第6話 赤黒く染まる日
何かが鳴っている音が聞こえる。インターホン?不気味な音階が室内に響き渡り、その音で目を覚ました。
何かが体にまとわりついている様に重く動かない。重い瞼を強引にこじ開けようとするが、それを拒否する様に頑なに瞼は開こうとしない。
尚も急かす様にインターホンは鳴り続ける。脳内に直接響いてくる様な不快感、ズキズキと痛む頭を抱えながら体を起こした。体から何か液体が滴っている様な違和感を感じ、へばりついた様に開かない瞼を無理矢理引き剥がした。ボヤけた視界が次第に部屋の有様を映し出す。
目の眩む様な鮮やかな夕焼けが差し込む室内には、暖かみと虚しさが広がりシンクから溢れ出した液体は、いつの間にか床を満たし僕の動きに合わせて波打っていた。
クリアになっていく意識。手に握られていた液体の滴る包丁に気付き、驚きのあまりその包丁を手離すと床に満たされた液体の中にポチャリと沈んでいった。
(なんだこの状況は?確か窓際に女性が立っていて……そしてサボテンに何かを……もしかしてこれも夢なのか?)
思い出そうとすると激しい頭痛と眩暈が襲ってくる。ふらりとよろけ、前屈みに倒れそうになるのを何とか耐えるが両手がぽちゃりと液体に浸かり、手を中心に二つの波紋が広がっていく。赤黒い水面に二つの波紋がぶつかり合い不気味に揺れ動いていた。映し出された影は自分自身なのか、それとも全くの別人なのか。ユラユラと波紋に揺れる影が不気味な何者かに見えて思わず息を呑んだ。少しずつ穏やかになっていく水面と同時にしっかりとしたシルエットが映し出される。
まるで別の世界からワープでもしてきたかの様に現れた影にジッと見られている様な、笑われている様な感覚に陥り両手を液体から引き抜こうとした……しかし腕は微動だにしない。液体の中で誰かに掴まれているかの様にぴくりとも動かない。
どうにか引き抜こうと上体を逸らし渾身の力を込めると、ズブズブと赤黒い液体を吹き上げながら両手が水面から飛び出し、その勢いのまま僕は後方へとひっくり返った。液体に浸かってしまったら体を引き摺り込まれてしまう様な恐怖を覚え、倒れた後すぐに体を起こした。
先程腕を引き抜いた水面からはポコポコと気泡の様な物が浮かび、何か物体の様なものが浮かび上がっていた。赤黒くドロドロとした液体がその物体から流れ落ち、徐々に姿を露わにする。……顔?まさか!
僕は急いで液体の中から現れたその物体に近寄ると、やはりその物体は母の顔だった。安らかに目を閉じたその顔はあの日血を流し倒れ、父に優しく髪を撫でられていた母の顔そのものだった。
(そんな。どうして母さんがここに……)
悲しみにも怒りにも似た感情が、体の奥底から湧き上がってくる感覚を覚え、僕は膝をつきその感情を押し殺そうと必死に深呼吸を繰り返した。その時だった。
安らかに眠る母の目が突然カッと開くと僕を睨みつけこう言った。
「記憶を作り替えて被害者ヅラするのは楽しいか?」
顔は母そのものなのだが、発せられた声は低く、男性の様な声色で僕を憎々しく睨み付け言い放った。
どこかで聞き覚えのある声……ダメだ。思い出そうとすると激しい頭痛が襲ってくる。フラフラと目眩を引き起こしながら後退りすると、母は赤黒い液体を撒き散らしながら水面から体を起こし立ち上がった。液体が体を伝い床にこぼれ落ちていく。
(え?母さんはこんなに小さかったか?)
