第5話 失った日
季節は冬を迎えたとある寒い夜。僕は父と雑談しながら夕食を取っていた。今日はこんな事を勉強したとか、昼間にこんなニュースをやっていたなど、他愛もない会話をしていた時、突然インターホンが鳴った。
モニターを確認した父は、僕に夕食を食べる様促した後、玄関へと向かった。何やら小声で会話している様だが、相手が女性だと言う事は分かった。
しばらくは夕食を食べ進めていたが、やはり訪ねてきた女性が気になり静かに席を立ち聞き耳を立てた。
女性は父に何かを懇願しているのか、今にも泣き出しそうな声で必死に訴えかけていた。父はそれを黙って聞いていたが一言、分かった。と言うとこちらに戻ってきた。
慌てて席に戻り、夕食を取っているフリをしながら父の顔を見た。父は僕とは一切目を合わせずに部屋の奥に行くと、何かを手に持ち再び玄関へと向かった。
どうしても気になった僕は、気付かれない様に玄関を覗き見した。その姿を見た瞬間、心臓が口から飛び出すのではないかと言うくらい高鳴り、先程食べていた夕食が全て逆流して口から溢れ出しそうになる程の嫌悪感を覚えた。少し皺は増えている様に感じたが、玄関に立っていた女性は間違いなく僕を、父を捨てた母であった。
父は手に持っていた財布から、ありったけのお金を取り出すとそれを母に手渡した。母は挨拶もそこそこに現金を手にそそくさと帰って行った。
その様子を見ていた僕は隠れる事をやめ、父の前に立ちはだかった。振り返った父は僕の姿を目にすると、気まずそうに笑い悲しそうな目をしたまま言った。
「どうしようもない人間だよな。でもお父さんの愛した人だし、世界でたった一人のお前のお母さんなんだよ。お父さんにとって彼女は今でも大切な人なんだ。許してあげてほしい」
そう言うと再び食卓へと着いた。納得は行かなかったが父の行動を諌める事も出来ず、再び箸を手に取った。
母は僕達が出ていって間も無く、別の男性を家に招き入れ暮らし始めた。最初こそ幸せに暮らしていたのだろうが、その男は倹約家であった父とは違い、金遣いが荒くろくに仕事もせずに昼間から酒に溺れている人間だ。と父は言っていた。
どうしてそんな男にお金を渡すのか理解出来なかったが、父は母の顔に残っていた暴行の後を見逃していなかったのだ。母を助けるためにお金を渡してしまったのだろう。
だが一度お金を渡してしまったのが運の尽き。それからというもの、母は事あるごとに我が家にやってきては父からお金を奪って行った。
毎日少しずつ食卓に並ぶ夕食が貧しくなって行くのを目にして、父はほとんど全財産を母に渡してしまったんだなと悟った。
季節は夏へと差し掛かっていた。ジリジリと日差しが強くなる中、僕は久しぶりに外に出た。
父から買い出しを頼まれたのだ。父は僕に一万円札を渡すと「これでお前が食べたい物や欲しい物を買えるだけ買ってきなさい」そう言って僕を送り出した。
毎月母にありったけのお金を渡していた父のどこにこんなお金があったのか定かではないが、久しぶりに美味しいものが食べられる事に胸が高鳴っていた。
まずは書店に行き、気になっていた本を何冊か買った。そして肉屋に行き、父の好きなステーキ肉と僕の好きな唐揚げを買って自宅へと急いだ。思っていたより本を選ぶのに時間がかかり、すでに時刻は夕方になっていた。
玄関のドアを勢いよく開け、購入した物を早く見せたくて父の姿を探した。窓から差し込む赤みがかった夕日が薄暗い室内を不気味に染め上げていた。
ベランダ側のカーテンが少し湿った空気を纏った風に煽られてカラカラと揺らいでいる。その奥、ベランダに立ち呆然と空を眺めている父の姿が目に入った。
