54.そして風はそよいだ
「待て雨姫、沙薙も落ち着け、お互い争う理由はもうないだろ!」
「今はね」
「な、なんだよ! やんのか⁉」
「逸樹を殺しかけたこと、私はまだ許さない」
雨姫は饒舌とは言い難く、他人の突かれたくない部分を穿り出すきらいがある。
そのせいで明るさが戻りかけていた沙薙はまた委縮してしまう。
「俺は気にしてない」
「え……?」
「沙薙は記憶がない状態で、しかも簡単に人を殺す力があっても、楽な方へ流されなかった」
「結果論でしょ、人死にが出なかったのはただの偶然」
「だとしても情状酌量の余地はあるさ。俺は彼を人間として認めてあげたいと思う。化け物なんかじゃない」
その言葉に沙薙は目を大きく見開き、また目に涙を浮かべていた。
「それは雨姫、お前も同じなんだ」
雨姫も勢いを失い逸樹から目を逸らした。馬鹿正直に自分の感情をぶつけたのが功を奏したのか、雨姫は「ふうっ」と紙を飛ばすような細い息をした後。煮え切らない様子だったが、軽く頷いた。
「分かったよ。キミに免じて人間ってことにしておいてあげる」
押し切る形で、雨姫に初めてヴァーミリオンを殺すことを諦めさせた。
「でも沙薙。これだけ忠告しておく。次逸樹を傷つけたら、ただじゃおかない」
「さっきから上から目線でマジむかつく……!」
沙薙は頭にきたのか、手を思いっきり縦に振った。
「ばぁあああああか!」
服、ベッドのシーツ。窓のカーテンが勢いよく揺れ動いた。室内に軽い上昇気流が発生する。
恐らく沙薙の仕業だろう。風は雨姫めがけて昇り、殺傷性皆無の突風だが、問題なのはそれによって生じる結果は『最悪』である。ということだ。
「わっ⁉」
雨姫のスカートは捲り上がり、布地は重力に逆らって真上に靡く。
「お、あ……」
そして無防備な白い下着が露わになった。飾り気のない控えめな柄の下着、締まり具合は緩すぎず、体の輪郭が分かる程度の食い込み。白い肌との相乗効果で直視するのも憚られる仕上がり。
この蛇口の水が洗面台に落ちるまでに起こった瞬く間。
雨姫は太腿と太腿を股に寄せ、内股にしてぎゅっと引き締めていた。沙薙は歯を見せながら笑っていたが、逸樹は幽霊を見たかのような形相になる。その全てをコンマ一秒たりとも余すことなく、脳裏に強く。強く。強く焼き付けていた。
「あ……! ああ!」
捲れ上がったスカートを手で急いで下ろし、それでも引っ張れる限界まで力一杯に下ろした。雨姫は顔中を真っ赤に、耳まで林檎のように熟すまで恥じらっていた。
「――――――ッ!」
しばらく茹で蛸のようになった後、声にならないような奇声を喉から発しながら、沙薙に向かって飛びかかろうとした。
「お、お、おち、おちつけあまきぃいいいいいい!」
「離してよ! あいつ! あいつッ! あいつうッ!」
逸樹も心臓の脈拍がはち切れそうな程早まり、雨姫と同じかそれ以上に頬を赤に染めて、雨姫のシャツを掴む。最早腹を切断された痛みは彼方へと消え去り、一心不乱に雨姫を抑え続けた。
「ハッ! だっさいパンツなんて履いてんじゃねーよキンパツ!」
そんな低俗な悪態をついていると、沙薙も見た目と精神の年齢は同じだということを認識させられる。いや、むしろだいぶ精神年齢が低いようにも見える。
これも記憶喪失のせいだろうか。
「前言撤回、殺ス!」
「待て待て待て! こう言うのもなんだが、そんな短いスカートを履いているお前にも非があるッ!」
「え?」
「闘っている時のお前は跳んだり跳ねたりして、その……見えちまうんだよ!」
早口で要らぬことまで口を滑らした逸樹は興奮が収まり、我に返ったが、それはもう後の祭り。病室内は静かになって沙薙に向かっていた怒りの炎は一瞬消えたかと思った。
しかし今度は逸樹の方に向いていた。
自分を押さえつけている逸樹を間近に見て口をぱくぱくさせていた。
「ア……マキ……ごめ……」
雨姫の腕の力が抜けて垂れ下がっていた。逸樹をぞんざい振り払い、病室から黙って出て行こうとする。
死ぬ程気まずい空気になる。
「もうキミとは口きかない……」
湯気がたちそうな熱を保ったまま、雨姫は黙って病室から出て行ってしまった。
逸樹は冷汗をかきながらその後ろ姿を見送った。興奮が収まった今、抑制された痛みが蘇ってくる。
「あいたたたたたた」
「だ、大丈夫ですか?」
「いいか沙薙! ああいう破廉恥な行為は絶対にするなッ!」
