第15話 名前
ある日の昼下がり。レイアとクロウの2人は湖畔でスライムを食べていた。
それはいつもの穏やかな昼食の筈だったーークロウがこう切り出すまでは。
「名前で呼んでください」
クロウはいつになく真面目な顔でそう言った。レイアはスライムをスプーンで啜りながら、
「いきなりなんじゃ」
「だってもう会ってから2ヶ月は経っているのに俺のこと『お前』や『オス』呼ばわりじゃないですか。いい加減、名前で呼んで欲しいです」
「……別によいではないか」
「よくないです! なんだか他人行儀だし、なにより俺が悲しいです」
「そうは言われてものう」
「まさか……俺の名前覚えてないんですか?」
レイアはクロウから目を逸らす。
「そんなぁ、酷いですよ。俺には『クロウ・ギルシス』ってちゃんとした名前があるんですから」
「ぐろい・ぎすぎす?」
「違いますよ! 覚える気がないならもういいです」
クロウはスライムを口に一気に流し込むと、ご馳走様も言わずに、走り去ってしまった。
ひとり取り残されたレイアは、頭を抱える。本当は彼の名前は覚えている。それも脳の1番大事なところに焼き付けられてる。
忘れない、いや、忘れられない。
それならなぜ『クロウ』と呼べないのかーーその理由は、
「……恥ずかしいのじゃ」
名前を呼ぼうとすると全身が熱くなり、ニヤついた顔になってしまう。実に情けない。次期女王に相応しくない。だから名前呼びを避けていたのだが、ついにクロウを怒らせてしまった。
ーー仲違いは修行の妨げになるのじゃ。べ、別に嫌われるのがイヤというわけではないのじゃ。仕方ないから、名前を呼んで仲直りしてやるかのう!
レイアはそう決意すると、クロウを探しに歩き出した。
◇
クロウはすぐに見つかった。湖から少し離れた場所にある森の中で、ひとり剣の素振りをしていた。そんなクロウを、レイアは木の陰から見つめる。どうやらこちらには気がついていないらしい。
ーーこれは早速名前を呼ぶチャンスじゃ!
レイアは息を大きく吸うと、
「ク」
しかしそれ以上声は出なかった。心臓が喉から出そうなくらい、バクバク脈打っていてーー。
と、クロウと目が合った。やはり機嫌が悪いのだろう、普段より冷たい声で、
「そんなところで何やっているんですか?」
「え、えっと、そろそろ修行の続きをじゃな」
「わかりました。すぐ戻ります」
クロウはさっさと歩いて行ってしまった。レイアは小さくなっていく背中を見ながら、大きなため息を吐いた。
こんなに上手くいかないのは、レイアがこの世に生命を受けてからの14年間で初めてだった。しかし負けん気だけは強い彼女は諦めない。次こそは! レイアはクロウに駆け寄ると、
「……」
「何故、酸欠の魚みたいに口をパクパクさせているんですか?」
「く、口の運動じゃ。こうすると口輪筋が鍛えられてよいのじゃ」
「そうですか。そんなことより、今日の修行内容を早く教えてください」
クロウは冷たく言い放つ。まだ怒っているようだ。早く仲直りしたいのに、何故上手くいかないのか。気持ちばかりが焦ってしまう。
どうしたらクロウの名前を呼べるのかーーレイアは悩む。
ちなみに素直に謝り、名前を呼べない理由を伝えると言う選択肢はない。レイアのプライドは世界樹よりも高いため、それだけはできない。
「黙り込んでどうしたんですか。俺とは口もききたくないってことですか?」
「ち、違うのじゃ。えーと、今日の修行は、オークとの戦闘じゃ」
「オーク? ゴブリンじゃないんですか?」
「ゴブリンは問題なく倒せるようになったから、そろそろ次の段階に進むのじゃ。オークはゴブリンより身体が大きくて力が強いから、少し大変じゃぞ」
「……大丈夫です」
クロウは少し不安そうな表情をしたが、レイアは全く気が付かない。それより名前を呼ぶことに執心していた。
「ではオークを出すのじゃ」
アイテムボックスからオークを取り出した。
身長はクロウと同じくらいか。でっぷりとした脂肪に浅黒い肌、ブタ鼻と思わず目を逸らしたくなるくらい醜悪な見た目だ。
オークは驚いた様子で辺りをキョロキョロ見回していたが、クロウに気がつくと手に持った大きな棍棒を振りかぶる。
ガキン!
