14.化け物
「椎名……椎名! おい椎名!」
ぴくりともしない椎名を、それから突き刺さったままの氷の剣が見えると、椎名が刺されたことをようやく察し、呼び起こそうとする。
血からは生臭い異臭がする。椎名の小さな体の中にはずっとこんなに臭い血液が詰まっていたのか。こんな腐ったものが体内に流れたまま、逸樹には笑顔を見せていたのだ。
「起きろッ! 今救急車を呼――」
「死んでるよ」
そんな体が凍てつくような現実を突き付けたのは雪下だった。
ようやく雪下がこの場にいることも把握して、そして言葉の意味にも理解が及ぶと、椎名の顔をそっと覗く。
蒲公英色の輝きはまだ残っていた。が、目は生気がなく、瞳孔が開いていた。死んだ魚のような目をしてピクリとも動かなかった。弛緩した体は不気味なほどに重かった。生きているという事実が抜け落ちただけで、こんなにも無機質で重たくなるのかと。
椎名は死んだ。今触れているのは死体だ。
「ゔ……ああ」
自らの心臓の音が聞こえるぐらいまで焦りだし、それと同時に椎名の死を理解して生理的嫌悪感が込み上げてくる。醜くて汚らわしいという、意識とは別に出てくる低俗な感情。しだいに強烈な吐き気が襲ってきた。
「……う……げほ……かは……ぁ……」
内容物を胃液とともに公園の地べたに吐き出した。消化しきれてないクレープの生地が吐瀉物の中に混じっている。本当にどうでもいいことに目が行く。
「あぶなかったね」
「……ぁ……かは……」
「キミ、首筋怪我しているね。治そうか?」
「…………な、んで」
嗚咽している逸樹を見ても雪下は他人事のように振る舞い、椎名の死体から剣を抜き取った。バッグからタオルを取り出すと、死体の傷口に詰め、血が漏れるのを防いだ。
「ヴァーミリオンの急所は心臓。構造上は人間と同じだから」
椎名の制服の襟を引っ張り、死体を引きずる。氷の剣も脇に挟んで持ち去ろうとしていた。
自身の凶行を隠し、椎名の生きていた痕跡を残さない。それがどれだけ椎名の死を辱めていることか。
「キミも不運だね。今日であったばかりの同級生に殺されかけるなんて」
「……どうしてだ」
「誰がヴァーミリオンで誰が自分を襲うか分からない。キミは人間だと思ってた相手がヴァーミリオンだったという経験をもうした。もう逃れられない。キミはもうヴァーミリオンも人間も同じ化け物にしか見えなくなるはず。その猜疑心はもう呪いと同じだよ。キミは一生その感覚の呪縛からは逃れられない」
雪下は身勝手で、説教臭くて、押し付けがましい台詞を淡々と吐き続けている。自分が手を下した死体の処理準備を進めながら淡々と。
「でもさ、もう分かったよね? これに懲りて……」
「黙れ――――」
「……え」
「なんで……なんでそんなに、平然としていられるんだ! 椎名は誰も殺してなかった! なのに……なのに殺したッ! こんなことする奴なんて人間でも何でもないッ!」
逸樹は鼻息を荒くして、今にも雪下に飛び掛かって、殴りそうな勢いだった。
これまでにない怒りを覚え、歯が折れそうなぐらいに食いしばった。ふらふらと立ち上がり、いつの間にか汚れた汗と血だらけの手を握り締め、そして自身から湧き出る憤怒を衝動のままにぶつけた。
「この――――化け物がッ!」
化け物――――――。
その時、雪下が何を思ったのかは分からない。言葉の直後、雪下は一瞬緩んだ口がわずかに空いたが、また口をきゅっと閉じた。残酷な罵言を投げつけられても冷徹で居続けた。まるで覚悟を決めたかのように。
転がっている椎名の死体と、荷物を抱え、飛び散った血痕を雪下の能力である水で綺麗に血液の水分を蒸発させ痕跡を消した。背を向けて立ち去るつもりだ。
「そう、私も化物。私達にとって人間はただの血の入った皮袋。だって非力で、脆くて、無防備だからすぐ殺せてしまうもの」
逸樹も反射的に化物という言葉を絞り出すのが限界で、それ以上雪下雨姫を非難する言葉が思い当たらなかった。
「キミが何をしても変わらない。だから……」
そのまま公園の茂みから消えるのを、ただ指を咥えて見ているだけだった。雪下は亡骸を抱きかかえ、茂みから、人の目が届かない場所へと、走り去って行く。
そして去り際、今日学校で会ったときと同じ警告を繰り返した。
「だから、もう関わらないで」
残された逸樹からは怒りが引き、ただ呆けていた。まだじん、と痛む首筋の小さな刺し傷の感触だけが残り、水で綺麗に洗われた椎名の居た地面を見つめていた。
「畜生……ッ」
だが呆然としていられるのもその時だけで、悔しさが胸を締め付ける。歯を食いしばり、ただ身を震わせていた。目いっぱい瞑った瞼からは涙が絶え間なく出てくる。
「ちくしょぉおおおおおおおおおおおぉおおッ!」
寂しい公園に逸樹の慟哭だけが響く。
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