立ち上がった母の姿は子供の様に小さく、男性の中では小柄な僕と比べても胸ほどの高さしか無かった。
赤黒く染まった母は俯いたままゆっくりとこちらに歩いてくる。何かおかしい。大人というにはあまりにも小さく頼りない子供の様な姿をした「これ」が母だとは到底思えない。
僕の前まで来ると「それ」は顔を上げ剥き出しにした白い歯をこちらに向け、先ほどの低い声とは違う子供の様な高い声でケタケタと笑い声を上げた。
(違う。これは母さんなんかじゃない。これは……僕だ。)
記憶がクリアになっていく感覚だった。この目の前に立っている女児の様に幼く、子供の様な笑い声をあげている「これ」は僕の幼い日の姿。母に好かれたくて愛されたくて、言われるがまま女の子として生きようとしていた小学生の頃の僕。そして、夢の中で僕を刺し殺したあの子供。僕は幼い頃の僕に殺されたのだ。
はっきりと「それ」を認識した時、突然腹部が激しく痛み出し血が吹き出し始めた。
僕は腹部を抑え激痛に悶えながら「それ」から遠ざかろうと後退りしていると、いつの間にかベランダの前まで来ていた。僕を追いかける様にして「それ」はニヤニヤと笑いながら包丁を片手にゆっくりと僕に迫ってきた。
「ほら?早く飛べよ!お前の父親のように!」
包丁をブンブンと振りながら僕をベランダへと追いやると、嫌な笑い声を上げながら「それ」は叫んだ。
全身から冷や汗が吹き出し、腹部からはダラダラと真っ赤な血が溢れ、立っているのもままならずベランダの柵を背に座り込んだ。
その時、誰かが激しく玄関のドアを叩き、ドアノブをガチャガチャと回す音が響いた。僕はその音に驚き玄関の方へと目を向けた。
「あの日もそうだったな?お前の父親が死んでしばらくしてここに警察が流れ込んできた」
先程とはまた声色を変え、見た目からは想像も出来ない低い男性の声で「それ」が語りかけてくる。
座り込む僕に包丁を手渡すと「それ」は再びケラケラと笑い声をあげ煽る様に言葉を投げつけてくる。
「ほら?あの日と同じ様にやってみせろよ?流れ込んでくる警察達に刃を突き立て威嚇して見せろ?その後お前はベランダから飛ぶつもりだったんだろ?ならば今度はやり切って見せろ?」
そう言い切ると玄関のドアが激しく音を立て開き、複数の人間がバタバタとこちらに向かってくる音が聞こえた。鼓動が高鳴り、気がつくと僕は立ち上がり包丁を握り締めやってくる者達を待ち構えていた。
やがてゲラゲラとした笑い声を伴いながら、警察官の服装をして真っ白な歯を剥き出しにした顔のない者達が、ドタドタとベランダにやってきた。
近付かない様に包丁を振り回し威嚇するが、ゲラゲラと笑い声をあげた警察官達は、言葉を発する事なく一定の距離を保ちながらベランダの柵へと僕を追い詰める。その間にも腹部からはドクドクと血が噴き出している。意識が朦朧とする中、警察官達の笑い声と自分の鼓動だけが耳の奥で響き続けていた。
ベランダの柵を背に警察を威嚇する僕の頬に何かが落ちてきた。ふと上を見上げると、上の階から血の様な液体が流れてきていた。再びその液体が見上げた僕の顔に落ちてきた瞬間、血を流しベランダで倒れ込んだ僕の姿が頭の中に流れてきた。
(これはあの夢の映像?上の階で僕は幼い頃の僕に刺し殺されたのか?何がどうなっている?)
とても理解出来ない状況に、錯乱した僕が再び正面を見るとさっきまで笑い声をあげていた警察官達が、人形の様に微動だにせずそこに立っていた。
その警察官達の間からスルリと現れた幼い僕が、僕を突き飛ばす。その衝撃で片足が宙に浮き上がる。耐えようと反対の足に力を込めた瞬間、ベランダを満たしていた血液の様な液体で滑り、そのまま後ろに倒れ込んだ。
柵に体がぶつかるはずと目を閉じ衝撃に備えたが、ふわりと体が宙に浮く感覚。あるはずの柵は無くなっていて僕の体は空中へと投げ出されていた。
こちらを指差しゲラゲラと笑う警察官達と幼い僕。その光景を見た直後、体に痛みを伴わない衝撃が走った。動かない体からは赤黒い液体が溢れ、周りに人の歩く音が聞こえる。
思考が止まる。視界が明滅する。一瞬、目に周りの景色が映り込む。
そこには僕がベランダから眺めていたスーツ姿の人間達がいた。僕が落下してきたというのに何事もなかったかの様に目の端で倒れた僕の姿を捉え、助ける事はおろか気に留める事もなく駅へと吸い込まれて行く。
その光景を最後に僕の意識は遠のいていった。微かに聞こえるケラケラという笑い声と、スーツ姿の人間達のコツコツという靴音だけをその耳に残して。
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