13.タンポポの瞳
「椎名が……ヴァーミリオン……な、なんで?」
椎名の蒲公英色に輝く目を見て、忌まわしき存在に結びついてしまう。しかもそれだけではない。椎名の頬や首、手を見ると痣やうっすらと黒い血管が浮き出ていた。おそらく血液だろう。調子が悪かったのは血液が体内で腐敗したものによるもの。三日前の殺人事件の犯人と全く同じ兆候だった。
その状態に陥ったヴァーミリオンが何をするのかも逸樹には予測できたが、脚が震えて、声も全くでなかった、それ程までに一生懸命に本心を話していた少女の豹変は衝撃的だった。
そんな逸樹の動揺は椎名にはもはや伝わりもしないだろう。その場に縫い付けられた逸樹に包丁を突きつけて、突進する。
「ぁああぁああああああぁあああ!」
「うっ……ぐ、ぁああああああああああぁあ!」
死を予感して震えを解いて動こうとしたが、無駄だった。距離があまりに近く、変異に気を取られ動きが遅れた。それに、たとえ十分に距離があっても回避できるような速さではない。椎名は人外の肉体を持つヴァーミリオン。予想していたよりも遥かに俊敏だった。
椎名は包丁を首筋に向けて突き刺す。が、逸樹は咄嗟に手を掴んで包丁を止めた。
「ぎッ――――」
しかし勢い余った包丁の切っ先が逸樹の首を抉る。刃に触れている箇所から血が溢れ出してくる。刃に血でできた紅色の筋がなぞられる。
一瞬痛みがないと錯覚するが、遅れてやってくる鋭い痛みが錯覚を打ち砕き、自身の顔を、目を引きつらせ歯を食いしばった苦悶の表情にさせる。獲物を殺そうという興奮と恐慌で我を忘れているヴァーミリオンにありったけの怒声をぶつけた。
「やめろ! 椎名! 何があったんだよ!」
「ああああああああ!」
「――ッ! やめろおぁおおおお!」
椎名のわき腹に渾身の膝蹴りを食らわせる。普通、この身長の女子学生ならごろごろ転がりそうなものだが 椎名の体は仰け反るだけで、まるで堪えなかった。まるでマットを付けた壁を蹴っているような重量感。手ごたえはあっても、損傷も全く無かった。
椎名は涎を垂らしながら笑みを絶やさなかった。
「私……! 私……! もう嫌、嫌なんです! こんなのやだけど! 血を吸わなきゃ死んじゃうの! だからたくさん血を頂戴!」
「ぁあああああ! やめろ! しぃいいなああああああああああッ!」
逸樹は必死に叫んだ。相手を説得するなんて冷静な判断はもうできていなかった。
ただただ自分の生存本能が働き、自分に包丁を刺そうとしている蒲公英の瞳のヴァーミリオンに対して嘆願するばかりだった。
だが、肝心の椎名も恐怖に取り憑かれて話もできない。血がどれだけ重要なのか知る由もないが、包丁に込める力がより一層強くなる。
逸樹が握るも、手の脂で滑りが良くなり、うまく掴めなくなってきた。
「おとうさんも! おかあさんも! 生きたいから……生きたいから血が必要なのぉッ!」
「やめ……ぐッ! あぐぁああああ!」
椎名は首まで刺さりかけた包丁を引き抜いた。血が勢いよく飛び出して地面に飛び散っていく。激痛と殺されかけたパニックで、逸樹は地べたに這いつくばる。手の指も震えてしまい、全く動かせなくなってきた。脳も恐怖で麻痺している。全身が重くなっている。
きっとこの感情を今まさに、椎名も感じているはずだ。生きたいと。
「ッう!」
「逸きッ君」
「く……」
「いつきくん、いつきくん」
這いつくばる逸樹の前に椎名が立ってしばらく見下ろしてくる。そして血塗れた包丁を突き上げて振り下ろそうとしていた。
「ごめんね……」
椎名から最後に謝罪の言葉が出てきた。ふと椎名の顔をみると黄色に輝く瞳から涙があふれ出ていたが、しかし泣いていても、その殺意は変わらなかった。
「ぁあああああああああぁぁあぁあああああああああああぁ!」
絶叫と共に刃物を振り下ろす。
――もう、だめだ、死ぬ。死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――――ッ!
刃物が逸樹の胸元まで届くことはなかった。
「あ……」
椎名は今さっきの狂気が嘘のように静かになり、もう泣き止んでいた。
遅れて口から赤黒く濁った血液を少量ずつ吐き出した。
しゃっくりをするように「ひっくひっく」と言いながら血が少しずつ口からこぼれ落ちて、やがて口の周りが黒ずんだ血まみれになっていた。
椎名の胸元も血だらけだった。丁度左胸下の心臓部に氷の剣が突き刺さっていた。
椎名夕子の後ろには雪下雨姫が立って、椎名に剣を刺し込んでいた。
「――――?」
逸樹に刺さるはずの包丁は雪下が手で受け止めていた。包丁は雪下の手の甲を貫通し、夥しい血が出ていたが、包丁を引き抜いた直後に血が止まる。見るからに痛々しいが、雪下は険しい顔を崩さなかった。
椎名は地面に膝をついてから倒れ込んだ。
逸樹は何が起こったのかわからない顔をしていた。
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