18.雪下雨姫の吸血①

 [4月 18日 19時 17分 横浜市 都筑区 仲町台のアパート]


「ほ、本当にここで合ってるのか?」


 雪下の住んでいる場所に来たわけだが、その有様に驚きを隠せなかった。

 まるで幽霊の出そうなボロアパートだ。二階建てのそれは築何十年という年季の入った建物。その劣化ぶりは傍目からでも目に余る光景だ。継ぎ接ぎのトタン屋根、アパート中に粗大ゴミが不法投棄されて手すりは錆び付き、腐食が進んだ箇所は朽ち果てている。

 いたる所の窓ガラスが割れていて、住居ではなく廃墟と言い直すべきだろう。

 建物には明かりもついてないし、当然住む人間は居ないように感じられた。


「二〇三号室……だな」


 敷地に入り錆付いた外れそうな鉄製の階段を上る。一段踏みしめるごとに軋んだ音が鳴り、恐る恐る足をつけて進む。脚を置いた重みだけで階段がしなって、不安をより煽る最悪の階段だ。

 そして二〇三号室のドアの前まで来る。ドアの真横には何年も使われていない洗濯機があった。


「表札はない……」


 呼び鈴を何度か押すが、何も反応がない。

 試しに真鍮でできたドアノブに手をかけて回すと、鍵が施錠されていないことが判明する。


「年頃の女の子が不用心な……」


 逸樹は無言で入るのは良くないことだと考え、律儀にもドアを数回ノックした後、ドアを開けた。


「雪下、俺だ。入るぞ」


 部屋の中は静かだった。やはり不在なのだろうかと肩を竦める。

 電気も何もついてないが、僅かな月明かりのみが部屋を照らしていた。スマートフォンの懐中電灯の機能で照らした方がまだ明るいというものだ。

 電源も見つけられないが、次第に目が暗闇に馴れてくると、部屋の中がどうなっているのか分かってきた。

 部屋の中を覗くと埃っぽく、生活感がまるでない廃屋そのものだった。罅割れた卓袱台に部屋の隅に新しいダンボールがいくつか積まれていた。引っ越しして荷ほどきをしていないようにも見られる。台所にはペットボトルに入った水が大量に置かれ、部屋のもう片方の隅っこには粗大ゴミがごちゃ混ぜに寄せられている。

 それと玄関には遊佐川高校指定の革靴と通学鞄が無造作に散らばる。靴も脱ぎ散らかしてだらしない。だが雪下はこの部屋に住んでいるようで間違いないようだ。恐らく雪下は最低限の荷物だけ少し持ち込んで、あとはこの廃墟にそのまま居着いているようだ。

 まるで自分から亡霊、あるいは『化物』に相応しい生き方をしているみたいだ。


「きっっったない部屋だ。よくこんなところで生活できるな……」


 しばらく、辺りを照らしながら家に入る。リビングを含め二部屋がある。他にはトイレと浴室でそんなに広くはなさそうだ。奥の部屋にはベッドが配置されている。寝具だけは埃をかぶっておらず真新しいものだ。

 奥の部屋を覗き込もうとすると、後ろから手が伸びていきなり襟を掴まれた。


「え? は⁉ おわあああ⁉」


 強烈な腕力に逆らえず、そのままベッドまで投げ飛ばされ、マットレスの上に叩き付けられてしまう。突然の視界の回転と衝撃に気が動転してしまう。自分を掴んだ人物が体の上を跨いでのしかかってきた。

 浮浪者か不審者に襲われたのかと一瞬疑ったが、顔を見ればすぐに違うと気づいた。


「ッ雪下⁉」


 押し倒したのは雪下だ。制服姿のままだった。瞳は、いつか見たような妖しい青色に輝いていた。

 雪下にのしかかられても軽かったが、腕の力が大人よりもっと力強い。


「逸……樹?」

「そ、そうだ。俺、俺!」

「キミ、どうして……ッ」


 逸樹の喉元には氷の杭が突き付けられていたが、雪下はすぐに床へ捨てた。やはり酷い言葉を投げかけたから攻撃的な対応をされたと、逸樹も気を落とした。

 しかし冷静になってやがて気付く。こんな雪下は初めてだ。息遣いは荒く、首筋や手に痣がいくつもあり、何よりあの静かで鋭い印象からはかけ離れた暴力的な獣性があった。今にも逸樹を殺してしまいそうなぐらいの。