「すみません。つい……」
「……まあ記憶喪失で接し方とか諸々分からないのも仕方ないな」
「あの」
ベッドに戻ろうとしている逸樹を沙薙は呼び止めた。
「どうして、僕を助けてくれたんですか?」
「普通助けるよ。それが正しいからな」
「でも僕にそんな価値ないですよ……普通はあの金髪女と同じ反応します」
逸樹が沙薙の頭を軽く小突いた。そして榛の双眸を覗き込むように訴えかける。
「いて」
「悲しいこと言うな。お前はずっと人を傷付けないようにしてきた優しい奴だ」
「すみません」
――まあ……確かに善意だけじゃないか。
あの日、雨姫にこれでもかと打ちのめされた時、あの青い瞳に恐怖を感じた時、逸樹は関係を断つことも脳裏に過った。
正義も秩序も全てかなぐり捨てて逃げ出そうと思ったが、それもできなかった。逸樹を引き留めていたのは、単なる強迫観念だった。
ここで逃げることは、死んだ者達が許してくれない。目を背ければ逸樹の心を永久に蝕む。その場から動こうとしなければ、彼ら彼女らが脚に絡みついて地の中へ引きずり込まれそうな、浮遊感。
あの時の逸樹はより強い恐怖で突き動かされただけ。思考を空にして、雨姫を追いかけただけだ。それは勇気と程遠い卑小な感情だった。
「とにかく。自分を卑下しすぎだ。もっと自分を好きになって貰いたい」
「逸樹さん……」
「雨姫なんかは罪悪感とか、自己嫌悪から来るのか、自分のことを何度も化け物って蔑む。それが嫌なんだ。たとえ自分に対してでも化け物なんて台詞、言って欲しくない」
時折雨姫を見るのが辛くなる。彼女が負わなくても良い役目を、進んで担う。
動機も正義感や秩序の他に、明らかにヴァーミリオンへの憎悪を含んでいる。
逸樹の目には自分に対する嫌悪感を、同じヴァーミリオンにぶつけている様にしか見えない。それはある種、自分自身を傷つけている行為に等しい。
「そんな生き方は駄目だ。自分を認めないってことは、大切しない。省みない。どうなってもいいという自暴自棄を引き起こす」
あえて言葉にしなかったが、どれだけ言葉で『化け物』と線を引いても、彼らには人間性が存在する。いずれ雨姫が
「でも分かる気がします。僕だって、本当は……」
「いや、お前は誰も殺さなかった。それは沙薙の理性がそうさせた。その理性がお前を化け物にさせなかった。だから戻るも何もお前は最初から人間だったよ」
「ありがとう、ございます。僕なんかにそんな……」
沙薙は深々と頭を下げた。誰も沙薙に言葉をかけてくれないなら、自分がその言葉を言ってあげるべきだった。
「平塚逸樹さん。傷つけてごめんなさい」
「許す」
「それと、僕を人間だって言ってくれてありがとう……ございます」
「おう、俺は殆ど何もできてなかったけどな」
「いいえ。貴方が僕を人間だと認めてくれて、僕を助けてくれた。貴方が居なければ僕は今頃殺されてますよ」
「礼を言われることなんて何も。むしろお礼を言いたいのは俺の方だよ。お前が生きてくれて俺は嬉しい。俺にとって初めて命を救えた相手なんだ!」
「そういわれると……はは……ぅ」
下を向いてぼろぼろと涙を流していた。寄る辺のない沙薙の心の支え、そんなものに少しでも携われて本望だ。
「貴方に会えて、良かったです」
丁度話が終わった所でノックの音が病室に響く。
沙薙は震える声を押し留めて、扉へ向かう。
「多分そろそろ行く時間ですから」
沙薙は外の景色を見る。まるで人生の見納めのような眼差しだった。
この先彼を待ち受けるのもまた地獄のはずだ。
「見送るよ」
「いえ、大丈夫です」
「そうか」
連行される瞬間を見ないのも心遣いになるなら、と逸樹は沙薙のお願いを素直に聞く。
別れの挨拶を交わす。
「でも最後じゃない。また会おう」
「はい!」
沙薙が扉を開くと、フジシマの使いらしき男女が数人取り囲んでいた。扉が閉まる瞬間まで見届けてから、逸樹は少し横になった。どうか彼が死なないようにと心の中で願っていた。
それから医者が来て軽い検査をして、両親が見舞いに来て、ヴァーミリオンという存在が介在しない入院生活を送る。
ちなみに下着の件が原因で、雨姫は三日間、連絡を全て無視して口も全くきいてくれなかった。
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