第11話 自らを殺した日
ジリリリリ……
耳障りな目覚ましの音が鳴り響いている。音階を無くした無機質な音が耳から侵入し、痛みの残る脳を刺激する。まともな睡眠と食事の取れていない体は弱りきっていて、目覚ましに手を伸ばす事さえ億劫に感じてしまう。
しかしこの不愉快な音を止めてしまわなければ、頭がおかしくなってしまいそうだ。重だるい腕を伸ばし目覚ましの上に腕を落とすが、目覚ましが鳴り止む事はなかった。その後も数回その動きを繰り返したが目覚ましが鳴り止む事はなく、次第に腹立たしさを感じた僕は、一度舌打ちをして上半身を少し起こし激しく音を立てる目覚ましを手に取ると、力任せに床に叩きつけた。
粉々に割れたガラスが飛び散り叫ぶ事を辞め、時を刻む事を諦めてしまった文字盤は午前七時を指していた。静寂を取り戻した薄暗い寝室は冬の朝の様に凍えきっていた。
荒くなった呼吸を整え、ほとんど感覚を無くしかけている足で床の感覚を確かめて、慎重に立ち上がった。
今まで何度も僕を闇の中から救ってくれていた目覚まし時計が無残な姿で床に転がっている。抑え付けていた感情が最近ふとした事で溢れてしまう事がある。
僕の体に何かが起こっているのだろうが、もうどうだってよかった。これまで起こった出来事全てが夢であればどれだけ嬉しい事か。どれだけ救われる事か。
割れたガラスを踏まない様に、一歩一歩しっかりと床を確認しながらスーツを手に取り寝室から出る。夜中の様な暗さの廊下を慎重に進み、リビングのドアノブを捻った。
カーテンを閉め忘れた事で、部屋にはこれでもかと太陽光が注ぎ込まれ、部屋の惨状をまざまざと見せつけられる事になった。目の前に広がる光景が改めて現実に起こった出来事だという事を再確認させてきた。
床には出血した手の平の血液が点々と落ちていて、それを辿るとそのままにしていた吐瀉物が散らばり、その近くに植木鉢が転がっていた。土が溢れ、もぎ取られた真っ赤な花が薄茶色に変色して散っていた。
僕は何とかスーツに袖を通すも、いつものルーティンなどこなす気力が湧かず枯れたサボテンの前に跪き、ただただ呆然と見つめる事しか出来なかった。
(最後の希望を失ってしまった。僕の生きる希望を自らの手で摘み取ってしまった。もう僕に残された選択肢は一つだけ)
ようやく落ち着いてきていたのに、再び激しい頭痛が襲いかかってきた。ガンガンと内部から直接脳を叩かれている様な衝撃に耐えられなくなった僕は蹲る様に横になり悶えた。自分の中に封印していたもう一人の僕が脳を叩いている様な錯覚を起こす。そして頭の中で声が響いた。
「もういいだろう?いつまで俺を無視し続けるつもりだ?お前は十分頑張ったよ。後は俺に任せろ。父親を殺した時の様に。警察に上手く話した時の様に。サボテンを握りつぶした時の様に」
僕はその声を聞いた瞬間、弱っていたとは思えないほどの力で起き上がり寝室へと駆け込んだ。
「幼い頃から俺を封印して俺の言葉に一切耳を貸さなかった。少しでも俺の言葉を聞いていれば。俺と一緒に生きていく道を選んでいればこんな事にはならなかったんだ。だから決めたんだ。おまえの大事にしているものを奪ってやろうと」
もう抑えつける事が不可能になっていた。急いで寝室のクローゼットから父のネクタイを複数本鷲掴みにして、それを結び合わせた。
「お前の事を大事にしていた両親の命を自らの手で奪った気分はどうだ?お前は愛されていた。だがお前はその愛を受け止める大事な部分を俺と共に封印していた。受け止める事が出来なかったんだ。だからせっかく注ぎ込まれた愛を歪ませ垂れ流しにしてきた」
(うるさい!黙れ!)
寝室で割れたガラスを踏んだのだろう。ベチャベチャと血を滴らせながら、ロープ状にしたネクタイを手に再びリビングへと急いだ。
「父親は母親を男の元から救い出した。もう一度ここでやり直そうとしてる事に気付いたお前は父親が奪われるのではないかと思い母親を殺したんだろう?お前は壊れてるんだよ。お前は人間にとって最も大事な物を封印したんだよ。そう俺だ」
椅子に乗りリビングの照明を弱っている人間とは思えない程の力で引き摺り出し、石膏で出来た天井の板を剥がし剥き出しになった配管のパイプにネクタイを通した。
「お前こそ封印されなければいけなかったんだよ。お前の存在が全てを歪ませた。お前は無なんだよ。何も無い何も感じない人間の姿をした抜け殻だ」
その言葉が頭に響いた瞬間、僕の中から何かが抜け出そうとしているのが分かった。「それ」は僕の無表情な顔を剥ぎ取るようにベリベリと爪を立て捲り始めた。
僕は急いでロープにしたネクタイに首を通すと力の限り椅子を蹴飛ばした……そこで僕の記憶は途切れた。
あいつと入れ替わってしまったのか、それとも死んでしまったのか分からない。この選択が正しかったのかも分からない。ただあいつが表に出てしまう事だけが怖かった。今更感情というものを思い出すのが怖かった。自分にさえ無関心でいるくらいが丁度いい。
でも。本当は分かっていたんだ。自分の中にもう一人完全に僕から剥離された自分がいる事を。泣いたり笑ったり怒ったり喜んだり。そんな感情豊かな僕が僕に語りかけている事も。
「お前も楽しめよ!みんなと同じ様にお前も笑ったっていい。悲しい時は泣いて、腹が立った時は怒っていいんだ。それこそが人間なんだよ。俺とお前は元々一つなんだ。俺を受け入れろ」
何度も何度もそう語りかけてきた。でも僕は耳を貸さなかった。いつしか僕はもう一人の僕を完全に無視し声すらも届かない奥深くに封印した。その結果が今だ。
全てを失ってしまった僕にはこの選択肢しか残されていなかった。
フワフワと真っ暗闇の中をただただ漂う。朝も昼も夜もない。音もない。これが死だと言う事ならばあまりにも虚しいものだ。
自分自身で「死」と認識した瞬間、燃え盛る様な真っ赤な炎の様な光が全身を包み込んだ。
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