第7話 憧憬

ベランダから景色を見るのが好きだった。

 父と母がいなくなってから三ヶ月。頬を撫でる風が肌寒く感じるようになり、季節は秋を迎えようとしていた。

 こうして風に当たっているとあの日の事を思い出す。インターホンが鳴り響く中、真っ暗な部屋で僕は座り込んでいた。インターホンの音が耳に入っていなかったわけでは無い。鳴らしている相手が警察だと言う事も分かっていたし、血まみれで倒れている母や血液の飛び散った部屋を見られるのが怖かっただけだ。

 何の反応もない状況に痺れを切らした警察は、マスターキーでロックを解除し、部屋へと上がり込んできた。真っ暗な部屋で懐中電灯の光が揺れ動き、複数人の何かを呼びかける声と、ドタドタとこちらに向かって来る足音が聞こえたその時、部屋の灯りが灯された。

 一気に明るくなった事で目が眩み、あまりの眩しさに目を覆おうと手を上げた瞬間、何かを手にしている事に気付いた。

 警察官は声を荒げ何かを投げつける様に、早口で捲し立てる様に話しかけて来るが、突然複数人で威圧的な言葉を投げつけられた事で気が動転した僕は、ボヤける視界で周りを確認しながらベランダへと逃げだした。

 ベランダの床には父の流した血が黒いシミの様に残っていて、それが点々と柵の方へと続いていた。この世に唯一残された父の生きていた痕跡に少し心が穏やかになるような感覚を覚えた。

 警察官達が僕を追い詰める様にベランダへと詰め寄って来る。

「早くそれをこちらに渡しなさい!」

 何の事を言っているのか理解出来なかったが、自分が握りしめていた物に気付いた瞬間、それを渡すとか捨てると言う選択肢は思いつかなかった。いつから握りしめていたのか、いつこれを手にしたのかも覚えていないが、僕の手には母を殺し、父の腹を裂いた包丁が握られていた。

 僕はベランダの柵を背にして、手に持った包丁を警察官達に突きつけた。警察官達は驚いた表情をして僕をなだめようと、先程とは別人かと思うほどに穏やかな声で諭す様に語りかけてきた。だが警察官達の声は、吐いた瞬間に空に流れて行く様に僕の耳に届くことは無かった。

 このままではきっと僕は逮捕されてしまう。そうなったら父が残してくれた明日……僕に明るい明日がやって来る事は無くなる……父もいない。誰からも愛されることの無い世界で生きていく事に意味はあるのだろうか。今日よりも良い明日を繰り返せばいつか幸せな明日を迎えられるのだろうか?分からない。考えれば考えるほど闇の中に引き摺り込まれる感覚に陥って行く。

 そうだ。一枚の葉っぱにも毎日を繰り返すロボットの様な人間達にも出来ない事を僕はしよう……自分で終わらせるんだ。

 僕は包丁を投げ捨てるとベランダの柵に足をかけた……だがあまりの高さに足がすくみ飛び降りる事を躊躇してしまった。その瞬間を見逃さず、警察官達は柵から僕を引き摺り下ろし室内へと移動させた。

 飛び降りたくない。死にたくない。僕にはまだ死ぬ覚悟が出来ていなかったのだ。

 室内へと移動させられた僕はそこで、帰宅したら父が母を殺していた事。その後、自分の腹部を刺し飛び降りた事を涙ながらに語った。自分でも驚く程饒舌に。この凄惨な事件を目の当たりにした被害者を演じる役者のように感情たっぷりと。僕ではない誰かが僕を演じている様に事の顛末を詳細に語った。

 人の死と言うものは案外簡単に処理されるものだ。本当か嘘かも分からない僕の証言を、疑う事もなく警察はこの事件を終わらせてしまった。

 逮捕されたかったわけではないけれど。でも……もっと必要とされたかった。もっと僕の話を聞いて欲しかった。警察に対して虚無感にも似た、苛立ちにも似た感情を抱いたのを覚えている。

 感傷に浸る間も無く次は葬儀が待っていた。父と母の葬儀は一度も会った事のない親戚達が仕切り、僕は人形の様に何の感情もなく、凄惨な事件で両親を失った悲劇の青年と言うラベルを貼られてただそこに置かれているだけだった。

 淡々と葬儀は進み、同じ様な服装をして同じ様な顔をした人間達が、椅子に置かれた僕に向かって頭を垂れて行く。どこか無機質で業務的に行われるその行為は、あの駅に吸い込まれて行くスーツ姿の人間達を彷彿とさせる。

 この人間達からしたら僕の両親など、アクシデントで小さな葉っぱが大木から二枚剥がれ落ちた程度で、大して気にする事でもない、至極どうでもいい事なのだろう。

 だが僕にとっては……小さな小さな小枝の様な今にも折れてしまいそうな僕を、唯一支えてくれていた大事な葉っぱだった。葉を失った木はゆっくりと枯れて行くのを待つだけ。僕もやがて枯れて行くのだろう……違う。僕はもう既に枯れてしまっていた。

 枯れていたから葉も枯れてしまった。空虚な心に愛という名の空想を注ぎ込み続けた結果、僕は枯れ果ててしまった。

 父と母の死。愛でも悲しみでも満たされることはない。それならば一体何なら満たされるのか?そっと左右の棺で眠る父と母の手を握り目を閉じた。心臓がぎゅっと締め付けられる感じがして、心に何かが注ぎ込まれて来るのが分かった。

 これだけでよかった。本当は知っていたんだ。これだけで満たされる事を。

 何もかもが滲んで見える。棺で眠る両親の顔も。僕自身の存在も。

 葬儀は無事に終わり、父と母は天へと狼煙を上げながら旅立っていった。葬儀中は憐れみの声をかけてくれていた親戚達も、誰一人として一人きりになってしまう僕を心配する事なく、それぞれの生活へと、いつもの日常へと戻っていった。

 誰からも必要とされない。心配してくれる人もいない。そんな僕に生きて行く意味などあるのだろうか?明るい明日を迎える日がやってくるのだろうか?

 夕焼けに染まる駅からスーツ姿の人間達が流れ出してきた。

一日の役目を終えたその顔に、達成感や喜びという感情は見受けられず、皆一様に無機質な機械の様に頭を垂れたまま家路へと向かっている。

 ああ。きっとこの人間達も僕と同じ様に枯れ果ててしまったのだろう。明日に希望を持てず、ただただ毎日を無意味に垂れ流して行くだけ。生きながらも屍と化した人間達……でもこの人間達には歯車として社会を回す役目がある。僕には無い。誰かの葉にもなれず、社会の歯車にすらなれない僕を誰が必要としてくれるのだろうか。

 誰かに必要とされていれば、きっと明日も頑張ろうと思えるのに。

沈む夕日を眺めながらそんな事を考える日々が増えていった。

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