その父の姿に違和感を覚えながらも、買い物袋をキッチンへと運ぶ。ふと目に止まったシンクに赤いシミの様な物が飛び散っていた。それにほんのりと花の様な甘い香りと鉄の錆びたような臭いまで漂っている。
一瞬、魚でも捌いて食べたのだろうか?という考えが頭をよぎったが、父はあまり魚が好きではなく食卓にもほとんど魚料理が並んだ事がない。それに綺麗好きな父がシンクをこんなに汚した状態で放置するはずがない。
あれこれと考えているうちに、キッチンに置いた買い物袋から購入した本が溢れ床に落ちた。
バタン。という音に気付いた父がこちらを振り返る。夕日に染められた父は真っ黒なシルエットを床に落とし、優しく語りかけてきた。
「おぉ。帰ってきていたのか。おかえり……ダメだよな。父さんも。母さんも」
呟く様に、ゆっくりとした足取りでベランダから部屋に入ってくる。薄暗い室内に入ってきた父の姿が露わになった。
父の体は真っ赤に染まっていた。自分の血なのか誰かの血なのか。僕は全身が凍りつき言葉も発する事も出来ないまま父の姿を黙って見つめていた。
「もう無理だって何度も言ったんだ。それでも母さんはここに来る事を辞めなかった。お金はもう無いと伝えると母さんは部屋に上がり込んで、父さんの財布や部屋を漁り始めたんだ……母さんはね。本当は凄く優しい人なんだよ。そんな優しさに付け込んだあの男や、甘やかした父さんが母さんを変えてしまった。父さんの責任だったんだ。もうこうするしかなかったんだよ。変わってしまった人間を元に戻す事は出来ない」
そう言いながら父は立ち止まり床を見つめた。僕は少しだけ父に近付き、キッチンの死角になって見えなかった窓際の床を見た。
真っ赤に染まった床には人形の様に力無く横たわる母の姿。揉み合いになったのだろうか、辺りの壁には血が飛び散って、窓際に置いてあったサボテンも血を浴び真っ赤に染まっていた。
父は慈しむ様な表情で倒れた母の髪を優しく撫でると、ゆっくりとベランダへと歩いて行った。
ベランダに出た父はいつもの優しい笑顔をこちらに向けて優しく語りかけてきた。
「辛い光景を見せてしまったね。でもね。父さんが母さんを殺さないと今度は母さんはお前に迷惑をかける事になるんだ。さっきも言ったけれど……変わってしまった人間を元に戻す事は出来ない。怪物になってしまった人間はもうどうする事も出来ないんだ。それは父さんも同じだ。殺人者と言う怪物になってしまった父さんももう変える事は出来ない……最低な今日を作ってしまってごめんね。でもお前には明日がある。これだけ最悪な今日を乗り切ったお前の明日はきっと輝きに満ちた色とりどりな明るい日になる。明日を夢見る事を辞めないで。夢を見続けて希望に満ちた明日を繰り返しその夢を叶えるんだよ?」
そう言うと父は、母を刺したであろう血の付着した包丁をベランダの床から拾い上げ、自分の腹部に深々と突き立てた。
父は笑っていた。白い歯を剥き出し涙をボロボロと零しながら。涙でぐちゃぐちゃになった笑顔をこちらに向けると父はそのままベランダを乗り越え……飛んだ。
ドスンと鈍い音が響いて間も無く、人の悲鳴が聞こえてきた。僕はあまりにも連続して衝撃的な出来事が起こった為、まだ頭が追いついていなかった。
(父さんが死んだ?なんで?どうして死ぬ必要があった?)
自分自身に問いかけるも答えが返ってくる事はない。考えれば考える程頭が痛む。それでもなお思考は止まる事なく、様々な理由付けをしようと脳は回転する。頭が痛い……頭が爆発してしまいそうだ。
声にならない声を上げながら頭を抱えた。視界がおかしい。夕焼けがこちらに向かってくる。徐々に世界は滲み、溶け始めた。ドロドロになった世界に飲み込まれる様に僕はその場に倒れ込んだ。
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