第8話 終わりに近付いた日

父がいなくなってからも、毎朝のルーティンは変わらず続けていた。朝七時に起きてハンガーにかけてあるスーツを手にリビングへ向かう。父のいた頃はリビングに入ると朝食の匂いがしていたのだが、今は薄暗くどこか物悲しい空間が広がっているだけだ。

 カーテンを開けるといつもと変わらない世界、何も変わらない生活が繰り広げられていた。変わってしまったのは僕だけだ。忌まわしげに空を見上げた後、僕はケトルのスイッチに手を伸ばした。そういえば一つだけ新しくルーティンに加わった事があった。それはお湯が沸騰する間にスーツに着替える事だ。

 別に仕事を始めたわけではないのだけれど、父の愛用していたスーツに袖を通すだけで、どこか大人の仲間入りが出来たような、社会の一員になれたようなそんな気分にさせてくれた。サイズの合っていない少し大きめのスーツに袖を通しながら窓際のサボテンに近付く。

 不思議な事に、あれだけ血を浴びていたサボテンは枯れる事もなく、今もなお凛として以前までの姿を保ち続けていた。僕はサボテンの針に軽く触れた後、少しの水を鉢に注ぎ沸騰するケトルからコーヒー粉末を入れたマグカップへとお湯を注ぐと、それを片手にベランダの扉を開いた。部屋に充満した香ばしい香りが風に乗り散って行くのが分かった。

 父の血で染まっていたベランダの床は、シミ一つ残すこと無く綺麗に掃除されていた。僕が警察に取り調べを受けている間に特殊清掃が入ったらしく、あれだけ血で染まっていた部屋も元の姿へと戻っていた。

 警察や親戚からも何度も引っ越す事を勧められたのだが、父との思い出が残ったこの部屋を出る事など考えられなかった。この部屋だけがこの世界で唯一、僕を受け入れてくれる空間。僕が存在していても許される世界。外界から隔絶されたこの部屋だけが僕の唯一の居場所だった。

 なんだか今日は少しだけ気分が良い。鼻歌混じりにコーヒーを一口含みながら外の世界を見下ろす。

 そこにはいつもと変わらない、夢遊病のようにフラフラと歩き駅に吸い込まれて行くスーツ姿の人間達。

 この人間達と同じスーツ姿になっている自分がその一員になれたような気がして、嬉しい様な可笑しい様な。くすぐったい気持ちになって自然と笑みが溢れていた。

 一人で微笑んでいる事に恥ずかしさを覚えた僕は、コーヒーを口いっぱいに流し込み、苦味で無理矢理顔を歪めた。その歪んで狭まった視界に妙な光景が映り込んだ。

 駅へと流れるスーツの群れの右端に、ぽっかりと空間が空いているのが見えた。まるで障害物でも避ける様に、人々は膨らみながらその場所を避けて通って行く。

(あれはなんだ?……人?人が倒れているのか?)

 僕は自分の目を疑った。あれだけの人ごみの中で一人の人間が倒れているのに、誰一人として倒れている人を助ける事もせず声もかけず、まるで障害物でも避けるかの様に気にする事なく駅へと歩いている。よく見てみるとその人間は女性で、倒れている体型から妊婦だと判断出来た。

(なんで誰も助けないんだ!早く助けないと大変な事になってしまう)

 僕はすぐさま部屋から飛び出そうとしたが、ふと頭に今まで僕の身に降りかかった出来事がよぎった。

(この人を助けたとして僕にとって何になる。本当に何かあって倒れているのか?僕が向かったら何事も無かったかの様に歩き去っているかもしれない)

(そもそも妊婦も含めこの人間達は僕が倒れていたとして助けてくれるのか?僕が辛い時誰も助けてくれなかった。両親でさえも口では慰める様な言葉を吐いてはいたけれど助けてくれることは無かった……馬鹿らしい。僕には関係のない事だ。だってお前達は僕を助けてくれなかったから)

 そう思い、振り返ろうとしたその時だった。倒れた妊婦が目を見開き僕の事を睨みつけている様に見えた。

 先程まで意識を失っている様に見えた女性は倒れたまま、それはそれは憎々しげに僕の事を睨みつけ、今にも立ち上がり襲いかかってきそうな殺気を僕に向けた。その瞬間全身に寒気が走り僕は逃げる様にして部屋へと戻った。

 心臓が爆発しそうなくらい激しく動いているのが分かる。手が震え持っていたマグカップからコーヒーがポタポタと床に溢れた。

 あれは男へと成長してしまった僕を見る時の母の顔そのものだった。忘れることが出来ないあの目。実の息子に向ける目ではない敵意に満ちた目だった。額からは冷や汗が吹き出し、激しい眩暈と吐き気に襲われ、僕はそのまま意識を失う様にして床に倒れ込んでしまった。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。目を覚ました時には完全に日は落ち、部屋は暗闇に沈んでいた。

(あの妊婦はどうなったのだろう。あの後誰かに助けられたのだろうか)

 フラフラと立ち上がり、レースのカーテンを少し捲って妊婦が倒れていた場所を覗き込んでみた。

 人通りの途絶えた道に妊婦の姿はなく、ただ無機質で冷たいアスファルトが広がっているだけだった。

 きっと誰かに助けられたか、誰かの通報した救急車で運ばれていったのだろう。きっとそうだ。そう思わなければとても正気を保っていられなかった。仮にあの妊婦があのまま亡くなってしまったとしたら、僕は助けられたかもしれない二人の命を間接的にとはいえ奪ってしまった事になる……また人を殺してしまった事になる。手足がガタガタと震え始め、再び激しい頭痛と眩暈が襲いかかってきた。

(違う。僕が殺したというのなら助けようともせず通り過ぎて行ったあの人間達も同罪だ。僕は殺してなんかいない!)

 側から見たら真っ暗闇の中、体育座りで頭を抱えブツブツ呟きながらガタガタと震える姿は異様そのものだろう。だがそうして自分を正当化しなければ今にも発狂して、ベランダから飛び出してしまいそうな気がするのだ。

 この部屋に一人きりで生活を始めてから毎晩こうだ。夜が怖くて仕方なかった。この暗闇に飲み込まれてしまいそうで恐ろしかった。部屋の片隅でガタガタと震えていれば、そのうち落ち着いてくる。そうなればようやく寝室に行くことが出来る。両親を失ってから患った発作の様なものだ。

 少しずつ頭痛が遠のいていくのが分かった。ボヤけていた視界が次第にクリアになり、ようやく僕という存在がこの部屋に存在出来る様になる。しっかりとした足取りで寝室に向かいベッドに倒れ込む。

 あの日から全然眠れていない。両親を亡くしたあの日から、目を閉じれば血まみれになった二人の姿が浮かんでくる。瞼の裏にでも焼き付いているかの様に浮かび上がる。

 僕の今の状況に比べたら、死の方が遥かに楽に思えてくる。死んだら楽になるのかな?何度も何度もそう問いかけた。もちろん返事が返ってくる事はないが、永遠にも近い闇に浮かび上がる両親の死体にそう問いかけ続けることしか出来なかった。

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