第16話 アサシンのコティッシュ その1
「遅い!」
王立騎士団長アレス・レッドメインは珍しく声を荒げた。しかし、返答するものはいない。
広い執務室にはアレス1人だけ。南向きの大きな窓からは、夕日が静かに差し込んでいる。
ーーと、アレスは背筋に何か冷たいものを感じた。
それは湖に一滴のインクが垂らされたような、ほんの些細な違和感。普通の人間なら感じ取れないだろう。しかしアレスは見逃さない。彼は目にも止まらぬ早さで剣を抜くと、背後に立っていた男の首筋に刃を突き立てた。
「お見事です。今回こそはその首、貰えると思ったんですがね」
男は両手を上げ、降参の意を現す。アレスは男を睨みつけると、
「1時間も遅刻した上、雇い主の命を狙うとは何事だ!」
「すいません。本当、反省しているんで剣を下ろして下さいよぉ」
反省していると言うわりに、男ーーコティッシュはヘラヘラと笑う。
コティッシュは細身の長身で、すごい猫背だ。全身を包むのは漆黒のロングコート。フードを目深に被っているので、顔付きも分からない。
アレスとはもう3年の付き合いになるが、名前以外は何も知らない。まあ、その名前も偽名の可能性が高いが。声の低さから男だと思っているが、もしかしたら女かもしれない。
コティッシュは謎の多い男だ。さらに今回もう一つの謎が追加された。
「どうやってこの部屋に入ってきた?」
執務室にはドアがひとつしかない。アレスはそのドアをずっと見張っていた。窓から入ってきたと考えられるが、ここは3階だ。窓の開閉音は聞こえなかったし、その際吹き込む風さえも感じなかった。
アレスは剣を握る手に力を込めた。その切先は、コティッシュの首筋だ。アレスがその気になれば喉笛を掻っ切ることは容易だろう。
しかしコティッシュは一言、
「言えません」
「ーー合格だ」
アレスは剣を鞘に納めた。
「アサシン・コティッシュよ、お前に頼みたい仕事がある」
「で、次は誰を殺せばいいんですか?」
「いや、今回は暗殺ではない。ある人物の行動調査をして欲しい」
アレスはデスクの抽斗から、書類の束を取り出すと、コティッシュに押し付けた。コティッシュは書類の1ページ目を捲ると、
「名前レイア、性別女、年齢14歳、出身ハルモニア島ーーって、なんですかこれ? 誰の庶子か知らないけど、こんな簡単そうな任務なら他を当たって下さいよ」
「……2ページ目以降も読んでみろ」
コティッシュはしぶしぶページを捲る。しかしすぐに手に力が入り、書類がくしゃりと音を立てた。コティッシュは興奮した様子で、
「こ、ここに書かれていることは全部事実なんですか?」
「ああ。フェンリルやワイバーンをソロで討伐したことも、我が王立騎士団を壊滅させたこともーー全て事実だ」
「信じられないです。まさか人類最強と謳われている剣聖の貴方が負けるなんて」
アレスは苦虫を噛み潰したような表情になると、こう呟いた。
「……本気で戦っていたら勝てたはずだ」
「はい? 何かいいました?」
「いや、なんでもない。それよりもこの依頼受けてくれるか?」
「謹んでお受けいたします」
「そうか、それは良かった」
「では早速任務に向かいます」
コティッシュは、アレスに背を向ける。しかしすぐに振り向くと、
「そういえば髭剃ったんですね。イメチェンですか?」
「あ、ああ。ちょっとな」
「髭、ない方がいいと思いますよ。なんかカビみたいでしたから」
なんて失礼な奴!
アレスは文句のひとつも言おうと思い、口を開く。しかしその瞬間、部屋の中だと言うのに強風がびゅうと吹いた。アレスは思わず目を閉じる。その時間わずか1秒にも満たないだろう。
しかし再び目を開けた時にはコティッシュは忽然と消えていた。まるで最初から存在していなかったようにーー。
しかしアレスは驚かない。それよりもツルツルになった顎を触りながら、
「……そんなにカビっぽかったか?」
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