 雪下雨姫のヴァーミリオンとしての本来の姿。それを見た気がする。


「な……! お前どうした……! まさか!」


 逸樹はすぐに直感した。雪下は血液不足に陥っていると。逸樹は医学への造詣が深いとはとても言えないが、過去二度も同じ状態のヴァーミリオンを見たからすぐに分かる。


「血が足りなく……ハァ――……体を巡らなく……ハァ――……なって……」


 雪下は血液不足による肉体の壊死が始まっていた。

 ただの貧血というレベルではない。症状で言えば大量失血の状態に近い。


「お前らは確か、人から奪った血が腐ると体調不良になるんだったよな⁉ いや、血が足りないって……」


 ヴァーミリオンは人の血液に依存する生き物。

 吸血の必要性に駆られる条件、それは以前雪下雨姫が言っていたが、ヴァーミリオンが人間から奪った血液、それは時間と共にいずれ劣化、つまり体内の血が腐る。ならばいずれ血液も健全に循環できなくなる。

 だが、それだけではない。自分の血液を持たないなら、失血もヴァーミリオンにとっては命取りだ。たとえ血液が腐っていなくても、巡る血が無ければ生きていけない。失血すれば減りこそすれ、血は決して増えないのだ。

 雪下は肺も壊死してまともな機能ができないのか、呼吸すら苦しそうに、それはもう悲痛な姿をしていた。


「だ、大丈夫か⁉ 救急車呼んで病院行った方が」

「私は……大丈夫……かえって……」


 そう言いながら汗を大量に流している、今は春で夜なのに。夏でもないし、雪下の手も熱くはない。その不自然に流れる汗一つをとっても、雪下が危機的状況置かれているのを物語っていた。


「大丈夫なわけないだろ……今すぐ輸血しなきゃ……お前このままじゃ死ぬかもしれないだろ⁉」


 一刻を争う状態、それを今何とかできる方法に至るまで、あまり時間がかからなかった。


「そうだ、血が要るなら俺が――!」

「絶対にダメッ……!」


 部屋中に雪下の叫びがこだまする。肺の中全ての息を吐ききったような叫びを上げると、頭がぐらついて逸樹の体の上に倒れそうになる。が、意識を取り戻し、また体に力が入る。


「ッ――! 私が必要なのは人が死ぬぐらいの血の量なの! そんなことしたらキミが死んじゃうよ!」


 血の価値は彼女なら身に染みる程よく分かっているはずだ。

 しかし最初は強かった怪力も簡単に振り解けるぐらい弱まっている。本当にこれ以上放置すれば死ぬかもしれない。それぐらい命の灯火は細くなって消えかかっているように見えた。


「誰かの血を啜るなら……死んだほうがマシ……!」


 雪下の蒼い目は殺意に満ちていた。しかし逸樹に向けられた眼差しではない。自分自身を憎み、自分を本気で殺し尽くすような、そんな眼光だ。


「もう……でてって……じゃないと……」


 雪下は布団のシーツをめいっぱい握り締めていた。

 目の前に自分が生き残る手段があるのに。あるはずなのに。自分の恐怖を最大限まで律して、必死で、本気で、全部を絞り尽くして出した言葉がそれだった。

 雪下は死んでも人間を殺さないつもりなのだ。


――ああ、そうか……苦しんでるのは、コイツもなんだ。雪下雨姫を俺は知らなかったんだ。


 逸樹は深く目を閉じて『化け物』といったあの日のことや、命を救われたことを思い出した。

 そしてほんの僅かに時が止まったように、微動だにしない。やがて目を見開いた。

 お互いの理解。詩織が言うような殊勝な話し合いなんかできやしない。

 ただ、決意した。たとえどんなに許し難くても、規範を重んじるのであれば、悩むことはない。

 だから――――――。


「雪下。俺の血を吸え」

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