第9話 二日目の死
ジリリリリ……
闇の片隅で目覚ましの鳴る音が聞こえる。ようやく朝を迎えられた。決して気持ちの良い目覚めではないが、夜を乗り越えられた事に安堵する。
午前七時。目覚ましに軽く触れ、立ちあがろうとするが足元がおぼつかない……そういえば最近コーヒーくらいしか口にしていない。食欲も湧かないし、冷蔵庫もほとんど空に近い状態だった。
何とか壁を使い立ち上がると、スーツを手に取りフラフラとリビングへと歩いて行った。
薄暗い廊下を進みリビングのドアを開けると、一気に眩しい光に包まれた。昨日カーテンを閉めずに寝てしまったのか。目の眩むほどの光に照らされた部屋に入りケトルのスイッチを入れた。
疲れの取れていない体で、ゆっくりと寝巻からスーツへと着替えながらベランダの扉を開こうと近付くと、付近の床に真っ黒なシミがいくつも出来ているのに気付いた。
(そういえば昨日ここでコーヒーをこぼしてしまっていたな)
枯れてしまった血の様な真っ黒なシミを気にする事もなくベランダの扉を開けた。肌寒い乾いた風が部屋に流れ込んでくる。季節は秋。毎日少しずつだが確実に四季が流れようとしていた。
フラフラとジョウロを手に取り、窓際のサボテンに水を注ぐ。父のサボテンは今日も元気に太陽の光を吸い込み、色鮮やかにそこに存在していた。このサボテンだけが僕の生きがいなのかもしれない。部屋も景色も僕自身も色褪せてしまったこの空間で、唯一このサボテンだけが色彩豊かに存在感を放っていた。
明日もきっと。父のサボテンに水を注ぐために僕は生きるだろう。明日こそはきっと。明るく色鮮やかなサボテンの様な希望に溢れた明日が僕を迎え入れてくれる。そう信じて今日を繰り返した。
グツグツと水が沸騰する音が聞こえてきた。僕はケトルのスイッチを止め、ドス黒く汚れたマグカップに粉末のコーヒーを入れお湯を注ぐ。マグカップを片手にベランダに出て、通りを見下ろしコーヒーを一口含む。苦い。この世のものとは思えないほどの苦味に顔が歪む。
色彩を失ったスーツ姿の人間達が、彩り豊かな駅へと吸い込まれていく。
あぁ。この人間達は自分自身に彩りを与えるために、毎日あの場所に吸い込まれていくのだな。
だから毎日同じ行動を繰り返しているのだ。ロボットなんかじゃない。歯車なんかじゃない。みんなより良い明日を迎えるために、自分自身に色を与えるために毎日を繰り返している。そんな毎日を繰り返していけば、様々な色が自分に付いてくる。色とりどりに装飾された人間は希望に満ち溢れ、より明るい明日を迎えられる。
(なんだよ。それ。僕が見下していたなりたくもなかったこの人間達の行動こそが明るい明日への答えなんじゃないか)
そう思った時、いつも肩を落とし頭を垂れたスーツ姿の人間達が、真っ直ぐ前を向き希望を宿した目で軽やかに駅に向かって行っている様に見えた。その姿はまるで父のようだった。
苛立ちにも羨ましさにも似た感情が溢れ出しそうになり、それを必死に押さえつけ振り返ろうとした瞬間、足元がふらつき手に持っていたマグカップがベランダの床に転がり、ドロドロとした真っ黒な液体が床へと染み渡っていった。
マグカップを拾いシンクに乱暴に置くと、蛇口からマグカップに向けて水を注ぎ込んだ。水を注いだにも関わらずマグカップの中はドス黒い液体で満たされていた。
なんだか今日は最低の気分だ。ここ最近でこんなに心が騒つく日があっただろうか?
父が言った。最低の今日を乗り切った僕には輝かしい明るい明日が待っていると……いや。本当に父はそう言ったのか?ぼんやりとベランダに立つ父の姿が浮かび上がってくる。何かに怯えた様な顔をして、何かを必死に訴えかけているが声が聞こえてこない。
父は一体何にこんなに怯えていたのだろうか。何を訴えかけているのだろう。ダメだ。この時の記憶が曖昧で全てが滲んでしまっている。風景も、父の顔も。思い出そうとすればするほどひどい頭痛が襲ってくる。
(違う。思い出せないんじゃない。僕は思い出したくないんだ。自分の都合のいい様に記憶をいじくり回して、被害者を演じているだけ。本当の自分を認めてしまうのが怖いから)
(怪物になってしまったのは父でも母でもない。僕自身が怪物になってしまっていたんだ)
分かっている。だけど理解しようとするが理解させない様にする自分もいる。頭の中をぐちゃぐちゃと音を立ててかき混ぜられている気分だ……気持ちが悪い。思考を止められたらどれだけ楽だろうか、体力は少しずつ衰えていっているのが分かるが、頭だけは栄養を与えなくてもフルスピードで回転している。少しでも頭に隙間が出来ると、そこを必死に埋めてくる。余計な事を考えない様に。最悪な選択肢を選ばない様に。
だがそれもこれまでのようだ。力を失いはじめた体は、ゆっくりと床にへばりつき、激しい耳鳴りと頭痛を伴いながら僕の視界を奪い始めた。完全に止まりかけた思考と、徐々に狭まっていく視界に最後に映り込んだのは、窓際に凛と立つ色鮮やかなサボテンだった。僕の最後の希望で生きる意味。父が死ぬな!と叫んでくれた様な心強さを感じたまま、僕の意識はシャットダウンした。
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