは絶対に許してはいけない。

 しかし一番に怒りが向くのは、雨姫に同族狩りをさせるフジシマや、その原因を作る悪辣なヴァーミリオン達に対してだ。


「うん、そっか」

「それだけだ! それだけ!」


 雨姫自身を否定する意図はない。そのことだけは伝えたかった。


「アイス買ってくるね」

「あ、ああ」


 熱の入ったやり取りを続けていたので、妙に収集がつかなくなり、雨姫がその場から離れて行った。戻るまで間、逸樹は周囲の音に耳を澄ませる。


「きゃああああああ!」

「悲鳴⁉」


 山下公園の端、石造りの舞台がある方角から金切り声が重なって聞こえてきた。

 逸樹は飛び起きると、悲鳴が聞こえてきた方向へと走り出す。

 階段を駆け上がる途中、大勢の人が階段を飛び降りるように逃げ惑う。


「うちの子が!」


 石の舞台の先、洋風の広場に到着すると、子供が泣き叫んでいた。

 先程逸樹が見た親子連れだった。その子供の腕を、リードも首輪もない大型犬が噛みついていた。

 しかしその犬は、躾の行き届いた可愛げのある動物とはかけ離れている。大型犬に分類される種よりも二回りも大きく、犬というより狼だ。

 そして奇怪なのがあれだけ野性的に見える犬には、破れたズボンやタンクトップが着せられている。だが犬は邪魔そうにその身にまとっている服を脱ぎ捨てた。

 獰猛で本能を剥き出しにした獣は小さな男の子の柔肌に齧り付いて、首を振りながらその小さな体を玩具のように振り回していた。


「こら離せッ!」


 逸樹は出会い頭に飛びかかる。その犬の顔面に思い切り蹴りを入れると、犬は怯んで子供から離れた。

 子供の腕には噛み痕があったが、幸いにも出血は少量でそこまで深くはない。


「うぁああああ!」

「急いで逃げるんだ!」


 母親の居る方向に子供を腕で押して、咄嗟にその場から逃がした。犬はただそれを黙ってみているだけだった。


「というか、加減を間違えたのに全然効いてないな」


 必死だった故に、犬を殺しかねない力加減になってしまったが、犬は全くの無傷。

 気を悪くしたのか逸樹を睨みつけて「うるる」と喉を鳴らしていた。

 そして咆哮と共に逸樹の頭上にまで跳躍する犬。

 人間の頭を咥えられそうな大口を開き、逸樹を食い殺そうとしてくる。


「くそッ⁉」

「キミってトラブルによく巻き込まれるよね」


 踵を返してきた雨姫が犬の胴体目掛けて飛び蹴りをかます。犬はダンプカーに跳ねられた様に遠くへ吹き飛んでしまう。

 牙が逸樹に届くより早く、雨姫の救援が間に合ったのだ。

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