4.殺人事件の始まり

 [4月 10日 17時 1分 横浜市 横浜駅]

 横浜駅前はいつも通りの雑踏で代り映えがしなかった。

 春といえども日は短く、辺りはもう薄暗い夕方になっていた。太陽もビル群の風景に隠れ、空の色も暗い藍色をしていた。夕暮れと桜の対比は風光明媚とは程遠く、むしろ暗い中で目立つ桜の花弁は薄気味悪い切なさを覚える。

 地面の窪みには水たまりができて、夕暮れで雨水に濡れて暗く濃くなっている。少し肌寒いのは、きっと雨上がりのせいだ。


「特にやることが無かったな」


 横浜駅西口から続く繁華街の端まで見回りをした。しかし、これといって不審な様子もなかったので逸樹は肩をすくめる。学校から最寄りの駅の一つである横浜駅まで通学路を巡回しても、怪しいことは何一つなく、いつも通りの日常が広がっていた。

 特に怪しい人間も、怪しい場所もなければ、トラブルに遭う学生も当然皆無。

 逸樹の頑張りも徒労に終わってしまう。

 端から見れば普通に歩いているだけでも、行動理由を知られたらきっと下らないと思われるだろう。結局の所、事件に浮かされていたのは案外自分の方かもしれない。

 ただ道を彷徨うろつくだけの自分を想像すると羞恥心さえ覚えてしまう。


「馬鹿馬鹿しい。帰るか」


 結局、学校近くまで来てしまったが、自宅は徒歩圏内の距離ですぐに帰れる。だから回り道をして多少帰りが遅くなっても問題ない。

 繁華街は埋め尽くすような電光が昼間のような明るさを保っていたが、駅周辺から外れると店はだんだんなくなり住宅街にさしかかる。それに比例するように最初は過剰な人も減っていく。明るい所に集り、暗所をなるべく避けるというのは人間の持つ習性の一つとも言えるだろう。余計なことばかり考えてしまうのでもう帰ろう。

 背を向けた暗い住宅街から微かな音が聞こえた。


――何だ……今、物が割れる音がしたような……どこからだ?


 ふと連続殺人が頭を過った。殺人犯まだ捕まっていない。

 また殺人事件が起こるかもしれない。と。


――考えすぎだ。第一空耳かもしれない。


 そう自分に言い聞かせるが、逸樹が今ここに居るのは怪しい人間が居ないか見回りしに来ている。その目的の為にここまで来ている。なら確かめなければならない。

 割れる音の方向なんて全く分からなかったが、勘を頼りに歩み出す。


「……」


 冷や汗をかいて呼吸も荒くなる。耳の感覚は研ぎ澄まされ、胸も早鐘を撞くようだ。

 音の鳴ったと思われる通りはアパートや一軒家だけで静まりかえっていた。

 逸樹は明かりのついていない一軒家と数階建ての雑居ビルの隙間で足を止めた。

 幅は大人一人分が通れる程度で、先は真っ暗闇で何も見えない。目を凝らして先を見ようとするとほんの僅かに肌寒い空気が手や頬に来る。

 

――冷たい。ここの路地裏から流れてくる空気だけが。


 足の裏からも靴越しに冷たさを感じる。地面見てみると、水たまりが凍って平べったい一枚の氷になっていた。


「凍ってる……? い、いやいや待て。今は春だぞ⁉」


 四月の関東で水たまりが凍るなんてことは、常識的に考えてありえない。しかも水たまりは今日歩いて何度か見たが、凍っているものなんて一つもない。凍っている水たまりはここの一つだけ。

 周りには水を凍らせるような機器もないし、この水たまりが凍っている説明がつかない。

 異質。この場所だけが自然の摂理に反する在り方をしている。逸樹はさらに不安に陥り、そして全身の産毛が逆立つような恐怖が込み上げる。今朝、尚也の言っていた連続殺人の話とこの不可解な氷は何か関係があるのかと。

 綺麗に凍った水たまりを見て、不安から生じた疑いは益々以て強まるばかりだ。


「う……」


 また路地裏を見ると、先ほどの景色とは全く違っているみたいだ。より色濃くなった本能的恐怖が、暗闇を恐ろしく映し出し、黒い闇が自分を見つめているようにすら感じる。指先も小刻みに震えだしている。それは決して肌寒さではない。偏に『怖い』という感情から来る震えだった。

 息を呑むと、喉仏も持ち上がる。


――嫌な、嫌な予感がする。でも、それでも……行かなくては!


 恐怖を押し殺し、放たれたように路地の影に突っ込む。じりじりと進むのではなく突進に近い勢いで進み、僅か数メートルもしない内に曲がり角に突き当たる。

 暗闇に目が慣れると裏路地の輪郭が見える。周囲は室外機やパイプが巡り、突き当りを右折すると目に映ったのはまず行き止まりの壁。

 そして視線を下げる。壁際にある『モノ』を見て逸樹は仰け反った。


「あ、あぁあああああああッ⁉」


 思わず逸樹は絶叫した。それが視界に入った途端、壁際まで後退りをした。

 そこには若い女性が壁により掛かって座っていた。周囲には夥しい量の血液が大量に撒き散らされている。女性は既に死亡している。それをすぐに理解できたのは、脇腹が千切れているからだ。いや、千切れていると言うよりも『破裂』している。

 女の中身、脇腹からは内蔵が零れていた。大腸がそのまま剥き出して、地面に垂れている。生命活動を終えた人間から飛び出る腸は、生物の教科書の人体図みたいに波打った形ではなく、ホースのように平滑へいかつ。そして大腸の表面は滑ったようなつやがある。


――血が……死んでるッ! 殺されたんだ! なんで、なんで、なんでこんな、どうなってんだ⁉


 そして女性から溢れ出す血液が水たまりを作っていた。赤黒く生臭い。

 さらに追い打ちをかけるように、路地裏の風通しの悪さのおかげで血の鉄臭さが充満して鼻孔を満たす。

 それらの膨大な死の情報が一気に入ってきて、逸樹の頭の中は真っ白になり、吐き気に目を回して俯いた。


「ぁ……くっ……! けほっ」


 食道にあたりから這い上がるモノを押さえて、もう再度死体を見て、助けを呼ぼうと思った。腰が立たず、四つん這いで近寄ると血に触ってしまう。ぬるりとして、慌てて手を引いたが、血はドロドロに固まって生暖かい感触がした。血の表面は少し固まっていた。

 この質感には既視感があった。牛乳を電子レンジに入れて温めた後、牛乳の表面に膜ができるのと同じ。

 ただし白ではなく、赤黒の。


「ぁあぁああ……ぁあああああああ……!」


 尻餅をつき、全力で走ったのと同じぐらいの息切れを起こして震える。恐慌状態になりながら、死体の先にある壁を見つめたあと、はっと気がつき、意識を現実に戻した。

 こんな不道徳、不正義、一刻も早く然るべき方法で排除をしなくてはならない。そのことで頭がいっぱいだった。


「そうだ……そうだ警察! 警察、警察に連絡するんだ! 早く早く!」


 ブレザーのポケットに入れておいたスマートフォンを取り出し、すぐさま電話をかけようとするが、上手くいかない。手がぶるぶると震えてしまい、普段なら考えなくてもできる操作をしくじる。

 取り乱しながらもようやく連絡をしようという矢先、逸樹の右の頬にひんやりした空気が当たる。


「動かないで」


 無機質で冷淡な温度を感じさせない声がした。声の持ち主は女だった。

 先程から感じる冷気に恐る恐る目線を移すと、それは――。

 氷の剣だった――――。

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