クロウはロングソードで受け止めようとするが、いかんせんオークの方が力が強かったようだ。ロングソードは手から弾かれてしまい、少し離れた地面に落ちた。
「しまった!」
丸腰になったクロウに、オークは容赦なく棍棒を振る。クロウの横っ腹に、棍棒が命中した。
「がはっ!」
プレートアーマーを着込んでいるおかげで致命傷にはならなかったが、かなりのダメージを受けたようだ。クロウはその場に倒れた。
無論、オークは攻撃の手を緩めない。クロウの脳天めがけて、棍棒を振り上げる。
ーーわらわの判断ミスじゃ。オーク相手はまだ早かったのじゃ。
後悔するが、もう遅かった。レイアの立ち位置は、オークとクロウからかなり離れていた。レイアがオークを殺すよりも、クロウの脳天がカチ割られる方が早いだろう。
レイアはその瞬間が見たくなくて思わず目をつぶった。そしてーー
「クロウ!」
無意識のうちに、レイアはそう叫んでいた。
「ブギャア!?」
聞こえてきた悲鳴は、クロウのものではなかった。レイアは恐る恐る目を開いた。オークは目を擦りながら苦しんでいる。
一方、クロウは生まれての子馬のように足をプルプルさせながらも立ち上がっていた。その右手は土で汚れている。レイアはすぐにピンときた。
ーーそうか、土で目潰しをしたんじゃな。
苦しみもがくオークを尻目に、クロウは地面に落ちていたロングソードを拾い上げる。そして素早くオークの左胸を突いた!
オークはそのまま仰向けに倒れると、ぴくりとも動かなくなった。ロングソードの切先が心臓に達したようだ。
クロウはオークの死を確かめると、その場に崩れ落ちた。レイアは慌てて、クロウに駆け寄る。
「大丈夫か?」
「はい、何とか」
「全く冷や冷やしたのじゃ」
「すいません。でも、レイアさんのおかげで助かりました」
「は? わらわは別に何も」
「名前を呼んでくれたじゃないですか。おかげで気合いが入りました。ありがとうございます」
クロウは優しく微笑んだ。レイアは全身の血液が沸騰していくのを感じた。
「ち、ち、ち、調子に乗るな! オーク如きに手こずりおって! そんなんじゃいつまで経ってもわらわと子作りできないのじゃ!」
「えっ、なんで怒ってるんですか?」
「うるさいのじゃ!うるさいのじゃ!うるさいのじゃ!」
レイアは顔を見られたくなくて、クロウから背を向けた。鏡を見なくてもわかる。きっと顔の筋肉は、スライムより緩々になっているだろう。
ーーなんだか今日のわらわは変じゃ。いや、今日だけではない。なぜクロウにはこんなにも心揺さぶられるのじゃ?
いくら考えても答えは出ない。しかし分かっていることがひとつある。クロウの名前を呼べて、喜んでいる自分がいるということだ。レイアは呟く。
「……クロウ」
その何の変哲もない3文字は、なぜか特別に思えて。今度は少し大きな声で発してみる。
「クロウ!」
「はい! なんですか?」
「呼んでみただけなのじゃ」
「はあ……」
「クロウ!」
「はい」
「呼んでみただけなのじゃ」
「ええ……」
「クロウ!」
「……はい」
「呼んでみただけなのじゃ」
「もう! いい加減にして下さいよ!」
「いーやーじゃー! これから何千、いや何万とお前の名前を呼んでやるから、覚悟するのじゃ」
レイアは白い八重歯を見せて笑う。その笑顔は今日の青空より澄み渡っていた。
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